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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
19/140

19:静と動

 午後の授業の開始を告げる鐘が鳴り、廊下に並ぶ一列の足音が柔らかに響く。午前中のバレエで汗を流した生徒たちは、清めるように髪を整え、身支度を整えた後、日舞教室へと向かっていた。

 廊下の空気はひんやりとしていて、さっきまでの緊張とはまた違う、粛然とした気配が漂っていた。   

 襖の奥に広がる和室に足を踏み入れた瞬間——空気が変わった。


 木の香りが鼻をくすぐる。

 すべてが整然とした、静謐な世界。

 奥に広がる広間の中心には、黒紋付きに身を包んだ年配の女性が一人、正座していた。


「入りなさい」


 静かだが通る声に促され、一同は静かに正座をして座る。誰もが姿勢を正し、息を呑んだ。

 講師の名は藤代瑞月(ふじしろみづき)

 現役時代は歌劇団の古典演目の多くで主役を務め、日舞の指導者としても名高い。芸の道一筋で、感情に流されることを何より嫌うと噂されていた。


「私は、技術だけの舞を見たいとは思いません。……かといって、“気持ちがこもっていればいい”などという甘い世界でもありません。舞台とは“型”の世界。“型”があるからこそ、感情が乗るのです」


言葉一つひとつが、石を落とすように静かに響く。


「まずは基本の所作から始めます。襖の開け方、座り方、立ち方。これらができなければ、舞台には立たせません。分かりましたね」


 生徒たちは一斉に「はい」と返した。

 その声ですら、乱れることは許されないような緊張感があった。


「では、まずは、基本の所作を覚えてもらいます」


 講師が所作を実演して見せると、生徒たちは続けてそれを真似た。畳の縁を踏まぬように意識し、姿勢を正し、背中を伸ばす。わずか数歩の動きにも、技と礼儀の両立が求められる。


 エリカは一番に動いた。手本のように正確な所作、袖の扱いも丁寧で、動作の途中で止まることなく、一連の流れを美しく締めくくる。さすがは主席合格者。講師も一瞬、うなずいたように見えた。

 しかしその直後、エリカの顔にわずかな違和感が浮かぶ。完璧な動作の裏に、どこかぎこちない“間”があった。それをエリカ自身も察したのだろう。内心で顔をしかめる。


「……間が走ってる。身体が正確すぎる」


 日舞の特有の“余白”を捉える感覚――それを掴みきれず、エリカの美しさには、どこか硬さが残っていた。


 そしてあかりの番が来た。

 彼女は、午前のバレエでのミスの悔しさを静かに胸にしまい込みながら、畳の中央に進んだ。ふう、と息を吐く。視線はまっすぐに、しかしまろやかに伏せられている。


「お願いします」


 一言発し、彼女は襖に手をかけた。……その瞬間、教室の空気が、ひとつ静かに変わった。

 襖の開け方ひとつに、物語があった。押し込められた想い、控えめな情熱、そして滲む覚悟。あかりの所作は、力強さとは違う、美しさの中に息づく“情”を感じさせた。

 膝をつき、袂を整え、指先が畳を撫でるように座る。立ち上がる動作さえも、水面に浮かぶ花のように柔らかく、見る者の目を引いた。


「……おや」


 藤代講師の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「鷹宮さん。あなた、日舞は習っていましたか?」


「はい。小さいころから少しだけ」


「なるほど。わかりますよ、その身体が覚えている流れ。いい所作です。けれど慢心せず、一つひとつ見直していきましょう」


 頬を赤くしてはにかむあかりに、講師は補足する。


「日舞は“隠す美しさ”です。あなたのように日常では活発な人ほど、舞台の上で耽美な存在になれる余地があります。そういう人の成長が、私は楽しみです」


 エリカの目が、鋭く細められる。


(嘘でしょう。あんな成績の子が……)


 その視線の先で、澪が舞っていた。

 澪の舞は、どこか夢の中のようだった。繊細な動きのなかに、哀愁を帯びた表情。誰よりも長い黒髪が、ひとつの絵巻物のように揺れる。


「……綾小路さんの動きは、まるで雪の精のようね」


 講師の言葉に、エリカの胸がまたざわめく。


 自分の身体は正確に動くのに、なぜ、あかりや澪のような“心を打つ何か”がないのか。優秀であるはずの自分が、なぜ苦しいのか。


(……どうして、あの子たちは)


 一方、あかりはその後の講義にも熱心に取り組み、講師が語る言葉のすべてをノートに書き留めていく。どんな細かい所作も見逃すまいとする集中力。その姿勢に、周囲の生徒たちも感化されはじめていた。


「……あかり、すごいな」


 澪が、ノートにペンを走らせるあかりの横顔を見ながら、ぽつりと呟いた。


「今日の所作……すごく綺麗だった」


「あ、ありがとう……でも、まだ全然だよ。成績だって36番だし」


「順位なんて関係ないよ」


 澪の穏やかな笑顔に、あかりの頬がほんのりと赤くなる。

 遠くからその様子を見ていたエリカの胸に、再び黒い感情が渦巻いた。


(澪は……あんなふうに、私に笑いかけてくれたことなんて、一度も……)


 自分のなかに芽生えたものが、嫉妬なのか、あるいは別の感情なのか、エリカ自身まだ分かっていなかった。ただ一つ分かるのは、あかりの存在が、自分をかき乱しはじめているということだけだった。


──やがて日が傾き、稽古場の障子に赤く夕陽が滲み出す頃、午後の授業は静かに幕を下ろした。


 けれど、あかりの中にはまだ、火が灯ったままだった。


(私は、もっと強くならなきゃ……36番のままじゃ、舞台には立てない)


 その決意が、あかりの背筋をそっと伸ばしていた。


 あかりとは対照的に、エリカは教室の隅に立ち尽くしていた。

 握られた手には汗がにじんでいた。自分の焦りが、澪を思う気持ちをかき乱す。それにまだ、彼女自身が気づいていない――。

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