正しいお箸の使い方
集中する。
小枝を踏んで折ってしまう音。枯れ葉の舞い上がる音。地を伝う振動から、吐く息が落ちる様まで。
集中すれば集中するほど、自分の動作ばかりが気にかかる。鋭い知覚は不安を掻き立てるばかり。心臓が高鳴りは一拍ごとに激しさを増す。
何かいる。ちゃんと知覚できているわけではなく、ぼんやりとした勘で、この場にいる敵を感じている。
たぶん、強い。まともに向き合ったら話にならないようなくらいに。
でも、どこにいるかはまったく分からない。視覚も聴覚も上がっているのは確かなのに、そういった感覚ではまるで感じ取れない。
錯覚かもしれない。ただ不安になっているだけかもしれない。そう思う一方で、相手の存在を確信している。
自分の立てる音が邪魔で仕方ない。心臓が煩い。生理的に生じる自然な揺れが妙に気になる。気になりだすと余計に激しくなっていって、箸を持つ手が定まらない。
怖い。
でもまだ、あのとき竜から逃げたときほどじゃない。
「ナガツキ」
「ああ、わるい」
つい足が止まっていた。何度目だろう。お箸の五感強化を意識するあまり、無意識のうちに歩みが遅くなって、やがて立ち止まってしまう。
前を行くチェルシーが、そのたび足を止めて振り返る。俺とチェルシーとを入れ替えて、平原を歩いた時をやり直しているよう。
「本当は、どこか怪我してるんじゃない?」
「お箸の五感強化に気を取られてるだけだ」
焼肉を食べたときは、もっと自然にお箸の力が使えていた。力を使っている自覚すらなかった。
全身で味わう感覚。味覚ではなく、五感で食べる体験。眼下に広がる雲海も、静かに佇む土の臭いさえも、ひとまとまりに感じていた。
お皿、椅子、照明、お店そのものが食事体験を形作るように。あのとき、竜蹄山脈と俺は一体だった。聞き流していたおっさんの話さえも、心地良い環境音として俺の腹を満たしていた。
あの感覚があれば、このあたりのどこかにいる強敵だって、簡単に見つけ出せると思う。
けど、どうすれば。
「やっぱ、何か食べてないとダメなのかな」
お箸だし、ただ手に持ってるんじゃなくて、何か食べるべきなのかも。
少なくとも、両手に一本ずつ持ってダウジング棒っぽく構えるよりは、お箸らしい持ち方をした方が効果が高い気がする。
上の一本は、親指・人差し指・中指でつまんで自由に動かせるように。下の箸は親指と人差し指で支える。かちかち。箸先で空を掴む。
「空腹で動けないって言うの? 子供ね」
「そういう意味じゃなくて。お箸が効果を発揮するのは食事時かなって」
「この状況で何か食べようって発想はある意味尊敬するわ」
「まあ、落ちたときに荷物無くしちゃったから、何も食べるもの無いんだけどな」
無くしたベーグルが悔やまれる。まだ試してないベーグルタイプ&ジャムの組み合わせがたくさんあったのに。職人さんに半分渡した残りで、何と何を組み合わせるべきか考えてたのに……。
――! いま、何か。
「チェルシー、ちょっと待ってくれ。何か掴めそうだ」
「近くにいるの?」
「いや、違う……! 今、マーマレードの匂いがした気が……!」
心底飽きれた顔をされた。チェルシーが歩き出す。
「待ってくれ! 真剣な話なんだ! 残ってたジャムとベーグル、どれだけ覚えてる? 緑のやつって生地にヨモギ練ってあったのかな?」
「ナガツキ、頭打ってた?」
「打ってたけど関係無い!」
一瞬感じ取れた。遠く離れた――そう、俺たちが落ちた斜面の途中。突き出した根にひっかかって、バスケットが……。
「戻ろうチェルシー。ご飯を食べるんだ」
「ナガツキ、こっちに来るまでそんなに食べ物に困る様な生活してたの?」
憐れまれた。
困っていたといえば困っていたが、そこまで深刻に貧しい暮らしはしてなかったぞ。
◆
これまでの負い目もあってか、チェルシーは意外とすぐに従ってくれた。
押し潰された草葉。煙立つ赤土。そんな中、バスケット越しに微かに、それは薫っている。食べるイメージ。食事の心構え。
「あった……」
「本当にあった。これが、五感強化スキルの力なの?」
「ああ、おっさんのおかげだ」
再び戻ってきた坂下で、バスケットを開く。多少砂が入っていたが、食べ物はちゃんと布でくるんである。問題ない。
「いただきます」
まずは水から。乾いた喉を潤し、そしてベーグルに向かう。
「こんなことしてる場合……?」
「お腹がいっぱいになれば大抵の悩みは解決するんだ」
「……」
視線が痛い。
「やってみたかったんだ。チリソース+チーズ味」
「本当にお腹すいてただけじゃない! なんなのよあなた! いつになく真剣な顔で、『大切なことなんだ』なんて言うから戻ったのに。こうしてる間にもスライムは湧き続けてて、このあたりにいるかもしれない敵に見つかる危険が増していってるのよ!?」
「まあまあ。食事は楽しまないと」
「時と場合があるでしょ!」
「時と場合を味わってるんだよ」
「意味が分からないわ。英語で話してよ!」
「話せないよ。国語ですら苦手なのに」
チェルシーの横槍程度で集中を乱してはいけない。緊張感、敵意や視線まで含めて、今この瞬間を感じようとしているのだ。
お箸でベーグルをつつくのは奇妙だが、美味しいのであれば問題ないだろう。
五感強化の効果は強まってる。前よりもはっきりと、美味しいと感じている。一方で時間が経ったことでパサついているのも前以上に分かってしまう。
やはりパン類は焼きたてが一番。けれど、パサついたパンの後に飲む水は美味しい。
――しかし。
「チェルシー。俺たち、もう見つかってるのかもしれない」
感じ取ったと同時に、知覚域の外へと出ていく気配。集中するのに合わせて、より距離を取っていく相手。
この獣は、俺の存在に気付いていて、しかもその知覚の外ぎりぎりのラインを陣取っている。
バスカヴィル、レベル43。調理:今日は鍋の気分。
視認してもいないのに頭の中に流れ込む情報は、何の救いにもなってない。




