72:弱さ
寮の廊下には、夜の帳がすっかり降りていた。食事も終わり、ほとんどの生徒たちが部屋に戻って静かに翌日の準備をしている時間だった。
あかりは、いつものように202号室の前を通り過ぎ、なんとなく足が向いた先——寮の談話室の扉を静かに開けた。
室内には数人が本を読んでいたり、静かにお茶を飲んでいたりしていたが、ほとんどが下級生。
その一角、窓辺のテーブルにぽつんと腰掛けている人影に、あかりは目をとめた。
(……麻琴?)
まるでそこに馴染んでいないような、不思議な違和感があった。麻琴がこの談話室にいること自体、あかりは初めて見る気がした。
麻琴は、2年生の先輩と同室で、いつも落ち着いた場所を好んでいた。こうしたにぎやかな空間を避けていたのに、なぜか今夜は、ここに——。
あかりの心の奥が、ざわりと揺れた。
(どうして、ここに……)
今日、聖子の部屋から出てきた麻琴の姿を思い出す。
あのときの胸のざわめきは、まだ完全に消えたわけではない。
麻琴の手元には開いたままのノート。だが、ペンは動いておらず、ただじっと窓の外を見つめているだけだった。
あかりはゆっくりと近づき、そっと声を掛けた。
「……麻琴?」
麻琴はゆっくりと振り向いた。その顔には驚きよりも、静かな戸惑いの色が浮かんでいた。それでも、あかりの姿を見て微かに微笑む。
「あかり……こんばんは」
「こんばんは。……珍しいね。ここにいるの」
麻琴は一瞬だけ視線を窓の外へ戻し、それから軽く肩をすくめた。
「うん……今日はなんとなく、部屋にいたくなかったの。2年生の先輩たち、卒業公演のことでずっとピリピリしてて……なんとなく居づらくて」
「そっか……」
あかりはその言葉に、麻琴の少しだけ張りつめた空気を感じた。
そして迷いながらも、そっとテーブルの向かい側に腰を下ろす。
二人の間に微妙な沈黙が流れたが、やがて麻琴が切り出す。
「……宝生先生のところに行った?」
ドキッとするほど、鋭く。
あかりは一瞬言葉を失いかけたが、すぐに目線を外しながら言った。
「……ううん、行ってないよ」
なぜかあかりはとっさに嘘をついた。しかし、そう答えた自分の胸にチクリとした痛みが走った。
麻琴は、少し寂しそうに笑った。
「……そう。私、行ったんだ。宝生先生のところに。選抜に落ちて、どうしても何かしないとって思って……」
あかりは黙って聞いていた。麻琴の声がほんの少し震えているようにも感じた。
「……でもね、断られちゃった」
「……え?」
「『あなたのためにはならない』って。先生、そう言ったの。……優しいような、突き放されたような、そんな言い方で」
あかりは胸の奥が締めつけられるようだった。
あの夜、自分が見た麻琴の後ろ姿。
それを見て安心した自分——その感情がどれほど幼く、勝手だったのかを思い知らされる。
「あかり、私ね、わからないの。宝生先生が何を考えてるのか。助けてくれる時もあるし、すごく怖い時もある」
あかりは言葉に詰まりそうになる。
それはまさに、自分の感じていた感情そのものだったからだ。
「麻琴……」
あかりが言いかけたとき、麻琴は顔を伏せ、首を横に振った。
「ごめん、変な話しちゃって」
「……そんなことないよ……」
二人の間に、言葉のいらない時間が流れる。窓の外では風が木々を揺らし、遠くで時計の針がひとつ、時間を告げた。
誰もが誰かに心を動かされ、傷つき、惑い、揺れながら、それでも前に進もうとしている。
そんな夜の、静かな一場面だった。
***
部屋のカーテンの隙間から、ぼんやりとした月の光が差し込んでいた。
天翔専門学校、寮202号室。
ベッドの上に腰を下ろした鷹宮あかりは、両手を膝の上に握りしめていた。
「……安心した自分が、いた」
あの夜、宝生聖子の部屋を訪れたときのことを思い出す。
紅茶を差し出された聖子の妖艶な仕草、まるで何かを見透かすようなあの視線。
そして、あかりがずっと気になっていた問いに対する答え――
「神田さんは、選抜試験に落ちたあと、特別レッスンをお願いしに来たのよ。でも、私は断ったわ」
その瞬間、自分の胸がふっと軽くなったのを、あかりは確かに感じた。
麻琴と聖子が何かをしていたわけではなかった、という安堵。けれど、それはあまりにも身勝手な感情だった。
(……麻琴は、落ち込んでいたんだ。必死に何かを掴もうとして、聖子先生にお願いしたのに)
自分は、その必死さを――どこかで勝手に安心するための材料として消費していた。
同じ舞台を夢見る仲間である麻琴に対し、そんな感情を抱いた自分が、許せなかった。
「……最低だ、私」
自分がもっと、紫堂エリカのように優秀だったなら。
誰よりも上手くて、誰もが認める存在だったなら。
こんなことで揺れたり、誰かを気にしたりする必要なんてなかったはずなのに。
(エリカはいつだって自分の道をまっすぐに進んでいる。迷いがない。強い)
それに比べて自分は。迷いばかりで、嫉妬深くて、情けなくて――その夜、あかりは眠らなかった。
***
翌朝、まだ空が薄紫に染まる前――寮の談話室に、小さな音を立ててバレエシューズを履く影があった。
あかりだった。
髪をざっと後ろで結び、深く呼吸をし、ひとりでレッスン用のストレッチを始める。
その日から、あかりは誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで練習した。
授業が終わったあとも、自主練室に向かい、発声練習や演技の台詞読みを続けた。
――少しでも、前へ。
――もう、誰にも劣っていたくない。
口には出さずとも、彼女の背中はそう語っていた。
その姿に、選抜レッスンで共に学ぶさらやひまりは驚き、「すごいね、あかり」「最近ほんとに頼もしくなったよ」と素直に声をかけた。
選抜レッスンでは、あかりの存在感が日々増していた。
努力が結果に結びつき始めている。誰の目にも、それは明らかだった。
しかし――
***
夜。寮の部屋、202号室。
綾小路澪は、あかりが洗面台で顔を洗う音を聞きながら、手元の台本を閉じた。
(最近のあかり……ちょっと変だ)
成長している。それは確かだった。
でも、あかりの中から、なにか大切な柔らかさが消えていってしまっているような――今までなら、自分から声をかけてきた些細な話題。食事のときの笑顔、湯上がりの髪の話、部屋に戻ってきたときの小さなつぶやき。
それが、少しずつなくなっていた。
(追い詰めてる……自分で自分を)
澪はふと、自分の膝を抱えた。
なぜだろう。
胸の奥に、ひどく冷たい風が吹いた気がした。
(あの夜……私が見たあかりの表情が、まだ消えてない)
ベッドに横になるあかりをちらりと見る。
その横顔は疲れているのに、なぜか眠れていないようだった。
(あかり……)
声をかけようかと思った。
けれど言葉にならず、澪はそっと目を閉じた。
ただその夜、澪の眠りは浅く、どこか不穏な夢を見ていた――。




