15.告白
「あぁ、今日の数学のテスト、甲斐がどんなトラップを仕掛けてくるか心配だなぁ」
愛瑠が空元気にそう言って、チラッと、榛名と斗真の顔を見る。
昨日から、二人は微妙な距離感を保って、必要最低限の話しかしていない。
「今日の卵焼き、甘くてすっごくおいしいねー」
あまりの気まずさに、さっきから沈黙を逃れるように、愛瑠だけがしゃべり続けている。
自分のせいなのだろうと、気付いていた。昨日、榛名が斗真を連れて部屋を出た後、「ガーディアンは必要以上に人間と関わってはいけないってことくらい分かっているだろ」という、榛名の声が聞こえてきた。
珍しく怒りを含んだ榛名の声。
必要以上に人間と関わってはいけない……。
その言葉は愛瑠の胸に突き刺さった。
人間とガーディアン。自分と二人の間には、越えられない大きな壁があるのだと。
なんとなく、二人との間に、絆のようなものを感じ始めていた愛瑠は、それを否定された気がして、切なくなった。
「どうしたの?」
突然、斗真に話しかけられて、じっと見つめる瞳に、昨日の切なげな斗真の瞳が重なり、愛瑠はドキリとする。
「え? あ、何が?」
「ずっと話し続けていたかと思えば、急に黙り込んで」
「あ。ううん。今日のテストのことちょっと考えていただけ」
「ふーん」
斗真がそう言いながら、探るように愛瑠の顔を覗き込んだ。ドキドキと鼓動が早くなって、愛瑠はうろたえる。この心臓の高鳴りが、斗真への恋心なのか、単に恋愛に慣れていないために戸惑っているだけなのか、自分でもわからない。
ただ、昨日全身で感じた斗真の鍛えられた体や、熱い眼差し、囁くように名前を呼んだ切なげな声が思い返され、自分の体温が上昇するのが分かった。
「私、早く行って、予習しようかな。うん、そうしようっと」
愛瑠はそう叫んで、突然立ち上がると、朝食も食べ終えぬうちに、その場を逃げるようにして立ち去った。
「あぁ、なんだか気まずいし、テストは全然できなかったし」
大きなため息と共に、愛瑠が廊下を歩いていると、
「なんだ、愛瑠。ずいぶん落ち込んでいるな。まぁ、あれだけ悲惨な結果じゃな」
と後ろから声をかけられた。
「甲斐……」
「甲斐先生だろ?」
斜めに見据えて、ニヤリと笑う。
「エセ教師のくせに」
「高校の数学くらい、教える程度の知識はあると思っていたんだが。教え子に、この程度のテストで、あんな結果を出されちゃ、自信も無くすなぁ。ここまでの珍解答を導けるお前を尊敬するよ」
「うるさいなぁ。教え方が悪いんだよ」
「教え方云々の話じゃないだろ。なんだよこの、確率を証明する問題で、運が良かったからとかいう訳のわからない解答は」
「別に、数学はどうでもいいし。元々、勉強する気もないから」
そう言うと、甲斐は不思議そうに愛瑠を見た。
「お前、希望の大学、日本獣医生命科大って書いてあったよな?」
「そうだけど? 言っとくけど、私、生物の試験は全国でも三位以内しかとったことないからね」
その言葉に甲斐がチラッと愛瑠を見る。
「お前、英語はできんの?」
「日本の獣医になるのだから、英語なんて必要ない」
「バカかお前? 大学の試験なめんな」
呆れた表情で甲斐がため息をついた。
「何が?」
「日本獣医生命科大の受験科目は、一番教科の少ない学科を選んだとしても、数学と英語のどちらかは必要だ。なんで人間のお前より俺の方が詳しいんだよ」
「えっ?!」
甲斐の言葉は愛瑠を奈落の底へと突き落とした。蒼白な顔をして、よろよろと歩き出した愛瑠を見ながら、
「頑張れよ」
と、甲斐は楽しげに、彼女の背中を見送った。
「愛瑠。ゲームしようぜ」
夕飯を食べ終えて早々、声をかける斗真。対して、はぁとため息をつく愛瑠。
「いい。私、勉強しないといけないから」
元気なくつぶやく彼女に、榛名と斗真が気まずい状況だったことも忘れて、目を合わす。
「学校で何かあったの?」
榛名が聞いた。帰りのホームルームあたりから、急に元気をなくした愛瑠に気付き、二人は気になっていたのだ。
「人生設計をミスってた」
愛瑠はそれだけ言うと、再び大きなため息をついて、「先、お風呂入るね」とリビングから出ていってしまった。
「どうしたんだろう?」
「なんか、悪いもんでも食ったんじゃねーの?」
斗真は気のない素振りでゲームを始めたが、そこから一時間ほど経ち、榛名が風呂に入ったのを見計らって、愛瑠の部屋に向かった。
ノックして、「愛瑠、入るぞ?」と声をかける。
返事も聞かずドアを開けると、床に置かれたテーブルに数学と英語の参考書を広げて、二つを見比べる愛瑠の姿があった。
「お前、まじで勉強しているのか? 昨日は、そんな必要ないって言ってたじゃないか」
「いろいろ、状況が変わったんだよ。邪魔しないでくれる? 今から数ヶ月で、三年間分の勉強をするにあたり、英語を選ぶのか数学を選ぶのかで悩んでいるんだから」
「俺が、選ぶの手伝ってやるよ」
斗真が楽しそうな顔をして、部屋に入ってきた。
「何か、楽しんでいるでしょ?」
「楽しんでないって。さっさと、決めちゃってゲーム一緒にやろうぜ。一人じゃつまらないから」
「だーかーら、決めたら、勉強始めるんだから、ゲームする暇なんてないの」
「まじかよ」
青ざめた顔で斗真が言った。
「まじです」
愛瑠はそう言うと、ブツブツ文句を言っている斗真のことを無視して、熱心に数学と英語の参考書を見比べた。
しばらく、そんな愛瑠の隣で彼女を見ていた斗真が、
「いい匂いする」
と、髪に触れた。ドクンと心臓が飛び上がって、愛瑠が身を引く。敏感に反応してしまった自分に愛瑠は顔を赤くして、「急に触らないでよ。びっくりするでしょ」と慌てて言った。
その様子に、斗真も顔を赤くして、目を逸らす。
「ごめん……」
それから、気まずい空気が流れ、しばらく愛瑠は参考書を見たまま黙りこくり、斗真もそこにあった参考書をパラパラとめくりながら、黙っていた。
「榛名が人間と深いかかわりを持つなって」
斗真がボソリとつぶやく。
「うん……」
「愛瑠は人間で、俺はガーディアンだから、深くかかわっちゃいけないって」
「うん……」
「だけど、俺……お前のことが好きなんだ」
続けられた言葉に驚いて、愛瑠が顔を上げると、切なげに見つめる斗真の瞳とぶつかった。
「お前とキスしたい……」
そうつぶやいて、斗真は愛瑠の頭を引き寄せた。愛瑠が息を呑んで、斗真を見つめる。
その時、斗真の体からバチッと火花のような光があがり、斗真は苦しげに眉根を寄せて、体をのけぞらせた。
「まるで、盛りのついた犬だな」
冷たく言い放った甲斐が、嘲るように笑う。
「人間と深いかかわりを持ってはいけないと言った傍から、何、禁を犯そうとしている」
「甲斐……。いってーな」
振り返った斗真が睨み付けると、甲斐は肩をすくめた。
「感謝してもらいたいところだが? お前はあと一歩で、ガーディアンの資格を失うところだったんだぞ?」
「うるせぇ。てめぇこそ、何勝手に愛瑠の部屋に入ってきてんだよ」
「あぁ。今頃、愛瑠が将来について悩んでいる頃かなぁと思って、アドバイスに来てやったんだよ。でも、来てみれば、男とイチャついているし。これじゃぁ、望みも低いな」
甲斐がわざとらしくため息をついて、愛瑠のことを見下ろした。
「ちゃ、ちゃんと、これから勉強しようと思っていたところだもん。ただ、数学にするか英語にするか悩んでいただけで……」
「数学にしろ。俺が教えてやるから」
突然出された提案に、愛瑠は驚いて彼を見上げた。
「どうした? この俺自ら教えてやるって言っているんだ。何が不満だ」
「何と引き換えに? 金か? 魂か? それとも体か?」
自分の身を抱きしめ、疑わしげに甲斐を見る。甲斐が顔を引きつらせて、その三白眼の瞳を光らせた。
「殺すぞ、てめえ」
「だ、だって……」
「俺の監視下で、妖力を使われるのも、ガーディアンといちゃつかれるのも困るんだよ。だから、俺もここに住んで、四六時中、お前を監視することにした。暇だから、家にいる間は、数学教えてやるよ」
「え? ほんと? え、でもな。う、うーん……」
愛瑠が家庭教師付の生活と、監視者付の生活を天秤にかけて、悩む。
二人のやり取りを不機嫌な顔で聞いていた斗真が、
「冗談じゃない。なんでお前と一緒に暮らさなきゃならねー。勝手に決めるな」
と立ち上がった。
「じゃぁ、お前、愛瑠に数学教えられるの?」
甲斐に言われて、うっとたじろぐ。
「決まりだな」
「というわけで、甲斐も一緒に暮らすことになりました」
愛瑠が、斗真とキスしそうになった事実だけ省いて、事の成り行きを告げると、榛名はちょっとだけ苦笑いして、
「それは構わないけど、数学なら僕が教えてあげたのに」
と言った。
「そうだ。クソ甲斐なんかじゃなくて、榛名に教えてもらえ」
「でも、榛名は自分の勉強があるでしょ。邪魔できないし。まぁ、せっかく、甲斐が教えてくれるっていうしさ」
「甲斐がそんな提案してくるなんて、意外だな」
「うん。案外、あいついい奴なのかもね」
なんて、愛瑠は呑気に言っていたが、数日後には、あんな提案受けるべきではなかったと後悔する羽目になった。




