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第1話:聖域の残飯

 聖都エリュシオンの夜明けは、常に重苦しい鐘の音と、微かなオゾンの臭いと共に訪れる。


 石造りの巨大な街並みは、十年前に終結した「百年大戦」の遺産だ。

 魔族を退け、人類の覇権を決定づけた英雄たちの凱旋門には、今や鳥の糞と、後から書き足された魔術協会の広告がこびりついている。


 かつての救国の英雄達が手にした「魔石の採掘権」や「聖域の管理権」。

 当初は、必要な権利だった。

 窮地に立たされていた人類は、その強大な権利を全て前線の兵士達に託すことによって、その危機を回避することを選んだ。


 選択は成功だった。

 人類は一気に盛り返し、およそ三十年前には大勢は決し、遂に十年前に魔族最後の砦が陥落し、戦争は終結した。


 必要だった権利は過剰な権利となり、代を重ねるごとに血の滲んだ利権の束へと変わった。

 今では二つの巨大な組織――神聖騎士団と魔術協会――が、そのパイを分け合うために互いの喉元に刃を突き立てていた。




 大聖堂へと続く大通りを、漆黒の漆で塗り固められた重厚な馬車が、列をなして進んでいく。


 窓には一切の視線を遮る防護魔法の結界が張られ、車輪が石畳を叩く音だけが、不気味なほど正確なリズムで夜の空気に響く。


 それは街の住人たちにとって、抗うことのできない「絶対的な暴力」の象徴だった。


 その光景から目を逸らすように、一人の男が路地裏へと足早に滑り込んだ。


 魔術協会の下級魔導師、エドワードだ。

 彼は胸元に、協会の正式な構成員であることを示す五芒星の銀バッジを光らせていたが、その足取りはどこか落ち着かない。


 彼は協会の目を盗み、騎士団のシマで「不純魔石」を捌いて小銭を稼いでいた。


「……今日さえ乗り切れば、しばらくは大人しくしていよう」

 エドワードが懐の革袋を確かめ、さらに細い横道へ曲がろうとした瞬間だった。


 曲がり角の影から、二人の男が音もなく現れた。


 一人は、騎士団の白い外套をだらしなく着崩し、腰には無骨な長剣をぶら下げている。

 もう一人は、影のように静かに背後に回った。


「よお、エドワードさん。朝から熱心な営業っすね」

 前を塞いだ男、ヴァルグが、白々しい笑みを浮かべて声をかけた。


 整った顔立ちには似合わない、獲物をいたぶる前の獣のような瞳が、エドワードを射抜く。


「な、なんだ……私は協会の用事で……」

「用事? ああ、これのことか?」

  ヴァルグが、エドワードの懐から電光石火の速さで革袋を抜き取った。

 中から転がり落ちたのは、鈍い光を放つ魔石の原石だ。

 エドワードが悲鳴を上げる間もなく、背後に回っていた男――クラウスが、その太い腕で彼の首を絞め、口を塞いだ。


 そのまま、路地に停められていた窓のない荷馬車の中へと、彼はゴミ袋のように放り込まれた。


 馬車を操るのは、第四部隊の紅一点、カミラだ。

 彼女は美しい顔を隠すこともなく、鉄釘が埋め込まれた特製の棍棒を弄びながら、冷めた声で言った。

「隊長、次は南区の賭場ですか? それとも、このネズミを潰すのが先?」


「……まずは地下へ運べ」




 クラウスの低い指示と共に、馬車は音もなく走り出した。




 馬車が向かったのは、騎士団の旧兵舎の地下、通称「鉄の檻」だ。  


 部屋の中央に置かれた木製の椅子に、エドワードは固く縛り付けられていた。  


 彼の目の前では、ヴァルグが楽しげに口笛を吹きながら、熱心にナイフを研いでいる。


「……なあ、エドワードさん。あんた、さっき『メルクリウス執行官に言われた』って言ったよな?」

 ヴァルグが研ぎ澄まされた刃先をエドワードの頬に軽く当て、なぞるように滑らせた。

 冷たい鋼の感触に、エドワードは短く悲鳴を漏らす。


「はい、はい! 本当です、信じてください!」

「そうか。じゃあ、俺たちは仲間だな」  


 ヴァルグが突如、満面の笑みを浮かべ、重みのある革袋をエドワードの膝の上に叩きつけた。


 中から、不純魔石が転がり落ちる。


「これを受け取れよ。うちの隊長からの『手土産』だ。最近、魔術協会の方じゃ、質の悪い魔石が出回ってて困ってるんだろ? これは最高級品だ。お前の上司のメルクリウスに、騎士団からの贈り物だって言って渡してこい」  


 エドワードの顔が、恐怖で土気色になった。

 これを「贈り物」として持っていけば、自分が騎士団に寝返った証拠として突きつけられるのと同じである。


「そ、そんな……殺されてしまいます!」

「殺される? 誰にだよ。仲間からのプレゼントを受け取らないなんて、魔術師様はそんなに礼儀を知らねえのか?」  


 ヴァルグがエドワードの髪を掴み、力任せに顔を引き寄せる。

 見かねたように、影の中からクラウスがゆっくりと歩み寄った。


「……エドワード。お前がこれを持って帰らないというなら、今すぐ協会のメルクリウスの元へ、お前が我々にすべてを話したという報告書を届けることになるが、どっちがいい?」  


 クラウスの灰色の瞳には、慈悲の欠片もなかった。  

 エドワードは絶望に打ちひしがれ、喘ぐように首を縦に振った。


 ヴァルグはエドワードの拘束を乱暴に解くと、革袋を彼の腕の中に押し付け、出口へと追いやった。


「メルクリウスによろしくな! またすぐに会えるってよ!」  

 ヴァルグの嘲笑が、地下室に空虚に響いた。


 エドワードが転がるように部屋を飛び出していくのを見送り、部屋の隅で黙々と巨大な斧を研いでいた大男、バルガスが低い声を漏らした。

「……面倒な真似を。あんな小僧、ここで叩き潰せば済むものを」

「バルガス、力押しだけが仕事じゃないの。たまには脳みそ使いなさいよ」  


 カミラが皮肉っぽく応じる。


 クラウスは何も答えず、椅子に座り直してパイプに火をつけた。  


 第四部隊。騎士団の中でも「異常者」ばかりが集められた、戦場では最強の少数精鋭。

 だが、平和な時代において、彼らの剣は政治という名の泥沼をかき回すための棒でしかなかった。


 不意に、部屋の空気がわずかに震えた。


 高い窓の隙間から、銀の糸で編まれたような魔導通信機「銀鴉」が滑り込んできた。


 それはクラウスの肩に止まると、その小さな嘴を開いた。


『クラウス、作業を中断しろ。直ちに大広間へ来い。……新しい「調整」が必要になった』  


 騎士団総長ヴァレリウスの、あの冷徹で威厳に満ちた声だ。


 銀鴉は粒子となって消え、部屋の中に重苦しい沈黙が戻った。


「ちっ……またですか。総長も人使いが荒いぜ」  

 ヴァルグが愚痴をこぼし、カミラとバルガスも無言で立ち上がる。


 クラウスは無言で立ち上がり、腰の剣帯を締め直した。


 出口の扉に手をかけ、振り返らずに低く呟いた。


「……またか」  


 その一言には、三十年の腐敗が積み重なったような、深い倦怠感が滲んでいた。

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