第一話|追放した聖女が消えた瞬間、国の“幸運”がすべて消えました
※本作は前作「祈りの重さを知るがいい。」の続編ですが、本作単体でも読めます。
前作『祈りの重さを知るがいい。』
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夜が来ない。
……正確には、この地獄に「終わり」という幕が下りないのだ。
——俺は、死なない。
暗殺者が放った矢が、俺の喉を正確に射抜くはずだった。
だが、放たれた瞬間に矢羽が腐り落ち、軌道がわずかに逸れた。矢は俺の頬を掠めるだけに留まり、背後にいた大臣の眉間に突き刺さった。
猛火が、俺を焼き尽くすはずだった。
寝所に火を放たれ、逃げ道はすべて炎に包まれた。熱風に肺が焼かれる感覚に、俺はついに最期を覚悟した。
だが、その瞬間に床が抜け、俺は階下の水路へと叩き落とされた。汚泥に塗れ、骨が軋むほどの衝撃を受けたが、心臓は無様に動き続けている。
——笑えない冗談だ。
逃げ場のない災厄が、呼吸の間隔で俺を襲い続けている。
運命にただ嬲り尽くされるのを待つくらいなら、自ら幕を引く方がまだマシだ。そう思って手を尽くしたが——世界は、俺に敗北を認めることさえ許してくれないらしい。
王太子、アルリック。それが、かつての私の名前だ。
今はただの「死なない男」として、崩壊していくこの国を眺めている。
かつて俺は、民に手を振るだけで歓声が上がった。だが、今日、瓦礫の隙間から顔を出した俺に、民が石を投げつけてきた。
『この死に損ない!お前のせいだ!!』と———
城は半分が瓦礫と化していた。豪華だった廊下には、血と、焼け焦げた肉の臭いがこびりついて離れない。
かつて笑い合っていた者たちは、今や互いを疑い、牙を剥き、獣のように殺し合っている。止める者は誰もいない。
ミーナは三日前に街から逃げ出したと聞いた。あの光の指先が、今も誰かを照らしているのかは知らない。
あの日、エリスを嘲笑した貴族たちは、今や瓦礫の隅で残飯を奪い合っている。あれほど誇らしげだった絹の衣は泥に塗れ、互いを売り、互いを罵り——かつての威厳など、欠片も残っていない。
運が悪すぎるのだ。なにもかもが。
食糧庫の備蓄は一夜で腐り、重要な書簡はなぜか届かず、届いたと思えば中身がすり替わっている。
兵は平地で足を滑らせて首を折り、火は意図せず燃え広がる。
誰もが口を揃えて、絶望と共に吐き捨てた。
——呪われた、と。
「……ふざけるな」
喉の奥から漏れた声は、自分でも驚くほど乾ききっていた。思い当たる節が、ないわけじゃない。
あの女だ。
いつも俺の隣にいた地味な聖女。名をエリスと言った。
奇跡など一つも起こせない、無能の象徴。
祈るだけでなにも変えられない、価値のない女。
——少なくとも、俺はそう思っていた。
◆
『地味に突っ立って祈るだけの女は、もう不要だ』
そう言って、俺は彼女を切り捨てた。泣きもせず、怒りもせず、ただ静かに頭を下げて去っていったあの背中を、今でも鮮明に覚えている。
(過去——婚約破棄の少し前)
「エリス、君は一体この国で何をしている?」
広間には貴族と重臣たち。視線が一斉に集まる。
「祈っております。殿下と、この国の安寧を」
「……それで?」
「……はい?」
「“それで何が変わった?”と聞いている」
エリスが、静かに口を開く。
「私の祈りは……不運を、貴方や貴方の統治が及ぶ全ての事象に届かせないためのものです。
災害も、疫病も、暗殺も。すべて——」
「くだらん」
アルリックは遮った。肩をすくめ、隣に立つミーナへ視線を送る。
「ミーナは分かりやすい。光を生み、民を癒し、目に見える形で国に貢献している」
ミーナが微笑み、指先で光を弾く。貴族たちから感嘆の声が上がる。
「だが、君はどうだ? 災害が起きない? 疫病が流行らない? 暗殺が成功しない?
それは“君が凄い”のではなく、“何も起きていないだけ”だ」
クスクスと笑いが広がる。アルリックは、静かに最後の一言を突きつけた。
「存在しないものを “守っている”と言い張るなら——それはただの妄想だ。
そして……王太子妃には、“象徴”が必要だ。民が見ても理解でき、崇められる存在としてな。
…エリス、君との婚約を破棄する」
エリスは、頭を下げる。
「……承知いたしました」
その声は、あまりにも静かで。
ただ一つ。ほんの僅かな哀れみだけが、そこにあった。
◆
——その直後。
この国から、すべての「幸運」が消失した。
最初に死んだのは、大臣だった。
慣れ親しんだはずの階段で足を滑らせ、呆気なく首の骨を折った。
次は騎士団長だ。
訓練中の事故——ありえない角度で跳ね返った剣が、自らの喉を裂いた。
偶然にしては、出来すぎている。いや、あれは、偶然なんかじゃない。今なら、痛いほど理解できる。
今までエリスが長年押さえ込んでいた不運が、解除された瞬間に一気に崩れただけだ。
「……エリス……」
その名を呼んだ瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。そして、あの日の彼女の言葉が甦る。
『そのすべての"発生確率"を、私は長年、身を削って『ゼロ』に固定し続けてきました』
あいつは、陰で何をしていた?
代わりに何を失っていた?
なぜ、それを——俺は、一度も考えようとしなかった?
瓦礫の向こうで、また悲鳴が上がる。崩れた柱の隙間から差し込む光は、妙に白く、そして冷たかった。
『……それは、“何も起きていないだけ”だ』
ふいに蘇ったその言葉は、今の俺をあざ笑う冷たい風のようだった。
——ああ、俺の声だ。
エリスを、あの聖女をゴミのように追い出した日、確かに俺はそう言って鼻で笑った。
その言葉が今、鉛のような重さで喉に居座っている。
「……ッ」
この国は、もう終わっている。
だが、皮肉なことに俺はまだ生きている。俺を無様に『生かし』続けている、この薄気味悪い幸運……。いや、その時が来るまで「死」という救いすら与えられない、残酷な不幸のせいで。
——俺なら、まだ間に合う。あいつは、最後まで俺に逆らわなかった。今さらこの俺を拒む理由もないはずだ。
……少しは、言い方を間違えたかもしれない。 だが、それはあいつが「分かりにくい手柄」を立てていたせいだ。
あいつも、俺の気を引きたくてこんな派手な『嫌がらせ』をしているに違いない。
俺が直々に迎えに行ってやれば、あいつも自分の価値を認めてくれた俺に、泣いて感謝するだろう。少し謝って隣に置いてやると言えば、また喜んで俺のために祈り始めるはずだ。
俺にはその価値がある。あいつを『聖女』にしてやれるのは、俺だけなのだから。
足を引きずり、瓦礫の山を踏み越える。
確信に近い予感に、口角が醜く歪んだ。
「……会いに行く」
あの女に。
俺から、平穏も、未来も、すべてを奪い去った
——あの聖女に。




