格好いいじゃない
全身まんべんなく痛い。浅い痛みじゃなくて、骨から響いてくるような辛さだ。痛みで頭がいっぱいになって、身体の動かし方さえ分からない。
「重い! 重い!」
「あ、悪い」
だから、チェルシーが声を出すまで気付かなかった。
俺がチェルシーにのしかかる形になっていて、しかも背中に手を回していて、俺とチェルシーの体重を受けた腕に血が巡ってなくて感覚が無いとか、全然気付いてなかった。頬と頬が触れ合うくらい近いとか、ふわふわした金髪が俺の肌に当たってて、柑橘系の香りがしていたりとか、本当に今気付いた。
チェルシーが俺の下から這い出る。
無言で見つめてくる。
真っ赤に上気した顔で、自分の身体を抱きしめて、伏目がちにこちらを見ている。握り締めた手が小さく震えている。
「全身痛いんで、お手柔らかにお願いします……」
「どういう意味よ、それ」
「殴られるのかな、って。怒ってるみたいだったから」
一瞬呆けた顔をしてから、チェルシーは口を尖らせて言う。
「どうして私が怒るのよ」
「意図したわけじゃないとしても、女の子を押し倒してしまったわけだし……」
「それは、私を庇いながら落ちてったからでしょ」
「そうなのか?」
「そうなのかって何よ。あなたのシャツは破れてるのに、私の服は汚れただけだし、そうなんじゃないの?」
「いや、落ちてる最中は軽く意識飛んでたから」
「そう」
服を手で叩くが、土で汚れたあとは無くならない。
腕を伸ばして袖の汚れを見て、「まあ、いいわよね」と呟く。
それから、いまだにうつ伏せのまま倒れている俺に声をかけた。
「ねえ、私、怒ってるように見えた?」
チェルシーは背が低いから、いつも俺を見上げていた。顔全体を上に向けて、なお上目遣い。正直言って、可愛いかった。
今は逆にチェルシーが見下ろしている。なのにいつもより弱々しく見える。
答えないでいると、チェルシーは一人で語りだした。
「私、あなたみたいになりたかった。誰かが失敗したときに、さっと手を伸ばしてあげられるような人になりたかった。私、元の世界ではいつも守られる側で、いつも誰かが側にいて、私のやること成すことみんな手伝ってくれて、代わりにやってくれて、私は一人では何もできなくて。周りの人が羨ましかった」
背を向けたのは、きっと顔を見られたくないから。
「あなたに声をかけたのはね、あなたが頼りなかったからなの。バレバレの尾行で、びくびくしてて、右も左も分からない様子で。それが気に入ったから、あなたに声をかけたの。私より弱そうだったから」
一歩一歩。言葉と共に歩いていって、やがて座り込んだ。
「変ね。そういう扱いをされるのが嫌で、そういう扱いをする人のことも嫌だったはずなのに」
今だけは、痛い身体が喜ばしい。痛みを理由に、動くことも考えることも放棄できる。俺はそんな深刻な調子で話されても、黙っていることしかできないから。
彼女の気持ちは俺には分からないし、分からないまま適当なことを言うのは失礼だろう。
いつもそう考えてしまって、何も言えなくなるのだ。
「私、ナガツキが憎い。私が必死に歩いてる前を息一つ乱さず歩いているのを見ているときも憎かった。村の中に入って、私がどう進んだらいいか分からないでいるのを、足跡を見てあっちだこっちだって、頼りになるあなたが憎かった」
「だから、私は怒ってたと思う。ごめんなさい」
最後はほとんど泣き声で掠れていた。胸の内から振り絞った言葉は、どうしようもなく重くて、俺には受け止められない。それに、怒っている相手は俺ではないのだ。
「少ししたら落ち着くから。それまで、話しかけないで」
◆
「このあたりはスライム出てこないんだな」
「いろんなクランを回って話を聞いてたとき教えてもらったんだけど、急に魔物が出てこなくなったら気を付けた方がいいそうよ」
土のついた袖で涙を拭ったせいで、目元が少し汚れている。
ハンカチを渡せたら格好良いだろうな、とは思うが、残念ながら持ち合わせていない。俺は実験用白衣の裾で拭くタイプの人間だった。
「強い魔物が生まれるときはそこに魔力が集まるから、周りに雑魚が出てこない空白地帯ができるんだって」
「スライムがいない代わりに、もっと強い敵がいるってわけか」
気を付けて登れば、落ちてきた斜面を戻っていくこともできそうだ。ただ、少しずつだけど、斜面の方にもスライムの姿が見え始めている。登っている最中に襲われると対処できるかどうか。
チェルシーは、上の方から見た時に大体の地形は分かってるから斜面を登らなくても林の外に出られると言っている。ただし、このあたりを歩き回るなら、強い敵と遭遇する危険がある。
「どうする?」
「チェルシーの記憶を頼りに行くことにしよう」
「いいの? 私、また失敗するかもしれないわよ」
たしかに、それは少し思う。スライムを狩るために開けた丘に出たけれど、あそこから見ただけで周りの地形を把握するなんて俺にはできない。というかスライム狩りに夢中で、あそこからの風景はほとんど覚えてない。
けど、今はチェルシーに頼った方が良い。その方が彼女の気が楽になると思う。
「いやあ、正直、もう斜面を残る気力が残ってなくて。チェルシーの記憶力が助かる」
それに、俺には一つ望みがある。
おっさんの箸だ。俺の包丁は落ちたときに無くなってしまったけど、おっさんの箸が残ってる。
この紫檀八角の禊ぎ箸には、五感強化スキルが付いている。実際、このお箸で焼肉を食べたときには、焼肉の薫りが風に乗って飛んでいく先、片面焼の織りなす食感のグラデーションの細かやな変化まで感じ取れた。
このお箸があれば、その強敵の存在を事前に察知して、上手いこと逃げられるのではないだろうか。
「……ごめんねナガツキ。気を使わせてしまって」
「そんなんじゃないって」
チェルシーは力無く笑った。咳き込んだのと区別が付かないくらい、くぐもった声だった。
「やっぱり、私は弱いね」