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 今日は定時17時に退勤でき、外に出た洋輔は背伸びをした。


(定時上がり…なんて素晴らしいのだろう!)


 足取りも軽く、徒歩20分の自宅までの道のりも苦ではない。そう思い踏み出したら、駐車場の方から言い争う声が聞こえた。


「アカネ! もっと自分を大事にしてくれよ!」


 聞き覚えのある声、というか毎日聞いている声だが荒げているのは聞いたことがない声だった。


(課長…の声? それに「アカネ」って…)


 洋輔は一歩一歩、忍んで声の方に近づいた。


「お前はこっち側の人間じゃない。関わるな…」


 あまりにも冷たくて悲しい声だった。その声は、朝に子供をあやしてた、弟をからかってた愉快な声と同じなのに違っていた。

 少しだけ煙草の匂いがする。甘くない、苦いだけの。


(灰島さん…)


「大事にしろよ、奥さんと子ども」

「話を逸らすなアカネ。洸哉くんだって特待生で、学費の心配はないんだろ? もう充分頑張ったじゃないか…」

「長興」


 崇文は制止される。アカネは煙草を地面に投げて灰を踏みつぶしながら煙を吐いた。


「お前、今度警視になるんだろ? 綺麗ごとじゃ食っていけねぇの、分かってるよな?」

「………アカネ…っ!」


 アカネは崇文にパトカーのボンネットに押し倒されて、激しくキスをされる。

唾液の混じるリップ音は洋輔の耳にも届いてしまい、洋輔は口を押えて声を殺す。


(先輩が言ってたこと本当じゃん! てかこれ不倫じゃないか⁉)


 洋輔はアカネが押し倒されてるところから一台挟んだ場所に駐車されてる覆面パトカーの影に隠れてしゃがんだ。するとガンッと激しい音がし、次にズサァと地面を擦る音がした。洋輔がちらりと覗くと崇文が転んでいて、その上からアカネが馬乗りして胸倉を掴んでいた。



「いいか、もう戻れねぇんだ。俺は、俺らはその覚悟で生きてんだ。分かったらこっちに二度と関わるな」



 アカネの怒りに満ちた言葉に空気はビリビリとし、洋輔は震えてしまう。向けられた崇文は立ち上がって早歩きでその場を去った。

崇文の背中をみながら呼吸をも殺しながら洋輔は考えてしまった。


(覚悟…か……あの噂も本当なら…灰島さんかなり危険な…)


「おい、見えてる」

「うぶっ⁉」


 洋輔は横からつま先で蹴られてバランスを崩し転んだ。するとアカネが馬乗りし、洋輔の後頭部を掴むと、洋輔の口は煙草の味がする。


(ぬえ…えええええええええ⁉ 俺何これ、灰島さんに、え、これ、キスされてる⁉ え、何で何で何で⁉ 誰か説明してくれ! って舌が入ってきてる⁉ ちょ、俺の…俺のぉ…)


「俺のファーストキスがぁ!」


 解放された瞬間、洋輔は涙目で叫んだ。


「え、マジかよ」


 アカネは「悪い」と言う前にドン引きして顔を顰めた。洋輔は唇の皮が剥がれる勢いで擦る。


「酷いですよ灰島さん! 俺、キスも全部運命の番に捧げようって決めてたのに!」

「えー…こんなムサ男が純情守るとか引くわー」

「馬乗りしてキスした人が何言ってんですか!」

「でもお前の尊敬する課長と間接チューだぜ」

「別に要りません! そして課長にはたった今幻滅しました! 妻子がいる身でありながら灰島さんにあんな破廉恥なことを…!」

「キスで破廉恥って小学生かよ」


 アカネはやっと洋輔から退いて、尻もちをついてる洋輔に手を差し伸べる。洋輔は納得しない顔のままその手を取って立ち上がった。初めて触ったアカネの手はゴツゴツと硬いマメだらけで綺麗とは言えなかった。


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