20:花壇
授業がすべて終わり、校舎が一気に静まり返る夕刻――
鷹宮あかりは、専門学校の花壇へと向かっていた。
専門学校の花壇では、1年生の当番が交代で手入れを行うことになっており、この日の当番は鷹宮あかりだった。花壇の縁に置かれたジョウロを手に取り、彼女は補充された新鮮な水をすくい上げながら、暑さでしおれかけた花々にそっと水を注いでいく。
夕陽がゆっくりと傾き、花壇に植えられた色とりどりの花々が、金色の光に照らされている。春の風は柔らかく、ふと頬を撫でては、花の香りをかすかに運んでくる。
「今日も、一日が終わったんだなぁ……」
あかりはそう呟きながら、蛇口でジョウロに水を満たす。肩に感じる疲れは、今日一日の緊張の証。
だが―― そのときだった。
花壇の端に、すっと人影が現れた。
反射的に顔を上げたあかりの視線の先には、一人の上級生が、背筋を伸ばして静かに立っていた。
「……!」
すぐに、あかりはその人物を思い出した。
――芦原右京。
天翔専門学校・二年生。成績は学年1位。入学式で新入生代表の挨拶をした人物。舞台経験も豊富で、すでに“未来の男役トップスター候補”と騒がれている存在だ。
けれど、その顔立ちは他のスター候補たちのように華やかではなかった。あごはやや四角く、目元も鋭い。舞台映えする容姿ではない――そう陰で囁かれることもある。
しかし、今、あかりの目の前に立つ芦原右京からは、言葉にならないような威圧感と、強烈なオーラが立ち上っていた。
「新入生か?」
右京の低い声が、静かにあかりの胸に落ちてくる。
「は、はいっ……! 鷹宮あかりです。1年の……」
緊張で声が裏返りそうになりながらも、あかりは深く頭を下げた。
「鷹宮、か。ああ……入学式で遅刻してきた子だな?」
一瞬、あかりの表情がこわばる。あの遅刻の件は、やはりすでに上級生の間でも広まっていたのだ。
「……はい。申し訳ありませんでした」
「謝るのは私にじゃない。だが、遅刻は事実だ。――君がどう取り返すかは、君次第だ」
淡々とした右京の言葉には、責める気配もなければ、慰めもない。ただ、真っ直ぐな現実だけがあった。
「でも、正直……ちょっと怖いです。上級生の方々にもいろいろ言われて……」
そう打ち明けると、右京はふっと笑った。
「怖い? そりゃそうだ。ここは夢を見に来た場所じゃない。夢を“奪い合う”場所だ」
あかりの喉が、ごくりと鳴る。
「でもな、鷹宮。夢を諦めず、誠実にぶつかる者にだけ、チャンスは巡ってくる。たとえ成績が下でも、ルックスが劣っていても、“芯”のある人間は、この世界で生き残る。覚えておくといい」
その言葉に、あかりの胸の奥に火が灯った気がした。
「はい……っ。がんばります……!」
その答えに、右京はわずかに口角を上げると、
「そうだ、花は正直だ。手をかければ咲くし、怠れば枯れる。――舞台も同じさ」
そう言い残して、芦原右京は踵を返し、校舎の方へと歩いていった。
静かな足音が遠ざかっていく。
その背中を、あかりはいつまでも見送っていた。
その瞬間――3階の講師室の窓辺では、如月玲奈が右京とあかりのやり取りをじっと見つめていた。
窓ガラスに反射する玲奈の瞳は、まるで未来の舞台の幕開けを予見するかのように、冷たくも深い光を湛えていた。
***
【天翔専門学校寮・談話室】
夜も更けた寮の談話室に、女子1年生7人が集まっていた。温かな電球色の照明が、木製のテーブルとソファを包み込み、笑い声と談笑がほどよく響いている。
鷹宮あかりは、今日の花壇での出来事を口にし始めた。
「実はさ……放課後、芦原先輩とちょっとだけ話したんだ」
一同の視線が一瞬、ぴたりと固まる。
綾小路澪がひときわ静かに息をのんで、
「え……本当に?」
他のメンバーも食い入るようにあかりを見る。
水瀬大河が肩を揺らして笑いながら言った。
「すごいじゃん!あかり、先輩から歩み寄られるとか、羨ましい〜!」
一ノ瀬ゆらも控えめに笑顔でうなずき、
「私も話してみたいかも……先輩ってどんな感じだった?」
結城さらは頬を赤らめながらも好奇心いっぱいの眼差しであかりを見つめた。
橘颯真は落ち着いた声で、
「右京先輩は成績トップだからな……話しかけるには緊張する人だろうに」
水城ひまりは得意げに腕を組む。
「そもそも、芦原右京って確かに成績トップで“歌劇団もスター候補”って話だけど、劇団的には嶺山奏の方を本命視してるってうわさだったよね」
話を聞いている間に、誰かが小さくぽつりとつぶやいた。
「ルックスも“端正で歌劇団らしい顔”って、奏のほうがふさわしいって言われてるよね」
空気に含まれるその言葉に、自然と輪が広がる。
あかりは少し目を伏せながらも、柔らかく答えた。
「うん……奏先輩って、本当に男役に似合う整った顔で……舞台映えするんだ。他の人とは違う魅力があるって思う」
向かいにいた水瀬大河がニヤリと笑って身を乗り出した。
「え、なになに? もしかして、あんな顔がタイプだったりするわけ?」
あかりの目がぱちぱちと瞬き、顔がみるみるうちに赤くなる。
「ち、ちがっ……いや、その……かっこいいとは思うけど、べつにタイプとかじゃなくて……!」
しどろもどろに手を振るあかりに、隣の水城ひまりも大笑い。
「やだ〜! あかりってば、顔に出すぎでしょ! 完全に照れてるじゃん!」
「ほんとにちがうってばぁ……っ!」
あかりが両手で顔を覆うようにすると、談話室は一気に笑いに包まれた。
その喧騒の中で、結城さらがぽつりと、誰にも聞こえないように呟いた。
「そうなんだ……あの顔が、タイプなんだ……」
声は小さく、言葉というよりも、心の奥で呟いた想いがつい口をついて出たような音だった。
笑いの渦の中心でからかわれているあかり。
その様子を、綾小路澪はじっと見つめていた。
笑っている大河やひまりの明るい声。照れて焦るあかり。
何も言わずに少しだけ目を伏せているさら。
(なぜだろう。あかりが笑っているのに、自分の胸の奥がひどくざわつく)
くすぶるような、かすかな痛みと、名もなき違和感。
(なに、この気持ち……)
澪は静かに息を吐いた。
だが、それでも――あかりのその笑顔は、どこか遠くの光のように、まぶしくて、心に残った。
そして澪は、ふと視線を逸らす。
まるで自分の心の奥に向き合うのが少し怖いかのように。




