廊下を泳ぐ銀の影
教室のドアは、とうの昔に朽ち果ててなくなっている。
かつて子どもたちが「廊下は走らない!」と先生に怒られながら駆け抜けていた廊下は、今や完全な「川」と化していた。
校舎の奥、かつて昇降口があった場所から流れ込む山湧水は、まっすぐに伸びる廊下をゆったりとした伝って流れ、各教室の入り口から中へと広がり、反対側の割れた窓から外の校庭へと抜けていく。
そのため、廊下の水流は教室の中よりも少しだけ速く、清らかだった。
二年B組の出入口付近。
水面に顔を出した机の天板の上から、幼いキツネが興味津々といった様子で廊下を見下ろしている。
廊下の水底には、かつて貼られていた「廊下十則」の黄色いプラスチックプレートが沈んでおり、その文字の上を、ゆらゆらと透明な水草が揺れていた。
その時、廊下の奥から、閃光のような銀色の輝きが滑り込んできた。
『シュー……』
音もなく水面を滑るように泳いできたのは、一匹の大きなヤマメだった。
山から流れる清流に乗って、この水没校舎へと迷い込んできたのだろう。
体側にある美しい紫色の斑紋と、光を浴びて銀色に輝く鱗が、暗い廊下の水の中で異彩を放っている。
ヤマメは、まるで廊下の構造を理解しているかのように、まっすぐに泳いできた。
渡り廊下の手前で一瞬立ち止まり(水中でピタリと静止し)、胸びれをパタパタと動かして周囲の様子をうかがう。
そして、開かれた二年B組のドア枠をくぐり、静かな教室の領域へと侵入してきた。
教室の中に住み着いている小さなメダカやアブラハヤたちは、この大きな訪問者の登場に慌てて水草の陰へと隠れる。
しかし、ヤマメは彼らを捕食しようとする様子もなく、ただ教室の中を優雅に回遊し始めた。
水深わずか三十センチほどの「教室の湖」。
ヤマメは、一の列の机の脚を縫い、教壇の脇を通り、黒板の前でゆっくりと旋回する。
水面に映るヤマメの銀色の魚影が、天井の植物の緑と混ざり合い、まるで空を泳ぐ魚のような幻想的な光景を作り出していた。
鹿は静かにその泳ぎを目で追っていた。
陸の獣である鹿と、水の生き物であるヤマメ。
本来ならば出会うことのないはずのふたつが、この「水没した教室」という特殊な環境の中で、目と目を合わせる。
ヤマメが鹿の脚のすぐ脇を通り抜けたとき、鹿は水面に鼻先を近づけ、小さな波紋を作った。
ヤマメは驚くふうもなく、その波紋の輪をくぐるようにして、教卓の陰へと消えていく。
かつて人間たちが使っていた廊下や教室という区切りは、彼らには何の意味もなさない。
壁はただの木のかたまりであり、廊下はただの水路だ。
人間が効率よく学習するために作った機能的な空間が、今ではあらゆる生き物たちが境界なく行き交う、巨大な「水上の森」へと昇華している。
ヤマメはしばらく教室の静けさを楽しんだあと、再び回遊を再開し、反対側の割れた窓枠から、明るい外の世界へと泳ぎ去っていった。
廊下には、ヤマメが残した微かな水波だけが揺れている。
幼いキツネは、ヤマメが消えていった窓の外をいつまでも見つめながら、小さく『クゥ』と鳴いてみせるのだった。




