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11.天界からの遣い

 ダメだ。ダメだ、愛瑠。

 愛瑠は自分に言い聞かせた。

 力を使ってはいけないと言われているではないか。

 けれど……。

 近くで泣き叫ぶ小さな子供に、愛瑠は唇を噛んだ。


 電車の中で、周囲の人たちが迷惑そうに眉をひそめている。母親がお菓子を出してみたり、抱っこしてみたり……懸命になだめているが、一向に泣き止む様子はない。


 その日は休日で、千草の家に遊びに行くことになっていた。斗真と榛名が、いつ妖魔が出現するとも限らないからついていくというのを丁重にお断りし、久しぶりに一人で外に出た。さすがに、二人がいたら千草も怪しむはずだ。まさか、半妖になっちゃって、天界人の彼らと一緒に暮らしているとは説明できない。


「うっせーな」


 近くの若い男性がつぶやいたのが聞こえたのであろう、母親までが泣きそうな顔になって、愛瑠は我慢できずに母親と子供のところへ歩いて行った。

 そして母親と一緒になって、子供をあやそうと頑張っているが、全く持って泣き止むそぶりをみせない。


「すみません……」


 申し訳なさそうに体を小さくする母親に愛瑠は心を痛めた。

 ごめん、斗真、榛名。

 心の中で謝ってから、子供の目の前に手を出す。そして、パッと手を開くとそこから花が開いた。もう一度、手を閉じてから開くと、その花が消えている。

 子供は泣くのも忘れて、驚いた顔をして愛瑠の手を覗き込んだ。

 にこりと笑った愛瑠が再び、手を閉じて開くと今度は別の色の花が手の中に咲いていた。

 きゃっきゃっと子供に笑顔が戻る。ピリピリしていた車内の空気も一気に和らいだ。


「あ、ありがとうございます。すごい、手品ですね」


 母親がお辞儀して、愛瑠の手を見つめた。

 手品じゃないけど、人助けだから、今回くらいいいよね。

 心の中で、人前で力を使ってしまったという罪悪感を拭った愛瑠は「たいしたことないですよ」と言って笑った。


 その時——


「本当にすごい手品だ」


 低い声がして、振り返った愛瑠の目に背の高い男性の姿が映った。長い前髪から覗く鋭い三白眼。

 ゾクリと背筋に悪寒が走って、愛瑠は思わず目を逸らした。

 そして、視界の端で小さく笑ったその男性が、ふっと消えた。


 驚いて顔を上げたが、その車両内に男性の姿はなくなっていた。


 なに、今の……。


 ドクドクと心臓が音を鳴らし始める。


 今、確かに……。


 結局、その出来事は愛瑠の中で消化できぬうちに、目的地に到着してしまい、それ以上考えるのをやめた。その男性が誰なのか、愛瑠は翌日知ることになる。



 教室に入ってきた背の高い男性。教室のドアをかかがむようにして入ってきた彼に、愛瑠はハッとして動きを止めた。

 前髪から覗く三白眼の鋭い瞳。


「甲斐……」


 後ろで榛名が硬い声を漏らし、愛瑠が振り返ると、「彼は天界人だ」と説明した。

 再び振り返った愛瑠に、教壇の前で甲斐はニヒルな笑みを見せた。女子生徒たちがその笑顔にぽぉと見とれる中、愛瑠だけは緊張の面持ちで、冷たく整った顔を見つめ返す。


「じゃぁ、授業を始めようか」


 甲斐はそう言って、数学の授業を始めた。疑問を持つものは誰もいない。


 なるほどね……。


 皆が何の違和感もなく、甲斐の授業を受け入れたのを見て、彼らの記憶の中に、甲斐という数学教師が前からいたことになっているのだと気が付く。


「なんであいつが……」


 斗真の苦々しい声から、きっと彼の出現はあまりいい話ではないのだろうと、愛瑠の心が重くなった。天界人である彼の前で力を使ってしまった。昨日の出来事は、榛名と斗真に内緒にしてあるから、知られたらなんと言われるか……。

 愛瑠ははぁとため息をついて、数学のテキストを開いた。

 頭に何も入ってこないまま、あっという間に授業は終わり、チャイムが鳴った瞬間、斗真が甲斐のもとに近づいて行った。


「甲斐先生、ちょっと分からない問題があるんだけど」


 見据えるように甲斐を見ながらそう告げる。


「ここじゃ、なんだから、場所変えようか?」


 甲斐は小さく笑みを作って答えると、踵を返した。斗真に続いて、榛名と愛瑠も教室から出ていく。


「一体なぜお前がここにいる」


 廊下を並んで歩きながら、声を押し殺すようにして斗真が聞いた。


「予想はついているんじゃないのか?」


 甲斐は余裕な笑みを見せて、チラッと後ろにいる愛瑠を振り返った。


「何を命じられた」

「監視役だよ。あの半妖の。お前たちの監視が甘いから、業を煮やした天界が俺を送ったわけだ。お前たち、あいつが昨日人前で力を使ったことすら知らないだろ?」


 甲斐の言葉に驚いた斗真と榛名が、愛瑠を振り返り、二人の責めるような視線に、愛瑠はうつむいた。


「天界は、お前に対して、処分を検討し始めている。これ以上、力を使ったら、命はないと思え」


 甲斐は冷たく言い放つと、「というわけで、問題の解説はもうこのくらいでいいかな?」そう言い残して、職員室へ入って行った。


「愛瑠。どういうこと?」


 榛名が厳しい表情で愛瑠を見つめる。


「ごめん……。昨日、電車で泣いている子供がいて、全然泣き止まないから、手に花を咲かせてあやしたの」


 二人が大きなため息をついた。


「自分がしたことがどういうことだか分かってんのか?」

「でもきっとみんな、ただの手品だと思っているし」

「そういう問題じゃないんだよ。いいか。甲斐が来たってことは、お前は天界から危険人物だと認識されたってことだ」


 感情を抑えた斗真の言葉が、事態の重さと、そのことを本気で怒っているのだと愛瑠に伝える。けれど、愛莉は納得のいかない顔でうつむいた。


「私がしたことが、天界の怒りを買う行いだってことは、よく分かってる……。でも、どうして力を使っちゃいけないのか、分からない。だって、人助けに使ったんだよ? 斗真たちだって人間を助けるために力を使うじゃない」

「俺とお前は違う。人間であるお前が力を使うということは、この世の理を破るということなんだ。世の理を守るためにいる俺たち、ガーディアンにとって、お前の行いは罪だ。これ以上、お前が力を使えば、お前は俺たちの敵になる。もう、守り切れない」


 突き放すように言われ、愛瑠は唇を噛みしめた。

 理由が何であれ、力を使うことは罪であり、お前は敵だと言われた。そう思われても仕方ない。自分はバカだと思う。だけど、自分にはあの選択しかなかった。きっとまた昨日に戻ったとしても、自分は同じことをするだろう、そう愛瑠は思った。


「ねぇ、愛瑠。本当は、安易に力を使っちゃいけないと、愛瑠も十分分かっていたはずだ。それでも力を使ったのはなぜ? きっと、何か理由があるんだよね?」


 榛名が優しく聞いた。愛瑠はしばらく黙ったままうつむいていたが、辛抱強く待ち続ける榛名に、小さくつぶやいた。


「母親が……」

「うん」

「母親が……電車の中で、泣き止まない子共のせいで、周りの人から非難の目で見られて。このまま、この電車から降りたら、この人、もう二度と子供と出かけられなくなっちゃうかもって。出かけられないのは、子供のせいだって思っちゃうかもって。そう思ったら、我慢できなくて……」

「愛瑠……」


 榛名と斗真の頭に、善三の声が蘇った。


『あの子の母親は、育児ノイローゼになってしまって、ずいぶん愛瑠もつらい思いをしたんだ』


 泣きそうな顔でうつむいた愛瑠の頭に榛名が優しく手を置く。


「甲斐には僕から事情をよく話しておく。だけど愛瑠。非情かもしれないけど、この世での問題は、ここでの理に従って解決しなくちゃ。あるはずのない力を使ってはいけないんだよ」


 子供に言って聞かせるように優しく伝えて、榛名は愛瑠から手を離すと、「甲斐と話してくる」そう言って、職員室に入って行った。

 あとに残された二人の間に流れる重い沈黙。


「行くぞ」


 短く言って斗真が踵を返した。


「どこに? 教室逆だよ?」

「いいからついてこい」

「だって、もう休憩終わっちゃうし」

「いいからっ」


 苛立ったように言って、斗真は愛瑠の腕をつかむと、強引に歩き出した。


「どこ、行くの?」

「屋上」

「授業は?」

「サボる」

「でも……」

「お前だって、ちょくちょくサボってたろ」


 それ以上、何も受け入れないといった様子の斗真に、愛瑠は黙ったままついていった。前を行く斗真の背中からピリピリとした空気を感じ、相当怒っているのだろうと、唇をかむ。

 屋上に出たところで斗真は振り返ると、突然深く頭を下げた。


「ごめん。愛瑠。お前の気持ち全然考えてなかった」

「えっ? いっ、いいよ。私が悪いんだから」


 慌てて手を振った愛瑠を、斗真は掴んで引き寄せた。彼女を胸に包んで、強く抱きしめる。


「斗真……」

「榛名が、お前の気持ちを尋ねた時、俺、本当に自分はダメな奴だって、そう思った。お前を守ると約束したのに、味方するどころか、敵だなんて言ったりして。お前が理由もなく力を使うはずがないって分かっていたのに」


 苦しそうに言って、斗真は愛瑠から少し離れると、

「だけど俺、お前を失いたくないから、だから、冷静になれなかった」

 と彼女の顔を見つめた。


「これからは、何があってもお前を信じると約束する。お前がこの世の理を破ろうが何しようが、全面的にお前の味方をする。だから、許してくれ……」


 そう言って、再び斗真は頭を垂れた。愛瑠は驚いた顔で斗真の姿を見ていたが、少しして小さく笑った。


「謝る必要ないのに」


 そう言って、斗真にうなずいてみせる。


「斗真が怒ってくれたのは、私のことを本気で心配してくれているからだって、分かっているから。だから謝る必要ないよ。斗真」

「愛瑠……」


 見つめ合う二人の横から、パチパチパチと乾いた拍手の音が響いた。


「素晴らしい友情だな。それとも愛情か?」


 小バカにした様子で二人を眺める甲斐が立っている。


「この世の理を破ろうが何しようが、全面的にお前の味方をする? ガーディアンとは思えない発言だな。このことは天界に報告しておくぞ。それから、お前も」


 そう言って、隣にいる榛名に目を移した。


「自殺した母と重ねて力を使ってしまった彼女の気持ちを汲んでほしいとは、いつも冷静なお前の口からそんな言葉が出てくるとは驚きだったよ。この際だから、お前たちにちゃんと言っておこうと思ってな」


 斜めに構えて、冷たい眼差しを三人に向けると、甲斐は再び口を開いた。


「いいか、よく聞け。天界が俺をここによこしたのは、その半妖に肩入れして冷静な判断ができないお前らを監視するためでもある。何かあれば、俺が代わりに、そいつを裁く。過去の事情なんて一切関係ない。俺は容赦しないから、そのつもりでいろ」


 冷たく言い放って、甲斐は姿を消した。


「ごめん、愛瑠」


 榛名がうつむきがちにつぶやく。


「やだなぁ。二人して、謝っちゃって。二人とも何も悪くないのに。っていうか、ありがとうって言いたいくらいなんだから。そんな顔しないでよ」


 愛瑠はニコリと笑って、うーんと伸びをした。


「せっかく、授業サボったんだし、ゆっくり昼寝でもしようよ。いいお天気だからさ」


 そう言うと、斗真がふっと息を吐くように笑った。


「お前は相変わらずだな。大体、すべての始まりは、お前が授業サボって昼寝していたからなんだからな」

「なんだよー。今日授業サボったのは斗真のせいでしょ!」


 いつもの調子に戻って二人の言い合いが始まったのを眩しそうに見つめながら、

「でも、君があの日、あの場所で昼寝をしていてくれたことに、僕は感謝をしている」

 と榛名が言った。


「君に出会えたことに、感謝している」


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