プロローグ
呟きが蘇ることがある。ロリではない頭の中で、ロリ声での呟きが浮かび上がることが。
「私たちが意識として、魂として、こうして存在していることに対して、何か補償のようなものが必要だと、思わない?」
柔らかな声だった。だが同時に、何か目に見えない鋭さを突きつけるような色も持つ声だった。
ヴォロージャ、と声は続ける。名を呼ばれて、僕はしばし考え、答えあぐねて視線を彷徨わせた。細い肩や顎が視線の惑いにあわせてかすかに揺れる。
目の前には、どこか現実味に乏しく感じるほどに整った容姿の少女が立っていた。極細の金属細工のような白金色の髪を白く綺麗な額の真ん中で左右に分けて長く垂らし、人形めいて整った深い青のアーモンド型の瞳にこちらの姿を映している。
瞳に映りこんだ僕のほうはといえば、彼女に比べて随分平凡な外見だった。鳶色の瞳と、黒い髪。どこにでもいそうな、ただの少年だ。
「分からないよ。イデア」
応えて、僕は首を振って見せた。同時に、僕らの周りを澄んだ空気が通り過ぎた。
目の前の彼女は――イデアは、イデア・ニンフェットは、僕に向かって柔らかに微笑んで見せた。その形状一つで人を優しい気分にさせるような可愛らしい頬がゆっくりと動き、唇がふわりと形を変える。
彼女はロリータだった。それは誰もが認める事実で、施設の大人も、既にロリ化した子供たちも、だれもが彼女こそロリの体現者だと知っていた。生まれつきのロリ。生まれついてのロリータ。ほんとうに小さな頃からイデアはロリの片鱗を見せていたし、十代に入って自然ロリ化したとき、彼女は真にロリータと呼ぶべきロリに変貌した。
「私はさ、ここに入ってきたときから、ずっとそう思ってたんだ」
囁いて、彼女は僕の隣に腰を下ろした。
僕らが並んで座っているのは、僕らの暮らす施設の中央に位置するだだっ広い空間だった。そこは、どこもかしこも白い建物にあって、唯一色彩に溢れた場所でもある。中庭とでもいうべきだろうか、見事に手入れのされた芝生が地面を覆っている。芝の緑と、庭を囲む建物の白と、空の青さが世界を三分して塗り分けていて、現実と言うよりは綺麗なCGみたいだった。
僕とイデアは庭の端で建物の壁を背に座っていた。庭の中央には子供たちが――すでにロリ化した少女たちが輪を描くようにして集まり、みんなで手を繋いで目を閉じていた。それは、この施設に暮らすロリ化済みの子供たちの日課のようなものだった。共有した集団クオリアへの没頭、真なる共感、いくつかの呼び名がついた、世界を変えた奇跡の体現だ。
少女たちは皆美しいロリっ子だった。華奢な肩や腰、薄い背中や胸、驚くほどに滑らかな肌に、微かに朱の指した柔らかな頬。宝石のような瞳と長い睫。小さな耳。
イデアもまたロリであったし、いつもは他の少女たちと同じようにその輪の中に入ることもある。だけど何故か彼女は度々その輪を抜け出し、未だロリ化していない僕の隣に座って輪を外から眺めることがあった。そういう時は彼女は大抵僕に色んな話をしてくれていた。他愛ない物語や、施設での暮らしのことや、それ以前のこと。
それから、彼女はよく、僕に謎めいた呟きを向けた。
「人間はさ」
イデアは僕の隣で座したまま、歌うように唇から言葉を紡ぐ。
「その理性的意識、言葉と理性でもって社会を作って生きる生き物だけど、でも一方で理性なんて知ったことじゃない動物的身体や、野蛮で善悪の彼岸にあるようなある種本能的な意識でもあるじゃない。なんだかとっても中途半端な気がしない?」
正直に言えば、僕はこうした彼女の言葉のいくらかも理解してはいなかった。けれどその声音は耳に心地よく、そしてそれが何かとても切実な、大事なことだとはわかっていた。
「意識と身体。理性と野蛮。中途半端に混じりあって存在していて、そのせいで両者共に苦しい思いをするんだよ。本能的野蛮のせいで理性的な社会にひびが入る。善や正義や美を志向する意識のせいで体が壊れる。それなら、意識って、身体って、それぞれ、どんな価値があるのかな。そういう構造の上で生きていく人間って、なんだかひどく馬鹿げた構造のなかで生きているような気がしない?」
「それで、『何か補償のようなもの』が必要じゃないかって?」
先の言葉を僕が呟くと、イデアは「そ」と短く応えて、それからふっと表情を柔らかくした。
「ヴォロージャも、もうすぐロリ化を受けるんだよね」
軽く膝を抱いた姿勢で、イデアは話の内容をさっと変えて、僕にそう尋ねた。
「ああ」
僕は頷き、ちょうど一月後くらいだよ、と付け加えた。
「そっかぁ」
イデアは吐息と共に声を散らして、軽く僕にもたれかかった。肩の薄い肉と骨が僕に寄りかかり、僕よりもほんの少しだけ高い体温がほのかに伝わってくる。
イデアと僕は、姉弟か、親友か、なにかそんなようなものだった。共に同じ時期にWLO――World Lolita Organization、人類のロリ化をその基本的人権の一つとして捉え、その推進・研究・監視をはじめとした様々な活動を行う組織だ――の施設入りして、身寄りのない子供として育つ中ですぐに親しくなった。
僕らは仲がよかった、というか、どこか意識の底の部分がぴったり合うような、自然と溶け合うような、そんな心地いい相性のようなものが存在していた。他の多くの子供たちがそうであったように、僕もまた、イデアに憧れていた。賢く美しいこのロリに。
自分ももうすぐロリになる。そう考えると、期待感のようなものが切実さとともに胸のうちで膨れ上がる。イデアと同じロリになること。それはいつの間にか僕の中でひどく大事なこととなっていた。
「ヴォロージャ、ロリになったら、どんな感じになるかな。きっと、凄くかわいくなるね」
楽しそうに彼女は空を見上げてそう言った。
「どうかな。分からないけど、でもイデアには敵わないんじゃないかな」
僕はそっと彼女の細く、光を振りまく髪に触れて、呟いた。
ロリ化は人をロリにする。美少女としてのロリータに変貌させる。けれど元々の個人としての遺伝形質が消え去るわけではない。イデアほどの美しい、ロリの中のロリになれる人間は、僕に限らずほとんどいないように思えた。
「楽しみ?」
イデアはより深く僕にもたれかかると、見上げるようにして上目遣いに僕と目を合わせてそう尋ねた。
「楽しみだよ、勿論」
迷いなくそう答えた。僕は早くロリになりたかった。
実を言えば、初めてイデアをみたときから、そう考えていた。ロリを求め、ロリに憧れていた。だから、心底自分のロリ化が楽しみだった。
「ヴォロージャがロリ化したら、私がどんな風にものを見て、感じているのか、ヴォロージャにも分かるんだよね」
「うん、そうだね」
「じゃ、さっき言ったことも、分かるかもね」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに言って、イデアは目を細めた。馬鹿馬鹿しいくらいに澄んだ青空が、僕の胸にもたれかかって半ば仰向けになった彼女の瞳に映りこんでいた。滲む薄い涙の膜に映った、どこまでも高く透明な青さの中に、僕は先のことを、ロリ化した後の人生を、想像していた。イデアは何になるのか。僕は何になるのか。ロリとしてどう生きるのか。ロリたちによって整えられ、静められ、平静を取り戻し、理性と知性がクオリアの共有によって逞しく伸びた想像力と共に屹立するこの社会で、イデアと共に歩む日の様を幻視した。
けれど、僕がロリになるより先に、イデアは施設から姿を消した。施設で、暴動が起きたのだ。
僕が施設の中で最後に見たイデアの姿は、美しい少女やロリそのものといったイメージよりも、もっと別の言葉が先に出てくるようなものになってしまっていた。彼女は頭に穴が開き、脳の一部が損壊され、血まみれの肢体を床に投げ出していた。
彼女に風穴を開けたのは施設の警備職員が非常用に所持していた小さな拳銃だった。ロリ化身体用に作られたその拳銃は銃身も短く口径も小さかったが、イデアの頭蓋やその中身を損なうには十分な威力を持っていた。
その時施設で起こっていたのは、大規模な『ロリ・コンフリクト』……俗に「ロリコン」と呼ばれる現象だった。ロリ化した人間が稀に発祥する、原因不明の意識障害、暴力衝動、幻覚、極度の躁鬱その他様々な精神的身体的な劇的症状群の総称。明確な治療法も、それどころか碌な対症療法も確立されていない悪夢の顕現。数十年前までの人類が癌や遺伝病や重篤な自己免疫疾患を恐れたように、ロリ化人は、ロリ化賛同国は、その狂気を恐れていた。
結局、その後僕は、一人でロリ化を受けることになった。
ロリ化処置を受ける寸前、呟きが蘇った。こうして生きて、存在していることに対して、何か補償のようなものがあるべきではないか。何度かイデアが発した呟きが意識に浮かび上がっていた。
そしてその呟きは、その後何度も蘇ることになった。施設を出て、そのままWLOにスカウトされ、北米と欧州、そしてその他の地域の幾つもの国を回って働く中で、何度も、何度も。




