71:宝生聖子の罠3
あかりが静かに講師棟の扉を閉めて去ったあと、宝生聖子は部屋の奥に深く腰掛けたまま、その場にしばらく動かず座っていた。
彼女の瞳はまだあかりの姿を追い、心の奥底で密かに喜びの炎がゆらめいていた。
「ふふ……」
小さく低い声でつぶやき、唇の端に妖しく艶めいた微笑みが浮かぶ。
あかりはまだ自分の心の動きに気づいていない。だが、その心は少しずつ、自分でも知らないうちに私へと傾きはじめている。それは確かな手応えだった。
聖子はゆっくりと身を起こし、部屋の窓から見える夜の闇を見つめる。
闇の中に浮かぶ街灯の灯りのように、あかりの心もまた、彼女の光に照らされてゆくのだろう。
「いいわ……これからが本当に面白くなる」
聖子の声は冷たくも熱を帯びていて、その瞳は次の獲物を狩る肉食獣のように鋭く輝いていた。
闇夜の中で、妖しい光を放ち続ける宝生聖子は、これからのあかりの変化を確信し、静かに胸の高鳴りを感じていた。
***
講師棟の二階、霧島要の部屋には柔らかな灯りがともっていた。カーテン越しに揺れる明かりの中で、霧島は椅子に腰かけたまま、湯気の立つカップを手に静かに物思いにふけっていた。
彼の脳裏には、数日前、如月玲奈から持ちかけられた「1年生にも選抜レッスンの枠を設けたい」という提案がよみがえっていた。
──「2年生からしか特別レッスンを受けられないという制度では、今の1年生たちに不公平が生じる可能性があります」
玲奈はそう切り出した。
──「中には、非公式に特別な指導を受けている生徒もいます。制度上、そこに差が生まれるのは避けたいのです」
一見、冷静で理路整然とした主張。だが霧島の長年の勘は、その言葉の奥に別の意図を感じ取っていた。
「……やっぱり、鷹宮あかりのことなのか?」
つぶやきながら、霧島は自分自身の記憶をたどる。補習を始めた当初、あかりは音も音程も危うかった。それが今では、譜面通りに歌えるだけでなく、彼女自身の持つ声の“質”で聞く人の心を惹きつけるようになっていた。もちろん、それは努力の賜物だ。しかし——
「玲奈が、あそこまで提案を押すのは……」
あかりの名前を出さなかったのも、不自然ではなかった。玲奈は、あかりと誰かを引き離したいのだと、霧島は直感した。そしてその誰かが、宝生聖子であることもまた——。
彼は軽く眉をひそめ、湯呑みの縁に視線を落とす。
「宝生さん……あなたはまた、あのやり方で導こうとしているのか」
彼女が男役2番手でありながら、トップ目前で退団したあの頃。霧島は彼女が抱えていたものの一部を知っているつもりだった。
求め、愛し、執着するように生徒を導く。そのやり方は、時に生徒を大きく育てるが、時に深く傷つけもする。
「鷹宮……あなたがどちらの道を歩むのかは、まだわからないけれど」
霧島は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
夜の帳が講師棟を包み、遠くに見える寮の明かりが点々と揺れている。
その光の中に、きっと彼女がいる。
「選抜レッスンが、ほんの少しでも君の力になることを願うよ」
霧島は静かに目を閉じた。
その願いが、誰かの思惑ではなく、本当の意味であかりを導く光になりますように——そう、祈るように。
***
夜の空気は、ひんやりとしていて澄んでいた。
寮の廊下の窓から、紫堂エリカは外をぼんやりと眺めていた。
ライトに照らされた中庭の小道に、ひとつの影が静かに動いている。それは鷹宮あかりだった。
(……こんな時間に、どこに行ってたの?)
エリカの眉がわずかに動いた。
あかりは人目を避けるように、そっと寮の扉を開けて中に入る。まるで、誰にも見つかってはならないかのように。
エリカは、カーテンの陰に身を寄せ、黙ってその様子を見届けた。
(また……あの時みたいな顔をしてる)
文化祭のとき、あかりは何かを秘めていた。
不器用なほど真っ直ぐで、強くなりたいと焦っていた。その想いがあかりを動かしていることは、誰よりもエリカが知っていた。
(どこに行ってたの? なにをしていたの?)
気にならないと言えば、嘘になる。
あかりは、以前とはまるで違う。
成績も、舞台上での存在感も、明らかに伸びてきていた。
(……誰かにレッスンを受けている?)
あかりの声や立ち姿、タイミングの取り方には、確かな指導の痕がある。それは独学ではない。きっと、誰かが教えている。専門的に、密に。
(でも、私は——)
エリカは目を細めた。
(それを探ろうとは思わない)
トップに立つ者は、周囲を気にしすぎてはいけない。
誰がどこで何をしていようと、自分の道を貫くこと。
自分が選んだのは、選抜レッスン。
学校で正式に認められた方法で、すべての力を磨き上げると決めた。
だからこそ——
「私は、私のやり方で勝つ」
小さく、誰にも聞こえない声でエリカは呟いた。
夜の寮の廊下に、それは静かに溶けていった。
(気になる。でも、追いかけない。私は私。彼女は彼女)
紫堂エリカは、鷹宮あかりを見失うことなく、けれど決して同じ道を選ばない。
自分を信じる力が、彼女を支えていた。
そして彼女は、窓から視線を外すと、踵を返して自室へと戻っていった。ただ、明日もまた誰よりも早く、舞台の練習を始めるために。
静かな夜の終わり。
少女たちの歩む道は、それぞれに熱を帯びて、まだ続いていく。




