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「重い」と言った翌日、彼女はいなくなった  作者: 黒猫と珈琲


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2/2

後編

 若葉と喧嘩した翌日、蓮は昼過ぎに目を覚ました。


 スマートフォンを手に取る。


 通知は何もなかった。


 少しだけ気まずい。


 けれど、その程度だった。


 昨日は言い過ぎたかもしれない。


 けれど若葉だって感情的だった。


 お互い冷静になれば大丈夫だろう。


 そう思っていた。


 夕方になって、ようやくメッセージを送る。


『昨日は悪かった』


 既読はつかなかった。


 翌朝になっても。


 その翌日になっても。


 ようやく返ってきたのは、短い一文だった。


『大丈夫』


 それだけだった。


 いつもなら絵文字がつく。何かしら会話が続く。


 けれど、その日は違った。


 蓮は少しだけ胸の奥がざわついた。


 それでも本気では焦らなかった。


 若葉は優しい。


 少し時間を置けば元に戻る。


 そう思っていた。


 大学で会っても、若葉は以前のように笑わなかった。連絡も減った。目が合っても、どこか距離がある。


 それでも蓮は見ないふりをした。


 向き合うのが怖かったからだ。


 もし本当に嫌われていたら。


 もし本当に終わっていたら。


 それを認めたくなかった。


 だから先延ばしにした。


 いつか。


 そのうち。


 落ち着いたら。


 そう思っているうちに、時間だけが過ぎていった。


 若葉は少しずつ離れていた。


 蓮が気づかないうちに。


 静かに。


 確実に。


 数週間後、久しぶりに若葉が部屋へ来た。


 以前のような笑顔はない。


 けれど蓮は少し安心していた。


 来てくれたということは、まだ終わっていない。


 そう思ったからだ。


「シャワー浴びてくる」

「うん」


 若葉は小さく頷いた。


 蓮は浴室へ向かう。シャワーの音が部屋に響く。


 その間、若葉は一人で待っていた。


 そして。


 テーブルの上のスマートフォンが震えた。


 画面が光る。


『例のもの、今度持っていく』


 送り主は、最近よくつるんでいる男だった。


 若葉は息を止めた。


 何のことかは分からない。


 けれど、嫌な予感だけはした。


 夜中の電話。


 急に増えた予定。


 大学へ来ない日。


 飲み会で見た男たち。


 全部が頭の中で繋がっていく。


 胸がざわついた。


 嫌な汗が背中を伝う。


 父の怒鳴り声に怯えながら育った。


 普通の家庭が欲しかった。


 安心できる場所が欲しかった。


 だから必死だった。


 でも、このまま蓮の隣にいたら。


 自分はどこへ向かうのだろう。


 シャワーの音が止まった。


 若葉は立ち上がり、玄関へ向かう。


 その時だった。


「若葉?」


 蓮が顔を出した。


 濡れた髪をかき上げながら、不思議そうにこちらを見る。


「帰るの?」


 若葉は振り返った。


 胸が痛い。


 悲しい。


 苦しい。


 それでも、言わなければいけなかった。


「蓮」

「ん?」


 若葉は唇を噛む。


 そして静かに言った。


「別れよう」


 蓮の表情が止まった。


「は?」

「もう無理」

「何でだよ」


 思わず声が強くなる。


 若葉は少し笑った。


 泣きそうな笑顔だった。


「分かってるでしょう?」


 その言葉に、蓮は黙った。


 本当は分かっていた。


 若葉を傷つけていることも。


 不安にさせていることも。


 最近の自分が変わってしまったことも。


 全部、分かっていた。


 それなのに言葉が出てこない。


 言い訳ならできた。


 でも若葉が欲しかったのは、言い訳じゃない。


 だから何も言えなかった。


 沈黙だけが落ちる。


 その沈黙が答えだった。


 若葉はゆっくり息を吐いた。


「好きだったよ」


 蓮の胸が痛んだ。


「本当に」


 若葉の目に涙が浮かぶ。


「楽しかった時間もあったし」


 声が震える。


「救われたこともあった」


 蓮の家で食べたご飯。


 母の優しさ。


 笑い合った時間。


 全部、本物だった。


「でも」


 若葉は小さく首を振った。


「もう無理なの」


 静かな声だった。


 怒りはない。


 責める気持ちもない。


 ただ疲れ切っていた。


 その方が苦しかった。


 怒られる方がまだ楽だった。


 責められる方がまだ楽だった。


 けれど若葉は責めない。


 ただ諦めていた。


 蓮のことを。


 二人の未来を。


「若葉」


 名前を呼ぶ。


 引き止めたかった。


 けれど続く言葉が出てこない。


 今さら何と言えばいいのか分からなかった。


 若葉は玄関のドアを開けた。


 夕暮れの光が差し込む。


「元気でね」


 それだけ言った。


 蓮は反射的に叫ぶ。


「若葉!」


 足が一歩前へ出る。


 けれど、それ以上進めなかった。


 若葉は振り返らない。


 そのまま外へ出て行った。


 ドアが閉まる。


 静寂が落ちた。


 蓮は立ち尽くす。


 それでも、この時の蓮はまだ思っていた。


 時間を置けば戻れると。


 若葉は優しいから。


 少し落ち着けば、また笑ってくれると。


 本当に愚かだった。


 別れたあとも、蓮はどこかで信じていた。


 若葉は戻ってくる。


 そのうち話せる。


 謝れる。


 そう思っていた。


 メッセージを送れば返事は来る。


 短いけれど返ってくる。


 だから安心していた。


 けれど若葉は少しずつ遠くなっていった。


 大学でも見かけなくなる。


 共通の友人といる姿も見なくなった。


 話しかけようと思えば話しかけられた。


 でも蓮はしなかった。


 拒絶されるのが怖かったからだ。


 そして卒業式の日が来た。


 蓮は無意識に若葉を探していた。


 最後だから。


 どこかで会える気がした。


 けれど見つからない。


 どこにもいない。


 そんな時だった。


「そういえば藤沢、来てなかったな」


 友人が何気なく言った。


 蓮は顔を上げる。


「若葉……いや、藤沢になんかあった?」

「知らないの?」

「何を?」

「藤沢、海外行くらしいよ」


 一瞬、意味が分からなかった。


「……え?」


「卒業前にはもう向こう行ってたんじゃないかな。語学留学とかじゃなくて、しばらく向こうで暮らすって聞いた」


 蓮は何も言えなかった。


 若葉はもう前へ進んでいた。


 自分の知らない場所へ。


 自分の知らない未来へ。


 蓮だけが立ち止まっていた。


 その人生の中に、もう自分はいない。


 その事実だけが、どうしようもなく重かった。



 社会人になった。


 仕事は忙しかった。


 新しい出会いもあった。


 女性とも付き合った。


 友人とも遊んだ。


 それでも満たされなかった。


 仕事で失敗した夜。


 疲れて帰宅した夜。


 ふとした瞬間に思う。


 若葉なら何と言っただろう。


 きっと笑って、


「お疲れさま」


 と言ってくれたはずだ。


 若葉はいつも話を聞いてくれた。


 くだらない話にも笑ってくれた。


 それが当たり前だった。


 だから失って初めて気づいた。


 あの時間がどれほど大切だったのか。



 社会人二年目の春、久しぶりに実家へ帰った。


 食卓には味噌汁が並んでいる。


 湯気が立っていた。


 じゃが芋が入った、若葉が好きだった味噌汁だ。


 蓮は箸を止めた。


「若葉ちゃん、元気かしらね」


 母がぽつりと言う。


 胸が詰まった。


「さぁな」


 短く答える。


 しばらく沈黙が流れた。


 やがて母が言った。


「あんたね」

「何」

「本当に馬鹿だったわね」


 蓮は苦笑した。


 反論できない。


「そうかもな」


 母は真っ直ぐ蓮を見た。


「若葉ちゃんみたいな子は、もう現れないわよ」


 胸が締め付けられる。


「優しくて」


「……」


「一生懸命で」


「……」


「ちゃんと人を大事にできる子だった」


 全部知っている。


 だから苦しい。


「分かってる」


 掠れた声が出た。


 帰り道。


 蓮は車に乗り込んだ。


 けれどエンジンをかけられない。


 若葉ちゃんみたいな子は、もう現れないわよ。


 母の言葉が何度も頭の中で響く。


 分かっている。


 そんなこと、とっくに分かっていた。


 でも認めたくなかった。


 若葉は本当にいなくなった。


 自分が失った。


 自分が手放した。


 自分が壊した。


「俺は……」


 声が震える。


 次の瞬間、涙がこぼれた。


「俺は本当に馬鹿だった」


 止まらない。


「愚かだった」


 肩が震える。


「クズだった」


 若葉の不安を笑った。


 若葉の涙を面倒くさがった。


 若葉が何度も差し出した手を振り払った。


 なのに愛されることだけは当然のように受け取っていた。


「ごめん……」


 もう届かない。


 それでも謝らずにはいられなかった。


「若葉、ごめん」


 涙が止まらなかった。



 それから十年。


 三十二歳になった蓮は、偶然若葉の近況を知った。


 友人が送ってきた写真だった。


『同窓会で若葉に会ったよ』


 写真の中の若葉は笑っていた。


 昔より自然に。


 昔より穏やかに。


 蓮はしばらく写真を見つめた。


 胸は痛んだ。


 それでも思った。


 よかった。


 本当に、よかった。


 若葉が幸せなら。


 ちゃんと笑えているなら。


 俺は、君の帰る場所にはなれなかった。


 でも。


 君が帰れる場所を見つけたのなら。


 今度こそ、ちゃんと笑えているのなら。


 それでいい。


 蓮はスマートフォンを伏せた。


 窓の外では夕暮れの光が沈んでいく。


 もう戻れない。


 戻る資格もない。


 それでも願うことだけは許してほしい。


 若葉。


 幸せになれよ。


 今度こそ。


 心から。


【完】


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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