第193話 離れる事になっても
廊下の灯りが妙に遠く、天井の装飾がゆっくりと流れていく。
さっきまでの喧騒はいつの間にか霧散し、代わりに自分のものではない足音が耳に響いた。
アメリアはローガンに抱き抱えられていた。
ローガンの腕は大きくて包まれるような安心感があった。
たったそれだけで、胸の奥の慌てた部分が少しずつ静まっていく。
「気分はどうだ?」
低い声がすぐ近くで響く。
「なんだか、ぽわぽわします……」
「喋れるなら、大事ではなさそうだな。目を閉じて、深く息を吸うといい」
「あい……」
叱る調子でも責める気配もない指示に、アメリアは素直に瞼を落とした。
深く息を吸い込み、吐き出して思考が冷静になってくると、
(また……やってしまった……)
言葉にするのも恥ずかしい。
せっかく皆が祝ってくれていたのに、シャンパンをぐい呑みして酔っ払うなんてと、照れと情けなさが絡まる。
瞼を持ち上げる。
ローガンの表情に変わりはない。
一定の歩幅で淡々と進み、呼吸のリズムも乱れない。
その揺るがなさが、アメリアの中の羞恥を少しだけ薄くしていった。
扉が開く音と共に空気が変わる。
廊下に漂う少し埃っぽい匂いが遠のき、寝室の静かな気配に入れ替わる。
「ついたぞ」
白いベッドが視界に入った次の瞬間、身体がふわりと沈む。
布の柔らかさが、背中を受け止めた。
寝かされ、毛布がかけられる。
手早いのに、乱暴さはない。
「ごめんなさい」と言おうとした。
けれど、唇がうまく動かない。
その途端、額にひんやりとした感触。
ローガンの手だと、すぐに分かった。
その一瞬の温度が、胸の奥に落ちてきて。
アメリアはそれ以上抗えず、静かに意識を手放した。
◇◇◇
それからどのくらい眠っていたのだろう。
目を開けた時、天井がそこにあった。
揺れていないし、光も暴れない。
口の中からほんのりとした甘さを思い出して、思わずシャンパンの風味を思い出してしまった。
泡の香りと果実の酸味が呼び起こされて、喉の奥がじんわり熱い。
(う……)
頭がぼんやり重い。
アメリアは布団の端を掴んで身体を起こした。
ゆっくり視線を動かす。
ベッドの脇に椅子があって、そこにローガンが腰掛けていた。
「目覚めたか」
短い声。それだけで、胸がきゅっとなる。
記憶が、遅れて追いかけてくる。
乾杯、料理、お祝いの言葉。
気恥ずかしさから咄嗟に掴んだグラス、シャンパン。
――そして、すぐ酔いが回ってぶっ倒れた感覚。
頬が一気に熱くなって、勢いよくアメリアは布団を口元までかぶり直した。
「うぅぅ……ごめんなさい! また私、お酒で失態を……」
声が自分でも驚くほど小さい。
恥ずかしさで喉が塞がって、言葉が続かなかった。
「気にするな」
対してローガンはいつもの調子だった。
「少し酔いが回っただけだ」
眉をひそめもせず、ため息もつかず、ただ安心させるように言う。
そのお陰で、アメリアの胸の奥の硬い塊が少しだけ崩れた。
「だが、次は何か飲むときは、中身が何か確認をしないといけないな」
「うぅ……仰る通りです……」
萎れるアメリアを見て、ローガンはくすりと小さく笑う。
「…………」
「…………」
なんとも言えない沈黙が横たわった。
ローガンは何か言いたげな、でも口にするほどでもないといった、煮え切らない様子だった。
ローガンの目が遠くを見ている。
それは疲れでも怒りでもなく、言葉にしずらい何かを押し込めるような陰りだった。
この空気を、アメリアはつい最近
──アメリアと過ごす時間が減るのは……正直、寂しい。
アメリアは、息を止めた。
(……寂しい、って……)
昨日、ローガンがぽつりと落とした一言が、胸の奥で静かに反響する。
ローガンは、相変わらず平然としていた。
姿勢も、表情も、声の調子も変わらない。
だからこそ、その奥に沈んでいるものが、余計にはっきりと見えてしまう。
アメリアは、ただ恥じて終わるのをやめた。
布団の中で身体を少し起こし、視線を上げる。
「ローガン様……」
名前を呼ぶと、ローガンの目がこちらを向いた。
どこかに、言葉にしきれない心細さが残っている。
アメリアが続きを言葉しようとする前に、ローガンが口を開いた。
「大学は……」
言いかけてほんの一瞬、間が落ちる。
「……慣れるまで、無理はするな。環境が変われば、身体も崩しやすい」
正しい言葉だった。
けれどアメリアは、その言葉の奥にある感情を見過ごせなかった。
布団の端を、そっと放す。
代わりに、ローガンの手に自分の手を重ねる。
震える指先を、優しく包み込むように。
「……はい、ありがとうございます」
声は少し掠れていた。
それでも、言葉は迷わず前に出た。
一呼吸置いてから、アメリアは口を開く。
「毎晩、ちゃんと帰ってきます」
ローガンの時間の中に自分がいることを、言葉として残しておきたかった。
ローガンの瞳が、わずかに動く。
それを見て、アメリアは続けた。
「夕食も、なるべく一緒に食べましょう」
ローガンの様子を窺いながら、声の調子を落ち着かせて言う。
不安を煽らないように。
大丈夫だと、伝えるために。
これまで何度も、ローガンがそうしてくれたように。
「遅くなってしまう日も、あるかもしれません。でも、必ず帰ってきます」
アメリア自身、ローガンを安心させる言葉を紡ぐ。
「それから……お休みの日には、一緒にお出かけましょう」
言っていて、胸の奥がじんと熱くなった。
それは約束というより、習慣にしたい願いだった。
忙しさの中でも、必ず戻ってくる場所があると思い出すための。
離れるための言葉ではない。
繋ぎ止めるための言葉だった。
「それから、毎晩一緒に眠りましょう」
最後に、そっと結ぶように言った。
「ここが、私の帰る場所ですから」
言い終えた瞬間、ローガンの肩の線がほんのわずかに緩む。
そして愛おしそうに、目を細めて。
「ああ」
とだけ言って、頷いた。
それだけでアメリアの胸の奥が、静かにほどけていった。
ローガンは何か言いかけて、言葉を飲み込む。
そして、椅子から身を乗り出した。
距離が縮まるだけで、アメリアの心臓が一つ鳴る。
ローガンは、すぐには触れなかった。
手を伸ばす前に、間があった。
アメリアは小さく頷き、布団の中から手を伸ばした。
ローガンの指先に触れる。
大きくて、温かい。
ローガンの影がアメリアをそっと覆う。
唇が触れる。
熱を押しつけるようなものではない。
確かめるみたいな、静かな口づけだった。
ドキドキと高鳴っていた胸が、深く息を吸うみたいに落ち着いていく。
何秒かの口づけのあと、ローガンは耳元で囁くような距離のまま言った。
「少し離れることになっても」
低い声が頭の芯に響く。
「俺とアメリアは……心で繋がっている」
アメリアの喉が、きゅっと鳴った。
返事をしようとすると、涙が先に来そうだった。
だから、言葉は使わない。
ただ頷いて、ローガンの頬にそっと指を触れた。
ローガンは確かに、そこにいる。
「はい」
それだけで、十分だった。
ローガンの目が、ほんの少し柔らぐ。
その変化を見て、アメリアは胸の奥で静かに息を吐いた。
明日は朝9時に予定です。




