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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
71/140

71:宝生聖子の罠3

 あかりが静かに講師棟の扉を閉めて去ったあと、宝生聖子は部屋の奥に深く腰掛けたまま、その場にしばらく動かず座っていた。

 彼女の瞳はまだあかりの姿を追い、心の奥底で密かに喜びの炎がゆらめいていた。


 「ふふ……」


 小さく低い声でつぶやき、唇の端に妖しく艶めいた微笑みが浮かぶ。

 あかりはまだ自分の心の動きに気づいていない。だが、その心は少しずつ、自分でも知らないうちに私へと傾きはじめている。それは確かな手応えだった。


 聖子はゆっくりと身を起こし、部屋の窓から見える夜の闇を見つめる。

 闇の中に浮かぶ街灯の灯りのように、あかりの心もまた、彼女の光に照らされてゆくのだろう。


 「いいわ……これからが本当に面白くなる」


 聖子の声は冷たくも熱を帯びていて、その瞳は次の獲物を狩る肉食獣のように鋭く輝いていた。

 闇夜の中で、妖しい光を放ち続ける宝生聖子は、これからのあかりの変化を確信し、静かに胸の高鳴りを感じていた。


***


 講師棟の二階、霧島要の部屋には柔らかな灯りがともっていた。カーテン越しに揺れる明かりの中で、霧島は椅子に腰かけたまま、湯気の立つカップを手に静かに物思いにふけっていた。

 彼の脳裏には、数日前、如月玲奈から持ちかけられた「1年生にも選抜レッスンの枠を設けたい」という提案がよみがえっていた。


 ──「2年生からしか特別レッスンを受けられないという制度では、今の1年生たちに不公平が生じる可能性があります」

 玲奈はそう切り出した。

 ──「中には、非公式に特別な指導を受けている生徒もいます。制度上、そこに差が生まれるのは避けたいのです」


 一見、冷静で理路整然とした主張。だが霧島の長年の勘は、その言葉の奥に別の意図を感じ取っていた。


 「……やっぱり、鷹宮あかりのことなのか?」


 つぶやきながら、霧島は自分自身の記憶をたどる。補習を始めた当初、あかりは音も音程も危うかった。それが今では、譜面通りに歌えるだけでなく、彼女自身の持つ声の“質”で聞く人の心を惹きつけるようになっていた。もちろん、それは努力の賜物だ。しかし——


 「玲奈が、あそこまで提案を押すのは……」


 あかりの名前を出さなかったのも、不自然ではなかった。玲奈は、あかりと誰かを引き離したいのだと、霧島は直感した。そしてその誰かが、宝生聖子であることもまた——。

 彼は軽く眉をひそめ、湯呑みの縁に視線を落とす。


 「宝生さん……あなたはまた、あのやり方で導こうとしているのか」


 彼女が男役2番手でありながら、トップ目前で退団したあの頃。霧島は彼女が抱えていたものの一部を知っているつもりだった。

 求め、愛し、執着するように生徒を導く。そのやり方は、時に生徒を大きく育てるが、時に深く傷つけもする。


 「鷹宮……あなたがどちらの道を歩むのかは、まだわからないけれど」


 霧島は立ち上がり、窓辺へ歩いた。

 夜の帳が講師棟を包み、遠くに見える寮の明かりが点々と揺れている。

 その光の中に、きっと彼女がいる。


 「選抜レッスンが、ほんの少しでも君の力になることを願うよ」


 霧島は静かに目を閉じた。

 その願いが、誰かの思惑ではなく、本当の意味であかりを導く光になりますように——そう、祈るように。



***


 夜の空気は、ひんやりとしていて澄んでいた。

 寮の廊下の窓から、紫堂エリカは外をぼんやりと眺めていた。

 ライトに照らされた中庭の小道に、ひとつの影が静かに動いている。それは鷹宮あかりだった。


(……こんな時間に、どこに行ってたの?)


 エリカの眉がわずかに動いた。

 あかりは人目を避けるように、そっと寮の扉を開けて中に入る。まるで、誰にも見つかってはならないかのように。

 エリカは、カーテンの陰に身を寄せ、黙ってその様子を見届けた。


(また……あの時みたいな顔をしてる)


 文化祭のとき、あかりは何かを秘めていた。

 不器用なほど真っ直ぐで、強くなりたいと焦っていた。その想いがあかりを動かしていることは、誰よりもエリカが知っていた。


(どこに行ってたの? なにをしていたの?)


 気にならないと言えば、嘘になる。

 あかりは、以前とはまるで違う。

 成績も、舞台上での存在感も、明らかに伸びてきていた。


(……誰かにレッスンを受けている?)


 あかりの声や立ち姿、タイミングの取り方には、確かな指導の痕がある。それは独学ではない。きっと、誰かが教えている。専門的に、密に。


(でも、私は——)


 エリカは目を細めた。


(それを探ろうとは思わない)


 トップに立つ者は、周囲を気にしすぎてはいけない。

 誰がどこで何をしていようと、自分の道を貫くこと。

 自分が選んだのは、選抜レッスン。

 学校で正式に認められた方法で、すべての力を磨き上げると決めた。

 だからこそ——


「私は、私のやり方で勝つ」


 小さく、誰にも聞こえない声でエリカは呟いた。

 夜の寮の廊下に、それは静かに溶けていった。


(気になる。でも、追いかけない。私は私。彼女は彼女)


 紫堂エリカは、鷹宮あかりを見失うことなく、けれど決して同じ道を選ばない。

 自分を信じる力が、彼女を支えていた。

 そして彼女は、窓から視線を外すと、踵を返して自室へと戻っていった。ただ、明日もまた誰よりも早く、舞台の練習を始めるために。

 静かな夜の終わり。

 少女たちの歩む道は、それぞれに熱を帯びて、まだ続いていく。

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