第194話 大学初日
アメリアの大学通いが決まってから数日が経った。
その数日の間、アメリアの胸の中では、同じ問いが何度も巡っていた。
本当に大学へ行くのか、やっていけるのか。
途中で、投げ出したくなったらどうするのか。
覚悟を決めて、答えは出ているはずなのに、日か近づいてくると問いだけが残る。
それでも、時間は何事もない顔で流れる。
当日の屋敷も、いつもと変わらない朝を迎えていた。
廊下を渡る風の音も、窓辺に差す光のゆらめきも昨日までと同じ。
アメリアの胸の内だけが落ち着かなかった。
鏡の前に立つアメリアの背後で、シルフィが静かに身支度を進めている。
布を引き、襟元を整え、正確に手を動かしていた。
「……変、じゃないかしら」
ある程度服装が仕上がってから確認するように問うと、シルフィは鏡越しに一度だけアメリアを見た。
「問題ございません」
即答だった。
「大学へ通われる装いとしては、むしろ適切です」
その言い切りに、少しだけ肩の力が抜ける。
アメリアは、もう一度自分の姿を見つめた。
何度目か分からない確認。
襟元に歪みはなく、布の重なりも整っている。
それでもどこか落ち着かず、視線が離れない。
「なんだか……自分じゃないみたい」
ぽつりと零した言葉に、シルフィの手が一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに何事もなかったように続きを整える。
「服の方向性が変われば、そう感じるのも自然かと」
今日選んだのは、社交用のドレスではない。
華やかさよりも落ち着きを優先した、濃紺のワンピース。
装飾は抑えめで、光を集める刺繍もない。
袖は動かしやすく、裾は歩幅を邪魔しない長さ。
視線を集めるための服ではなく、長い時間、机に向かうための服。
「頑張らないと……」
よし、と小さく息を入れて、アメリアは鏡の前で拳を握った。
その仕草を見て、シルフィの口元がほんのわずかに緩む。
服が違えば、立つ場所も変わる。
立つ場所が変われば、求められるものも変わる。
最後に、アメリアは左手へ視線を落とした。
ワインレッドの石を抱いた婚約指輪は、今日も変わらずそこにある。
大学へ行くからといって、外す理由はない。
むしろ、外したくなかった。
(この指輪があれば……そばにずっと、ローガン様がついてくれている気がするから……)
指でそっと触れると、ひんやりとした感触とともに確かな重みが伝わってくる。
その小さな存在感が、指先から胸の奥へと静かに落ちていった。
「よろしいかと思います」
背後からシルフィの声がかかる。
整え終えたことを告げる、いつもの調子だ。
「今日から、ですね」
事務的になりすぎず感情を乗せすぎない。
送り出す側としてちょうどいい距離感からくる言葉。
「そうね……」
アメリアは頷き、鏡から視線を外した。
「うぅ……緊張するわ……」
頷いたものの指先は落ち着かず、無意識に裾をつまんでしまう。
そんなアメリアにシルフィは一言、「大丈夫です、なるようにしかなりませんよ」と彼女らしい言葉を贈った。
身支度を終えて部屋を出る。
廊下を進むと、使用人たちが声をかけてきてくれる。
「いってらっしゃいませ」
「お気をつけて」
大げさな激励も、感傷的な言葉もない。
それが、かえってありがたい。
いつも通りに扱われることで、逆に緊張せずにいられる気がした。
玄関を抜けると、馬車がすでに待っていた。
革張りの扉、整えられた手綱。
そしてその傍らに、ローガンが立っていた。
「ローガン様!」
ぱあっとアメリアは顔を明るくした。
多少なりとも不安の雲が立ち込めていた心に、一筋の光が差す。
ローガンの服装も表情もいつも同じ。
視線はまっすぐにアメリアを捉えていた。
「大学まで送る」
まるで最初から決まっていたかのようにローガンは言う。
「ありがとうございます」
弾んだ声で答える。
少しの時間でも、ローガンと一緒にいられるのが嬉しかった。
馬車のそばまで来ると、ローガンが先に扉の取っ手に手をかけた。
金具の音が小さく鳴ると同時に、扉が開かれる。
ローガンは何も言わず、馬車へと乗り込んだ。
暗褐色の外套が揺れ腰を下ろすのかと思いきや、その手が外へ伸びる。
細い階段を一段上がったアメリアの前に、その掌が差し出されていた。
「ありがとうございます」 迷いのない手に触れた途端、心臓がきゅっと鳴った。
広くて、包まれるような手。
今まで何度も触れてきたはずなのに、いつまでも新しい感覚が胸の奥を撫でていく。
(こうして手に触れられるのも、今日からは少なくなるのかも……)
大学にいる時間が増えるのなら、それは当然のことだ。
そう思うと指先に伝わる体温が、やけに名残惜しく感じられる。
アメリアは、ローガンに導かれるまま馬車へと乗り込んだ。
柔らかなクッションが背を迎え、扉が閉まると外の世界と緩やかに切り離された。
馬車の中は、静かだった。
ふと、アメリアは窓の方を見た。
小窓越しに見る景色は、いつもと変わらない屋敷の風景。
けれどその風景は、ほんの少しだけ遠く見えた。
窓を通して、朝の光が揺れている。
これから新しい場所へ行くのだと嫌でも実感した。
その代わり、昨夜ローガンと交わした約束が思い起こされる。
言葉にせずとも通じていると、信じられる絆。
(毎晩、ちゃんと帰ってきますから)
心の中で、そっと繰り返す。
帰る場所がある。
待ってくれている人がいる。
それだけで、充分だった。
大きく深く息を吸うと、馬車はゆっくりと動き出した
◇◇◇
馬車が一定のリズムで進んでいく。
速すぎず遅すぎず、御者が意図的に刻んでいるような揺れだった。
その規則正しさが、かえって現実を強く意識させる。
逃げ場のない前進、戻らない時間。
窓の外では屋敷の塀はもう見えず、見慣れた街路が流れていく。
角のパン屋、馬具屋の軒先、石畳の色合い。
いつもなら何気なく眺めていたはずの景色が、今日は一つひとつ胸に引っかかった。
石畳を踏む振動が、膝から背中へと伝わる。
身体の奥まで届く振動は眠気を誘うものではなく、意識を研ぎ澄ませるものだった。
「緊張するか?」
ローガンが声をかけてくれる。
胸の内の見透かされているような気がして、少し気恥ずかしい。
「はい、少しは……いえ、正直に言うと、かなり緊張しています」
言い切ってから、アメリアは小さく息を吐いた。
誤魔化さずに口に出したことで、胸の内に溜まっていたものが、ほんのわずかだけ形を変えた気がした。
ローガンは、その言葉を否定しなかった。
視線を前に向けたまま、短く頷く。
「それでいい」
即答だったが、突き放すような響きはない。
「初めて踏み込む場所だ。緊張しない方が、不自然だろう」
気合や根性で塗り潰すものではなく、当然なものとして受け止める言葉。
ローガンは馬車の揺れに合わせるように、少し間を置いてから続ける。
「だが、アメリアはこれまでやるべきことを、きちんと積み重ねてきた」
低く落ち着いた声が、胸の奥にまっすぐ届く。
「考えて、試して、失敗して、それでも一心にやり続けてきた。誰かに言われたからではない。自分で選んで、だ」
アメリアをまっすぐ見つめて、ローガンは言う。
「努力も、根気もある。結果も出している。だから、大丈夫だ」
ローガンの言葉が胸の奥にすとんと落ちる。
アメリアは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
呼吸が落ち着くにつれて、胸の内にあったざわめきが少しずつ収まってくる。
(これは、自分で決めたこと……)
誰かに無理やり背中を押されたわけでもない。
迷った時には立ち止まることもできたし、やめようと思えば止めてくれる人もいた。
それでも、アメリアは進む方を選んだ。
守られてきた場所から一歩外へ出る感覚は、思っていた以上に怖かった。
大学は完全な評価社会だ。
成果が全てと言っても過言ではない。
誤魔化しは効かない。
だからこその怖さがあるが、そうだとしても行きたいと自分の意思で決めたのだ。
そしてそれは、アメリアが自身の薬草や調薬技術に大きな自信を持っていることを裏付けていた。
実家では自信を持つことすら許されなかったアメリア。
しかしへルンベルクの屋敷に来てから自分の手で何人も救い、誉められ、認められ、ついには大きな自信を持つに至ったのだった。
ふと、隣で布が擦れる小さな音がした。
視線を向けると、ローガンの手に小さな押し花があった。
深い藍色に、わずかに赤を含んだ花弁。
「これを」
短く言って、差し出される。
アメリアはそっと、押し花を受け取った。
「ありがとうございます」
アメリアの脳裏に、瞬時にその花の名前が浮かぶ。
「エールカですね」
「ああ」
ローガンが頷き、そのまま言葉を口にする。
「花言葉は……激励」
アメリアはハッとしてローガンを見た。
ローガンは小さく笑っていた。
それだけで、ローガンがどういう意図でこの押し花を渡してくれたのかわかる。
アメリアの頬にほんのりと熱が灯った。
(ずるいなあ、こういうの……)
派手な激励ではなく、さりげないエール。
この程よい感じが、アメリアには心地よい。
「ありがとうございます……頑張ります」
アメリアは押し花をそっと大事そうに胸元に抱えた。
その横顔を、ローガンは何も言わず静かに見守っていた。
【新作発売のお知らせ】
いつも醜穢令嬢をお読みいただきありがとうございます!
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作画担当はなななんと!!
累計800万部突破の人気作『異世界居酒屋のぶ』のヴァージニア二等兵先生です!
表紙をどどん!!
はい、素晴らしいですね!
とんでもないパワーを放つ表紙になったのではないかと思います。
あらすじ
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貴族の名門モントレー家の一人娘アニエスは、名家との婚約を破棄されたことで、「流刑地」と揶揄されるハンブルグ辺境伯領に嫁がされることに……だが実は、この婚約破棄はアニエスの計画通りのものだった。
彼女の正体は、大阪の町工場の娘としての前世の記憶を持つ、異世界からの転生者。「世界一の大商人になる」という彼女の夢は、追放をきっかけに大きく動き出す。名家のしがらみから外れ、前世からの経営・マーケティングの知識であらゆる問題を解決!
悪役令嬢×商売知識チート! 追放令嬢の痛快成り上がりストーリー開幕!
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……というわけで、新作は主人公アニエスちゃんが商売知識チートを駆使して異世界で大暴れする爽快な成り上がりストーリーとなっております!
(実を言うと青季ふゆ、大学では経営やマーケティングを学んでおりまして、こういう商人系のお話は得意だったり……)
そして今作の主人公の特徴としましては、とにかく強い!
強い! 強すぎる!!
どれくらい強いのかと言うと……。
……ちょっと強くしすぎたかもしんない。
つよつよ女主人公の作品が読みたい!
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