第三十話:新しい未来
温かい陽射しと、どこか遠くで鳴る風鈴の音が、微かなまどろみを揺らしていた。
「……ん……あ……?」
東雲蓮はゆっくりと瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの、少し黄ばんだ天井だった。窓からは初夏の眩い日差しが差し込み、潮風を孕んだ風がレースのカーテンを静かに揺らしている。
ゆっくりと身体を起こす。
どこにも痛みはない。全身にまとわりついていた泥のような重疲労も、灼かれるような傷の痛みも、何ひとつ存在していなかった。
だが――胸の奥にだけ、ぽっかりと大きな穴が空いたような、喉の奥がキュッと締め付けられるような、痛烈な寂しさと切なさが残っていた。
「俺……なんでこんなところで寝てたんだ……?」
頭を掻きながら、蓮は呆然と部屋を見渡した。
畳の上には、画面がバキバキに砕け散り、電源すら入らなくなったスマートフォンが転がっている。
そして机の隅には、いつどこで買ったのかも覚えていない、小さな丸い古いパーツのような機械の破片が、静かに埃を被っていた。
――蓮の頭の中には、何もなかった。
自分が『特異点』であり、不条理な科学の戦いに巻き込まれたことも。
セーフゾーンという小さな避難所で、画面越しに出会った少女と他愛もない会話を交わしたことも。
命を賭して道を切り拓いてくれた、乾という男の凄惨で誇り高き生き様も。
そして、崩壊する白亜の空間の中で、自分を庇って傷つき、それでも手を握り返してくれた『エレナ』という少女の名前すらも。
蓮の記憶は、すべての始まり……あの怪しげな携帯を拾前の、ただの平凡で、退屈で、無色透明な日常へと完璧に巻き戻されていたのだ。
それが――エレナと、Mk-II、そして散っていった乾の三人が下した、たった一つの『選択』だったからだ。
半壊し、漆黒の虚無へと呑み込まれていくアトランティスの最深部『中央駆動室』。
崩落する白磁の天井から光のチリが舞い散る中、Mk-IIの人型ボディの胸で輝く『無限コア』が、静かに青白い光を明滅させていた。
『――これで……本当にいいのですね、エレナ』
『いいのよ……これで』
Mk-IIの隣で、自らの光の粒子となって透けていく手を見つめながら、エレナはどこか寂しそうに、けれど世界で一番優しい笑みを浮かべていた。
『蓮は……ただの人間なんだから。元はといえば全く関係のない戦いで世界線の歪みなんかに巻き込まれて、命を散らしていい存在じゃないわ。オメガを倒した以上、あの特異の力を持ったまま地球に居続ければ、いつかまた世界線の『強制修正』が起きてあいつを苦しめる……。だから、あいつの記憶からアトランティスと……私たちを消すのが、一番いいの』
『……マスターの脳内へ介入し、事象影響ログ並びに記憶データ、そして特異点としての情報消去を開始します。マスターは地球へ安全に送還された後、『普通の高校生』として目を覚ますでしょう』
Mk-IIは静かに自らのメモリへアクセスし、蓮の記憶改変プロトコルを実行していく。
作業の最中、Mk-IIの内部ストレージの奥深くに暗号化されて保存されていた一通の音声データが、静かに再生された。
『乾殿から遺された……最期の暗号ログです。再生します』
崩落のノイズの合間から、重々しく、けれどどこか照れくさそうな、あの男の声が響いてきた。
『《――よお、蓮、エレナ。あるいは Mk-II。この録音を聞いてるってことは、オメガの野郎をブチのめして、無事に決着がついた後だな。乾杯の準備でもしてえところだが……乾大介って男の最期の老婆心だ。聞いてくれ。蓮、お前はいい奴だ。バカみたいに泥臭くて、お人好しで……だからこそ、俺はお前に賭けた。お前が掴んだその平穏な日常を、どうか大切に生きてくれ。過去の遺物の呪いや、俺みたいな死人に引きずられる必要はねえ。エレナ、お前が獲得した『心』は、アトランティスのどんなテクノロジーよりも美しい。お前が選んだ愛を、どうか誇ってくれ。……ふッ、柄にもねえことを言ったな。じゃあな。俺たちの勝ちだ――二人の未来に、乾杯》』
ノイズが途切れ、音声が消える。
「……バカ乾。最期まで格好つけちゃってさ……」
エレナの蒼い瞳から、一筋の光る涙がこぼれ落ち、崩落する虚無へと消えていく。
『……エレナ。記憶消去並びに地球への強制転送シークエンス……完了しました。マスターの身体は無事に彼のアパートへ送還されます』
『ありがとう、Mk-II。……あんたも、本当にお疲れ様』
『いいえ。マスターのAIアシスタントとして……そして、あなたたちの『家族』として過ごした時間は、私の全回路において最高クオリティのデータでした』
崩れ去る白亜の空間の最果てで、エレナは地球へと還っていく蓮の眠る顔を、光の粒子となった手で、そっと撫でた。
「さようなら……蓮。私の世界に……温かい明日を教えてくれて、本当に、ありがとう」
そのまま、アトランティスの最深部『中央駆動室』は、真っ白な光に包まれた。
「……っと、いけね! 講義に遅刻する!」
壁掛け時計の針を見て、蓮は跳ね起きた。
服を慌ただしく着替え、バキバキに割れたスマホをポケットに押し込むと、狭いアパートを飛び出した。
坂道を駆け下りていく。
初夏の眩い日差し、コンクリートから立ち上る熱気、街路樹の緑、遠くで聞こえる蝉の声。
すべてがいつも通りの地球。すべてがいつも通りの日常。
(……なんでだろうな)
走る蓮の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
まるで、身体の半分をどこかに置き忘れてきてしまったかのような、耐えがたい喪失感。
何か、とても大切な言葉を交わしたはずだった。
誰かが、自分に向かって温かい手を伸ばしてくれていたはずだった。
世界のどこかで、自分を命がけで愛し、守ってくれた『誰か』がいたはずだった。
――なのに、思い出せない。名前も、顔も、声すらも。
「おーい、東雲! お前、今日の2限の課題やってきたか!?」
高校の正門を潜ると、腐れ縁の友人が手を振りながら駆け寄ってきた。
「あ? やってるわけねえだろ! 見せろ!」
「またかよ! お前、最近なんかボーッとしてること多くないか? 事故にでも遭ったみたいに顔色悪いぞ」
「……そうか? 別に普通だけどな」
ヘラヘラと笑いながら答える。
いつもの授業。いつもの友人との会話。
これでいいはずだった。怪我もなく、命も無事で、平凡に生きていける。それが一番の幸せのはずだった。
だが、胸の奥で渦巻く「不条理な違和感」だけが、どうしても消えてくれなかった。
午後の授業が終わり、夕暮れ時。
学生たちが潮が引くように去っていく校庭の広場を、蓮は一人で歩いていた。
正門を通りかかった、その時だった。
『――ねえ、原始人』
ふと。
風が吹き抜ける音に混ざって、耳元で、鈴の鳴るような透き通った声が聴こえた。
「……え?」
蓮は弾かれたように足を止めた。
心臓がドクンと大きく跳ね上がる。全身の血が逆流するような衝撃。
ゆっくりと振り返る。
木漏れ日が揺れる石畳の道。オレンジ色の夕日に染まる木々。
その中央に――。
白銀の髪を夕風になびかせ、見たこともない白と青の不思議な服を着た、息をのむほど美しい一人の少女が立っていた。
その隣には、どこかスマートで気品のある立ち姿をした、フロックコートに身を包む女性の執事が静かに佇んでいる。
「え……? 誰……?」
蓮の時が完全に止まった。
頭の中を探しても、その少女のデータも、記憶も、何一つ存在しない。
なのに――。
ポロ……ッ。
蓮の瞳から、勝手に大きな涙の粒が溢れ落ち、頬を濡らした。
「な……なんだこれ……? なんで俺……泣いて……」
自分でも理由が分からず、困惑して拭っても拭っても、涙が止まらない。胸の奥の穴が、一瞬で溢れんばかりの熱い感情で満たされていく。
記憶を消されたはずの人間が見せるその姿に、白銀の髪の少女――エレナは、目元に涙を浮かべながら、少しだけ意地悪そうに、そして世界で一番眩しい笑顔を弾けさせた。
「記憶を消せば、大人しく諦めて普通の日常に戻ると思った? ……甘いわよ、バカ原始人!」
「え……?」
「 あんたが記憶を失ったんなら、また最初から……あんたに恋しに来てあげたわ!」
『(まったくです。マスターの記憶消去プロトコルを完璧に実行したというのに、エレナ殿が『無限コア』の余剰エネルギーを使って強引に実体化ボディを再構築し、地球へ追っかけてくるなんて……私の計算にもない不条理ですよ)』
隣のMk-IIが「やれやれ、私のメモリもこれでまたカツカツです」と呆れたように肩をすくめてみせる。
「記憶なんて……関係ない……」
蓮の口から、勝手に言葉が漏れ出していた。
頭が覚えていなくても、魂が覚えていた。
命を燃やして戦った日々が。セーフゾーンで分かち合ったぬくもりが。画面を越えて触れ合えたあの瞬間の歓喜が、血の一滴一滴に刻み込まれていた。
「エ……レナ……ッ!!」
名前すら知らなかったはずの少女の名を、蓮は叫んでいた。
夕暮れの木漏れ日の中、エレナが涙を拭いながら、力強く地を蹴って駆け出してくる。
蓮は両手を広げ、正面から飛び込んできた少女の柔らかくて、温かい身体を――二度と離さないように、全霊で強く抱きしめた。
「遅いわよ……バカ原始人……! 寂しかったんだから……っ!」
「ごめん……ごめんな、エレナ……! もう絶対に離さねえ……!」
「当たり前よ……! これからは毎日、私のワガママに付き合いなさいよね……!」
胸の中に伝わってくる、確かな鼓動と温もり。
それは画面越しでも、データでもない、同じ世界で、同じ空気を吸い、共に生きていく「本物の生身のぬくもり」だった。
『(マスター、エレナ。再会を祝うところ大変恐縮ですが……居酒屋で奢ってもらう約束、忘れないでくださいね)』
涙を拭いながらクスッと笑うエレナと、呆れ顔で寄り添うMk-II。
夕道の中、三人の影が長く伸びて重なり合う。
理屈でも、計算でも説明できない。
記憶すら跳ね除けて掴み取ったこの愛おしい絆こそが――彼らが数多の絶望を乗り越えて勝ち取った、世界で一番美しい『奇跡』だった。
青空から茜色へと移り変わる空の下、新しい「明日」の風が、三人をどこまでも優しく包み込んでいく。




