第65話 数字ではなく、君を。
エピローグ。
あの日から——一年が経った。
春。シルヴァーノ湖のほとりに、柔らかい風が吹いている。
庭園の赤い薔薇が満開だ。セラフィーナが分けてくれた苗から育った薔薇が、白い薔薇の間で鮮やかに咲いている。
朝。いつものように執務室に向かう。
リゼットの頼みでアシュフォード子爵領からこちら(公爵邸)に働きに来てくれているマルタと、廊下ですれ違った。
「おはようございます、レン様。今朝のスープは、レン様のジャガイモの皮むき——やっぱり厚すぎますね」
「まだダメですか……」
「あと十年は修行ですね」
マルタが笑った。好感度は——見ない。見なくても、この人の小言が愛情だと、もうとっくにわかっている。
訓練場でフィーネとすれ違った。正式なシルヴァーノ騎士団の制服を着た彼女は、以前よりも凛々しい。
「おはよ、レン! 今朝の素振りどうだった?」
「千回やった」
「少ないよ。あたしは朝だけで千五百」
「鬼!」
「鬼コーチだからね!」
フィーネが笑った。三日月の笑顔。好感度は見ない。数字で測る必要のない絆がある。
執務室に入る。ブレンナーが書類を整理している。
「おはようございます、レン殿。本日の予定は——」
「おはよう、ブレンナーさん。セラフィーナからの聖典研究レポートが届いてるはずですけど」
「こちらに。リゼット様もお読みになるでしょうから、二部用意しました」
「さすが。完璧ですね」
「恐れ入ります」
ブレンナーの好感度は——見ない。眼鏡の奥の信頼が、十分に語っている。
そして——リゼットが来た。
いつもの白いブラウスに紫のリボン。プラチナブロンドの髪をゆるく編んで。
俺の隣の椅子に座った。距離ゼロ。
「おはよう」
「おはよう、リゼット」
自然だ。何も特別ではない。毎朝繰り返される、ただの挨拶。
だが——この「ただの挨拶」に辿り着くまでに、どれだけの道のりがあったか。
-50から始まった。嫌われて、避けられて、睨まれて。
好感度が上がったり下がったり。壊れたり消えたり。
泣いたり笑ったり。裏切られたり裏切ったり。
刺されて血を流して。仮面が落ちて。手を握って。
全部——全部あって、今のこの「おはよう」がある。
「レン」
「うん」
「今日は——何を見ていますか」
「君の横顔」
「……見すぎです」
「見たいから見てる。好感度の能力じゃなくて——ただの目で」
リゼットの耳が赤くなった。一年経っても——これは変わらない。
「……レン」
「うん」
「私の好感度——今、いくつに見える?」
あの質問。何度目だろう。
答えは——いつも同じ。
「見てないよ」
「もし見たら——何が見えますか?」
「∞」
「……覚えていたのですか」
「一生忘れない」
リゼットが——笑った。
人前で(ブレンナーがいるが)。
満面の。
生まれて初めてではない。でも——今までで、一番美しい笑顔。
「……馬鹿」
「知ってる」
「大好きです」
「俺も」
ブレンナーが咳払いをした。書類で顔を隠しているが——眼鏡の奥が笑っている。
窓の外で、シルヴァーノ湖が春の光に銀色に輝いている。
俺は《心鏡の瞳》を持っている。今でも誰かの好感度を見ようと思えば見える。
でも——見ない。
リゼットの顔を見ていれば、わかるから。
目の色で。声の温度で。手の震えで。耳の赤さで。
前世の俺が最期に願った「数字で人の気持ちがわかれば」——その願いは叶った。
そして、もっと大きな答えを見つけた。
数字なんかなくても。
人の気持ちは——わかる。
レンはふと——こっそり、本当にこっそり——《心鏡の瞳》を、一瞬だけONにした。
リゼットの頭上に。
【∞】
一年前と同じ。無限大。
変わっていない。ずっと、∞のまま。
レンは微笑んで——能力をOFFにした。
もう、見なくていい。
∞は——変わらないから。
——完。




