午前二時のラスト・ログアウト
元システムプログラマーの主人公が、大嫌いな「クソ仕様」の魔法システムをハックしていく異世界ファンタジーです。
ガールズラブ(百合)要素を含みますので、苦手な方はご注意ください。
楽しんでいただければ幸いです!
カタカタカタ、ターン。
静まり返ったオフィスに、小気味よい、しかしどこか苛立ちを孕んだ打鍵音が響く。
午前二時。
ビルの空調はとうに停止し、淀んだ空気とサーバーの排熱が、私のワンルームほどの狭いデスク領域に満ちていた。
「……なんで、ここでヌルポが落ちるわけ?」
一色いろは(いっしき いろは)、二十六歳。職業、システムプログラマー。
世間ではITエンジニアなどとお洒落な横文字で呼ばれることもあるが、その実態は、終わりの見えないデスマーチの泥沼でもがく泥臭い労働者だ。
ブルーライトに照らされた私の視界には、無数のアルファベットと記号が怪しく蠢いている。目の前にあるのは、十年前の先輩が仕様書も残さずに書き殴り、何代もの前任者がその場しのぎのパッチを当て続けた、文字通りの『スパゲッティコード』だった。
「ドキュメントなし、コメントなし、おまけに変数の命名規則はバラバラ。おまけにメイン処理は全部ブラックボックスの外部API丸投げって……これ書いた奴、ちょっと机まで来い。小一時間問い詰めさせてくれ」
誰もいないオフィスで、口を突いて出るのは呪詛のような愚痴ばかりだ。
今月に入ってからの平均睡眠時間は、おそらく三時間を切っている。
エナジードリンクの空き缶が、デスクの隅にまるで墓標のように積み上がっていた。私の肝臓と腎臓は、すでにカフェインとアルギニンの過剰摂取で悲鳴を上げているに違いない。
私は乱暴に髪を掻きむしり、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
限界だった。脳の処理速度は確実に低下しており、さっきから同じ行のコードを何度も往復している。
そんな私の唯一の現実逃避であり、生きるための燃料となっているのが、スマホの画面に表示されたウェブ小説――それも『魔導ファンタジー』と呼ばれるジャンルの物語を読むことだった。
「はぁ……魔法、かぁ……」
ため息とともに呟く。
スマホの画面の中では、主人公が華麗な詠唱とともに、巨大な火球を放って魔物を一網打尽にしていた。私の荒んだ心に、その非現実的なカタルシスがじんわりと染み渡る。
ただ、私はオタクであると同時に、職業病に侵されたプログラマーでもあった。小説を読みながらも、脳内では勝手にその『魔法』のシステムを独自の言語で翻訳してしまうのだ。
「もし私がこの世界に行ったら、魔法の仕組みを徹底的に解析するのにな。だって、魔法って究極のロジックでしょ? 詠唱はソースコードのコンパイルだし、魔力回路はハードウェアのバスライン。属性変換はデータ型のキャスト。そうやって、自分の意図した通りのアルゴリズムを構築して、完璧な現象として世界に出力する……。あぁ、なんて美しくて、ロマンがあるんだろう」
自分で組み立てたコードが、一文字のバグもなく完璧に動作した瞬間の万能感。
それを現実の物理法則を超えた『魔法』という形で体験できたら、どれほど素晴らしいだろう。それこそが、現世の今現在で私が夢にまで見た、究極のエンジニアリングの姿だった。
しかし、スマホの小説が進むにつれ、私の眉間に再び皺が寄る。作中で主人公が『聖魔法』なるものを行使し始めたからだ。
「……チッ。また出たよ、聖魔法」
私は思わず舌打ちをした。
なぜか。私は昔から、ファンタジー小説に出てくる『聖魔法』という概念が、どうしても好きになれなかった。熱烈なアンチと言ってもいい。
作中の聖魔法は、こう描写される。
――神に祈りを捧げると、聖なる光がポワァンと溢れ出し、あらゆる傷を癒し、悪を滅ぼすと。
「いやいやいや、おかしいでしょ。なんで『祈る』だけで最適化された回復現象が起きるわけ? その体細胞の結合を促進させるエネルギーのベクトル計算はどうなってるの? 対象のDNA情報をどうやって読み取って修復してるの? 中身の処理が完全に隠蔽されたブラックボックスじゃない。ソースコードの開示もされてないし、エラーハンドリングすらユーザー側に任されてない。ただ用意されたユーザーインターフェース(GUI)を叩いてるだけ。そんなの、魔法に対する侮辱だよ……!」
熱弁を振るう相手は、当然ながら誰もいない。
深夜のオフィスで二十六歳の独身女性が魔法の仕様について熱くなっている姿は、客観的に見れば完全に危険人物だが、今の私にはそれが大真面目な思想だった。
もし魔法があるなら、私は泥臭くても『基本五属性魔法』がいい。
火や水、風の挙動を、自分のロジックで緻密にコントロールして放つ。それこそが『開発者』の誇りというものだ。
「……よし、現実逃避終わり。デバッグに戻るか」
スマホを伏せ、私は再びモニターに向き直った。画面には相変わらず、終わりなきバグの羅列。
私はキーボードに手を乗せ、再びコードの海へ潜ろうとした。――その時だった。
ドクン。
心臓が、妙に大きく、歪な音を立てて跳ねた。
「え……?」
冷や汗がドッと全身から噴き出す。
呼吸が急に浅くなり、肺が酸素を拒絶しているかのように苦しくなった。視界の端が、テレビの砂嵐のようにチカチカと明滅し始める。
「あ、あれ……? 息が……」
胸の奥を、目に見えない巨大な手にギチギチと締め付けられるような激痛が襲う。
キーボードを押さえる指先から、急速に感覚が失われていった。マウスを握ろうとするが、右腕が重鉛のようになってピクリとも動かない。
(嘘、これ、マズい……。噂に聞く、過労死ってやつ……?)
脳内で、強制終了の警告ポップアップが乱立するような焦燥感が駆け巡る。
しかし、身体は完全に制御を失っていた。ガタガタとキーボードを叩くような不規則な音が鳴り、私の視界はデスクの木目へと急降下していく。
ゴン、と額を鈍くぶつける音が聞こえたが、その痛みすら、遠くの出来事のように霞んでいった。
視界が急速に狭まっていく。暗転していく脳裏の中で、なぜかプログラマーとしての冷徹なラスト・ログが走り続けていた。
[CRITICAL_ERROR] HeartRate: 0 bps
[SYSTEM] Thread 'MainLife' interrupted by Fatal Overload.
[SYSTEM] Dumping memory...
[SYSTEM] Allocating alternative resources... Failed.
[SYSTEM] Shutting down...
(あぁ……。私の人生のプログラム、ここで異常終了かぁ……)
仕様書のない人生だった。他人の尻拭いばかりの二十六年だった。
せめて、最後くらいは……自分で書いた、美しくて完璧なコードを動かしてみたかったな……。
そんな未練を残しながら、私の意識は完全に漆黒の深淵へとシャットダウンされた。
一色いろはの生涯は、午前二時十五分、誰に看取られることもなく静かに幕を閉じた。――はずだった。
【警告:未定義の外部シグナルを受信しました】
暗黒に包まれていたはずの私の意識に、突如としてノイズ混じりの「文字」が直接流れ込んできた。いや、それは文字というより、魂のコアへ直接書き込まれるログデータだった。
[SYSTEM] External Call: 'World_Summoning_Protocol' initiated.
[SYSTEM] Target ID: 'Iroha_Isshiki' -- Status: Deceased.
[SYSTEM] Error: Target object is null. Restructuring data structure...
[SYSTEM] Overwriting Core Class: [Saint] applied.
[SYSTEM] Transferring Magical Registry... Authority level: Root (10 Circles).
(な、何……これ……? 私の脳内で、勝ためにオブジェクトが生成されてる……!?)
死んだはずの意識が、猛烈な勢いで再起動を始めていた。
それも、前世の私の肉体という貧弱なハードウェアではなく、全く新しい、莫大なメモリスペースを持つ超高性能なシステムへと強制的にデータが移行されている感覚だ。
【初期化完了。世界サーバー『エルラディン』への接続を開始します。ロール:聖女】
(聖女……!? 今、聖女って言った!?)
私の意識が叫ぶ。
冗談じゃない。聖女ということは、あの私が大嫌いな、ブラックボックス塗れの『聖魔法』を強制される役職ではないか!
(嫌だ! 仕様変更を要求する! 私は普通の魔法使いがいい! 開発者にジョブチェンジさせて!!)
しかし、私の魂の叫び(エラーハンドリング)は、無情な世界システムによって無視された。接続処理は、私の意思に関係なく進んでいく。
【接続完了。オブジェクトを出力します。――3、2、1】
バチバチバチッ! と、全身の神経を突き刺すような強烈な電流が走る。
次の瞬間、私の閉じていた視界に、気が遠くなるほどの純白の閃光が突き抜けた。オフィスビルの天井でも、死の闇でもない。
それは、新たな世界の始まりを告げる、圧倒的なシステム起動の光だった。――
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