Sit or Dead
夜のホーム、静寂の中を歩く。あれだけの憎悪渦巻く朝が嘘のように夜のホームってのは静かだ。俺はトボトボと歩く。いや、倒れないように前に足を出し続けている。いつかの誰かみたいに。少し前を歩くサラリーマンの背中に見覚えがある。ああ、見間違えるはずはない。朝よりもその背中はさらに大きく見える。怒り?恨み?俺がいくらボロボロになったってお前に対してそんな感情は一切もないよ。ああ、そう言えば嘘をどうしよう。座教ハジメって誰なんだ?
俺のそんな思考は次の瞬間に吹き飛んだ。
「サユリ・・・」
スワリストが歩く先のベンチで彼女が待っていた。俺は帰る時間も電車も伝えていない。ずっと待っててくれたのか?
「リョータ」
サユリがこっちに向かって走り出す。ああ、また泣いているよ。俺は一体いつになったら安心させてやれるんだろう。
「リョータ・・・メガネが・・・大丈夫なの?」
心配そうにヒビの入った俺のメガネを見つめる。ああ、すまん。俺は負けたんだ。こんなボロボロな状態でプレゼンなんて笑えるよな。
「すまん。コンペはダメかもしれない。色々頑張ったんだけど・・・」
「違う!そうじゃない!プレゼンなんてどうだっていいんだから。リョータは大丈夫なの?ケガしてないの?」
何かが決壊した。言葉にならない思いが嗚咽と涙になって溢れだす。俺は地面に崩れ落ちた。
サユリが抱きしめてくれる。
「大丈夫・・・いいじゃん、コンペなんて。社長なんて。銀行なんて。リョータが元気で一緒にいてくれればそれでいいよ。あの街に戻ったっていい。リョータと一緒ならどこでだって生きていける。夢とか目標とか、見返すとか?それも大切かもしれないけど、今を一緒に楽しもうよ」
何も分かっていないのは常に俺だ。サユリのためだなんだと突っ走って、勝手にサユリを言い訳にして、周りを巻きこんで暴走していた。そうだ、手に入る幸せを最大限享受すればいいんだ。ホームに電車到着を知らせるアナウンスが流れた。電車もそうだ。座席だ何だと随分と頭を悩ませてきた気がする。もういいんだ。もう考える必要はない。もう座る必要なんてない。次からは揉みくちゃにされる日々を楽しんでやろう。だって家に帰ればサユリがいるんだから。
『じゃあ、もう力はいらないね』
声が響いた。俺の頭の中で。忘れるわけがないあの声が再び聞こえる。
俺はサユリを見た。周りを見渡した。やはりこの声は誰にも聞こえていないようだ。
『じゃあ、力の対価を貰おうか』
まずい。
こんなのひと昔前の俺なら信じないが今は違う。
周りの誰に言っても信じないだろうが俺は違う。
俺は力を知っている。そんな非現実的なことが実現していた。
つまり、コイツの言うことは本当だ。
命。
まさか電車の座席に座る代償に命を取られるなんて。過去の俺を責めたい気持ちはある。でも信じられないだろ?酔って見た幻だと思うだろ?
「ちょっと待ってくれ」
俺は目に見えないそいつに話かける。
「ちょっと、リョータどうしたの?」
サユリがまた心配そうな顔で俺を見つめる。
『ダメダメ。これでも待った方なんだから』
畜生。ようやく生き方を見つけたのに俺はここで死ぬのか?
俺は正確に時間を刻む時計を見た。
サユリから貰った大切な時計。
『じゃあ、貰っていくね』
心臓が止まるのかと思った、が、無事に動いている。死んでいない。
じゃあ腕時計が・・・。腕時計もある。
その時、抱きしめてくれていたサユリの腕がするりと俺の背中から離れた。
彼女がゆっくりと立ち上がった。
あああああああああああああ
叫んでいるのに声が出ない。
体が動かない。
俺の一番大切なもの。
サユリだった。
代わってくれ代わってくれ。
俺の命にしてくれ。
おいお前、どこにいる?
代えてくれ代えてくれ代えてくれ。
彼女はゆっくりと進んでいく。
反対側のホームへ。
ちょうどそこは俺とスワリストが朝並んでいたホームだ。
あああああああああああああ
ダメだ。
声が出ない。
誰か気づいてくれ。
電車が近づいてくる音が聞こえる。
この時間、都心に向かう客はいない。
サユリだけが独りで歩いていく。
電車がホームに入ってきた。
ああああああああああああああ
電車とサユリ。
もう間に合う距離にいる人間はいなかった。
電車が近づいてくる。
サユリがゆっくりと進む。
線路から数歩のところで立ち止まる。
彼女は振り返った。
サユリと目が合う。
彼女は笑った。
涙いっぱいの目で。
そして口を動かした。
ありがとう、と聞こえた。
サユリは再び俺に背を向けた。
電車が迫る。
彼女はそこに身を委ねるように、ゆっくりと倒れ込む。
「あああああああああああああああああああ」
俺の叫び声がホームに響いた。あのクソ野郎が呪縛を解いたみたいだ。
しかし、もう遅い。
世界がスローモーションのように動く。
サユリと電車がぶつかる。
その瞬間、稲妻のような光が走った。
目を焼くような閃光が俺の視界を埋め尽くす。
その光に導かれるようにサユリの身体がホームへと引き戻された。
「ああああああ」
俺は震える足で立ち上がり、フラフラとしながら倒れかけながら全身の力を振り絞ってサユリの元へ駆け寄った。サユリを抱きしめる。生きてくる。ケガもないみたいだ。
「リョータ・・・」
「サユリ・・・ごめん、ごめんな」
もっと強く。次は絶対に離さないように。
『あーあ、もうこれでいいよ』
憎たらしい声が聞こえる。俺は怒りで辺りを見渡す。
もちろんその声の主はどこにもいない。
しかし、その時に、別のなにか、光のような人間が近くに立っていることに気がついた。
それは別に頭のことを言っているわけじゃないんだ。
ああ、俺はまたこの人に助けてもらったんだ。
「社長・・・」
俺は右腕でサユリを抱いたまま、その光に手を伸ばす。
その時、俺は気づいた。
サユリから貰った腕時計がなくなっていることに。