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燃えろ突き箸

 ここで襲い掛かってくるとは思わなかった。気を付けていれば登れないことはないが、足を滑らせれば下まで転げ落ちることになる急坂。ぷにぷにした身体で、落ちても衝撃を抑えられるスライムはともかく、ちゃんとした肉体を持った敵がここで攻撃してくるとは。


 今にも迫ってくるバスカヴィルを見て、俺は驚くだけで何もできなかった。


「ぁ……わああああああっ!」


 チェルシーは違った。声を上げながら坂を駆け下りる。

 これまでこんな大声を出すことは無かったのだろう。少し間の抜けた掛け声だが、チェルシーは真剣だった。


 一本の箸を両手で握り締め、相手に向かって一直線。

 思えば、坂を登る間使わないなら一本貸してくれと言ったときから、チェルシーはこうなる可能性も考えていたのだろうか。


 レベルの桁が違う相手に対して、迷うことなく立ち向かう姿は、格好良かった。ぶつかり合う一歩前で踏み切り、体重を乗せてお箸を突き出す動きもさまになっている。


 けれど身体能力が違いすぎた。


 チェルシーの突き出したお箸は空を切る。前方へと集中した力は、向かう先を失った。前のめりな体勢で坂道に突っ込めば、当然姿勢を崩すし、そこで受身を取る知識はチェルシーには無い。


 チェルシーの勇気と力を振り絞った突撃は、あの化け物のような犬にとってはアリに噛まれる程度の話なのか。転んだチェルシーを振り返ることも無く、バスカヴィルは俺に向かって来る。


 近付けば近付くほど際立つ異常性。犬や狼の大きさじゃない。牛のような巨体の大半が、隆起した筋肉で出来ている。その身体の全てが無駄なく走るための要素。生き物らしい余分、脂身・贅肉がまるで無い。代わりに身体の関節部と尻尾の先から光る水晶のようなものが飛び出している。


「ナガツキ! そいつ、お箸を警戒してるわ。私を見て、一瞬噛みつこうとしてから行動を変えた!」


 立ち上がったチェルシーは、額から血を流していた。少し転げて擦りむいたのか、破けたストッキングにも血が滲んでいる。


「だから突っ込んで! 相討ちを避けるために、きっとそいつはまず避ける!」


 一回目は、お箸を直に見て、咄嗟に危険を感じたから。だが次も、相手は避けるだろうか。――答えはもう出てる。あんな血を流しながらも、チェルシーはお箸を投げる構え。相手が俺に噛みついて来たら、そのときにお箸を刺してやるという警告。投げるだけで攻撃になるのかは疑問だが、今はチェルシーに従うしかない。俺とバスカヴィルが接する場所が上になればなるほど、チェルシーのお箸投げの牽制力は落ちる。一刻も早く走り出さなければ、彼女の努力を無駄にすることになる。


 登るときはあれだけ大変だった坂が、下るときは一瞬。流れていく風景、不確かな足場が怖い。けれどそれ以上に怖いものが前に入るから、転ぶ危険はあまり感じなかった。


 お箸を握る。一本ではお箸として使えないからか、それとも今の俺がお箸を武器としてしか見れていないからか、知覚の強化はあまり感じられない。


 もう止まれない。あとはこの突き出したお箸と、チェルシーを信じるのみ。

 最後の一歩で目を閉じてしまったのは、信頼よりも恐怖からだったろう。交錯の瞬間、獣臭を感じる。風。チェルシーの言った通り、また相手は身をかわし、すれ違いになったと思った。


 思った直後に、腹を殴られていた。尻尾だ。相手は俺に向かって飛びかかりながら身をよじり、尾先の水晶を叩きつけてきたのだ。


 内臓が飛び出しそう。せり上がってくる吐き気で、思わずその場に手を付きそうになる。

 だが足を止めれば死ぬ。俺は不格好な姿勢で前に向かって飛び出した。傾斜に倒れ込み、重力に身を任せる。


 回るのと滑るのとで、もはや状況が把握できない。全身を打ちつけて痛いはずなのに、腹の痛みが強烈過ぎて他の細かな痛覚が気にならない。


 そのまま俺は、坂を転げ落ちていく。



                 ◆



 意識を失っている暇はない。平地まで落ちて、すぐに起き上がって振り返る。


 チェルシーが駆け下りてきていた。すぐ後ろを追うバスカヴィルの右足にチェルシーのブレザーが絡まっている。ちょうど袖の部分に足が入って、少し走り辛そうだった。上手く機転を利かして逃げ延びてきたのだろう。


「チェルシー!」


 バスカヴィルに向かって、バスケットを投げつける。砲丸投げで女子にも劣る俺だが、狙い通りにバスカヴィルの頭に向かって投げられた。

 すぐ払いのけられる。けど、注意は引きつけられた。俺とチェルシーを交互に見て、バスカヴィルが動きを止める。


 あのバスケットに残るベーグルとジャムの残り香が移って、少しはお箸の知覚力に影響しないかと期待したが、流石に無理か。


「ナガツキ。作戦通り、行くわよ」


 どういう意味かと聞き返す前に、チェルシーがお箸を投げた。

 チェルシーが隙を作り、俺がお箸で隙を突く。事前に話していた作戦。この状況で唯一相手に対抗しうる武器を手放す決断は、並大抵の覚悟ではない。


 ――だが、チェルシーにはコントロールが無かった。俺にも身体能力が無かった。

 投げられたお箸は、俺の手のすぐ先を行き、藪の中へと落ちていった。


 バスカヴィルの黒い唇が動く。滴り落ちる唾液。笑っているというのか。

 動きを止めた巨体からは汗の滴が止めどなく落ちていく。岩のような筋肉からは蒸気が立ち上る。それでいて、バスカヴィルの呼吸は一定のペースを保っている。疲労で動きが鈍る、なんて期待はできそうにない。



 目が合った。バスカヴィルは、先に俺を仕留めることにしたようだった。

 チェルシーを攻撃する間に俺がお箸で反撃してくることを警戒したということか。


 バスカヴィルが走り出す。包丁を抜いたチェルシーが後を追う。間に合わない。チェルシーよりバスカヴィルの方がずっと早い。



 俺に残ったチャンスは一度だけ。この瞬間に、あの牙で食いちぎられる前に、お箸を相手に刺すこと。

 集中しろ。全神経を使って、目の前の課題に取り組め。

 けれどお箸は力を貸してくれない。それどころか、逆に意識が遠くなっていくよう。


 霞む意識の中、地を踏みしめてお箸を握り直す。

 風と獣臭、前回のすれ違いでは、お箸を突き出したあとに臭いを感じた。だから今度は、もっと待つ。目をつぶって、お箸の力に頼る。知覚の限界まで引き出させなければ、死ぬ。


 あまり食欲の湧かない獣臭。突き出したお箸は、またも外れた。


 だから一瞬手に感じた熱さは、何かの反撃を食らったせいかと思った。


 違った。目を開ければ、バスカヴィルが燃えていた。


 後ろ足から始まった炎は見る間に全身に燃え移っていき、バスカヴィルが身もだえするほどに激しくなっていく。

 地面に転がって火を消そうとするバスカヴィルの背に、チェルシーが包丁を突き立てた。少し肉を裂いた後、硬いものに当たったような音がして包丁が止まる。

 火勢に負けてチェルシーが包丁から手を離したあとも、炎は燃え続けた。


「助かったの……?」


 返事をする前に、俺はその場に崩れ落ちていた。

 目の前が揺らいでるのは、炎のせいじゃなくて、ただ単に俺の目が回ってるのか?


「ナガツキ!?」

「ちょっと疲れただけだ」


 そう答える一方で、加速的に失われていく手足の感覚は、大丈夫じゃないと俺に訴えていた。


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