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祈りの重さを知るがいい。—聖女を捨てた王太子、すべてを失ってからが本番です—  作者: 久遠


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第二話|役立たずと追放された聖女、もう祈らないと決めました

 朝の市場は、いつも眩しいほどの活気に満ちていた。

 石畳を叩く靴音、威勢のいい売り声、無邪気な子供の笑い声。それらが重なり合い、心地よい不協和音となってエリスの耳に届く。


 かつて慣れ親しんだ、かの国の城の廊下は、いつも静かだった。足音を立てることすら、はばかられるような静けさだった。

 今は、この耳障りなほどの賑やかさが、何よりも愛おしい。


「聖女様、今日も良い朝ですね!」


 馴染みの花屋の老婆が、深い皺に喜びを湛えて手を振る。エリスは小さく会釈を返し、店先に並んだ花々に目を落とした。白い小花が、朝露を纏って静かに揺れている。ただ、それだけを見つめていた。  

 

 運命の分岐を感じ取ろうとするのでもなく、破滅の兆しを遠ざけようとするのでもない。ただ、「花が綺麗だ」と、それだけを思った。


(——ああ。私、こんな風に世界を見ることができたんだ)


 その当たり前の事実に、まだ心が追いついていなかった。


 カイル殿下に連れられ、隣国ラースベルトに移り住んで一ヶ月が経つ。ここは、歴史の表舞台に一度も立ったことのない、取るに足りない小国だ。

 軍事力も資源もなく、かつてアルリックの傍にいた貴族たちは「名ばかりの国だ」と鼻先で笑っていた。だが、その「何もない」ことが、今のエリスには至上の救いだった。


 城の廊下を歩いていると、カイルとすれ違った。


「顔色が良くなったな、エリス」


 彼は足を止め、柔らかく目を細めた。そこには、彼女の能力を値踏みするような翳り(かげり)はない。ただ、一人の人間が健やかであることを喜ぶ、純粋な眼差しだった。


「……そうでしょうか」


「ああ。来た頃とは別人だ。あんなに透明だった肌に、今はちゃんと血が通っている」


「……そうかもしれません」


 エリスは少し考えてから、小さく頷いた。かつての自分がどんな顔で笑い、どんな顔で祈っていたのか。鏡を見る余裕すら奪われていた彼女には、もう思い出せない。ただ、朝目覚めたときに肺の奥を刺すような痛みが消えている。それだけで、世界は塗り替えられた。


「今日も無理はするな。何もしなくていいのが、この国の美点だからな」


 カイルはそれだけ言い残して、軽やかな足取りで去っていった。

 ——不思議な人だ。エリスに何も求めず、何も期待せず、ただ彼女がそこに存在することを許している。


 午後、木漏れ日が揺れる庭園のベンチに腰を下ろした。目を閉じると、風が頬を撫でる音が聞こえ、鳥の囀りが遠く響く。

 エリスは、何もしなかった。


 かつての城では、目を閉じることこそが「戦い」だった。瞼の裏には無数の運命の糸が絡み合い、その中から最悪の結末を選び出し、一筋ずつ解いていく。眠っている間でさえ、意識は確率の海を漂っていた。  


 けれど、今は違う。

 目を閉じると、ただ、暗い。穏やかで、静かな闇が広がっているだけだ。


(……ああ。これが、『休む』ということなのね)


 肉体ではなく、魂の休息。それを初めて理解したとき、エリスの心に温かな感傷が溢れた。


 その夜、窓の外で北風が咆哮を上げた。

 眠れずに窓辺に立ったエリスは、遠い空を見つめた。北の方角——かつて自分が守っていたはずの国が、微かに赤く燻っている。


「……ああ」


 呟きと共に、胸の奥にわずかな重みが走る。けれど、エリスは手を伸ばそうとはしなかった。

 もう伸ばせるほど近くはないし、伸ばすべき手でもない。

 

 彼女はそっと、窓を閉めた。寝台に戻り、横になる。瞼の裏は、相変わらず静かな暗闇に満ちていた。


 明日もまた市場へ行き、老婆と挨拶を交わそう。そんなささやかな明日を願いながら、彼女は深い眠りに落ちた。


 翌朝。

 城門に見慣れない男が立っているという報告が、平穏を破った。


「王太子と自称してはいますが、身なりはボロボロで……また、なかなかの執念でして」


 そういう門番の言葉を、エリスは静かに察した。


 廊下を歩く足取りは、驚くほど軽い。よく眠れた体が、意志を素直に反映している。その喜びを噛み締めながら、彼女は重厚な扉を開いた。


 ——石畳の先に、その男は立っていた。  

 かつて『祈るだけの女は不要だ』と言い放った王太子。

 エリスは、彼をまっすぐに見つめた。そこには怒りも復讐心も、ましてや懐かしさなど欠片もなかった。

 ただ、今の自分に「苦痛」がないという事実を再確認しただけだった。


「……エリス」


 男が掠れた声で名を呼ぶ。泥に汚れ、見る影もない姿。だが、その瞳の奥には、未だに捨てきれない腐った傲慢さがこびりついていた。


「迎えに来てやったぞ」


 エリスは一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。そして、凪いだ海のような声で答えた。


「必要ありません」


 感情を込めず、拒絶の意志さえ乗せない。ただ、揺るぎない事実を提示するように。


「……は?」


「私は、もうここで生きていますから」


 その言葉には、一切の迷いも、付け入る隙もなかった。


 ——その瞬間。


 男の足元の石畳が、唐突に不自然に崩れた。


「……ッ!?」


 支えを失った体が、無様に前のめりに崩れる。男は膝から地面に叩きつけられ、かつて自分が踏みにじっていた石畳に額を擦りつけた。    


 エリスは、それを見下ろしていた。手を貸そうともせず。ただ、静かに。


「……なぜだ。なぜ、助けようとしない……!」


 信じられないものを見るような男の問いに、エリスは少しだけ首を傾げた。そして、かつて彼が彼女に贈った「最高に冷酷な言葉」を、そっくりそのまま返した。


「“何も起きていないだけ”、なのでしょう?」


 男の瞳が、恐怖と絶望で大きく見開かれた。言葉が出ない。


 エリスはそれ以上何も言わず、ただ穏やかに春の陽光の中に佇んでいた。

(続)

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