月光のプールと理科室の光
二年B組の教室から伸びる湿った廊下を奥へ奥へと進むと、かつて理科室と呼ばれていた特別教室へと行き着く。
この理科室は、水没校舎の中でも特に異質な空気を纏っていた。
部屋の隅に置かれた大きなガラス戸棚には、人間たちが残していった試薬瓶やビーカー、そして小さな水槽のフレームがそのまま残されている。
長い歳月の間に、ガラスの多くは割れ落ち、そこへ這い登った蔦や苔が、硬質なガラスの破片を優しく包み込んでいた。
そして、この理科室の最大の特徴は、天井の半分が大きく崩落していることだった。
満月の夜。
その崩れた天井の開口部から、真白な月光が豪快な光の柱となって部屋の中央へと降り注ぐ。
理科室の床に溜まった水は、他よりも一段と深く、静まり返ったその水面はまるで「月光を湛えた小さなプール」のように青白く発光していた。
『ザプ……ザプ……』
二年B組から脚を伸ばしてきた鹿が、理科室の入口に姿を現した。
鹿は月光のプールへと静かに踏み込んでいく。
深くなった水が鹿の腹を濡らしたが、意に介する様子はない。
鹿が光の柱の中へと進むと、その毛並みが月光を反射して銀色に輝き、まるで神話の中に登場する精霊のような神々しさを帯びた。
水底に沈んだビーカーの破片や、鉱物の標本箱の跡。
かつて人間たちが世界の仕組みを解き明かそうと試み、観察し、実験を行っていた場所。
しかし今、ここで繰り広げられているのは、人間たちの科学を超越した、自然そのものの美しい現象だった。
水面に映る満月。
そこへ、壁の棚からフクロウがすうっと滑空してくる。
フクロウの影が月光のプールを横切り、静かな水面に一瞬だけ黒いシルエットを描いた。
フクロウは崩れた棚のフチに留まり、水面に映る自分自身の姿と、そこに浮かぶ月を見つめている。
棚の奥、割れた試験管の陰からは、小さな淡水エビたちが群れをなして這い出してきた。
月光に反応したエビたちの透明な身体が、青白くチラチラと光を放つ。
まるで、人間のいなくなった理科室で、小さな命たちが自分たちだけの「夜の実験」を楽しんでいるかのようだった。
鹿は水面に鼻先を向け、月を飲むように深く口をつけた。
『波紋』が生まれ、映し出されていた満月の形が幾重にも歪み、銀色の光の輪となって部屋全体に広がっていく。
理科室に残された人間の道具たちは、もはや測定や分析のために使われることはない。
けれど、月光と水、そして獣たちの生き生きとした存在と交わることで、かつてないほど幻想的で美しい「理科」の時間を紡ぎ出していたの点。
鹿は満足そうに息を吐き、静かに首を上げて、星が輝く夜空を見上げるのだった。




