後編
若葉と喧嘩した翌日、蓮は昼過ぎに目を覚ました。
スマートフォンを手に取る。
通知は何もなかった。
少しだけ気まずい。
けれど、その程度だった。
昨日は言い過ぎたかもしれない。
けれど若葉だって感情的だった。
お互い冷静になれば大丈夫だろう。
そう思っていた。
夕方になって、ようやくメッセージを送る。
『昨日は悪かった』
既読はつかなかった。
翌朝になっても。
その翌日になっても。
ようやく返ってきたのは、短い一文だった。
『大丈夫』
それだけだった。
いつもなら絵文字がつく。何かしら会話が続く。
けれど、その日は違った。
蓮は少しだけ胸の奥がざわついた。
それでも本気では焦らなかった。
若葉は優しい。
少し時間を置けば元に戻る。
そう思っていた。
大学で会っても、若葉は以前のように笑わなかった。連絡も減った。目が合っても、どこか距離がある。
それでも蓮は見ないふりをした。
向き合うのが怖かったからだ。
もし本当に嫌われていたら。
もし本当に終わっていたら。
それを認めたくなかった。
だから先延ばしにした。
いつか。
そのうち。
落ち着いたら。
そう思っているうちに、時間だけが過ぎていった。
若葉は少しずつ離れていた。
蓮が気づかないうちに。
静かに。
確実に。
数週間後、久しぶりに若葉が部屋へ来た。
以前のような笑顔はない。
けれど蓮は少し安心していた。
来てくれたということは、まだ終わっていない。
そう思ったからだ。
「シャワー浴びてくる」
「うん」
若葉は小さく頷いた。
蓮は浴室へ向かう。シャワーの音が部屋に響く。
その間、若葉は一人で待っていた。
そして。
テーブルの上のスマートフォンが震えた。
画面が光る。
『例のもの、今度持っていく』
送り主は、最近よくつるんでいる男だった。
若葉は息を止めた。
何のことかは分からない。
けれど、嫌な予感だけはした。
夜中の電話。
急に増えた予定。
大学へ来ない日。
飲み会で見た男たち。
全部が頭の中で繋がっていく。
胸がざわついた。
嫌な汗が背中を伝う。
父の怒鳴り声に怯えながら育った。
普通の家庭が欲しかった。
安心できる場所が欲しかった。
だから必死だった。
でも、このまま蓮の隣にいたら。
自分はどこへ向かうのだろう。
シャワーの音が止まった。
若葉は立ち上がり、玄関へ向かう。
その時だった。
「若葉?」
蓮が顔を出した。
濡れた髪をかき上げながら、不思議そうにこちらを見る。
「帰るの?」
若葉は振り返った。
胸が痛い。
悲しい。
苦しい。
それでも、言わなければいけなかった。
「蓮」
「ん?」
若葉は唇を噛む。
そして静かに言った。
「別れよう」
蓮の表情が止まった。
「は?」
「もう無理」
「何でだよ」
思わず声が強くなる。
若葉は少し笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「分かってるでしょう?」
その言葉に、蓮は黙った。
本当は分かっていた。
若葉を傷つけていることも。
不安にさせていることも。
最近の自分が変わってしまったことも。
全部、分かっていた。
それなのに言葉が出てこない。
言い訳ならできた。
でも若葉が欲しかったのは、言い訳じゃない。
だから何も言えなかった。
沈黙だけが落ちる。
その沈黙が答えだった。
若葉はゆっくり息を吐いた。
「好きだったよ」
蓮の胸が痛んだ。
「本当に」
若葉の目に涙が浮かぶ。
「楽しかった時間もあったし」
声が震える。
「救われたこともあった」
蓮の家で食べたご飯。
母の優しさ。
笑い合った時間。
全部、本物だった。
「でも」
若葉は小さく首を振った。
「もう無理なの」
静かな声だった。
怒りはない。
責める気持ちもない。
ただ疲れ切っていた。
その方が苦しかった。
怒られる方がまだ楽だった。
責められる方がまだ楽だった。
けれど若葉は責めない。
ただ諦めていた。
蓮のことを。
二人の未来を。
「若葉」
名前を呼ぶ。
引き止めたかった。
けれど続く言葉が出てこない。
今さら何と言えばいいのか分からなかった。
若葉は玄関のドアを開けた。
夕暮れの光が差し込む。
「元気でね」
それだけ言った。
蓮は反射的に叫ぶ。
「若葉!」
足が一歩前へ出る。
けれど、それ以上進めなかった。
若葉は振り返らない。
そのまま外へ出て行った。
ドアが閉まる。
静寂が落ちた。
蓮は立ち尽くす。
それでも、この時の蓮はまだ思っていた。
時間を置けば戻れると。
若葉は優しいから。
少し落ち着けば、また笑ってくれると。
本当に愚かだった。
別れたあとも、蓮はどこかで信じていた。
若葉は戻ってくる。
そのうち話せる。
謝れる。
そう思っていた。
メッセージを送れば返事は来る。
短いけれど返ってくる。
だから安心していた。
けれど若葉は少しずつ遠くなっていった。
大学でも見かけなくなる。
共通の友人といる姿も見なくなった。
話しかけようと思えば話しかけられた。
でも蓮はしなかった。
拒絶されるのが怖かったからだ。
そして卒業式の日が来た。
蓮は無意識に若葉を探していた。
最後だから。
どこかで会える気がした。
けれど見つからない。
どこにもいない。
そんな時だった。
「そういえば藤沢、来てなかったな」
友人が何気なく言った。
蓮は顔を上げる。
「若葉……いや、藤沢になんかあった?」
「知らないの?」
「何を?」
「藤沢、海外行くらしいよ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「卒業前にはもう向こう行ってたんじゃないかな。語学留学とかじゃなくて、しばらく向こうで暮らすって聞いた」
蓮は何も言えなかった。
若葉はもう前へ進んでいた。
自分の知らない場所へ。
自分の知らない未来へ。
蓮だけが立ち止まっていた。
その人生の中に、もう自分はいない。
その事実だけが、どうしようもなく重かった。
◇
社会人になった。
仕事は忙しかった。
新しい出会いもあった。
女性とも付き合った。
友人とも遊んだ。
それでも満たされなかった。
仕事で失敗した夜。
疲れて帰宅した夜。
ふとした瞬間に思う。
若葉なら何と言っただろう。
きっと笑って、
「お疲れさま」
と言ってくれたはずだ。
若葉はいつも話を聞いてくれた。
くだらない話にも笑ってくれた。
それが当たり前だった。
だから失って初めて気づいた。
あの時間がどれほど大切だったのか。
◇
社会人二年目の春、久しぶりに実家へ帰った。
食卓には味噌汁が並んでいる。
湯気が立っていた。
じゃが芋が入った、若葉が好きだった味噌汁だ。
蓮は箸を止めた。
「若葉ちゃん、元気かしらね」
母がぽつりと言う。
胸が詰まった。
「さぁな」
短く答える。
しばらく沈黙が流れた。
やがて母が言った。
「あんたね」
「何」
「本当に馬鹿だったわね」
蓮は苦笑した。
反論できない。
「そうかもな」
母は真っ直ぐ蓮を見た。
「若葉ちゃんみたいな子は、もう現れないわよ」
胸が締め付けられる。
「優しくて」
「……」
「一生懸命で」
「……」
「ちゃんと人を大事にできる子だった」
全部知っている。
だから苦しい。
「分かってる」
掠れた声が出た。
帰り道。
蓮は車に乗り込んだ。
けれどエンジンをかけられない。
若葉ちゃんみたいな子は、もう現れないわよ。
母の言葉が何度も頭の中で響く。
分かっている。
そんなこと、とっくに分かっていた。
でも認めたくなかった。
若葉は本当にいなくなった。
自分が失った。
自分が手放した。
自分が壊した。
「俺は……」
声が震える。
次の瞬間、涙がこぼれた。
「俺は本当に馬鹿だった」
止まらない。
「愚かだった」
肩が震える。
「クズだった」
若葉の不安を笑った。
若葉の涙を面倒くさがった。
若葉が何度も差し出した手を振り払った。
なのに愛されることだけは当然のように受け取っていた。
「ごめん……」
もう届かない。
それでも謝らずにはいられなかった。
「若葉、ごめん」
涙が止まらなかった。
◇
それから十年。
三十二歳になった蓮は、偶然若葉の近況を知った。
友人が送ってきた写真だった。
『同窓会で若葉に会ったよ』
写真の中の若葉は笑っていた。
昔より自然に。
昔より穏やかに。
蓮はしばらく写真を見つめた。
胸は痛んだ。
それでも思った。
よかった。
本当に、よかった。
若葉が幸せなら。
ちゃんと笑えているなら。
俺は、君の帰る場所にはなれなかった。
でも。
君が帰れる場所を見つけたのなら。
今度こそ、ちゃんと笑えているのなら。
それでいい。
蓮はスマートフォンを伏せた。
窓の外では夕暮れの光が沈んでいく。
もう戻れない。
戻る資格もない。
それでも願うことだけは許してほしい。
若葉。
幸せになれよ。
今度こそ。
心から。
【完】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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