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ROSA  作者: 藤 子
50/65

愛 慕11

「ずっとこうしたかった……」


 そう言って抱きついてくるコレットを、突き放すなんてできなかった。


「リュシアン様……」


 まるで蜜のように甘い誘惑。


「私はもうあなたのもの」


 見上げてくる大きな瞳に、写っているのは俺だけだった。

 彼女はもう、俺のもの。

 愛おしさが込み上げる。柔らかい頬を撫で、微笑んだ。


「コレット……。君はまるで、この世に迷い込んだ天使のようだね」


 愛らしくてたまらなかった。


「どうか私をここに置いて……、死ぬまでここから出さないで」

「俺が君を手放すとでも? あり得ないよ」


 本気でそう思った。


「嬉しい」


 はにかんで喜ぶ彼女の笑顔に、易々と心を奪われる。

 満たされた気持ちで見つめていると、不意に彼女から口づけられた。軽く唇が触れ、目を丸くするリュシアンに彼女はくすりと笑う。リュシアンもつられて微笑んだ。


「大胆な女性だね」


 まったく、なんて無邪気な天使だろう。


「お嫌いですか?」


 尋ねられ、笑顔で答える。


「大好きだよ」


 そう言って、今度は深く唇を重ねた。

 血も酒も飲んでいないのに、酔ったみたいだった。


 部屋の扉が開けられるまでは。


 立ち尽くすティティーヌを見た瞬間、頭から氷水をかぶったように酔いは醒めた。

 愛しい彼女は目を見開き、呆然とこちらを見つめている。


「ティ――」


 声をかけようとしたが、最後まで言葉にならなかった。

 ティティーヌが先に、柔らかく微笑んだから。


「ごめんなさい。お邪魔したみたいね。ほら、マーク。私の部屋に」


 子どもにリュシアンとコレットを見せないよう、自分の身を盾にしてそそくさと過ぎていく。その細腕をとっさに掴もうとして、ヴィドックに遮られた。


「……なぜ止める」


 彼に腕を掴まれ、リュシアンは睨んだ。


「今まで、ティティーヌといたのか」


 俺の知らないところで彼女に近づき、仲良くしていたなんて。

 思っただけで嫉妬に狂いそうだった。

 対するヴィドックは冷めた目で見下ろし、淡々と言う。


「言ったはずだぞ」


 友として、今まで身を引いていてくれた彼が。


「ほかの女を想うなら、俺は奪うとな」


 牙を剥いた。

 そう仕向けたのはリュシアン自身だ。言い返すことはできなかった。しかし大人しく引き下がる気にはなれない。


「彼女と話をさせてくれ」


 謝りたい一心で頼み込んだが、


「あの人は誰です?」


 コレットに尋ねられ、言葉が詰まった。

 ヴィドックが鼻を鳴らして言う。


「説明してやれ。必要なことだろう」


 そしてティティーヌの後を追って、彼はリビングから出ていった。


「リュシアン様?」


 無垢な瞳で覗き込んでくるコレットに、リュシアンは力なく微笑んだ。


「よく聞いて欲しい。彼女は――」




 ◇◇◇




「やっぱり赤くなっちゃったわね」


 包帯を巻いたマークの腕を、ティティーヌは優しくさすった。


「ごめんなさい。お風呂はしみるかも知れないわ」


 申し訳なさそうに謝ると、マークが得意げに胸を張る。


「大袈裟だな、ティティーヌは。こんなの大したことないって」


 やはり男の子だ。幼くとも逞しい。


「強いのね」


 感心して告げると、マークも嬉しそうに微笑んだ。

 手当てを終え、道具を片づけたティティーヌに、壁に寄りかかって見ていたヴィドックが声をかける。


「お前も濡れてるぞ」

「え? どこ?」

「裾」


 言われて見れば、裾の脇辺りが紅茶色に染まっていた。


「着替えた方がいい」

「でも……」


 言いかけて、ティティーヌはちらりとヴィドックを見上げる。


「心配するな。俺たちは出る」


 そこまで気が利かない親子じゃないと言って、ヴィドックは笑いながらマークを促した。


「あ、でも今は……!」

「さすがにもうイチャついてはいないだろうよ」

「そ、そう……」


 赤い顔で納得したティティーヌを残し、ヴィドックたちは部屋を出た。

 リビングにはもう、リュシアンとコレットの姿はなかった。新しくコレットの部屋となったティティーヌの元書斎から、彼らの声が聞こえた。リビングが空いたなら、廊下まで出る必要はないだろう。ソファーに座り、ティティーヌが着替え終わるのを待った。隣にちょこんと座ったマークが、ふと口を開く。


「ねえ、父さん……。アンリはティティーヌを襲ったの?」


 真剣な表情で尋ねられ、ヴィドックは無言で息子を見つめた。

 マークは改めて尋ねる。


「アンリはティティーヌを襲った。そうなんでしょ?」

「……ヴァンパイアは人間の血を飲む。お前もそれは知ってるだろう」

「それで襲ったの?」

「実際には未遂だった。アンリも反省して更正した」


 だから責めるなと言ったヴィドックの言葉は、マークの耳に入らなかった。


「許せない」


 ティティーヌを食べようとするなんて。


「それにリュシアンは、ティティーヌの恋人だったはずだよね」

「……今もだ」

「でもほかの女に手を出してる」

「ヴァンパイアは重婚できる。罪じゃない」

「罪だよ」


 マークははっきり言い切った。

 ヴィドックは小さく息をつき、息子に言い聞かせる。


「ヴァンパイアにはヴァンパイアの流儀があるんだ」


 諭そうとする父親に、負けじと言い返した。


「ティティーヌを苦しませる奴は許さない」


 この言葉に、ヴィドックは口を噤んだ。

 マークは、強い眼差しでつぶやいた。


「許さない」


 リュシアンやアンリのやっていることがヴァンパイアの流儀だと言うなら、こっちにだって人狼の流儀というものがある。マークにとって、他人ではなくなったティティーヌを、傷つけられて黙ってはいられなかった。




 ◇◇◇




 バーンズが、ぺらぺらと紙をめくって数えている。アンリは傍らで椅子に座り、机に突っ伏してぼんやり見つめていた。紙の束をとんとんと机に叩いて揃え、バーンズがにっこり微笑む。


「五千枚完了です。お疲れ様でしたね、アンリ様」


 アンリは背伸びをして息をついた。

 更正して真面目に勉強をしているせいか、体の節々が痛い。なんとなく、視力も少し落ちた気がする。


「リュシアンのご褒美は眼鏡にするかな」


 冗談を言って立ち上がった。


「中庭ですか?」


 聞いてきたバーンズに、振り向いたアンリは頭を振った。


「もう中庭には行かない」


 数時間前のことを思い出し、自嘲がもれた。

 一日中 根をつめて勉強していると、ひどく疲れる。頭もぼーっとして、目も霞んでくるし、最近はよく中庭で息抜きをしていた。もちろんバーンズの見張り付きだが、部屋から出て外の空気に触れるのはいい気分転換になっていた。しかし、中庭を選んだ理由はそれだけじゃない。庭の端から、少しだけ見える温室。もしかしたら、ティティーヌに会えるかもしれない。間に分厚いガラスがあるからこそ、普通に話せるかもしれない。そうしたら、一言謝りたい。ずっと思っていた。僕のせいで怖い思いをさせてごめんなさい。クレイに殺されず、無事に戻ってきてくれて本当に良かった。彼女に会えたら、それを伝えたいって思ってた。だけど今日、アンリに気づいたティティーヌは、目が合ったとたんに恐怖を滲ませた。マークに見せていた顔とは全然違う。


(これも、自業自得なんだ……)


 クレイが彼女をさらった時、リュシアンが言っていた。

 失った信頼を取り戻すには、得た時の何倍もの努力や時間が必要なんだと。

 まさしくこれがそうなんだと、納得した。

 アンリは、まだティティーヌに何もしていない。謝ってもいないし、更正したことを伝えてもいない。彼女の中では、アンリはまだ危険な存在のままなのだ。逃げるのは当然。


(当然だよね……)


 怖がって後ずさるティティーヌを見て、乾いた笑いが浮かんだ。そしたら、彼女は逃げるように走り去った。

 思い出したマークは、こみ上げた涙をぐっとこらえた。歯を食いしばって、目を閉じる。


「アンリ様?」


 バーンズの声で我に返って、笑顔を見せた。


「それよりお腹減っちゃったな。早いけど、夕飯にするよ」


 すぐに夕飯にするべく、まずは罰が終わったことをリュシアンに報告しようと立ち上がる。


「今日の夕飯は何?」

「当ててみてください」

「そうだなぁ。肉の匂いはするけど、ヴィドック達のかもしれないし、ほかの匂いは……」


 和やかに話しながら廊下を歩いていたが、不意に棘のある口調で声をかけられた。


「食い物の話か。よっぽど飢えてるんだな」


 振り向いた先にいたのはマークだった。


「出される食事だけじゃ満足しないのか。それでティティーヌまで食おうとしたのか。野蛮な種族は一体どっちだ?」


 詰め寄るマークに、アンリは顔をしかめた。


「なんだよ、急に。失礼な奴だな」

「礼儀を知らない奴に失礼呼ばわりされたくないね。俺と会っても、挨拶なんかしたことないじゃないか」

「それは君が無視するからだろ」


 人狼は内向的で冷たい人が多い。マイペースで、顔を合わせても愛想笑いなんか絶対にしない。いつも澄ましてて、頭の中は自分と仲間のことだけだ。リュシアンと仲がいいヴィドックでも、それは例外じゃなかった。ヴィドックがリュシアンやサーガと親しくしているのは、友人だと認めているからだ。ほかのヴァンパイアやメデューサには目もくれない。息子のマークも同様で、彼はアンリを友人とは思っていなかった。


「そいうお前は部屋から出てこないじゃないか」


 顔を合わせようとしない相手に、無視も何もあるものか。

 人狼を野蛮だと見下し、鼻にかけてあしらっていたくせに。


「こんな陰気なところに閉じ込められてるなんて、ティティーヌが可哀想だ」

「なんだと?」


 かっとなって、思わず掴みかかろうとしたアンリを、バーンズの太い腕が引き止めた。


「まあまあ、アンリ様もマーク様も、喧嘩はやめましょう。ご主人様やお父上が悲しまれますよ」


 穏やかに告げられ、アンリは出しかけた手を引っ込めた。しかし、怒りの収まらないマークが更に追い討ちをかける。


「あんなに優しいティティーヌを食おうとしたなんて信じられない。お前らこそ獣だ。悪魔め。今度ティティーヌを襲ったら、この俺が食い殺してやる」


 吐き捨てられ、アンリは唇を噛んだ。

 分かっている。今なら自分がどれほどバカなことをしたのか。

 命の恩人であるティテイーヌを、食料としてしか見ていなかった。

 自分勝手で、浅はかだった。


(これも、自業自得……)


 頭では分かったが、マークに責められるのは気に入らない。


「バーンズ行こう。これ以上は相手にするだけ無駄だ」


 悔し紛れに言い捨てて、アンリは歩き去った。靴音を鳴らし、早足でその場を離れる彼をマークは睨む。

 リュシアンはティティーヌを傷つけている。アンリも彼女を脅かす。そして父親であるヴィドックはティティーヌを気に入っている。

 出てくる答えはひとつだった。


「ティティーヌにふさわしい男はリュシアンじゃない。ティティーヌの居場所はここじゃない」


 いつか必ず、彼女を奪う。

 それが彼女を救うことにもなるんだと、信じて疑わなかった。

 外はいつもと変わらない夜だった。頭上には無数の星と月、ほかには風に流されてちぎれていく薄い雲。どこかで梟が鳴いている。いつもと同じ穏やかな夜に、負の感情を抱く者がほかにもいた。


「まさか先に人間がいたなんて、誤算だったわ」


 月明かりさえも遮断した部屋で、蝋燭の明かりに照らされてコレットは爪を噛んだ。せっかく夢が叶ったと思ったのに、とんだぬか喜びだ。リュシアンに言われた言葉を思い出すと、悔しくてやり切れなくなる。


――彼女は俺の一番大事な人だ。


 口づけをしてくれたくらいで手に入れたと思い込んだ自分がひどく情けない。相手はヴァンパイア。一度に複数の対象を愛し、重婚が認められる恋多き種族だ。下調べで分かっていたことじゃないか。


「でも……、まさかこの時代に先を越されるなんて」


 考えもしなかった。


「このままにはしておけないわね」


 たとえ恋多き種族でも、コレットには受け入れられない。リュシアンの恋人は二人もいらないのだ。彼の愛を受け取るのは自分だけでいい。ティティーヌなんかより、自分の方がもっと彼を愛している。


「私の方がふさわしいんだから」


 つぶやくと、コレットは思いのままに部屋の扉を開けた。その足でティティーヌの部屋に向かい、扉を開ける。ベッドに座り、本を読んでいたティティーヌにコレットは立ったまま告げた。


「先に言っておくわ。リュシアン様は私がもらうから」


 単刀直入にはっきり伝えると、最初は驚いていたティティーヌが、内容を理解するなり静かに答える。


「それはリュシアン自身が決めることだわ」


 ティティーヌの愛を選ぶのか、それともコレットの愛を選ぶのか、はたまた二人の愛を選ぶのか。決めるのはティティーヌでもコレットでもない。リュシアンなのだと冷静に切り返され、コレットはつい言葉を詰まらせる。

 頭に血が上り、赤い顔をする彼女にティティーヌは言った。


「仲良くするのは無理でしょうね……」


 妖魔の世界でせっかく会えた同族、それも同性だ。こんな出会いは最初で最後かもしれない。できることなら、親しくなりたかった。しかし、同じ男を恋人に持つという環境で、親しくなることが難しいことくらい、考えなくても分かる。現にティティーヌだって、恋人であるリュシアンがほかの女と抱き合っているのを見て、本当は泣きたいほどショックだった。


「当然よ。私はあなたなんて認めない」


 敵意を剥き出し、言い捨てたコレットは乱暴に扉を閉めて出て行く。再び静まり返った室内で、ティティーヌは小さくため息をついた。読書を再開する気にはなれず、ぼんやりと花瓶に生けられた花を見つめる。先ほどリュシアンが持ってきた薔薇だった。深い紅色の薔薇。彼がこんな色を選ぶなんて珍しい。リュシアンはいつも、白やピンクなど淡い色を選んで持ってきていた。きっと今回はティティーヌに真意を伝えようとしてこの色を選んだんだろう。赤い薔薇は情熱や愛情を表す。新しい恋人ができても、真に愛しているのはティティーヌなのだと伝えたかったためだろう。そして彼は、言葉と態度でもそれを示した。


「本当にすまなかった。俺はとんでもない過ちを犯してしまった」


 彼は真摯に頭を下げた。


「彼女のことを知って、欲に呑まれたんだ。愚かだった。どうかしていた。もう二度とこんなバカなことはしないと誓うよ。俺が心から愛してるのは君だけなんだ、ティティーヌ。許してもらえるなら、どんな罰でも受ける」


 苦しそうな様子で顔を歪め、何度も謝った。


「どうか俺を捨てないでくれ。君を失ったら俺は生きていけない」


 あんなにも頼りなく、必死な彼を見たのは初めてだった。ティティーヌを失う恐怖に慄き、今にも泣きそうだった。そんな彼を目の当たりにして、責め立てることはできなかった。ティティーヌに近づくこともできず、少し離れた場所でずっと頭を下げ続けている彼。ティティーヌは歩み寄り、そっと肩に手をかけた。瞬間、彼の肩が小さく弾けた。


「顔を上げて」


 促すと、すがる瞳が恐る恐る上げられた。


「そんな顔……、リュシアンらしくない」


 微笑んで言うと、リュシアンが唇を震わせる。


「君を失いたくない……」


 声も震えていた。


「愛してるんだ……」


 思わず苦笑した。悲しみはあっても、怒りなんて元からなかった。覚悟していたことだと伝えたら、彼は眉尻を下げて更に謝る。コレットのことも家に帰すと言い出したが、ティティーヌはそれを止めた。彼女が危険を冒してまで望んで来たのなら、追い返すことは無意味に思えた。無駄な危険に晒すだけだ。

 そして先ほど乗り込んできた彼女のことを考える。またため息がこぼれた。受け入れたとはいえ、この先待ち構えているであろう苦難を思うと気が重かった。


(考えても、どうにもならないわね……)


 自分に言い聞かせ、気持ちを意識的に切り替える。熱いショコラでも飲んで読書を再開しようと、キティを呼ぼうとしたが。


「ティティーヌ」


 扉からひょっこり顔を出し、笑顔でマークが入ってきた。

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