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本編

ガシャーン!


鏡が割れる音と同時に、脳内へ怒涛の記憶が流れ込んできた。


没落寸前のフェルゼン伯爵家の令嬢、リリアーナ・フォン・フェルゼン。


二十歳。


それが、今の私。


そして前世の私は、現代日本で働く保育士だった。


「嘘でしょ……?」


床に散らばった鏡の破片に映っているのは、つり上がった赤い瞳を持つ、きつめの美貌の令嬢。


間違いない。


私は、前世で狂ったようにプレイしていた乙女ゲーム『ロイヤル・ラブ・マジック』の世界にいる。


それも、ヒロインではない。


悪役継母リリアーナだ。


明日、私は王国宰相である『冷血公爵』アレクシス・フォン・ローゼンタールと政略結婚する。


そして彼には、前妻との間に生まれた三歳の息子、ノアがいる。


原作ゲームでのノアは、父親の無関心と使用人たちの虐待によって、深刻な愛情飢餓に陥る。


やがて強大な魔力を暴走させ、世界を滅ぼす『魔王』へと変貌してしまうのだ。


その原因を作った最大の悪人が、継母であるこの私。


ノアを虐げた結果、成長して魔王として覚醒した彼に真っ先に惨殺される。


それがリリアーナの確定ルートだった。


「し、死亡フラグ……!」


私は震える手で顔を覆った。


結婚式前夜に気づくなんて、いくらなんでも遅すぎる。


逃げ出したい。


けれど、没落寸前の実家には、公爵家からの莫大な結納金がすでに入っている。


今さら逃げれば、実家ごと破滅だ。


絶望に打ちひしがれそうになった、その時。


ふと視界の隅に、一枚の紙が映った。


公爵家から送られてきた家族の紹介状。


そこには、小さなノアの肖像画が添えられていた。


銀色の柔らかな髪。


大きな、けれどどこか寂しげな青い瞳。


「あ……」


その瞬間、恐怖が綺麗に吹き飛んだ。


ノア様。


ゲームのラスボスでありながら、その悲しい過去と圧倒的な美貌で絶大な人気を誇ったキャラクター。


そして何より、私の前世における『最推し』。


「三歳の推しを、合法的に、毎日お世話できる……?」


ぽつりと呟いた私の声は、ひどく上ずっていた。


保育士としての血が騒ぐ。


いや、オタクとしての血か。


たぶん両方だ。


画面越しに、泣きながら見守るしかなかった不遇の推し。


そのノア様が、今、三歳の幼児として存在している。


しかも、私は彼の『母親』になるのだ。


「死亡フラグ? そんなもの、ノア様の寝顔の前では塵です!」


私は立ち上がり、両拳を強く握りしめた。


殺されるのは、ノア様を虐待したから。


ならば、あふれんばかりの愛を注げばいい。


栄養満点のご飯を作る。


一緒に遊ぶ。


絵本を読む。


安心して眠れるまで、何度でも背中をトントンして寝かしつける。


保育士としての知識と経験のすべてを注ぎ込んで、ノア様を世界一幸せな子供に育てるのだ。


魔王化?


させません。


私がこの手で、健やかで真っ直ぐな青年に育て上げてみせる。


決意を固めた私の目には、もはや一片の迷いもなかった。


* * *


翌日。


壮麗な大聖堂での結婚式は、滞りなく終わった。


ウェディングドレスに身を包んだ私と、漆黒の礼服を着たアレクシス様は、公爵邸の執務室で向かい合っていた。


銀糸を織り込んだようなプラチナブロンド。


氷のように冷たい青い瞳。


『冷血公爵』の異名通り、彼は新婚の妻である私に、一切の感情を向けていない。


「単刀直入に言おう」


アレクシス様は、書類から目を離さずに告げた。


「君を愛することはない。ただの飾りだ」


ああ、出た。


乙女ゲームにおける、冷徹ヒーローのお約束セリフ。


政略結婚だから期待するな。


女には興味がない。


君の役割は、公爵夫人という肩書きだけだ。


普通の令嬢なら、ここで絶望して泣き崩れるか、プライドを傷つけられて怒り狂うところだろう。


しかし、私は違った。


満面の笑みを浮かべ、即答する。


「はい、喜んで!」


「……は?」


アレクシス様が、初めて私に視線を向けた。


その整った顔には、明らかな困惑が浮かんでいる。


無理もない。


まさか「愛さない」と言われて、ここまで嬉しそうに返事をされるとは思わなかったのだろう。


だが、私にとってはこれ以上ない朗報だった。


夫に愛されないということは、面倒な夫婦のやり取りに時間を取られないということ。


夫婦の務めも、休日の同伴も、愛想笑いを浮かべるお茶会も最低限で済む。


つまり。


私の持つすべてのリソースを、義息子であるノア様に全振りできるのだ。


「理解しているのか? 私は君に、妻としての愛情を注ぐつもりはないと言っている」


念を押すように言うアレクシス様に、私は深く頷いた。


「重々承知しております。旦那様はお仕事に専念なさってください。私も、自分のやるべきことに専念いたしますので」


「やるべきこと、だと?」


「はい。私は義息子を愛でるので忙しいので」


「……義息子?」


アレクシス様が眉間を寄せる。


どうやらこの男、自分の息子の存在すら、頭の片隅に追いやっているらしい。


原作通りとはいえ、腹立たしい。


「それでは、私はこれにて失礼いたします。ノア様へのご挨拶がまだですので」


私は優雅にカーテシーをした。


そして、呆気に取られているアレクシス様を残し、執務室を後にする。


さあ。


愛しい推しとの対面だ。


歩きながら、私はドレスの裾を軽く持ち上げた。


早く。


一秒でも早く、ノア様に会いたい。


* * *


「ノア様のお部屋はこちらでございます、奥様」


案内役のメイドの後ろを歩きながら、私は内心で眉をひそめていた。


公爵邸は広大で、煌びやかな調度品にあふれている。


けれど、奥へ進むにつれて、人の気配が薄くなっていった。


廊下の暖房魔導具は切られ、ひんやりとした空気が肌を刺す。


辿り着いたのは、屋敷の最奥にある、日当たりの悪い北側の部屋だった。


「……ここが、ノア様の部屋?」


「はい。旦那様からのご指示で、こちらを」


メイドは悪びれる様子もなく答えた。


私は静かに息を吐き、重い木製のドアを開ける。


ギィ、と嫌な音が響いた。


部屋の中は、昼間だというのに薄暗かった。


窓には厚いカーテンが引かれ、暖炉に火は入っていない。


豪華な公爵邸にあって、この部屋だけが、まるで牢獄のように冷え切っていた。


部屋の隅に、小さなベッドがある。


その脇に、丸まるようにして座り込んでいる小さな影があった。


「ノア、様……?」


私が声をかけると、その小さな影がビクッと震えた。


ゆっくりと、こちらを振り向く。


銀色の髪は伸び放題で、ぼさぼさ。


痩せこけた頬。


薄汚れた、サイズも合っていない粗末な服。


そして、怯えきった大きな青い瞳。


――間違いない。


私の推しだ。


でも、画面で見ていた設定画よりも、ずっと小さくて、ずっと痛々しい。


これが、三歳の子供がする表情だろうか。


大人の顔色をうかがい、息を潜めて生きている。


そんな、絶望した瞳だった。


胸の奥で、激しい怒りと悲しみが爆発しそうになる。


こんな小さな子を。


こんな寒い部屋で。


たった一人で。


すぐにでも駆け寄って抱きしめたい。


温かい毛布でくるんで、「もう大丈夫だよ」と叫びたい。


しかし、保育士としての理性が、それを強く引き止めた。


怯えている子供に、大人がいきなり近づいて抱きしめるのは逆効果だ。


恐怖を煽るだけ。


まずは安心させなければ。


私は怒りを必死に腹の底へ押し込み、ゆっくりと、音を立てないように部屋の中へ足を踏み入れた。


ノア様との距離を少し残したところで立ち止まり、その場に膝をつく。


ドレスが床の埃で汚れようが、お構いなしだ。


そして、ノア様としっかり目線を合わせた。


「はじめまして、ノア様。私はリリアーナと申します」


できるだけ優しく、穏やかな声で語りかける。


しかし、ノア様は私の豪奢なドレスと、その奥にいるメイドの姿を見て、さらに体を縮こまらせた。


小さな肩が、ガタガタと震えている。


「ごめんなたい……」


掠れた、消え入りそうな声。


舌足らずな言葉が、静かな部屋に落ちた。


「もう、ぶたないで……」


ギリッ、と私の奥歯が鳴った。


ぶたないで。


三歳の子供が、初対面の大人に向かって言う言葉がそれなのか。


「……っ」


涙があふれそうになるのを、必死に堪える。


ここで私が泣いては駄目だ。


この子が一番、泣きたいはずなのだから。


私は両手を膝の上に置き、絶対に危害を加えないという姿勢を示した。


「ノア様」


静かに、けれどはっきりと伝える。


「大丈夫。あなたは悪い子じゃありません」


「……え?」


「誰もあなたをぶちません。痛いことはしません。お約束します」


ノア様の青い瞳が、信じられないものを見るように丸くなる。


今まで、そんな言葉をかけられたことがなかったのだろう。


大人は自分を怒る存在。


叩く存在。


そう刷り込まれている。


その呪いを解くには、時間がかかる。


焦ってはいけない。


少しずつ、少しずつ、愛を伝えていくのだ。


「……奥様。その子は『呪われた子』でございます。あまりお近づきになりませんよう」


背後から、ひどく無神経な声が投げかけられた。


案内してきたメイドだ。


その言葉を聞いた瞬間、ノア様が再びビクッと体を震わせ、うつむいてしまった。


せっかく少し開こうとした心の扉が、無惨に叩き閉ざされた。


プツン。


私の中で、何かが切れる音がした。


ゆっくりと立ち上がり、振り返る。


「……呪われた子、ですって?」


自分でも驚くほど、声が冷たい。


「はい。奥様はご存じないかもしれませんが、その子は前の奥様の命を奪って生まれてきたのです。旦那様も疎まれており……」


「メイド長を呼びなさい。今すぐに」


「へ?」


「聞こえなかったの? この屋敷のメイド長を、今すぐここに連れてきなさい」


私の凄みに圧倒されたのか、メイドは弾かれたように部屋を飛び出していった。


数分後。


息を切らしてやってきたのは、恰幅のいい五十代ほどのメイド長だった。


「新奥様、お呼びでしょうか。このような埃っぽい部屋へ、自ら足を運ばれるとは……」


悪びれる様子もなく、愛想笑いを浮かべるメイド長。


私は彼女を見下ろし、冷徹な声で尋ねた。


「この部屋の惨状は、あなたが指示したものかしら」


「惨状、とは心外な。その子は呪われておりますゆえ、贅沢などさせては旦那様のお怒りを買います。私どもは、旦那様のお心を慮って……」


「黙りなさい」


ピシャリと撥ね付けると、メイド長はビクッと肩を揺らした。


「暖炉の薪すら与えず、服も洗わず、食事も満足に与えていない。三歳の幼児に対するこれが、公爵家のやり方?」


「ですから、それは旦那様が……」


「旦那様が『食事を抜くように』『暴力を振るうように』と明確に指示したのね?」


「そ、それは……」


メイド長が言葉に詰まる。


当然だ。


アレクシス様はノア様に無関心なだけで、虐待を命じるような男ではない。


使用人たちが主人の無関心を都合よく解釈し、自分たちの憂さ晴らしをしていただけだ。


「しかも」


私は、部屋の隅にある小さなタンスの上を指差した。


そこには、ノア様のための養育費が記載された帳簿が、無造作に置かれていた。


先ほど、部屋を見渡した時に見つけていたのだ。


「これを見る限り、ノア様に宛てられた予算のほとんどが使途不明になっているわね。質の良い服や、栄養価の高い食事に充てられるはずの金貨が消えている。……着服したのね?」


「なっ……! 人聞きの悪い!」


「調べればすぐにわかることよ」


私は大きく息を吸い込み、公爵夫人としての威厳を込めて宣言した。


「この者を解雇。ノア様の養育費を横領した記録も調べなさい」


部屋の外で様子をうかがっていた使用人たちが、息を呑む気配がした。


「な、何を馬鹿な! 私は長年この公爵家に仕えてきたのですよ! 旦那様がお許しにならない!」


顔を真っ赤にして喚くメイド長。


私は一歩前に出た。


「跡取りを虐げた使用人を庇う公爵家なら、私がこの家ごと掃除します」


氷のような視線で射抜く。


「ノア様は、この公爵家の正統な後継者。それを『呪われた子』と呼び、暴力を振るい、金を横領した。これは公爵家に対する明らかな反逆行為よ」


言葉を切り、わざと低く続ける。


「ええ。旦那様に事の顛末をすべて報告すれば、ただの解雇では済まないかもしれないわね」


横領と、貴族への虐待。


それが明るみに出れば、どうなるか。


メイド長の顔から、さぁっと血の気が引いていく。


「……つまみ出しなさい。横領の記録も、徹底的に調べ上げること」


私の命令に、外にいた護衛の騎士たちが踏み込んできた。


「離しなさい! 私は、私は……!」


喚き散らすメイド長が引きずられていく。


本来なら、もっと徹底的に痛めつけてやりたいところだ。


けれど、私はノア様を振り返った。


息子の目の前で血は見せない。


残酷な真似はしない。


それが、私の保育士としての、そして母親としての矜持だ。


騒ぎが収まった後、部屋には再び静寂が戻った。


ノア様は、大人の怒声に怯えきり、ベッドの柱にしがみつくようにして震えていた。


私が怖い大人の一人だと思われてしまったかもしれない。


しまったな、と思いつつ、私はすぐに表情を緩めた。


眉間から力を抜き、目尻を下げる。


子供に安心感を与える、いつもの「先生」の顔。


再びノア様と同じ目線になるように、しゃがみ込む。


「驚かせてしまってごめんなさいね。もう怖い人はいませんよ」


優しい声で語りかけると、ノア様はビクビクしながらこちらを見た。


「あのね、ノア様。このお部屋は少し寒すぎるわ。私の用意した、もっと温かいお部屋に一緒に行きませんか?」


温かいスープを用意しよう。


ふわふわのタオルで体を拭いて、清潔な服に着替えてもらうのだ。


「……おへや、いくの?」


「ええ。ふかふかのベッドもあるわ。お腹、空いていない?」


ノア様は小さくコクンと頷いた。


「じゃあ、一緒に行きましょう。歩ける?」


私はそっと手を差し出した。


無理に引っ張ったりはしない。


彼が自分で決めて、手を取ってくれるのを待つ。


数秒の沈黙。


ノア様は、差し出された私の手と、私の顔を交互に見つめた。


そして、恐る恐る、本当に壊れ物に触れるかのように――。


小さな小さなその手が、私のドレスの裾を、きゅっと握った。


「……っ!」


心臓が跳ねた。


手のひらを握る勇気は、まだなかったのだろう。


でも、ドレスの布越しに伝わってくる、その微かな重み。


それが、彼からの精一杯の信頼の証だった。


私は、ドレスの裾を握るその小さな手を、愛おしく見つめた。


そして顔を上げ、ノア様に微笑みかける。


「ありがとう。さあ、行きましょう」


その小さな手の重みを感じた瞬間、私は心に誓った。


この子を魔王になんてさせない。


必ず、世界で一番幸せな子供にしてみせる。


たとえ夫である冷血公爵に愛されなくても、そんなことはどうでもいい。


私の忙しくも幸せな『義息子愛でライフ』が、今、幕を開けたのだ。


* * *


私のドレスの裾を小さな手で握りしめたノア様を、私はゆっくりと、彼の歩幅に合わせて誘導した。


案内したのは、屋敷の中で最も日当たりが良く、上等な魔導具で常に適温が保たれている客間だ。


ふかふかの絨毯が敷かれ、壁には暖かな色のタペストリーが掛けられている。


部屋に入った途端、ノア様は不安げに周囲を見回した。


広くて明るい空間に慣れていないのだ。


私はノア様の前にしゃがみ込み、ふかふかのウール毛布を広げて見せた。


「ノア様、この毛布で包んでもいいですか?」


私の問いかけに、ノア様はビクッと肩を揺らした。


けれど、不思議そうに毛布を見つめている。


「寒いのを、少しだけ追い出しましょうね」


穏やかに、けれどはっきりと伝える。


ノア様が恐る恐る、小さく頷いた。


それを確認してから、私はまるで壊れ物を扱うように、優しく、ふわりと毛布でその小さな体を包み込んだ。


「……っ」


温もりに触れた瞬間、ノア様の青い瞳がわずかに見開かれた。


いきなり抱き上げるようなことはしない。


まずは『温かさ』と『安心感』を肌で覚えてもらうのが先決だ。


その後、私はノア様を浴室へ連れて行った。


大理石の立派な浴槽に、生活魔法でお湯を張る。


しかし、ノア様は湯気を見るなり後ずさり、壁に背中を押し付けた。


ガタガタと震え、両手で頭を庇うような姿勢をとる。


――冷たい水をかけられたり、乱暴に洗われたりしていたんだわ。


胸が締め付けられるように痛む。


けれど私は深呼吸して、笑顔を作った。


「ノア様、大丈夫ですよ。これは熱くも冷たくもありません。ただの、ぽかぽかのお湯です」


そう言って、まずは私の手をお湯に入れ、適温であることを示す。


それから、ノア様の足先へ、ゆっくりと、本当に少しずつお湯をかけた。


怯えていたノア様の体が、お湯に触れた途端、ぴたりと止まる。


「……あったかい……」


消え入りそうな声で、ノア様が呟いた。


その一言だけで、私の目頭が熱くなる。


ああ、神様。


この子は今まで『温かいお風呂』すら知らなかったのだ。


服を脱がせた時、ノア様の細い体に、あちこち小さな痣があるのを見つけた。


私の中の怒りが、再び沸点に達しそうになる。


だが、その怒りは絶対に表へ出さない。


ノア様を怖がらせてはいけないから。


「気持ちいいですね。ゆっくり洗いましょうね」


柔らかな海綿を使い、この世で一番尊い宝石を磨くように、ノア様の体を優しく洗った。


湯上がりには、銀色の髪を柔らかい布で丁寧に乾かしていく。


すると、ノア様は微睡むように目を細めた。


少しずつ、彼の中で張り詰めていた糸が緩んでいくのを感じる。


お風呂の後は、待ちに待ったお食事の時間だ。


私は厨房に下り、料理長たちを少し脅し……いや、説得して、自ら厨房に立った。


作ったのは、前世の保育士としての知識をフル活用した、消化に良いミルク粥。


長期間ネグレクトされ、まともな食事を与えられていなかった弱った胃腸に、いきなり肉や重い食事を与えるのは絶対に駄目。


最悪の場合、命に関わる。


ほんのり甘い香りが漂う温かいお椀を、テーブルについたノア様の前に置く。


しかし、ノア様はスプーンを握ったまま、じっとお椀を見つめるだけで手をつけようとしない。


ちらちらと私の顔色をうかがい、何かを恐れている。


――もしかして、食べようとした瞬間に取り上げられたり、邪魔されたりしたことがあるの……?


想像するだけで腸が煮えくり返りそうになる。


それでも私はぐっと堪え、テーブルから少し距離を取り、椅子に座った。


「ゆっくり食べていいんですよ。誰も取り上げません」


急かさず、優しく待つ。


数分後、ノア様はようやく決心したように、スプーンでミルク粥をすくい、小さな口へ運んだ。


こくり、と喉が鳴る。


その瞬間、ノア様の大きな青い瞳が、まん丸に見開かれた。


「おい、ちい……」


あ、あああああああ!


可愛い。


天使。


なにこの生き物、尊すぎる。


私の内心のオタクが絶叫して暴走するが、外見はあくまで優しく微笑む『完璧なお母様』を崩さない。


「よかったです。たくさん食べてくださいね」


ノア様は少しずつ、それでも確実にお粥を平らげていった。


食べ終わり、私が空になった器を片付けようと立ち上がった瞬間。


ノア様の小さな手が、私のドレスの裾をきゅっと強く握った。


「……いかないで……」


震える声。


不安げに見上げてくる、潤んだ瞳。


私は即座に器を置き、元の椅子に座り直した。


「どこにも行きません。お母様は、ここにいます」


そう言って微笑むと、ノア様は安堵したように息を吐いた。


そしてまた、私の裾を握ったまま、こくりと頷いた。


* * *


その頃。


公爵邸の執務室で、アレクシス・フォン・ローゼンタールは護衛騎士からの報告を受け、苛立ちに眉をひそめていた。


「新妻がメイド長を追放し、使用人たちを解雇しただと?」


ただの飾りだと言い渡したばかりの妻が、さっそく権力を振りかざして屋敷を掻き回している。


そう考えたアレクシスの胸に、冷たい怒りが滲んだ。


女という生き物の浅ましさ、計算高さには辟易している。


彼は呆れと怒りを抱え、リリアーナがいるという客間へ足を運んだ。


どうせ我儘で息子の部屋を奪い、使用人を従わせようとしたのだろう。


そう思いながら客間の扉の前に立ち、乱暴に開けようとしたアレクシスの手が、不自然に止まる。


わずかに開いた扉の隙間から、穏やかな歌声が聞こえてきたのだ。


「ねんねんころり、おやすみなさい……」


今までこの冷え切った公爵邸で聞いたこともない、優しく温かい子守唄だった。


隙間から覗き込むと、ベッドの脇に座るリリアーナの姿があった。


彼女は、ベッドで眠るノアの背中を、一定の優しいリズムでトントンと叩いている。


ノアは、リリアーナのドレスの裾を小さな手でしっかり握りしめたまま、安らかな寝息を立てていた。


アレクシスは衝撃を受けた。


ノアがあんなに穏やかな顔で眠っているのを、彼はいまだかつて見たことがなかった。


そもそも、自分が息子の寝顔を最後に見たのはいつだったか。


怒りは急速に霧散し、代わりにどす黒い罪悪感が胸の奥に湧き上がってくる。


西日に照らされたリリアーナの横顔は、信じられないほど美しく、慈愛に満ちていた。


その胸に芽生えた感情を、アレクシスはまだ恋とは呼べなかった。


けれど、確かに何かが動き始めていた。


気配を感じて扉の方を振り向くと、そこには複雑な表情を浮かべたアレクシス様が立っていた。


私はノア様を起こさないよう、慎重にドレスの裾から彼の手を外し、代わりに毛布の端を握らせる。


そして静かに廊下へ出た。


扉を閉めると同時に、私の顔から優しい微笑みは消えた。


「……なぜ、長年仕えてきた使用人を追放した。何様のつもりだ」


声を潜めつつも問い詰めてくるアレクシス様に、私は鼻で笑いそうになるのを堪えた。


「ノア様のお部屋をご覧になりましたか? 暖炉の薪は与えられず、食事もまともに運ばれていない。ノア様の体には、乱暴に扱われた痣がありました」


「な……痣、だと?」


「ええ。それに、ノア様の養育費のほとんどが、あのメイド長たちによって横領されていました。公爵家の跡取りをネグレクトし、金を着服する人間を解雇して、何が悪いのですか?」


淡々と事実を告げると、アレクシス様は絶句した。


彼の青い瞳が、激しく揺れ動く。


アレクシス様は、ノア様に関心がなかっただけで、虐待を望んでいたわけではない。


自分の無関心が、前妻の忘れ形見をそこまで追いつめていたのだと、ようやく悟ったのだろう。


私はさらに言葉を続けた。


「あなたがノア様を愛せないなら構いません。その分、私が一生分愛します。ただし、私の子育ての邪魔はしないでください」


はっきりと宣言する私に、アレクシス様はしばらく沈黙した。


やがて、苦渋に満ちた声で答える。


「……すまなかった。私の落ち度だ。君の処分を支持する。必要なものはすべて、私の名で手配させよう」


「ええ、そうしていただきます。ノア様には最高の環境が必要ですし、私は忙しいので」


これ以上話すことはない。


そう示すように、私は再び客間へ戻ろうとした。


そっと客間の扉を開ける。


すると、ベッドの上に座り込んだノア様が、大粒の涙をポロポロとこぼして泣いていた。


「ノア様!」


私が駆け寄ると、ノア様は私が戻ってきたことに気づき、小さな両手を必死にこちらへ伸ばしてきた。


今まで怯えて、触れられることすら拒んでいたノア様が。


自分から、抱きしめられに来てくれたのだ。


私は床に膝をつき、その小さな体を、今度こそしっかりと胸に抱きしめた。


「ごめんなさい。ちょっとお外に出ていただけですよ。ここにいます。大丈夫です」


ノア様は私のドレスに顔を埋め、しゃくりあげながら、小さな口を開いた。


「お、かあさま……」


――ブワッ。


私の涙腺が、音を立てて崩壊した。


駄目だ。


保育士として、子供の前で取り乱しては駄目だ。


そう思っても、涙が止まらない。


ノア様が、私を呼んでくれた。


私の推しが、私をお母様と。


「おかあさま、ずっと、いっちょ……?」


不安でいっぱいの、震える声。


私はノア様の背中を優しく撫でながら、力強く、絶対に破らない誓いを口にした。


「はい。ずっと一緒です。お母様は、ずっとノア様のそばにいます」


廊下の向こう側。


扉の隙間からその光景を見ていたアレクシスは、壁に背中を預け、深く息を吐き出した。


息子が『母』を得た瞬間。


そして、自分が取り返しのつかないほどの過ちを犯していたことを、骨の髄まで理解した瞬間。


彼は、自分ももう一度『父』になり直さなければならないと、静かに決意を固めていた。


* * *


それから数日後。


ノア様の環境は劇的に改善された。


部屋は明るく温かい南向きの部屋へ移り、食事も少しずつ栄養価の高いものを取り入れ始めた。


ノア様はまだ私の服の裾を握って歩くことが多い。


けれど、私が絵本を読んであげると、時折ふわりと可愛らしい笑顔を見せてくれるようになった。


そんな平和な日常が軌道に乗り始めた矢先、王宮から一通の招待状が届く。


表向きは『新公爵夫人と公爵嫡男のお披露目茶会』。


だが、手紙の差出人を見た瞬間、私の脳裏に原作ゲームの嫌なイベントがフラッシュバックした。


王宮の特定の派閥が、強力な魔力を持つ可能性のあるノア様を危険視し、『呪いの子』として管理・隔離しようと画策するイベントだ。


行きたくない。


それが本音だった。


けれど、公爵家として王命に近い招待を無碍にはできない。


アレクシス様も当然同行する予定だったが、出発の朝になって王宮から急な政務を押し付けられた。


「先に向かっていてくれ。必ずすぐ合流する」


そう言って、彼は執務室へ向かってしまった。


これも王宮側の嫌がらせだろう。


私は不安を抱えながらも、ドレスアップしたノア様の小さな手をしっかり握り、王宮へ向かう馬車に乗り込んだ。


馬車が揺れる中、ノア様が私の顔を見上げて、不安そうに聞いてくる。


「おかあさま、ぼく、いいこにしてたら、いっしょにいられる?」


その健気な問いに、胸がぎゅっと締め付けられた。


私はノア様の手を両手で包み込み、はっきりと告げる。


「いい子だから一緒にいるんじゃありません。ノア様がノア様だから、お母様は一緒にいるんです」


たとえ世界中が敵に回っても、私がこの子を守り抜く。


しかし、王宮の巨大な城門が近づくにつれ、胸のざわめきは大きくなっていった。


このお披露目茶会が、ただの茶会で終わるはずがない。


私はノア様を抱き寄せながら、待ち受ける悪意に向けて、静かに闘志を燃やした。


* * *


王宮の白亜の門をくぐり、会場である壮麗な空中庭園へと足を踏み入れた瞬間。


肌を刺すような、冷たい空気の壁を感じた。


色とりどりの花が咲き誇り、鳥がさえずる美しい場所だというのに、集まった貴族たちの視線には、明らかな敵意と侮蔑が混じっている。


私の隣で、ノア様がビクッと肩を跳ねさせた。


その小さな手が、私のドレスの裾をぎゅっと握りしめる。


手の震えから、ノア様がどれほど不安を感じているかが痛いほど伝わってきた。


「大丈夫ですよ、ノア様。私から離れないでくださいね」


私はしゃがみ込み、ノア様の耳元で優しく囁いた。


ノア様は不安そうに青い瞳を揺らしながらも、私を信じるように小さく頷いてくれる。


この数日で、ノア様はようやく私に心を開きかけてくれている。


その小さな信頼の芽を、こんな心ない大人たちの悪意で踏みにじらせるわけにはいかない。


私たちが庭園の中央へ進み出ると、示し合わせたかのように、ひとつの集団が近づいてきた。


中心にいるのは、豪奢なドレスに身を包んだ中年の女性。


第一王子派の重鎮であり、王妃の側近でもあるマルグリット侯爵夫人だ。


彼女は扇で口元を隠し、私と、私の後ろに隠れるように立つノア様を見下ろした。


「ごきげんよう、新公爵夫人。そして……そちらが『噂の』ご子息ですのね」


「お初にお目にかかります、侯爵夫人。ローゼンタール公爵家の長男、ノアでございます」


私は毅然と微笑み返し、ノア様を庇うように一歩前へ出る。


しかし侯爵夫人は、私の態度を鼻で笑った。


そして、忌まわしいものを見るような目でノア様を睨みつける。


「随分とまあ、小さくて弱々しいこと。前妻の残した『呪われた子』だと伺っておりましたが、本当にこの子が公爵家の跡取りになれるのかしら?」


周囲の貴族たちから、ひそひそと嘲笑交じりの声が漏れた。


「公爵家のためにも、そのお子様は王宮で適切に管理された方がよろしいのでは?」


侯爵夫人は、さも思いやりに満ちた提案であるかのように、ねっとりとした声で続ける。


「聞けば、その子は危険な魔力を持っているとか。強すぎる魔力は、幼子には毒ですわ。王宮の結界の中で、厳重に保護するべきです」


「保護、ですか?」


「ええ。万が一、魔王のような存在にでもなれば、国が滅びますもの。これは国のため、そして何より、その子自身のためですわ」


ノア様が、さらに強く私の裾を握りしめた。


震えが止まらない。


彼には大人の言葉の裏にある悪意が、肌で感じ取れているのだ。


表向きは心配を装っているが、目的は明白だった。


強力な魔力を持つかもしれないノア様を人質として王宮に幽閉し、公爵家を牽制する。


あるいは、その魔力を利用する。


原作ゲームにおける、悪名高い『呪いの子隔離イベント』だ。


プツン、と私の中で何かが切れた。


オタクとしての推しへの愛。


そして保育士としての母性。


そのすべてが、どろどろとした怒りに変わって全身を駆け巡る。


「……侯爵夫人。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


私は扇を閉じ、笑みを保ったまま、声の温度を絶対零度まで下げた。


「三歳の子供を大勢で囲み、怯えさせることを、王宮では教育と呼ぶのですか?」


場が水を打ったように静まり返った。


侯爵夫人の顔から、余裕の笑みが消える。


「……なんですって?」


「子供は、大人たちの視線や声のトーンから、自分がどう思われているのかを正確に察知します。今、あなた方がノア様に向けているのは、心配や保護などではなく、明確な悪意と排除の意思です」


私は一歩前に踏み出し、ノア様を完全に私の背後へ隠した。


「危険なのはノア様ではありません。何の罪もない幼子を、根拠のない噂で『呪いの子』と決めつけ、恐怖で追い詰める大人たちこそが、この国にとって最も危険な存在ですわ」


「な、なんという無礼な……! 私は王妃様の名代として忠告して差し上げているのですぞ!」


侯爵夫人が顔を真っ赤にして、扇を震わせた。


「その危険な魔力持ちを公爵家から切り離すのが、王宮の決定です! 騎士団! その子を夫人から引き離しなさい!」


彼女の合図とともに、控えていた王宮騎士と魔術師たちが一斉に踏み込んできた。


「やめなさい! 触らないで!」


私が叫んで抵抗するよりも早く、魔術師の放った風の魔法が私を突き飛ばす。


そして騎士の一人が、ノア様の細い腕を乱暴に掴んだ。


「ああっ!」


「おかあさま、いや……っ!」


ノア様の悲痛な叫び声が、庭園に響き渡った。


騎士に引きずられ、私に向かって必死に小さな手を伸ばすノア様。


「国のためだ。お前のような呪われた存在は、王宮の地下で管理されるべきなのだ」


無情に言い放つ騎士の言葉に、ノア様の青い瞳が見開かれる。


そして――絶望に染まった。


瞬間。


空気が、凍りついた。


ガァン、と耳鳴りのような衝撃波が庭園を駆け抜ける。


「な、なんだ!?」


騎士がノア様から手を離し、後ずさった。


ノア様の小さな体から、どす黒い、泥のような魔力が溢れ出し始めたのだ。


それは禍々しい瘴気となって周囲に渦巻き、触れた庭園の美しい花々を、一瞬にして黒く凍りつかせていく。


パリン、と高価な茶器が魔力の圧に耐えきれず、次々と砕け散った。


空気が震え、空が暗く淀んでいく。


「ひぃっ……!」


「やはり魔王だ!」


「処分しろ! 近づくな、殺されるぞ!」


先ほどまで偉そうにしていた貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げて逃げ惑う。


騎士たちは剣を抜き、魔術師たちは攻撃魔法の詠唱を始めた。


黒い嵐の中心で、ノア様は自分の手から溢れる恐ろしい力に怯え、ポロポロと涙をこぼしていた。


「ぼく、わるいこ……?」


誰にともなく、震える声で呟く。


「ぼくがいると、おはながしんじゃう。みんな、こわいって……。おかあさまも、ぼくのこと、きらいになる……?」


――これが、魔王化の始まり。


原作で、恐怖と孤独に耐えきれなくなったノア様が、世界を拒絶し、力を暴走させる絶望のシーン。


でも、ふざけるな。


私の愛する息子を。


私の前世からの最推しを。


誰が、魔王になんてさせるものか。


私は立ち上がった。


そして、誰もが逃げ出す黒い魔力の渦の中へ、迷わず足を踏み入れる。


「っ……!」


肌がヒリヒリと痛む。


鋭い刃で切られているような痛みが、全身を襲う。


美しいシルクのドレスがビリビリと裂け、露出した腕に火傷のような赤い傷が次々と浮かび上がっていく。


それでも、私の足は止まらない。


「夫人! 正気か、死ぬぞ!」


騎士の制止など、耳に入らなかった。


私はただ、一人で泣いている小さな男の子の元へ、まっすぐに進んだ。


「来ないで……っ! おかあさま、痛いよ、来ちゃだめ!」


自分の魔力が私を傷つけているのを見て、ノア様がパニックを起こして後ずさる。


私は痛みを堪え、ノア様と同じ目線になるように膝をついた。


「ノア様」


静かに、けれどはっきりと呼びかける。


「あなたは魔王なんかじゃありません」


「でも、ぼく……」


「誰も傷つけたくないって、泣いているじゃないですか。優しい子が、魔王なわけがありません」


私は両手を広げた。


「あなたは、私の大切な息子です」


ノア様の大きな瞳から、ぽろりと涙が落ちた。


「……こわい」


「ええ。怖いですね」


「ぼく、じぶんが、こわい……!」


私は、躊躇なくその小さな体を、黒い魔力ごと抱きしめた。


「怖くてもいい。泣いてもいい。お母様が、全部抱きしめます」


ノア様の体が、ビクンと大きく跳ねる。


荒れ狂っていた黒い魔力が、私という防波堤にぶつかり、行き場をなくして収束していく。


「大丈夫。もう、誰もあなたを独りぼっちにしません。私がいます。ずっと、ずっと、一緒です」


ノア様の背中を、一定のリズムで優しくトントンと叩きながら、子守唄のように語りかける。


それは、彼が一番安心するリズムだ。


「……っ、あ……」


ノア様の喉から、嗚咽が漏れた。


私にしがみつく小さな手の力が強くなる。


「おかあさまぁっ!」


ノア様が、私の胸の中で、これまでの恐怖と寂しさをすべて吐き出すように、大きな声で泣きじゃくった。


その瞬間。


ノア様を包んでいた真っ黒な魔力が、ふっとほどけた。


それは温かく、眩い光の粒子となって庭園に降り注ぐ。


凍りついていた花々が息を吹き返し、冷え切っていた空気が春の陽気のように暖かくなった。


それは、破壊の力ではない。


世界を包み込むような、純粋で優しい魔力だった。


原作で確定していた『魔王化フラグ』が、今、完全に砕け散ったのだ。


「もう大丈夫。もう大丈夫ですよ、ノア様」


私は涙で視界を滲ませながら、光の中で泣き続ける息子の背中を撫で続けた。


* * *


「……何をしている! その女と子供を拘束しろ! 魔力暴走を引き起こした大罪人だ!」


魔力が収まったのを見て、我に返った侯爵夫人がヒステリックに叫んだ。


王宮騎士たちが、再び私たちを取り囲もうと剣を構える。


私がノア様を庇って睨みつけた、その時だった。


「私の妻と息子に、剣を向けたのは誰だ」


地獄の底から響くような、低く冷酷な声。


庭園の入り口から、漆黒の礼服に身を包んだアレクシス様が現れた。


その背後には、公爵家直属の精鋭騎士団と魔術師部隊が控えている。


青い瞳は氷のように冷たく、しかし静かな激怒に煮えたぎっていた。


「こ、公爵閣下……! ちょうどよかった、貴方の妻と息子が王宮で――」


「黙れ」


アレクシス様の一喝に、侯爵夫人は潰されたような悲鳴を上げて口を閉ざした。


彼は私の元へ歩み寄ると、裂けたドレスと腕の傷を見て、一瞬だけ痛ましそうに顔を歪めた。


そして、王宮側へ向き直る。


「すべて調べてきた」


アレクシス様は、手にした分厚い書類の束を、侯爵夫人の足元へ無造作に投げ捨てた。


「ノアを『危険な魔力持ち』として王宮の地下に隔離し、その魔力を軍事利用しようとしていた計画書だ。第一王子派の署名入りでな」


「なっ……! そ、それは……!」


「さらに」


アレクシス様は冷酷に続ける。


「私の妻の実家であるフェルゼン家が、金欲しさに王宮側へノアの悪評を流していた証拠。そして、我が家から追放したメイド長が、貴様らの指示でノアの養育費を横領し、彼を虐待していた記録だ」


私は息を呑んだ。


アレクシス様は、ただ政務を押し付けられて遅れていたわけではない。


この茶会の裏にある王宮側の陰謀を完全に暴き、証拠を揃えていた。


さらに、私の実家という憂いすらも潰してくれていたのだ。


「公爵家は、長年にわたり王家に忠誠を誓ってきた。だが」


アレクシス様は、抜身の剣を突きつけるような鋭い視線で、国王の代理人たちを射抜いた。


「この件を公にされたいなら、私は止めません。ただし、王宮が三歳の公爵嫡男を危険物として拉致し、利用しようとした事実も、同時に広まるでしょう。フェルゼン家は直ちに取り潰す。そして――」


一拍置いて、彼は静かに、しかし絶対の圧をもって告げた。


「今後、二度と私の家族に手を出そうとする者がいるならば、ローゼンタール公爵家は国を捨てる。他国に下り、この国を敵に回すことも辞さないと、国王陛下にお伝えしろ」


公爵家という国の軍事と経済の要を失うこと。


それが何を意味するのか、貴族たちに分からないはずがない。


侯爵夫人たちは顔面から血の気を失い、騎士たちもその場に膝をついて剣を置いた。


完全なる、アレクシス様の勝利だった。


周囲の脅威が排除された後。


アレクシス様は剣を納め、急いで私たちの元へ跪いた。


彼は震える手で私の肩に触れる。


そして私と、私の胸で泣き疲れて丸くなっているノア様を、まとめて強く抱きしめた。


「……無茶をするな。君まで失うかと思った」


アレクシス様の声は、先ほどの冷酷さが嘘のように震えていた。


その腕の力強さと温もりから、彼がどれほど恐怖しながら駆けつけてくれたかが伝わってくる。


「ノア様が無事なら名誉の負傷です」


私が強がって笑うと、アレクシス様は苦しげに目を伏せた。


「結婚した日、私は君に『愛することはない』と言った」


彼は、私をまっすぐ見つめた。


「……あの時の自分を、今すぐ殴りたい。私は、君の強さと優しさに救われた。君とノアを、心から愛している」


それは、氷の公爵と呼ばれた男の、初めての告白だった。


重すぎるほど真剣で、逃げ場がないほどまっすぐな、溺愛の告白。


私の胸が、トクンと鳴る。


だが、私はすぐに恋愛に溺れるような女ではない。


私は保育士であり、ノア様の母親なのだから。


「では、これから一生かけて償ってください」


私はアレクシス様の目を真っ直ぐ見つめ返した。


「ノア様を、世界一幸せな子にするために。これからは、お二人で私を忙しくさせてくださいね」


私の言葉に、アレクシス様は少し驚いたように目を見開いた。


やがて、氷が溶けるような、とびきり優しく美しい微笑みを浮かべる。


「ああ。君とノアを守るためなら、国ごと敵に回しても構わない。私の生涯は、君たちのためにある」


「……おと、さま?」


私たちの間で、ノア様が小さな目をこすりながら見上げた。


アレクシス様は、ノア様の頭を優しく撫でる。


「ああ。ノア。今まで一人にしてすまなかった。もう、絶対に離さない」


ノア様は安心したように、ふわりと笑った。


そして私とアレクシス様に挟まれたまま、再び静かな寝息を立て始める。


温かい陽だまりのような、家族三人の時間が、そこにあった。


* * *


――それから、数年後。


公爵邸の広大な庭園には、色とりどりの花が咲き乱れている。


その中央で、銀色の髪を風に揺らしながら、一人の少年が立っていた。


八歳になったノア様だ。


「ほら、おいで」


ノア様がそっと手のひらを上に向ける。


すると、彼の指先から温かな光の粒がこぼれ落ちた。


光は、ひらひらと舞う美しい蝶へと形を変える。


「わぁっ!」


「きれい!」


集まってきた使用人たちの子供たちが、歓声を上げて光の蝶を追いかけた。


かつて周囲を凍らせた黒い魔力は、今では完全に制御されている。


誰も傷つけない。


人々を笑顔にするための、優しい魔法になったのだ。


「ノアは本当に優しい子に育ったな」


テラス席からその光景を見守りながら、アレクシス様が私の肩を抱き寄せて言った。


相変わらず。


いや、年々、妻である私への溺愛が重くなっている夫の腕の中で、私は幸せを噛み締める。


「ええ。私たちの自慢の息子ですもの」


ふと、庭園からこちらを見たノア様が、花のような笑顔を弾けさせて駆け寄ってきた。


「おかあさま、おとうさま!」


テラスに飛び込んできたノア様を、私は大きく手を広げて受け止める。


すっかり大きくなった。


けれど私にとっては、いつまでも可愛い推しであり、愛しい息子だ。


ノア様は私の首に腕を回し、弾むような声で言った。


「おかあさま、ぼく、しあわせだよ」


その言葉に、私は堪えきれず、泣き笑いの表情になった。


「私も、とっても幸せですよ、ノア様」


悪役継母だったはずの私は、魔王に殺される未来を迎えなかった。


死亡フラグの代わりに私が手に入れたのは、世界で一番可愛い息子と、少し愛情が重すぎる夫。


そして――世界で一番、温かくて幸せな家族だった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


「ノアの子育て改革をもっと見たい」

「冷血公爵が妻子限定で重くなっていくところを見たい」

「家族三人の日常や、王宮ざまぁの後日談も読みたい」


そう思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。


連載版はじめました~

下部にリンクもあります。

https://ncode.syosetu.com/n2065mj/

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