1-1:生きた時間の存在しない場所
その場所には、およそ生きた時間というものが存在しなかった。
大学の地下2階、数十年前に使われなくなった旧資料倉庫。
重苦しい鉄扉を開けた瞬間に押し寄せるのは、容赦ない湿気と、肺の奥をちくちくと刺すような古い埃の匂いだ。
カビと朽ちかけた紙が混ざり合った独特の澱んだ空気が、何層にも堆積して空間を支配している。
天井に配置された蛍光灯のスイッチを入れても、ジジジ……と頼りない音を立てて細く明滅を繰り返すだけで、大半の空間は薄暗い闇の底に沈んだままだ。
光の届かない棚の奥は、まるで別の世界へ繋がっているかのように深く、黒い。
大学の事務員として働く三嶋は、軍手をはめた手で何度目かもわからない溜息を吐き出した。
「……何が貴重な歴史的資料のサルベージだ。ただのゴミ片付けじゃないか」
上司から与えられた今週の任務は、この暗がりに放置された大量の段ボールを整理し、廃棄するものと残すものを仕分けることだった。
段ボールの表面は長年の湿気でふやけ、触るたびにボロボロと茶色い繊維が崩れ落ちる。
中身はどれも、昭和中期の予算決算書や、とうに退官した教授たちのどうでもいい講義ノートの束、カビの生えた出席簿ばかりだ。
ガムテープを剥がし、中身を冷淡に確認し、手元のバインダーに挟んだリストに淡々とチェックを入れていく。
その終わりのない単純作業を始めてから、すでに3時間が経過していた。作業服の背中は嫌な汗で張り付き、喉の奥が埃でいがらっぽい。
「これで最後か……?」
一番奥の棚、ひときわ深く濃い影が落ちる場所に押し込まれていた、一箱の段ボールに手を伸ばしたときだった。
「――っ、」
指先が箱の側面に触れた瞬間、三嶋の身体がぴたりと硬直した。
静電気のような衝撃ではない。かといって、何かに指を刺されたわけでもない。
もっと暴力的で、生理的な何かに触れた感覚。
あえて言葉にするなら、冷え切った人間の、ぬめりとした皮膚に直接触れてしまったかのような、おぞましい鳥肌が、指先から腕を伝って脳髄へと一気に駆け上がったのだ。
ぞわぞわとした嫌悪感が背筋を駆け抜け、胃の底がキュッと収縮する。
三嶋は思わず手を引き、自分の軍手を見つめた。何もついていない。ただの古びた段ボールの表面だ。しかし、心臓だけがドクドクと嫌なリズムで警報を鳴らしている。
「……気のせい、か。いや、疲れが出てるな」
喉の渇きを覚えながら、三嶋は息を整え、慎重にその段ボールを引き出した。
箱の底は完全に腐り落ちかけており、引きずるたびに床のコンクリートと擦れて、ずるり、と重々しい音が響く。
まるで、箱の中に生き物が潜んでいるかのような錯覚を覚えるほどの、妙な重量感だった。
中を覗き込むと、他の箱のように書類の束は入っていなかった。
ただ一冊、その中心に転がっているものがあった。
「……なんだ、これ」
それは、一冊の古書だった。
煤を被ったように真っ黒な表紙。だが、火に炙られて焦げたわけではない。
まるで、黒い絵の具かインクを何度も何度も、執念深く塗り重ねたかのような、光を一切反射しない漆黒だ。
触れてみると、革のようでもあり、目の詰まった布のようでもあるが、どこかざらついていて、やはり冷たい。
タイトルはない。背表紙にも、著者名も、一切の文字が見当たらなかった。
手にとって持ち上げると、片手では手首がしなるほどの異常な重みが両手にのしかかる。本の厚みに対して、明らかに質量がおかしい。
そして、紙の匂いに混じって、どことなく、嗅いだことのない古い有機物の腐敗臭のようなものが、微かに鼻腔を掠めた。
三嶋は眉をひそめ、その黒い塊を抱えるようにして、地下2階の陰気な部屋を後にした。




