迎え火①
時系列は、『【番外編】英雄カルヴァン・タイターの日常~今日も俺の嫁が最高に可愛い~』の12話の数日後になります。※エピソードは④まで続きます。
それは、イリッツァと婚約した年の夏――彼女を騎士団の新兵練度向上のための臨時講師に呼んだ数日後。
かつて『奇跡の部屋』と呼ばれたこともある部屋に、イリッツァはカルヴァンと共に訪れていた。
「うわ、懐かし。これ、よく使ってたなぁ」
イリッツァは、かつて剣の手入れ用に購入した覚えのある道具を手に取り、懐かしさに目を細める。しっかりと使い込まれた跡の残る用具の中には、既に製造が終了してしまって二度と購入できない物もある。
手に馴染んだ道具や、思い入れのある物もあるだろうと、カルヴァンが気を利かせて、私物整理の時間を作ってくれたのだ。
「本当に持って帰っていいのか?」
「いいも何も、元々お前のものだろう」
この部屋にあるのは、全て、剣士リツィード・ガエルの私物だ。聖人リツィードの私物は今頃王立博物館に展示されていて取り戻しようがないが、ここにあるものは誰に咎められることもない。
カルヴァンが、リツィードの私物を取っておいたのは、完全なる私情によるものだ。本人に返却する日が来るなど、当然予想もしていなかったが、十五年も後生大事に取っておいてよかったと思う。
「っていうか、シーツとか、十五年使ってなかった割に埃っぽくないよな。まさかお前、わざわざ定期的に洗ってくれてたのか?」
「……まぁ。俺自身が洗濯するわけじゃないからな。何枚出しても、一緒だろう」
左耳を掻きながら言うカルヴァンに、「そんなもんか」とイリッツァは納得する。軍属の人間の衣食住は国が賄う。洗濯物は、決まった時間までに部屋の前に出しておけば、業者が回収して夕方には畳んで返してくれる。シーツのような大物も、出してしまえば手間は同じだ。
こう見えて、カルヴァンは家事能力に長けている。部屋の清掃もまめに行う男だ。使う者がいないとはいえ、同室に埃っぽい箇所があるのは嫌だったのかもしれない――と、イリッツァは深く考えなかった。
かつての私物を手に取り懐かしさにはしゃぐイリッツァを、カルヴァンは自分のベッドに腰掛けて眺め、胸中で独り言ちる。
(なんだか、変な感じだな。この部屋に、女がいるのを見るのは)
女性関係に奔放だった昔も、流石にこの部屋に女を連れ込んだことはない。敬虔な信徒だったリツィードに気を遣った――というよりは、単純に、自分と親友以外の存在をこの部屋に入れたくなかったからだ。
ここは、無二の親友と日常を過ごす場所だった。この部屋の中でだけ、親友は、『聖女の息子』でも『英雄の息子』でもなく、ただの『リツィード』になることができた。
いつだって、息をするように孤独と不幸の道を歩みだそうとする親友だった。彼が、何も気にせず、人間らしく日常を送れるこの部屋を、誰にも邪魔されたくなかっただけだ。
リツィードの死後は、カルヴァン自身が誰も寄せ付けない雰囲気を纏っていたこともあり、この部屋の扉を叩く者すらほとんどいなくなった。
誰も、本当のリツィードのことなど口にしなくなった。『聖人リツィード』の偉業が語り継がれ、彼が被った公の仮面だけが真実になっていく吐き気がする世界。そんな世の中で、この部屋だけが、カルヴァンが親友との日常を思い出せる唯一の聖域だった。
人間の記憶などいい加減なものだ。年月を経るたび、簡単に移ろい、消え去っていく。
無二の親友のことを、何一つ忘れたくなどないのに――時が経つほどに、一つ、また一つと、思い出が薄れていく。
だが、もう、そんなことを恐れる必要はない。
思い出せないリツィードとの記憶が増えようと、これからは、イリッツァと新しい思い出を作っていける。
「机の周りはホント何もないな……」
「宗教色の多い物ばかりだったからな。有難がって根こそぎ持ってかれてたぞ」
「それにしたって、聖印掛けまで持ってくのはやりすぎだろ。別に、珍しくもなんともない量産品の安物だったと思うんだけど」
当時、稀代の聖人の愛用品として有名になった製造元には注文が殺到して、今や国内需要の大半を賄っている。そうして儲けた金を、聖人の恵みだと言ってほとんど寄付に回しているというから、清貧を愛する国民性も相まって、なお支持されているのだという。――まさか、そんな騒ぎになるとは思っていなかった当人としては、居心地が悪いようだが。
「あとは特に――ん?」
イリッツァは、最後の記憶と比べるとやけにすっきりした机周りを見渡して、ふと一点で視線を止めた。
「どうした?」
「いや、お前の机に――ナニコレ。置物?」
隣に据えられたカルヴァンの机に、見覚えのない物を見つけて、無意識に手に取る。
カルヴァンは、本来、物に頓着しない性格だ。実利を求めて、無意味なものに投資したりしない。インテリアに拘るような男には思えなかった。
(……馬?)
それは、金属製の馬のように見えた。手に取ると、見た目に反して酷く軽い。中が空洞で、何かを入れるためなのか、馬の背中にはぽっかりと穴が開いていた。
「ん……? もしかして、これ、香炉か?」
すん、と鼻を鳴らすと、背の穴から微かに香った匂いに覚えがあり、イリッツァは怪訝に眉を顰める。
「あぁ……」
まるで、今の今までその存在を忘れていたかのような声音が返ってくる。
カルヴァンが何かを口にするよりも先に、イリッツァは香炉の残り香が酷く馴染みのある物であることに気付いた。
「しかもこれ、乳香――? え、何、明日、雪でも降るのか?」
「この真夏に降るわけないだろ。失礼な奴だな」
「いや、だって――えぇ……?」
怪訝な顔を隠しもしないで、イリッツァは親友兼婚約者を振り返る。カルヴァンは、小さく嘆息して左耳を掻いた。
乳香は、エルム教には親しみのある香りだ。どこの教会でも常に焚かれているせいで、教会と言えばこの香り、と言っても過言ではない。
つまり――カルヴァンにとっては、世界で一番嫌いな匂いのはず、なのだ。
「ちょうど一年前くらいか。討伐遠征の時に、西の少数民族からもらったんだ」
「西の――あぁ。あの、派手な民族」
イリッツァは昔覚えた知識の中から該当するものを引っ張り出して呟く。
昔から、王国の西方で暮らす少数民族たちがいる。領土を持たず、音楽と踊りで生計を立てる流浪の民だ。
旧帝国時代は、首都にも現れることがあったというが、王国建国後は、西のごく一部で稀に姿を見せるだけになった。イリッツァも、知識の中でしか彼らを知らない。
彼らが追いやられた理由は単純だった。
「なんだっけ? 精霊信仰――だったか。呪符とか護符とか聞いたことある」
「相変わらず、エルム教は排他的だな」
カルヴァンの呆れたような声音に、イリッツァはむっと口を噤む。
エルム教は、異教徒を認めない苛烈な側面がある一神教だ。エルムを信じない少数民族が棲み処を追いやられていったのも頷ける。
「遠征の帰り道、魔物に襲われてたところに、たまたま出くわしてな。間一髪で助けたら、何でも好きなものを持って行けと言われたんだ」
「へぇ」
「仕事で助けただけだと断っても、しつこく食い下がられた。妙な札なんかもあったが、胡散臭い呪いを信じる質じゃない。趣味じゃないのはわかっちゃいるが、根負けして、一番使えそうなものを一つ選んだだけだ」
「ふぅん」
王国内にいる限り、異教の考えに触れることはほとんどない。まして、イリッツァは聖女だ。周囲の者は、徹底的に異教の気配を排除するだろう。
だから、物珍しいのか、馬の形をした香炉を上下左右からしげしげと眺める。
その横顔を、カルヴァンはベッドに腰掛けたまま見つめていた。
(そうか――もう、あれから一年も経ったのか)
胸の内で呟いて、カルヴァンは一年前に想いを馳せた。




