第12話 笑い声を背に研鑽を続ける
重さと安定。その二つが、左腕の奥で疼いた。
子供たちの笑い声がする。彼は背を向けた。
試合会場はもう眼中にない。目が周囲を探る。
土間の隅を見る。農具の陰に、こぶし大の石が転がっている。
物置き台を見る。古い麻紐が切れ端となって絡みついている。
左手が石を拾い上げる。冷たい重さが掌に沈む。
右手が麻紐を引き抜く。しっかりとした太さだ。
軒下の梁を見上げる。節の少ない部分を目測する。
石を紐で巻く。固く結ぶ。
紐の端を梁にかける。ゆっくりと石を吊り下げる。
石が静止する。胸の高さだ。
風もないのに微かに揺れる。重みで紐が張る。
大石は吊るされた石を見つめた。これでよかった。
「…」
試合会場のざわめきは、もう耳の奥を這わない。
◆
大石の左手が吊るされた石に触れる。
指先が冷たい表面を探る。動かぬ重みが紐を真っ直ぐに伸ばす。
左腕が僅かに後ろへ引く。石がゆっくりと揺れ始める。
揺れが止まる瞬間、左拳が突き出す。石の中心を押す。
重みが腕の芯に反撃する。張った紐が軋む。
突きは深く入らない。石は揺れながら元の位置へ戻る。
彼は息を吐く。もう一度、左手を引く。
視線は石の一点に釘付けだ。指の関節が白くなる。
二度目の突き。重みが肩へ跳ね返る。
石は同じ軌道で揺れる。進歩はない。
「…」
大石は額の汗を拭わなかった。
彼は左足を一歩前に踏み込む。腰を低く沈める。
三度目の突き。拳の骨が石に喰い込む感触。
紐がぴんと鳴る。石の動きが一瞬止まる。
その瞬間、左腕の奥で何かが弾けた。
次は違う。彼は確信した。
四度目の突きが、静かな土間に響く。 吊るした石の重さが、まだ左腕に残っていた。
大石は川岸に立つ。足元の小石が軋む。川面が揺らめき、夕陽を散らす。
左手を伸ばす。指先が空気を切る。
川の水は、石とは違う抵抗を見せるだろう。
左足を岸の縁に踏み出す。土が崩れる。
冷気が足裏から這い上がる。
左手の平を下に向ける。水面まで一尺。
水が流れる音が、鼓動と重なる。
腕を下ろす。指先が水に触れる。
冷たさが一瞬で掌を貫く。
流れが指を押す。石の重みとは別の力だ。
大石は左腕を沈める。水が肘まで覆う。
抵抗が増す。腕を横に動かす。
水がまとわりつく。引っ張られる。
左拳を握る。水中で突く。
水は逃げず、逆らう。突きは鈍る。
息を吸う。川面に白い吐息が広がる。
もう一度、左腕を引く。水が付いてくる。
突き出す。拳の周りに渦ができる。
抵抗が骨に伝わる。重く、柔らかい。
大石は目を見開く。水の流れを見つめる。
左腕をゆっくり動かす。水の抵抗を測る。
遅い動き。速い動き。角度を変える。
水の答えが、腕に次々と返る。
「…これか」
声にならない言葉が、喉の奥で転がる。
左腕を抜く。水が滴り落ちる。
腕が軽い。感覚が研ぎ澄まされる。
川面を見下ろす。揺らめく自分の影が歪む。
彼は左拳を再び握った。水の中へ。 吊るした石の重さが、まだ左腕に残っていた。
川の冷たさが記憶を呼び覚ます。大石は土間に立つ。左手を開く。指先が空気を切る。
物置き台に目をやる。石と紐が並んでいる。
川へ向かう足は動かない。
胸の奥で脈打つ音が変わる。鼓動が早鐘を打つ。
石を吊るす。水ではない。
左手が拳大の石を掴む。冷たい重み。
右手が古びた麻紐を引き寄せる。ほつれた繊維が指に引っ掛かる。
「…」
息を深く吸う。吐く。
心臓の位置が高くなる。胸骨の裏側で振動する。
軒下の太い梁を見上げる。松の木だ。
紐を石に巻きつける。固く結ぶ。一回、二回。
紐の端を梁にかける。ゆっくりと石を持ち上げる。
重さが腕を引っ張る。肩の筋肉が張る。
石が静止する。胸の高さだ。
風もないのに微かに揺れる。
大石は吊るされた石を見つめた。
これが己の川だ。
左足を踏み出す。腰を沈める。
吊るされた石と向き合う。
左手を引く。拳を固める。
胸の内側で脈が響く。速い。
突きはまだ出さない。
石の重さが、水の抵抗に変わった。
◆
進の足は陶芸工房へ向かわなかった。道の中央で止まる。
少年たちの声が耳の奥に残る。石、吊るす、修行。
右腕が自然に動く。手に持った蓑を物置き台に置く。
目が土間の端を探る。こぶし大の石が転がっている。
「…」
掌で石を包む。冷たい重みが手首を沈める。
物置き台の隅を見やる。古びた麻紐が束になっている。
左手が紐を引き寄せる。ほこりが舞う。
肩の筋肉が締まる。左腕の感覚が呼び覚める。
軒下の梁を見上げる。松材が黒く光る。
進は石を握ったまま、一歩を踏み出した。
工房の屋根が見えていたが、背を向ける。
足元の砂利が軋む。方向が変わった。 麻紐が梁に結ばれた。石が胸の高さで静止する。
大石は吊るされた石と対峙した。左腕を引く。
呼吸が止まる。心臓が肋骨を打つ。
左腕の筋が鉄の棒のように張る。
「…」
拳が突き出す。石を穿つ。
硬い衝撃が肘まで響く。骨が軋む音。
石が揺れる。弧を描く。
戻ってくる重みが腕を押し戻す。
大石は蹴り込む。腰で耐える。
二本目の突きが空気を裂く。陶芸工房の窯が赤く輝く。粘土を打つ音がする。
大石の足は止まった。軒下に吊るされた石が揺れている。少年たちは工房の前を通り過ぎた。
「あの化け物、また石吊ってる」
胸の内側で脈が響く。速い。
左手が拳を固める。石を見つめる。
陶芸家が轆轤を回す。掌で粘土を押し上げる。形が変わる。
大石は左腕を引く。腰を沈める。吊るされた石が揺れる。
陶芸家の指が器の縁をなぞる。均一な厚みが生まれる。
大石の突きが石を穿つ。硬い衝撃が肘に走る。
器が形を成す。独創的な曲線だ。
石が弧を描く。戻る重みが腕を押す。
「…」
息を吐く。白い霧が散る。
陶芸家は釉薬をかける。色が変わる。
大石は二本目の突きを放つ。肩甲骨が軋む。
石の動きが変わる。揺れが小さくなる。
工房から完成した器が運び出される。光を浴びて輝く。
大石は左腕を見る。筋が波打っている。
陶芸家は独自の成形法で器を生んだ。
大石は石への突きで左腕を育てた。
風が吹く。吊るされた石が微かに回る。
進は踵を返した。工房には入らない。
足取りが軽い。左腕だけが熱を持っている。
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