前編
神谷蓮は三十二歳になっても、どうしても忘れられない人がいた。
仕事帰りの夕方だった。駅へ向かう途中、小さな花屋の前で蓮は思わず足を止める。
店先には、淡い色の花が並んでいた。白、薄紫、淡いピンク。夕暮れの光を受けて、どれも柔らかく見える。
その前に、ローズブラウンの髪をした女性が立っていた。
横顔だけだった。
柔らかく揺れる髪も、伏し目がちな雰囲気も、ほんの少しだけ似ていた。
「……若葉?」
小さく呟いた自分の声に、蓮はすぐ苦笑した。
女性が振り返る。
知らない人だった。
当たり前だ。
藤沢若葉が、こんなところにいるはずがない。
そもそも今さら会えたとして、自分は何を言うつもりなのだろう。
謝りたい。
それは本当だった。
けれど謝ったところで、傷つけた過去が消えるわけではない。若葉をちゃんと大事にしなかった事実も、変わらない。
蓮は花屋の前から、ゆっくり歩き出した。
夕暮れの風が頬を撫でる。
若葉は、花が似合う人だった。
派手に振る舞わなくても目を引いた。光を含むローズブラウンの髪が頬の横で柔らかく揺れ、伏し目になると大人びて見える。けれど笑うと、その整った顔立ちがふっと幼くほどける。
その落差に、蓮はあっという間に惹かれた。
大学二年の春。
若葉と出会った時、蓮はまだ何も分かっていなかった。
人を好きになることも。
人を傷つけることも。
愛されることに甘える怖さも。
何も分かっていなかった。
若葉は明るい人だった。
誰とでも話せて、人当たりが良くて、笑顔が上手だった。周りから見れば、きっと悩みのなさそうな女の子に見えたと思う。
けれど二人で話すようになってから、蓮は時々、若葉の笑顔がふっと消える瞬間を見るようになった。
誰も見ていないと思った時だけ、彼女はひどく寂しそうな顔をした。
「若葉って、いつも楽しそうだよな」
付き合う前、二人で大学近くのカフェに入った時、蓮は何気なくそう言った。
若葉はストローでアイスティーをかき混ぜながら笑った。
「そう見える?」
「見える」
「そっか」
その笑顔は綺麗だった。
でも、少しだけ遠かった。
「そう見せるのが上手なだけかも」
今なら、その言葉の意味を考える。
どうしてそう言ったのか。何を隠していたのか。何を分かってほしかったのか。
でも当時の蓮は違った。
「それも才能じゃん」
軽く笑って、そう返しただけだった。
若葉は一瞬だけ黙って、それから「そうかな」と笑った。
その時に、ちゃんと聞けばよかった。
無理して笑っているのか。
何か抱えているのか。
家に帰るのがつらいのか。
でも蓮は聞かなかった。
楽しい空気が好きだった。重たい話が苦手だった。若葉が笑っているなら、それでいいと思っていた。
付き合い始めるまでに、時間はかからなかった。
蓮は昔から人に好かれることに慣れていた。
少し無造作な茶髪。人懐っこく笑えば、たいていの相手は距離を縮めてくれる。黙っていれば綺麗な顔だと言われ、笑えば可愛いと言われる。
自分でも、それを分かっていた。
そして、その顔で軽く謝れば、大抵のことは許されてきた。
だから若葉にも甘えていた。
「蓮って、ずるい」
ある日、若葉が笑って言った。
「何が?」
「そうやって笑えば許されると思ってるところ」
「許してくれないの?」
蓮がわざと首を傾げると、若葉は呆れたように笑った。
「……今は許す」
「やった」
「調子に乗らないでよ」
そのやり取りが楽しかった。
若葉が笑ってくれることが嬉しかった。
けれど蓮は、そこで止まっていた。
若葉が何に傷つくのか。何を怖がっているのか。どうすれば安心できるのか。
そこまでは、見ようとしていなかった。
付き合って一か月ほど経った頃、蓮は若葉を実家へ連れて行った。
特別な意味があったわけではない。ただ、その日は講義が早く終わり、二人で夕飯を食べる場所を決めかねていた。
「今日、うち来る?」
軽い気持ちで言った。
若葉は少しだけ驚いた顔をした。
「いいの?」
「いいよ。母さん、たぶん何か作ってるし」
「急に行って迷惑じゃない?」
「平気平気。母さん、そういうの好きだから」
若葉は迷ったあと、少し嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、行く」
蓮の家は大学から電車で二駅の住宅街にあった。
玄関を開けると、キッチンの方から母の声がした。
「おかえり」
「ただいま」
蓮はいつも通り答えた。
そして若葉の背中を軽く押す。
「母さん、彼女」
若葉は慌てて頭を下げた。
「はじめまして。藤沢若葉です」
母は一瞬目を丸くした。次の瞬間、ぱっと顔を輝かせる。
「あらまあ!」
若葉がびくっとする。
「可愛い!」
第一声がそれだった。
蓮は呆れてため息をついた。
「母さん、初対面でそれやめろって」
「だって本当に可愛いんだもの。ねえ、若葉ちゃんって呼んでもいい?」
「あ、はい」
若葉は戸惑いながらも、柔らかく笑った。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。こんな息子だけど、よろしくね」
「母さん」
「本当のことでしょ」
母が笑うと、若葉もつられて笑った。
その日の夕食は、三人で食べた。
煮込みハンバーグだった。
母の料理は特別なものではない。家庭でよく出る、普通の夕飯だ。
けれど若葉は、一口食べた瞬間、驚いたように顔を上げた。
「すごく、おいしいです!」
「そう? よかった」
「本当においしい」
若葉は心からそう言っているようだった。
母は嬉しそうに笑い、若葉の皿にサラダを足した。
「若葉ちゃん、これも食べる?」
「いいんですか?」
「もちろんよ。若いんだから、ちゃんと食べなさい」
「ありがとうございます」
若葉は遠慮しながらも、最後には嬉しそうに食べた。
蓮はその様子を見て、ただ微笑ましいと思っていた。
彼女が母に気に入られてよかった。
その程度にしか考えていなかった。
でも今なら分かる。
若葉にとって、あの食卓はただの夕飯ではなかった。
安心して座っていられる場所。
誰かに「食べなさい」と言ってもらえる時間。
怒鳴り声のない部屋。
それがどれほど貴重だったのか、蓮は何も分かっていなかった。
食事が終わったあと、若葉はすぐに立ち上がった。
「洗い物、手伝います」
「あら、いいのよ。お客様なんだから」
「でも、食べさせてもらったので」
「若葉ちゃん、偉いわねえ」
母は嬉しそうに笑った。
若葉は少し照れた顔をして、母と並んでキッチンに立つ。二人で皿を洗いながら、楽しそうに話していた。
蓮はリビングのソファに座り、その背中を眺めていた。
母が若葉を気に入るのは当然だと思った。
若葉は可愛かった。
優しかった。
気が利いた。
自分の彼女が褒められることが、蓮は単純に嬉しかった。
帰り道、若葉は少し静かだった。
駅までの道を並んで歩いていると、街灯の下で若葉がぽつりと言った。
「蓮のお母さんって、あったかいね」
「普通だろ」
「普通、かあ」
「うちの母さん、世話焼きすぎるけどな」
「でも、いいな」
若葉の声は、ほんの少しだけ羨ましそうだった。
蓮は軽く言った。
「また来ればいいじゃん。母さんも喜ぶし」
若葉は驚いたように蓮を見たあと、柔らかく笑った。
「ありがとう」
その「ありがとう」が、どれほど重かったのか。
蓮は知らなかった。
それから若葉は、蓮の実家によく来るようになった。
講義が終わると、駅前で待ち合わせをする。夕暮れの住宅街を並んで歩く。玄関を開ければ、母の声が聞こえた。
「おかえり」
若葉は少し照れながら笑う。
「ただいま……お邪魔します」
「いらっしゃい、若葉ちゃん。今日の夕飯は肉じゃがよ」
「本当ですか?」
嬉しそうに目を輝かせる若葉を見て、母も笑う。
食卓を囲みながら、今日あった出来事を話す。母が相槌を打ち、若葉が笑い、蓮はその様子を眺める。
そんな何気ない時間が、いつの間にか当たり前になっていた。
母は若葉を本当の娘のように可愛がった。
「若葉ちゃん、お嫁さんになってくれたらいいのに」
夕飯のあと、母が冗談めかしてそう言ったことがある。
「母さん、気が早いって」
「あんたにはもったいないくらい良い子だもの」
「ひどくない?」
「本当のことよ」
若葉は頬を赤くして笑った。
「私なんて、そんな」
「私なんて、じゃないわよ」
母は急に真面目な顔になった。
「若葉ちゃんは、本当にいい子」
その時、若葉は一瞬だけ泣きそうな顔をした。
けれど、すぐに笑った。
「ありがとうございます」
蓮はその表情を見ていた。
見ていたのに、意味を考えなかった。
若葉が「いい子」と言われることに、どれだけ飢えていたのか。
自分にも愛される価値があると、誰かに言ってほしかったのだということに。
気づいてやれなかった。
ある日、玄関を開けた若葉に、母がいつものように声をかけた。
「おかえり、若葉ちゃん」
その瞬間、若葉の足が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど蓮は見ていた。
若葉の目に、涙の膜が張ったことを。
「若葉ちゃん?」
母が不思議そうに呼ぶと、若葉は慌てて笑った。
「何でもないです。ただいま」
その声は少し震えていた。
蓮はその時も、深く考えなかった。
感動しているのかな。
それくらいにしか思わなかった。
本当は、その一言が欲しかったのだ。
おかえり。
ただいま。
安心して帰ってきていい場所。
若葉は、それをずっと探していた。
蓮の家で食べる夕飯が好きだった。母の笑顔が好きだった。蓮と並んで駅まで歩く時間も好きだった。
そして蓮自身のことも、きっと本気で好きだったのだと思う。
少なくとも、若葉は信じようとしていた。
蓮との時間が、自分の居場所になるのだと。
けれど蓮は、それに甘えていた。
若葉はいつも優しかった。
蓮が約束の時間に少し遅れても、困ったように笑うだけだった。
「ごめん」
「いいよ」
女友達からメッセージが来ても、若葉は何も言わずに黙っていた。
「誰?」
「友達」
「女の子?」
「うん」
「……そっか」
若葉の声が少し沈む。
それに気づいていたのに、蓮は軽く流した。
「大学の友達だって。心配しすぎ」
「心配しすぎかな」
「若葉は俺の彼女なんだからさ」
そう言えば安心すると思っていた。
でも若葉が欲しかったのは、言葉だけではなかった。
安心できる行動。
誠実さ。
向き合う姿勢。
蓮はそれを、何一つ渡せていなかった。
蓮は人に好かれるのが得意だった。
飲み会に呼ばれれば行った。女友達とも距離が近かった。誰かに誘われると断れなかった。
いや、断れなかったのではない。
誘われることが嬉しかったのだ。
自分が求められていると感じられることが、嬉しかった。
だから、若葉との約束を後回しにすることも増えていった。
ある日曜の午後。
その日は前から若葉と映画を観に行く約束をしていた。
けれど昼過ぎ、友人から連絡が来た。
『今日、飲み行かない? 面白いメンバー集まるよ』
蓮は少し迷った。
若葉との約束はある。
でも若葉とはまた会える。
そう思った。
電話をかけると、若葉はすぐに出た。
「もしもし」
「若葉、ごめん。今日ちょっと飲み会入った」
電話の向こうで、若葉が黙った。
「今日、前から約束してたよね」
「うん。でも急に誘われてさ」
「断れないの?」
「まあ、付き合いもあるし」
「私との約束は?」
「また会えるじゃん」
言った瞬間、電話の向こうの空気が変わった。
「蓮にとっては、そうなんだね」
「え?」
「私は、楽しみにしてたよ」
「あー……ごめんって」
蓮は軽く謝った。
本気で悪いと思っていなかったわけではない。
でも、そこまで傷つけたとは思っていなかった。
若葉は「分かった」とだけ言って電話を切った。
その日の飲み会は楽しかった。
友人たちは騒がしく、話題も尽きなかった。女の子も何人か来ていて、蓮はいつものように笑って、その場の中心にいた。
けれど帰り道、若葉から連絡はなかった。
少しだけ気になった。
でも、明日謝ればいいと思った。
その「明日謝ればいい」を、蓮は何度も繰り返した。
若葉は少しずつ笑わなくなった。
いや、外では笑っていた。
友人の前では明るく振る舞う。蓮の母の前でも優しく笑う。
けれど二人きりになると、ふっと黙ることが増えた。
蓮がスマートフォンを見ていると、若葉はじっとその手元を見るようになった。
それに気づいても、蓮は気づかないふりをした。
問い詰められるのが面倒だった。
責められるのが嫌だった。
自分が悪者になるのが嫌だった。
今なら分かる。
若葉の不安から逃げていたのだ。
ある夜、蓮の部屋で二人きりになった時だった。
蓮はベッドに寝転がり、スマートフォンを見ていた。
若葉は床に座り、膝を抱えていた。
「最近、私といてもスマホばっかり見てるよね」
若葉が言った。
蓮は画面から目を離さずに答える。
「そう?」
「そうだよ」
「わりぃ。ちょっと返信だけ」
「いつもそれ」
若葉の声が震えていた。
蓮はようやく顔を上げた。
「何怒ってんの?」
「怒ってるんじゃない」
「じゃあ何?」
「不安なの」
若葉はまっすぐ蓮を見た。
「私、蓮にとって本当に大事なのかなって」
蓮はため息をついた。
今思えば、あれが一番ひどかった。
若葉が勇気を出して不安を口にした瞬間に、蓮は面倒くさそうにため息をついたのだ。
「大事に決まってるじゃん」
「そう言うけど、行動が」
「考えすぎだよ」
「またそれ?」
「マジで考えすぎ」
若葉の目に涙が浮かんだ。
「蓮はいつもそうやって終わらせる」
「終わらせてない」
「終わらせてるよ。私が不安だって言っても、考えすぎで終わらせる」
「本当に考えすぎだからだろ」
「違う!」
若葉は泣いていた。
「私は、信じたいから言ってるの」
「信じたい?」
「そうだよ」
若葉は涙を拭わなかった。
それでも蓮を見ていた。
「疑いたいわけじゃない。責めたいわけでもない。でも、不安になるの。蓮が私との約束より友達を優先するたびに。知らない女の子と楽しそうにしてるのを見るたびに。私、蓮の隣にいていいのかなって思うの」
その言葉を、蓮は受け止めなければいけなかった。
若葉は責めていたのではない。
助けてほしかったのだ。
安心させてほしかったのだ。
けれど当時の蓮には分からなかった。
自分が悪いと言われている気がして、ただ苛立った。
「そんなに疑われたら、こっちだってしんどいんだけど」
若葉の顔が強張る。
「疑いたいわけじゃないって言ってるでしょ」
「じゃあ信じればいいじゃん」
「信じたいから言ってるの!」
若葉は泣いていた。
それでも蓮は、彼女の涙を受け止めなかった。
自分が責められていることに腹を立てていた。
「蓮は、私のことなんてどうでもいいんでしょ」
「は?」
「私が傷ついても、面倒だって思ってる」
「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ」
大喧嘩だった。
若葉は泣きながら立ち上がった。
バッグを掴み、玄関へ向かう。
蓮は追いかけなかった。
追いかければよかった。
腕を掴んで引き止めろという意味ではない。
玄関まで行って、ちゃんと謝ればよかった。
不安にさせてごめん。
話してくれてありがとう。
そう言えばよかった。
けれど蓮は、ベッドの上から動かなかった。
若葉が靴を履く音が聞こえる。
玄関の扉が開く音がした。
その直前、若葉が振り返った気配があった。
きっと、蓮が追いかけてくるのを待っていたのだと思う。
それでも蓮は動かなかった。
若葉が出て行く。
扉が閉まる。
部屋の中が静かになった。
蓮は天井を見つめながら、苛立ちを吐き出すように呟いた。
「……重い」
一瞬、部屋の空気が止まった気がした。
口にした瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
言い過ぎたかもしれない。
でも、すぐにその痛みを押し込めた。
明日謝ればいい。
落ち着けば若葉も分かる。
そう思っていた。
本当に愚かだった。
後編は本日21時20分に投稿予定です。




