外部コーチ
高田結香は、地方の高校の3年生だ。すでに、卒業後は、地元では、有名なホテルへの就職が、決まっていた。
「結香。一緒にバイトしようよ」
こう言ってきたのは、親友の福波恵里子だ。彼女もすでに地元の工場への就職が、決まっていた。どちらかといえば、明るく社交的で、美人の恵里子と、物静かで人見知りな結香は、選んだ就職先が逆のような感じだ。
「突然、どうしたの? 」
「これから、いろいろお金が、必要な時期じゃない。それに、私たち就職も決まったから暇だし」
「私まで、暇だって、決めつけないで。それに、恵里子は、デートが、忙しいでしょ? 」
恵里子の彼氏は、山井奎吾。同級生同士ということもあるが、おそらく学年で、一番と言っても、過言ではないくらいモテる恵里子と、頭が良くて、目立たない奎吾が付き合っているのを知らない人は、ほとんどいない。恵里子に言わせれば、「頭がいいだけじゃなく、スポーツも人並み以上で優しい。顔もそこそこだし、総合1位」だそうだが、結香には、全く良さがわからない。それは、結香だけではないようで、ほとんどの女子は、「なんで、恵里子は、あんなやつと、付き合っているんだろう」と言っている。また、恵里子は、奎吾から告白されたと言っているが、そんなことをするようなタイプに思えないので、信用されていない。要するに、謎のカップルだ。
「奎吾は、受験勉強で忙しいからデートなんて、そんなに頻繁にできない。でも、彼の誕生日もあるし、クリスマスも。プレゼントくらい買ってあげたいじゃない。それに、就職する前に1回だけ、クルーってやってみたかったんだ」
「ファーストフード? 」
「そう。ハンバーガー屋さん。結香は、同じサービス業だからいい経験になると思うよ」
「うーむ。そう言われると、やった方がいいかな。とりあえず、親に話してみる」
「そうして」
恵里子は、そう言って帰りにハンバーガー屋さんに一緒に寄った。結香は、早速ここのクルーになった姿を想像していた。しかし、急に不安になった。
「スマイルかぁ」
「そう。スマイル。いいよね」
客として、ハンバーガーを食べ終えると、西宮健太店長に会った。そして、簡単に説明を受けて、すぐにでも入ってほしいと言われたが、さすがにそれは、断った。
帰宅すると、自室の鏡に向かって、笑顔を作った。
「なんか、ぎこちないなぁ」
楽しかったことを思い出したりしながら、
「いらっしゃいませ」
とか、言ってみた。これなら、合格なんじゃないかなぁと、晩御飯の支度をしに台所へいった。とはいえ、母親が、ほとんど下ごしらえしていて、焼くだけや温めるだけなのだが……。そんなことを、している間にも、ダイニングにある、姿見で笑顔を作っていると、
「何、鏡に向かって、ニヤニヤしているんだよ。気持ち悪いな」
一番見られたくない、弟の悠治が、ダイニングに来て、そう言った。中学3年生なので、受験生だが、たかだか高校受験なので、べつにそういわれるほど、大袈裟なものじゃないと言っている。実際、成績は、良いみたいだ。
「うるさい。ご飯の準備しているんだから、どっか他に行って」
「どうせ、準備なんて、レンジで温めて終わりだろう。それに、もうすぐご飯の時間じゃないか」
高田家は、だいたい夜7時ごろに食事をする。たしかに、もうすぐ、その時間だった。そして、両親とも帰って来た。結香は、いただきますと言い終えるとすぐに、
「私、バイトしようと思っているけど、いいかな? 就職してからも役立つと思うし」
「いいんじゃないか」
「どこで、やるの? 」
「ハンバーガー屋さん」
「それで、さっき鏡に向かってたんだ」
「あんたは、うるさい」
「でも、本当に大丈夫なの? ああいう店は、笑顔で対応しなきゃ」
「わかっている。ホテルだって、そうなんだから、練習を兼ねてやってみたいの」
「そうね。やってみたら」
「えー。ハンバーガー屋さん、行けなくなるじゃないか」
「あんたは、来なくていいから」
「いつからなの? 」
「明日からかな」
翌日、恵里子に、親の許可を得たことを伝えると、案の定、
「やった。今日からやろうよ」
と言った。
「でも、まだ学校に言ってないよ」
「そうだったね。面倒だけど、昼休みに言いに行こう」
ということで、職員室で担任の上代綾子先生に話した。
「いいことだけど、就職が決まっていても試験はあるから。もちろん、欠点もある。そうなったら、すぐに辞めてもらうよ」
プレッシャーは、かけられたものの許可してもらえた。
「やった。これで、なんの問題もない」
「ということだね。あとは、無事に務まるかなぁ」
「マニュアル通りにやれば、なんとかなるでしょ」
たしかに、恵里子には問題ないだろう。だいたい、いつも笑顔だし、誰からも好かれる。一方、結香は、いつも無表情で、あまり、他人から好かれることは、多くない。元々は、結香も、そうではなかった。
まず、1つは、高校に入学した時、結香は普通に笑顔を見せていた。しかし、同じクラスにいた、山原愛徳に一目惚れした。それは、結香だけではなく、彼の存在を知っているほとんどの女子が、そうだった。例外は、すでに彼氏がいるか、恋愛に興味がないか、恵里子のような変わった好みの持ち主だった。愛徳のそばには、いつも西丸染郎が、くっついていた。2人は、中学まで、野球のバッテリーだったらしい。この、染郎がいつもニヤニヤしていて、気持ち悪い。愛徳に、好意を持つ女子には、嫌われていた。
よく考えたら、みんなライバルなのに、同じ理由で、多くの女子から嫌われる、染郎は気の毒だ。しかし、どのタイミングで、聞いたのか、何人かが共通のことを言っていた。
「愛徳君は、男は、いつも笑顔でいる人が、好きだけど、女は滅多に笑顔を見せない人が、好きなんだって。自分といる時に、最高のを見たいって」
「やった。という事は、愛徳君が好きなのは、恵里子じゃないんだ」
その噂を聞いた女子から、笑顔が消えた。結香も、もちろんだ。そして、みんなが恵里子以外なら勝負できると思っていた。だが、最近になって、ようやく、あれは嘘で、愛徳は、ずっと恵里子が好きだったことがわかった。早い段階で、付き合い出した、恵里子と奎吾だが、愛徳もみんなと同じで、すぐに別れると思っていたようだ。今更、そんなことをいわれても、急に笑顔になれるような器用さを、結香は持ち合わせていなかった。
もう1つは、女子で愛徳のような存在が、恵里子だった。結香から見ても、アイドルグループから何かの間違いで、この学校に迷い込んできたんじゃないかと思えた。たまたま、席が隣になり、初めて声をかけられた時にも、こんな美人でも、私と同じように喋るんだ。なんて、不思議に思っていると、もう一度、
「高田さんは、何か部活に入るの? 」
と聞かれた。
「うん。剣道部」
「中学でも、やっていたの? 」
「下手なんだけどね。でも、ここは、そんなに厳しくないって聞いたから入ろうと思っている」
「私、授業で少しやったことあるだけの初心者だけど、入っていいかな? 」
「それは、いいと思うけど、授業でやったならわかっているでしょ? 臭いし、痛いし、辛いよ。福波さんが、中学まで、何やっていたか知らないけど、続けた方がいいよ」
「バドミントン。だけど、オリンピックでも目指さない限り、違う競技をやった方が、自分を成長させてくれると思う。匂いとか辛いとか、そんなの気にしない。むしろ、自分のためになるんじゃない。それで、いつ入部するの? 」
「少し、ゆっくりしてから」
「じゃあ、入部する時には、誘って」
結香は、冗談だと思っていた。恵里子が、剣道部のような地味な部に入部して、美貌を面で隠し、汗だくになって、悪臭を放つ。そんな姿が、想像できなかったし、したくなかった。結香は、考えていたより早く、先輩から武道場に連れて行かれて、入部した。それを知った恵里子は、
「ずるい。先に入部するなんて。今日、私も連れて行って」
「本気だったの? あのね、やめた方が、いいと思う。今年から、顧問が代わったみたいで、聞いていたようなゆるい部じゃなくなってた。この前の土、日も練習だったし、朝練も毎日。私、いつまで続くんだろう」
「私、頑張るから。お願い。入部させて」
私の話を、ちゃんと聞いていたんだろうかと、不安になりながらも恵里子を連れて行った。顧問の上木豊平は、恵里子の入部を認め、入部届にサインさせた。それまで、何度もその覚悟を聞かれたが、恵里子は一貫して、
「頑張ります。入部させてください。よろしくお願いします」
と答えた。その度、結香は失望した。どこかのタイミングで、断ってくれると信じていたから。しかし、恵里子の覚悟は、本物だった。女子が、避けたがる上木や男子の先輩にも、積極的にかかっていき、何回も転ばされ、吹っ飛ばされても、何もなかったような顔をして、すぐに立ち上がった。また、上木からどんなに心ない罵声を浴びても、決して、弱音を吐かなかった。結香は、恵里子に勇気をもらい、励まされ、最後まで厳しい練習に耐えられたと思う。それは、他の部員も同じだろう。特に、恵里子目当てで入部した、同級生の男子7名も、未経験ながら続いたのは、それ以外に理由は、ないだろう。中には、辞めるつもりの者もいたが、悩みなど話を聞いて、思い止まらせた。まあ、それをしなかったとしても、上木に言えば、どうなったかわからないが。結香は、恵里子からもう1つ学んだ。美人は、剣道をしていても、辛い顔をしていても、悲しい顔をしていても、泣いていても絵になるし、華がある。きっと、常に注目を集める人は、そんなふうにできているんだ。私なんて、どんな表情をしても恵里子のように、注目されるわけじゃないから、無理に笑顔を作る必要ないと思ってしまったことだ。
要するに、結香はこれまでの高校生活で、男子と女子のNo. 1に笑顔を取り上げられた。しかも、その原因となった恵里子に、それを売りにしているバイトに誘われた。そして、そこへ2人で歩く。
「笑顔、笑顔」
ぶつぶつ、呟きながら歩いていると、恵里子が笑った。
「笑顔なんて、普通にしてたらできるよ」
「それが、できなくなったんだ。だいたい、恵里子が愛徳君と付き合っていたら、こんなことにならずに済んだのに」
「なんで、私のせいなのよ。私は、1年の1学期には、奎吾と付き合ってたでしょ。愛徳君には、興味ないって、結香は、知っていたじゃない。それに、変な噂を信じるから。まさか、結香も私と奎吾が、すぐに別れるって、思っていた? 」
「そうは、思ってなかったけど、まさか今も続いているなんて想像できなかった」
「結香は、一番わかっていたはずでしょ? 誰が、ペラペラ言うのか知らないけど、私たちが付き合っているのを先生にも知られていたから、何かあればすぐに、職員室で、『別れろ』だし、上木先生にも『特訓だ』とか言われて、何回か体も許したし。あっ、これは絶対に内緒ね。相手が、奎吾じゃなかったら、とっくに別れてた」
「そんなことも、あったんだ。上木先生、やたら恵里子には、厳しいと思っていたけど。よく、いつも笑顔で、過ごせたね」
「結香と奎吾が、いつもそばにいてくれたから」
「ごめん。私は、そんなことも気づいてあげられなかった」
「私、中学生の時は、バドミントン部だったけど、それも中学になって、初めてやったんだ。私だけ、初心者で、下手だったから、誰も相手してくれなかった。誘ってくれた友達でさえ。唯一、特訓という名のいじめの時だけ、みんな、イキイキして、私がぶっ倒れるまでシャトルを打ってくれた。当時、付き合っていた彼氏も。ふらふらになって、1人で片付けや掃除して、果たして、家まで帰れるかと思ったことも何度もある。でも、その甲斐あって3年生の最後の大会は、女子と混合ダブルスで、全国大会に出た。たしかに、私も勝ちたかったし、悔しかったけど、満足だった。だけど、どっちのペアからも負けたのは、私のせいだと言われて。高校で、剣道部に入って、よかった。私が、下手だからあと少しで、全国大会は逃してしまったけど、結香やみんなと抱き合って。嬉しかったな。結香は、ずっと、裏切らずに私の隣にいてくれた」
「当たり前じゃない。恵里子が、頑張っているのは、わかっていたし、それがなかったら、私は続けてなかったかもしれないし、強くもなれなかった。どっちにしても、そのバドミントン部は、おかしいよ。よくわからないけどダブルスって、2人とも頑張らないと勝てないんでしょ? 1人だけの力で、全国大会なんて、出れないよ」
「ありがとう」
バイト初日は、西宮に挨拶すると、副店長の浜末桃和を紹介され、私たちの教育係とのことだった。浜末は、とにかく厳しく、怒られてばかりだ。始めに制服に着替えるだけでも、
「遅い。帽子が、歪んでる。エプロンが、めくれてる。2人いるんだったら、確認し合いなさい」
よく、ここまでだけでも、そんなに怒ることがあるなぁ、と思いながらも自分たちが、悪いので仕方がない。それにしても、この後でスマイルなんて、無理。すると、浜末に店舗裏に連れていかれ、
「お客さんの前では、笑顔」
こんな調子で、終えた。帰りながら、反省会をする。ちなみに、結香と恵里子は、中学校は別だったが、家は近い。
「浜末さん、キツイね? 」
「でも、私たちは、上木先生に、散々怒られたので、鍛えられてる」
「私は、恵里子ほど、鍛えられてない」
「でも、浜末さんが原因で、やめた人も、多いんじゃないかな。だから、私たちにとって、神様だよ」
「そうかもね。そんなに、行ったわけじゃないけど、その度にクルーが、半分くらい変わっていたよね」
「お金をもらうんだから、神の声をしっかり聞かなきゃね。私たちの根性を発揮して、頑張ろう」
「私、そんなに根性あるかな? 」
「ある。剣道、1日も休まなかったじゃない」
「休まなかったんじゃなく、休ませてもらえなかったでしょ」
「もし、ズル休みとかしたら、どうなってたかな? 」
「知らないけど、恵里子は殺されただろうね。だから、私も休めなかった」
バイトを始めて、1週間も経つと神の声も滅多に、聞くことがなくなった。結香も、少しずつ笑顔で接客できるようになったが、恵里子と並んでいると、ショックを受けることが、多かった。特に、男性客は、結香が運んでいくと、
「チッ」
「ハズレ」
などと聞こえた。思わず帰りに愚痴ってしまった。
「恵里子、美人すぎる。卑怯だ」
「えっ、結香は、私の事を美人だと思ってくれてた。嬉しい」
恵里子に、直接言ったのは、初めてだった。
「実は、初めて、恵里子を見た時から、ずっとそう思っていた。アイドルか女優じゃないかと思って、必死で検索した」
「そうだったんだ。ありがとう。初めて、そんなこと言われた」
「嘘でしょ。今まで、散々言われてきたでしょ? 特に、男子とかから」
「ない。奎吾からも、言われたことない」
「告白も、たくさんされたでしょ? 」
「高校では、奎吾だけだよ」
「剣道部の男子からは? あの人たち、どう考えても恵里子狙いだよ」
「私は、結香狙いだと思っていた。こんなこというの、恥ずかしいけど、可愛いし」
「とってつけたようなこと、言わないで。私なんか、全くモテないから、可愛くないのは、わかっている。それにバイトでも、恵里子が対応した時と、私の時で、明らかに顔が違う」
「気のせいじゃない? 」
「気のせいじゃない。いいよ。めげずに頑張るから」
バイトも、すっかり慣れてきた頃、奎吾が店に来た。結香は、カウンターにいたが、素早く恵里子に知らせた。
「山井君が、来たよ」
「嘘でしょ。なんで、バレたんだろう」
「内緒にしてたの? 」
あまり、長話もできないので、役割を代わった。恵里子は、注文を聞いて、奎吾は、店内の席に座った。すると恵里子は、注文を結香に伝えた。結香が、準備して、恵里子が、運んだ。奎吾は、テーブルに参考書を広げて、勉強していた。ハンバーガーが来ても、参考書から、目を離さない。表情も、全く変わらない。どうやら、もうすぐバイトが終わる、恵里子を待つようだ。
バイトが終わり、結香は気を利かせて、
「私、今日は、先に帰るね」
と言ったが、3人で帰ることになった。結香は、恵里子の彼氏ということもあって、奎吾とあまり喋ったことがない。また、2人が、どんな会話をするのか、一緒に居合わせたことがないので、わからない。もしかしたら、奎吾は、結香の存在を知らないかもしれない。結香は、とりあえず、
「私は、高田結香です。よろしくお願いします」
と自己紹介すると、恵里子に大笑いされた。
「そんなの、知っているに決まっているでしょ。ちゃんと、私の親友だって、言ってあるわよ」
笑い続けている恵里子を無視して、奎吾に質問する。
「山井君、ハンバーガー美味しかった? 」
「うん」
「結香は、何を聞いているのよ」
恵里子は、また笑い出した。
「無表情で、食べてたからどうだったか、気になって」
「高田さんだって、普段は、無表情じゃないか」
これも、恵里子のツボにはまったようだ。笑いながら、
「本当に2人とも、面白い。ごめん。そういえば、この3人は、初めてだね。ちゃんと、紹介しないといけなかったね。こっちが、私の彼の山井奎吾君。で、こっちが、私の親友の高田結香さん」
結香は、改めて言わなくても、知っていたと言おうと思ったが、やめた。多分、奎吾も同じ事を言いたかっただろう。そのため、少しだけ沈黙した。それを、感じた恵里子は、
「結香が、無表情になった原因は、私が、美人すぎるからなんだって」
「それは、端折り過ぎでしょ? まるで、それだけが原因みたい」
恵里子は、それを無視して、
「まさか、奎吾も、私が美人すぎるから、無表情になったの? 」
「あっ、俺の家、ここを曲がったところだから、バイバイ」
「奎吾。逃げるな。私が、美人だと言って」
奎吾は、右手を挙げて、そのまま暗闇に消えた。
それ以来、奎吾は、しょっちゅうハンバーガー屋さんに来た。その時は、いつも3人で帰った。奎吾は、所属していた、サッカー部の最後の試合が、終わったら恵里子とデートができると、楽しみにしていた。当然、恵里子もそうだったはずだが、上木は非情だった。最後の試合が、終わってみんなで抱き合って、感傷に浸ったあとで、
「本来なら、3年生は、今日で部活は引退だが、福波は、特別に延長させてやる。授業でいう補習だな。お前だけだと、かわいそうだから、高田も付き合わせてやる。2人とも、俺が迎えに行ってやる」
本当に、上木は、毎日迎えに来た。いつになったら、引退させてもらえるか尋ねると、
「お前たちが、もう悔いがありません。と言うまでだな」
それは、嘘で、毎日そういっても、なんだかんだ言われて、結局夏休みが終わるまで、引退させてもらえなかったのだ。だから、バイトをしていると噂を聞いて、なるべく、来るようにしている。結香は、
「私が、邪魔だったら、いつでも言って」
と2人には、伝えているが、どちらからも、言われたことがない。結香は、奎吾とも自然に会話できるようになった。そして、少しずつ恵里子が、奎吾を愛している理由も理解できるようになった。
それとは別に、この頃には噂を聞いた、同級生や剣道部の後輩など知り合いもたくさん、店にやって来るようになった。あと、毎日のように、恵里子を見に来たと思われる客もいる。すっかり、余裕もできてきたので、結香は誰が、接客するのが、適切か判断できるようになった。ある日、愛徳と染郎が、来た時も、いつも通り恵里子とカウンターを代わった。恵里子は、注文を聞いて結香に伝え、小声で、付け加えた。
「あの2人は、私じゃないでしょ? 」
「私でもないよ」
「どうしよう。奎吾と何か話してる」
結香も、奎吾の方を見ると、2人が、隣のテーブルの椅子に座るところだった。
「準備できたよ。いってらっしゃい」
「だから、私が行かないといけないかな? 」
「だから、私じゃないから。早く、持って行って」
恵里子は、渋々運んでから、
「やっぱり、私なんかに用事はないって、感じだったよ」
「じゃあ、どっちでも、よかったんだ」
バイトの帰りに、恵里子は、早速奎吾に聞いた。
「山原君に、何て言われた? 」
「ただ、『こんなところで受験勉強か。頑張れよ』って、言われただけだよ」
「それだけ? 」
「それだけだよ。恵里子って、山原には興味ないんじゃなかったのかよ」
「興味ないよ。でも、奎吾と話してたら、気になる」
「別に、俺は山原のこと、嫌っているわけじゃない。クラスメイトと話すぐらいで、何を気にしてるんだよ。どっちかと言えば、恵里子と山原が、喋っている方が、気になる」
「私は、会話は、してないよ。マニュアル通り」
「高田さん、本当? 」
「間違いない」
「あっ、奎吾が、嫉妬している」
「そりゃ、付き合ってたわけじゃないのに噂になって、付き合い出したカップルもいるから」
「奎吾は、私が、美人だから嫉妬するんだね? 」
「おっと、また別れる場所だ。じゃ、バイバイ」
また、奎吾は、それだけ言って、走って帰った。
翌日も、バイト先に、愛徳と染郎は、来た。結香は、いつも通り恵里子とカウンターを代わった。
「だから、結香でいいじゃない」
「ここは、恵里子だよ」
仕方なしに、対応した恵里子は、注文を結香に伝えて、
「商品は、高田さんに、運んで欲しいんだって」
「なんで? 」
「知らないわよ」
結香は、注文されたものを準備して、愛徳たちのテーブルに運んだ。あまり、喋ったことないので、マニュアル通りというのは、ありがたい。一通り言い終えて、戻ろうとすると、愛徳が、
「どうして、俺たちが来ると、福波に代わるんだ? 」
「偶然じゃないでしょうか」
「いや、俺たちは高田がカウンターにいるのを、確認してから入ったんだ」
「申し訳ありませんでした。私では、ご不満かと思いまして」
今度は、染郎が、
「普通に、会話できないのかよ。クラスメイトなのに、気持ち悪い」
「申し訳ありません。できかねます」
「じゃあ、それでもいい。バイトは何時までなんだ? 」
「22時までになっております」
それ以上、何も言われなかったので、カウンターに戻った。恵里子は、興味深そうに、
「なんだったの? 」
「よくわからないけど、バイトの終わる時間を染郎に聞かれた」
「良かったね。結香、きっと、告白されるよ」
「どっちに? 」
恵里子は、何も言わず、空いたテーブルを拭きに行った。期待しているわけではないが、結香の心臓は、高鳴っていた。ところが、1時間以上待つ気はなかったようで、2人とも食べ終えると、カウンターに来た。恵里子が、近くにいないので、対応するしかない。
「いかがなさいましたでしょうか? 」
「明日、10時に近いところで、来るよ」
染郎が、言った。
「またのお越しをお待ちしております」
その言葉を、聞いたかわからないが、2人は、店を出て行った。そして、入れ替わるかのように奎吾が来た。さすがに、恵里子に代わろうとしたが、奎吾が、
「恵里子じゃなくてもいいよ」
と言ったので、結香が、注文を聞いた。奎吾は、いつもと同じものを注文し、いつもの席で、参考書を広げた。準備が終わった時、ちょうど恵里子が、戻ってきた。
「これ、山井君の」
「あっ、ありがとう」
さすがに、奎吾のは、拒否しない。
この日の帰りは、奎吾は、質問責めだった。それも、山原たちのことで。
「山原君たちが、結香に、何をいうつもりか知らない? 」
「知るわけないじゃないか」
「やっぱり、結香に告白するつもりじゃない? 奎吾、何か知らないの」
「愛徳は、高田さんのことは、好きじゃないはず。無表情だし」
「サラッと、キツイこと言うね。やっぱり、山原君は、私のことは、好きじゃないんだね? 」
「うん」
「ちょっと、奎吾。そんなに、はっきりじゃなく少しは、オブラートに包むというかできないの? 」
「なんで? 聞かれたことを、知っている限り答えているのに」
「いいよ、恵里子。どうせ、山原君が、私なんか相手にしないことは、わかってた」
「ごめん、そういうことだったのか」
恵里子は、ため息をついて、
「奎吾は、鈍いな。じゃあ、西丸君だ。それしか、考えられない。どうなの? 」
「それも、ないと思う。いつも、恵里子のそばにいて、邪魔なやつって、嫌っていた」
「なんで、私のそばに結香がいるのが、いけないの? 」
「それは、何人か恵里子に告白しようとしてたけど、高田さんが、いたから」
「そんなの、結香が悪いわけじゃないでしょ。クラスも、3年間同じで、部活も同じなら、そうなるでしょ。それに、奎吾は、私が1人になったタイミングで、『恵里子さんみたいな、美人と付き合いたい』って、告白してきたのに」
「俺、そんなことは、言ってない」
「じゃあ、今、そういってくれたら、私の記憶も書き換えてあげる」
恵里子は、奎吾からの言葉を待った。しかし、奎吾は、
「また、2人きりになった時。明日あたりかな。じゃあ、いつもの分かれ道だから。バイバイ」
翌日の、21時30分ごろ、ハンバーガー屋に現れたのは、染郎だけだった。カウンターにいた結香は、反射的に恵里子を見たが、手でバツを作られた。注文を聞いて、恵里子に伝えたが、まだ、そこに染郎がいた。
「お客さま、いかがなさいましたか? 」
「高田の家って、どっちの方向だ? 」
「ここを、西へ行ったところでございます」
「俺とは、反対じゃないか? 」
「さようでございますか。お客さま、申し訳ありませんが、空いているテーブルで、お待ちください」
実際、つぎの客も待っていた。その、接客が終わると恵里子が、
「準備できたよ」
と言って、交代してくれた。恵里子は、カウンターなど、目立つところは、避けていた。また、店もそうするようにしていた。結香が、染郎のところへ運ぶと、
「じゃあ、俺は、22時まで、ここにいる。逃げるなよ」
「かしこまりました」
結香は、そう言いながらも、不安になってきた。染郎の態度から、告白されることは、あり得ない。念のため、新しめの下着にしてきたが、無意味だったようだ。そんなことは、どうでもいい。私、殴られたりしないよね。おそらく、そうなったら店の人が、助けてくれるよね。いろいろ、考えながらでも、一応、仕事はできてる。しかし記憶も、曖昧で時間が経つのが遅い。それでも、時間は、止まることはなく、22時になり、恵里子と奎吾に別れを告げた。
染郎の待つテーブルに行くと、いつもの癖で、
「大変、お待たせ致しました」
「いつまで、その気持ち悪い喋り方を、するつもりなんだ? 馬鹿にしてるのか」
「ごめんなさい。やっぱり、ここにいると、癖で」
そういって、テーブルの上に散らかった、染郎の食べ終わったものを、片付けた。そして、
「さすがに、何も頼まず、ここにいるのは良くない。何食べる? 」
「実は、俺お金がない。高田さん、食べてくれよ」
「私は、空いた時間に食べているからいらない。じゃあ、奢ってあげる」
「それは、悪いから貸して。今度、返すよ」
結香は、カウンターにいって、染郎の分と、自分の飲み物を注文した。そして、染郎の向かいに座った。
「いくらだった? 」
「あ、本当にいいよ。私たち、クルーは、安くなるし」
「でも、奢ってもらったりしたら、話しにくくなってしまう」
「気にしなくて、いいよ。西丸君って、私を良く思ってないんでしょ? だから、ある程度覚悟は、できてる」
そういったところで、注文していたものが、運ばれた。その、運んできたクルー、田本沙耶はマニュアルのセリフを言うと、結香の耳元で、
「頑張れ」
「そんなんじゃ、ないですよ」
そういったが、信用してない顔だった。沙耶は、専門学校に通っている。年齢が、近くて話しやすく優しいので結香は、信頼していた。沙耶が、去っていく姿を見送っている間に、染郎は、早速ハンバーガーを、食べ始めた。結香は、飲み物を1口含んで、染郎が、話すのを待った。
「お前、どういうつもりなんだよ」
いきなり、そんなこと言われても、まるでなんのことかわからない。首を傾げると、
「福波のことだよ。俺は、今まで愛徳を、守ってきた。それなのに、どうしてお前は、いつもそばにいるくせに守らなかったんだ」
「全然、意味がわからない。恵里子に、何があったって言うの? 」
「なんで、福波を奎吾と付き合わせたんだよ。福波には、愛徳がふさわしいって、普通ならわかるだろ」
「私は、そんなの知らない。それに、最初はたしかに、なんでって、思ったよ。でも、山井君も素敵な人だったと最近知った。2人が、お互い、好き同士で、付き合っているんだから、一番良かったんじゃないかな」
「良くない。愛徳は、中学生の時から、天才的なピッチャーだった。ストレートが、早くてコントロールも、よくて、変化球も、良かった。でも、彼女が、出来てからいいところ見せようと、ストレート一本槍で、三振を取りたがった。そのうち、力みすぎて、コントロールも乱すようになった。それからは、悲惨でエースの座は、降ろされずっと眼をつけられていた、強豪校からも、そっぽを向かれおまけに彼女も、失って。心機一転、この高校で、彼女は作らず、野球に打ち込むと、決めたんだ。でも、この学校の女子はみんな、愛徳に、惚れてしまった。仕方なく、俺が愛徳を、守る役を買って出た。しかし、肝心な、愛徳が福波に惚れてしまった」
染郎が、どうして、私にこんな話をするのか、わからない。飲み物を、口に流しかけた時、染郎が指差した。思わず、むせそうになった。
「ここからだよ。お前の失敗の数々は。俺は、福波はお前がいるから安心していた。それなのに、なんで福波じゃなく、お前が愛徳に、惚れてるんだよ」
「別に、そんなの私の勝手じゃない」
染郎は、結香を睨みつけ続けた。
「それから、なんで福波を剣道部に、誘ったんだよ。同じ部に入りたかったら、お前がバドミントンをするべきだった。福波は、中学3年間で全国大会に出場した逸材なんだ。もしかしたら、オリンピック選手になっていたかもしれないんだぞ」
「私は、恵里子が、何をするにしても剣道部に入るつもりだった。恵里子が……」
その先を言いたかったが、染郎の言葉に遮られた。
「言い訳なんか、聞いてる時間はない。まだ続きがある。野球部の練習試合観にきたな。しかも、福波を連れて」
「たまたま、部活が、終わった後にやってたから観ただけでしょ」
「お前だけなら、関係ないけど、何で、福波を誘ったんだ」
「どっちかといえば、恵里子が観たいって」
「お前は、ひどいな。友達面して、なんでもかんでも、福波のせいにして。それで、これが最大の過ち。お前は、自分が、愛徳と、付き合いたいから、最強のライバルになる、福波を奎吾と、くっつけた」
「私は、恵里子が、奎吾と付き合い出したきっかけは、知らない」
「お前と話してると、腹立ってくるな。嘘ばっか」
「私、嘘なんか言ってない。結局、私にどうしろと言いたいの? 」
「少し、福波と離れてくれ。愛徳に、チャンスを与えてくれ。愛徳と福波が、付き合うのが一番自然だし、全員が平和になる」
「あのね、恵里子は、山井君とは別れないよ。誰から聞いたのか、間違った情報ばかりだし。もう、遅いし帰る」
結香は、席を立って、テーブルの上を片付けた。そして、沙耶たちに、手を振って店を出た。
外は、少し寒かった。店のすぐ近くの信号で、止まっていると、染郎が、自転車で追いかけてきた。
「遅いから、送るよ」
「いいよ。家、反対方向なんでしょ」
何度か、信号が、変わるまで押し問答の末、結香のカバンは染郎の自転車の籠に入れられた。そして、結香は渋々、荷台に跨った。染郎は、鍛えているだけあって、スピードが速い。その分、結香の体温はどんどん、奪われていった。
「寒い」
思わず、つぶやくと染郎が反応した。
「何? 」
結香は、何も言わなかった。そして、家の近くで降りた。10分も、かかっていないはずだが長く感じた。お尻に、若干痛みもある。くしゃみも、出た。
「大丈夫か? 」
「大丈夫。ありがとう」
「またな」
極めて、短い挨拶で2人は別れた。
翌日も、いつものように結香は恵里子と、登校した。
「昨夜、西丸君は、何だった? 」
「よく、わからないけど、何か誤解とかしてるみたいで、いろいろ怒られた。とにかく恵里子と離れてくれって」
「なにそれ。親友同士が一緒にいるのは、自然なことだし、何がいけないの? 気にしなくて、良さそうだね」
「ごめん。しばらく、学校では距離を置こう。もちろん、恵里子のことは、これからもずっと、親友だと思っているし、いつも一緒にいたい。でも、こうしないと、西丸君とかの、誤解が解けない」
「やだ。私は、いつでも結香のそばにいたい。そうだ、今度は私が、西丸君と話してみる。私も、無関係じゃ無さそうだし」
学校について、染郎を見つけると恵里子は、
「早速、話してくる」
と言って、染郎のところへ行った。結香は、その様子を眺めていた。しばらく、話して戻ってくると、
「あいつ、最悪。お金がないんだって。昨夜も、結香が払ったんだって? 」
「私は、奢りでもいいと思っているけど、西丸君は、返すと言っていた」
「どうして、結香が奢らないといけないの? 自分の、鬱憤ばらしのために、結香を怒ったんだよ」
「それは、話が、違う気がする」
「だから、昨夜と今夜の分は、私の分も、利子をたっぷりつけて返してもらうんだよ」
「今夜、話すことになったの? 」
「早い方が、いいでしょ」
「私が、払うってことは、いなくちゃいけないの? 」
「当然でしょ。あっ、支払いに関しては、2人から借りるよりまとめた方が、いいかなと思った。私は、奎吾の誕生日もあるし」
「バイト代、結構あったでしょ? 一体、何をプレゼントするつもり」
「そうなんだけどね。嬉しくて、欲しかったものを、買ったりした。結香は、大きな買い物とかしてないの? 」
「してない。親に渡して、お小遣いを、増やしてもらった。なぜか、弟の小遣いまで、増えてるのは納得できないけど」
「優等生だね。うちの親の前では、絶対にそんなこと言わないでね」
結香は、染郎との、約束を果たそうと、努力は試みたが恵里子は協力する気が、まるでなかった。結香は、若干の罪悪感を、感じた。
染郎は、昨夜と、同じ時間に、バイト先に来た。結香は、姿を見ると千円札をそっと渡した。
「ありがとう」
そして、カウンターの恵里子に、注文を言った。それを、準備して結香が運んだ。再び、礼を言われた。
カウンターに戻ると、恵里子は指を、鳴らしながら、
「よし、約束通りきたね」
「あの、恵里子。穏便にね」
「当たり前でしょ」
そういっているが、顔が怖い。恵里子って、こんな時もあるんだと結香は初めて知った。
22時になって、バイトが、終わった。昨夜と比べると、ずいぶん早く感じられた。2人で、着替えを済ませて染郎の待つテーブルに行く。結香は、恵里子と染郎に、注文を聞いた。
「西丸君、お金を結香に渡して。お釣りが、残っているはずだよね」
染郎は、無言でポケットから小銭を出した。
「別に、いいのに」
「良くない。こんな失礼な人に、結香が奢ったりする必要ない」
結香は、小銭を受け取って、注文しに行く。少し、足りなかったのは、払った。テーブルに戻ると、染郎は、昨夜、結香に話したことを、しゃべっていた。恵里子は、結香と違い1つずつに、言葉を返さず、まずは、染郎の言うことを、「なるほど」とか、「それで」などと相槌を打ちながら、聞いていた。恵里子は、昨夜の結香より、ずっと、冷静なんだと思っていた。
途中で、沙耶が注文の品を持ってきたが、結香が直接受け取ってマニュアルの言葉は遮った。それぞれ、注文したものを、目の前に置くと2人は飲み物を飲んだ。結香は、再び座ると染郎の話に耳を傾けた。話し終えると、染郎は、急に、結香を見て、
「昨夜の内容と、同じだよな? 」
と振られた。聞いていないところもあったのにと、思いながらも頷いた。すると、恵里子が話し始めた。
「それって、誰から聞いたの? 間違いだらけなんだけど」
「特定の誰かってわけではなく、いろんな人からだったりかな」
「まず、私は奎吾が大好き。私から、別れることはない。山原君からも、それ以外の人からも何回告白されても奎吾がいる限り、私の気持ちは、変わらない」
「なんでだよ。愛徳は、うちの学校で、一番モテているんだぜ。どこが、いけないんだ」
「私、中学生の時、バドミントン部で、いじめられてたの。だから、警戒心が、強いのかな。たしかに、山原君、かっこいいって、思ってたよ。でも、野球部の練習試合を観て、幻滅した。あれだけ、西丸君のサインに首振って、打たれたり、フォアボール出したりしても、謝っているように見えなかった。バドミントンで、裏切られたペアを思い出した。ついでに言うと、あの試合を観ようと言ったのは、私の方。ついでに、もう1つ言うと、あの試合の私が選ぶ、MVPは、西丸君だった」
「それなら、どうして、奎吾になったんだよ。あっ、いいやつなのはわかるけど」
「実は、最初は、剣道部に入ったのを、後悔していたんだ。きついし気持ち悪いし、臭い。私、トイレに行くふりして、よく、手洗い場で、汗を流したりしていた。そこへ、ある時奎吾がきたの。しかも、たくさん空いているのに、隣に来るから、『臭くて、恥ずかしいから離れて』って、言ったら、『頑張って、汗かいたなら、臭くないし恥じることない』って、言って、タオルを差し出してくれた。その後、また同じようなことがあって、LINEのIDを、教えた。それを、上木先生に見つかって、しょっちゅう、特訓もさせられて。結香に、さんざん反対されたのに、入部したから、愚痴とか、聞いてもらってた。そのうち、奎吾が、『こんな美人と、付き合いたい』って言うから」
結香は、思わず吹き出しそうになった。
「どうしたの、結香」
「いい話だね」
と言っておいた。恵里子は、再び染郎を見て、
「私にとって、高校生活に、結香と奎吾がいないなんて、想像もできない。2人とも、今も、多分これからも大好き。お願いだから、私から大切な2人を、取り上げないで」
染郎は、無言だった。頭の中を、整理しているかもしれない。しばらく、沈黙の時間がすぎて染郎が、
「俺も、愛徳が、大好きなんだ。君たちに、負けないくらい。今回のことは、どうやら俺の勘違いだったみたいだ。君たちの気持ちとか、全く考えて無くて、ごめんなさい」
それを聞いて、店を出た。
結香と恵里子は、それ以降も、大体いつも一緒にいた。染郎は、そのことに関して何も言わなかった。あの時に貸したお金は、まだ返してもらっていないが、結香は恵里子と違って、特にバイト代の使い道があるわけではないので、気にしていない。染郎は、時々ハンバーガー屋さんにきて、結香と恵里子と話して帰ることがあった。お金の持ち合わせが、少ない時は、恵里子に見つからないように、結香が、奢った。
最近の染郎は、愛徳と少し距離を、置くようになった。喧嘩したのでも、仲が、悪くなったのでもないらしい。
「俺たちは、今まで、ほかの同級生と、あまり会話してなかったと、気づいたんだ。だから、いろんな人と話してみようと、別行動することにした」
「それなら、私はいない方が良くない? 」
「なんでだよ」
「西丸君、私のこと、嫌ってるでしょ? 」
「確かにそうだった。でも、それは俺の勝手な思い込みだったということが、話しててわかった。実際、本当にいいやつだし。福波が、信頼しているのが、納得できた」
「というか、結香が嫌なやつだったら、とっくに離れてた。それって、私も信用されてないって事じゃない」
「そうなっちゃうか。ごめん。ところで、高田って愛徳のこと、好きだったよな? 告白してみたら。俺も、応援する」
「そうだよ。ずっと、想い続けてきたのにこのまま卒業したら後悔するよ。親友の西丸君も、ついているんだしチャンスじゃない」
「私なんかじゃ、無理だ。それに、恵里子の影響かな? とっくに、山原君の熱は冷めた」
「じゃあ、今は誰が、好きなの? 」
「誰だろう。今は、顔とかじゃなくて、性格がいい人が良く思えるようになった」
「それって、誰なの? 」
「私も、そんなにいろいろな人と、話したことないけど山井君ってこんなに良かったんだなと思った」
「いくら、結香の頼みでも奎吾は絶対に、譲らない」
「わかっているよ。それに、山井君が私に、振り向くわけないよ」
「いくら、咄嗟に思いつかなかったとしても、奎吾の名前を出さないでよ。心臓に悪い」
「もし、高田が、本気で誰かと付き合いたいなら、性格いいやつを探して紹介してやるよ。ただ、就職か大学が推薦で決まっているやつだから、かなり絞られるけど」
「西丸君、よろしくね」
「ちょっと、なんで恵里子が、お願いするのよ」
「結香も、その方が、いいと思う」
それから数日後、染郎が、同級生を連れて、ハンバーガー屋さんにきた。藤島達生だ。同じ、剣道部でキャプテンをしていたので、結香も恵里子も、もちろん知っていた。結香は、恵里子にカウンターを代わった。恵里子は、注文を聞いて、結香に伝えた。ついでに、染郎に言われたことを、付け加えた。
「どうして、高田は、後ろに引っ込んだんだよ。準備できたら、高田に、持って来させてくれ」
「なんでだろう。藤島君なら、恵里子の方が絶対、喜ぶと思ったんだけどな」
「結香は、鈍いな。とにかく、頑張って」
結香は、染郎と達生のテーブルに、運んだ。染郎は、マニュアル言葉が終わる前に、
「お前、どうして、同級生を見るといつも、後ろに下がるんだよ」
「申し訳ありません」
「後で、待ってるからな」
「かしこまりました」
恵里子のところへ戻ると、
「西丸君、いい人連れてきたね」
と言われたが、なんのことかわからなかった。
バイトが、終わりの時間になり、結香は恵里子と、先に来ていた奎吾に別れを告げて染郎たちが待ってるテーブルについた。いつものように、注文を聞いて、座ると、染郎は待ってましたとばかりに、
「紹介するまでもないが、達生だ」
「もちろん、知っているわよ。同じ、剣道部なのに」
「でも、話したことなんて、ほとんどないそうだな。どうなってるんだよ」
「部活中、私語は厳禁だったし、いつも女子だけ居残りだったから、仕方ないでしょ」
「男子は、見捨てられてたからね」
「そうなの? 」
「当たり前でしょ。7人もいて、全員が初心者なんだから。3年生が、抜けたら団体戦に3人も初心者が出るなんて、期待できるわけない。その点、女子は、初心者1人だけだったから、上木先生じゃなくてもそっちに力を入れるよ」
「それでも、厳しすぎた。恵里子は、よく耐えたよ」
「たしかに、福波もだけど、高田だって。しかも、俺たち男子が、怠けたりするせいで2人が叱られているのも知っていた。だから、2人のためにも、頑張ってきたつもりだ」
「私は、含まれていないでしょ? 恵里子のためだよね」
「どうして、そんな卑屈なこと言うんだよ」
「だって、みんな、恵里子目当てで入部したんでしょ」
「俺は、福波目当ての、龍介に誘われた。だから、正確に言えば、違うな。それに、最初は福波以外に関心なかった部員も、高田を応援してた」
龍介とは、田口龍介。達生と、小学校からの親友だ。
「剣道部って、そんなに、厳しかったのか? 中と外だから、見ることなかったけど」
「普通でも、結構辛いのに、女子なんてかわいそうだった」
「よくいうよ。女子が、倒されたりすれば、すぐに男子に無理矢理でも、起こされて。鬼だって、何度も思った」
「よく、そんなに酷いことができるな」
「先生から、そうするように命令されてるから、逆らえなかったんだよ。俺たちも、心が痛かった」
「そうだよね。女子の先輩達が、神様みたいな人だったから、先生や男子は私たちに、期待してるからこそ厳しくしてくれてるんだよ。だから、絶対に、恨んだり憎んだりしちゃダメだよ。いつか、心からありがとうと、思えるようになる。って、何回も聞かされた。私も、こんなふうに思えるような立派な人に、ならなくちゃいけないと思っていたのに、程遠いや」
「そんなことない。高田も、先輩達に負けないくらい立派になっているよ」
部活の話が、中心になり、少々退屈していた染郎が話に割って入った。
「もう、遅くなったし、そろそろ帰ろう。それで、高田は達生と付き合う気が、あるか? 」
「えっ、今日の目的って、それだったの? 始めに、言っておいてよ」
とりあえず、結香と達生は、LINE交換をして、3人で、店を出た。
翌朝、恵里子から、質問責めにあった。
「藤島君とは、付き合うことになった? 」
「恵里子って、昨夜がどういう話か知ってたの? 」
「知らなかったけど、いつだったかの会話の流れから、それしかないでしょ? まさか、結香は気づいてなかったの」
「まさか、西丸君が本当にそんなことしてくれると思ってなかったから」
「西丸君は、信用できそうな気がしたよ。結香は、自分を嫌っていた人だから、本気にしていなかったかもしれないけど。それより、藤島君はどうなの? 」
「今まで、ほとんど話したことないから、よくわからなかった。でも、悪い人ではなさそう」
「そんなことは、話をする前からわかっていたでしょ。部活の時も、男子は、結構女子を気にしてくれてたじゃない。私も、倒されたりした時は、本気で男子を恨みそうになったけど、心配してくれているのは、伝わった。だから、基本的に、男子部員に悪い人は、いない。でも、私は剣道部の男子は、恥ずかしい場面もたくさん見られているので、嫌だな。それで、藤島君とはどうなった? 」
「まだ、どうとも、なっていない。LINE交換して、昨夜は、帰った」
「もう、LINEはきた? 」
「家についた時、確認したら、『今夜は、ありがとう。おやすみなさい』って、入っていた」
「それで、何て返したの? 」
「もう、遅かったし、まだ何も返していない」
「何やってるの? なんでもいいから、返しておけば良かったのに。藤島君は、ダメなの」
「そんなことないけど、いきなり付き合うとか。心の準備も、必要だし。LINEの返事は、今日でも、そういうチャンスがあれば、直接言う」
「もちろん、今後、どうしたいかも、言うよね? 藤島君は、昨夜あの場所にいたということはそれを待ってる」
「そうかな。だったら、少し待ってもらう」
恵里子は、呆れたというような顔で、結香を見た。
結香と達生は、LINEのやりとりぐらいで、それ以上に、発展していなかった。当初、いろいろ聞いてきた恵里子も、そのことについて、何も聞かなくなった。
12月になり、ハンバーガー屋さんにも、クリスマスツリーが、飾られた頃達生は1人できた。当然、バイト終わりに話をすることになった。
「お待たせ。珍しいね。どうしたの? 」
「そろそろ、正式に返事を、聞かせてほしい」
「えっ、何の? 」
「だから、交際してほしいってこと」
「それは、少し待ってって言ってるでしょ? 」
「でも、染郎に、紹介されてからもう1か月だよ。部の方針で、たしかに男子は女子をマネージャーのように扱ったりした。男子は、女子を呼び捨てにした。それが、気に入らなかったら、謝るしこれからはそんなことしない」
「そんなことは、全然、気にしてないよ。だから、藤島君も、気にしないで」
「それなら、何が、気に入らない? 」
「何も、気に入らないことは、ないよ。でも、バイトもしてるし」
「福波だって、同じ状況じゃないか。こうやって、バイト終わりに話をすることだって、できる。嫌いなら、はっきり、そう言ってよ」
「嫌いじゃない。藤島君って、こんなに良い人だったんだと見直した」
「じゃあ、付き合うってことでいいね? 」
「少し待って」
「どうして? 高田が、剣道したいと言ったらやるよ。あまり、やりたくないけど」
「私も、もういいよ。知ってる? 私と恵里子、最後の大会が、終わってからも引退させてもらえなくて、夏休みが終わるまで、やってたから」
「それは、大変だったね。じゃあ、俺たちはもう付き合っているってことでいいね。今から、恋人だ」
翌朝、結香は、また恵里子に質問された。
「昨夜、藤島君とは、何か進展があった? 」
「うん。付き合うことになった」
「それなのに、何か元気ないね? 」
「なんか、強引に、そういうことにさせられた」
「それの、何が不満なの? 」
「不満ってほどでは、ないんだけど、バイト先だよ」
「別に、良いじゃない。どうせ、バイト先か、学校ぐらいしか、会えないでしょ? なかなか、映画やドラマみたいな、シチュエーションは、ないよ」
「そうなんだけど、私の意見は聞かず、『今から、恋人だ』なんて言われても」
「結香が、いつまでたっても、返事しないからだよ。それとも、私みたいに美人と言われたかったの? 」
「私は、美人じゃないのは、わかっているから、そんなのは、気にしてない」
「じゃあ、問題ないじゃない。言葉とか、シチュエーションなんて、後から記憶を書き換えてしまえばいいよ。藤島君、性格良くて、強引さも持っているなんて、最高じゃない」
正式に、結香と付き合い始めた達生も、ハンバーガー屋さんに、来る機会が増えた。最初は、あまり乗り気ではなかった結香も、達生が来てくれる日は、バイトのやる気も出るし、意識しなくても笑顔になれた。こんなに、恋人ができると毎日が充実するのかと、感じていた。
達生は、クリスマスには、当然のように店にいた。奎吾も、来ていた。店内は、混雑していたため2人が同じテーブルにいた。結香と恵里子は、着替えて2人が待ってる、テーブルに向かうと、もう1人座っていた。立ち止まって、それが誰なのか、確認すると、上木だった。
「なんで、上木先生がいるんだろう」
「機嫌が、悪そうだ」
「まあ、良い時は、ほとんどないけどね」
「嫌だけど、行くしかないね」
恐る恐る、近づいていくと先に気づかれた。
「おう、頑張っとるな」
「上木先生、今日はどうされたんですか? 」
「今夜は、もしかしたら、不純異性行為とかあるかもしれんから、見回りだ」
「お疲れ様です」
「そのついでに、お前らを冬休みの部活に誘ってやろうと思って。しばらく、剣道をしてなくて寂しいだろ」
「せっかくですが、冬休みもバイトなんです」
「今の時期、大学生さんは、実家に帰省されますから」
「バイトは、一日中じゃないだろ。バイトの前か後、それとも、両方ともがいいか選ばせてやる」
結香は、一気にクリスマス気分が、吹き飛んだ。恵里子も、同じだと思う。2人とも、黙っていると、
「せっかく、選ばせてやるって言ってるのに、選べないなら、両方だな」
結香と恵里子は、これはまずいと必死でどちらかだけにしてもらうように、お願いした。
「じゃあ、バイト終わりだけにしてやる。だけど、わかっていると思うが、男女交際は、うちの学校では、校則違反だ。怠けたりしたら、容赦なく罰則が待ってるからな。また、お前らはここまで、迎えに来てやる。藤島、お前もだぞ」
「はい」
3人が、元気よく返事をした。多分、そうしなければ練習がもっと厳しくなることは必至だと思ったからだ。
「今日は、もう遅いから帰れ。高田と福波は、優しい俺が送ってやる」
結香は、帰ってからスマホを見ると、恵里子からと、達生からLINEが、入っていた。おそらく、今年のクリスマスは、4人が、忘れることはないと思った。
今日から、冬休みなのに、朝から憂鬱だった。それは、恵里子も同じようだ。バイトに向かう足も、いつもより重い。
「上木先生、迎えに来るの忘れないかな」
「絶対、忘れるわけない」
「さすがに、体も鈍っているだろうから、キツいな」
「また、何回も、倒されるんだろうな」
「そうか。藤島君の前で、無様な姿を見せるのか。藤島君、私のこと嫌いになったりしなければいいな」
「今まで、散々みてるのに、付き合ってくれたんだから、それは、心配する必要ないんじゃない」
「でも、今回は、どう考えても、私が標的でしょ? 」
「そうかなぁ。まあ、どっちにしろ、何も考えずに全力で、やるしかない」
今日のバイトは、本当に、辛い。ちょっと、気が緩むと笑顔が、消えた。久しぶりに、浜末の神の声を何回も聞いた。恵里子も、そうだった。
もうすぐ、バイトが終わるという時間に、上木が現れた。注文された、代金を言うと、
「お前、どうせ、安くなるんだろ? 奢らせてやる」
仕方なく、結香が、払うと、
「それから、スマイルをくれ」
結香は、マスクの中の口は、笑顔にできた気がするが、目は、どうだったかわからない。着替えて、買っておいた、飲み物を持って、上木のテーブルにいくと、ちょうど食べ終わったところだった。結香が、テーブルを片付けると、
「ご馳走さま。よし、行こう」
上木に無言で、ついていく。車に乗ると、結香と恵里子の家経由で学校に到着した。途中、車にトラブルでも起こることを願ったが、何もなかった。部室に入ると、独特の匂いがして懐かしさを感じたが、急いで準備をしなければ、上木に怒られるので、無言だった。
武道館では、既に上木と達生が、向き合うように正座して、待っていた。結香と恵里子が、扉を開けて入ると案の定、
「遅い。何を、モタモタやっていたんだ。どうせ、おしゃべりしながら準備していたんだろう」
そう、言いながら、竹刀で床を何度も叩いた。
「おしゃべりは、していません。できるだけ、早くしたつもりです」
上木は、結香を睨んで、
「とにかく、早く座れ」
結香と恵里子は、達生の横に並んで、正座した。それを、確認すると上木は続けた。
「お前らは、部活のルールを、忘れたのか? まず、口答えは、許さん。それから、部活に出てくるのに、あんなチャラついた格好してくるから、準備に手間がかかるだろう。制服か、体操服だろう。おしゃれなんか必要ない。この、冬休み中の部活には、お前らの卒業がかかっているんだぞ」
結香は、ハッとして顔を上げた。達生と、恵里子も同じだったようで、3人の視線が上木に向いた。そして、3人の声が、揃った。
「はい。申し訳ありませんでした」
「よし、じゃあ始めるか。高田は、俺が相手してやる」
結香は、予想通りだと思った。達生が、結香の相手をすると、手抜きをすると上木は思うだろうから。
翌日、結香は、半袖とハーフパンツの体操服で、バイトに向かった。今日は、雪が降っていて寒い。その上、昨日の稽古での筋肉痛もあるし、叩かれたり倒されたりした、痛みもある。それは、恵里子も同じようで、腕を前で組み、震えながらそろりそろり、歩いていた。入部直後から、女子は準備が、遅すぎると、上木からその格好以外は、認めてもらえなくなったからだ。ただ、当初は、おしゃべりしながらだったのは、否定しない。
「去年も、この格好で部活に行ってたのに、やっぱり、昨日までコートにマフラー巻いていたから急にこれは寒すぎる」
「それに、筋肉痛やそれ以外の痛みも。腕や足に青あざあった。恥ずかしい」
「結香は、徹底的に扱かれたね? 私は、その点では筋肉痛ぐらいで、済んでいる」
「今回は、そうなると思っていたけど、予想以上に、体が鈍っていた」
「でも、これを耐えなきゃ、上木先生は、卒業を本気で、させてくれない気がする」
「間違いない。もし、そうなったら、1年間、部活も延長だろうね」
2人で、声を震わせながら喋っていると、ハンバーガー屋さんに、着いた。
「あったかい」
思わず、2人で、声を上げた。更衣室に向かうと、途中で浜末と会い、
「あんたたち、若いから、元気だね」
と言われたが、昨日上木と、何か話してたので、事情を知っていると思う。その上で、嬉しそうな顔をしてそう言ったなら、悪魔だ。バイトの制服に、着替えるにも、痛みとの戦いなのに。
ゆっくり、着替え終えて、店に出ると、浜末ときたら、
「薄着の割に、随分着替えに、時間かかるんだね」
と言う。心の中で、鬼と叫びながら、
「すみませんでした」
と言っておいた。バイト中も、容赦なく筋肉痛は襲ってくる。テーブルに、運んでいくのが、苦痛でしょうがない。いつもの、倍ぐらい、時間が、かかるような感覚だ。運び終えると、ほっとする。客の注文も、持ち帰りだと本当にありがたい。なんとか、痛みが、和らいできたのか、慣れてきたのか、という頃、上木がきた。結香と恵里子の笑顔が、一瞬で、なくなった。注文を聞くと、
「まずは、スマイルだろう。お前は、なんで客に対して、そんな顔してるんだ」
「申し訳ありません」
上木は、注文すると、
「今日も、お前が払っとけ」
と付け加えた。
結香と恵里子が、再び朝と同じ服装になって上木の元へいくと、
「今日は、ちゃんと、部活に出るって格好をしているな。その方が、バイトでも気合いが入るだろう」
全く、関係ないし、筋肉痛で苦労しただけだが、
「はい」
と2人で、答えるしかなかった。
「じゃあ、いくぞ」
上木について、店を出た。寒いと、叫びたかったが我慢した。
毎日、バイトと部活の生活は、続いた。流石に、筋肉痛にはならなくなった。しかし、アザは増えるし体力的にはかなりきつかった。結香は、勇気を出して上木に、言った。
「明日の大晦日と、明後日の元旦は休ませてもらえませんか? 」
「休んで、何をするつもりだ? 」
「バイト以外は、何も予定はないのですが、休養をさせていただきたいです」
「わかった。じゃあ、藤島だけ休ませてやろう。これで、いいな? 高田と藤島を、一緒に休ませるとろくなことをしないだろう」
「いいえ。2人が、出るなら出ます」
「じゃあ、出てもいいが、高田と別れるか、留年させるか選べ」
上木は、達生の答えを待つ。しかし、結香も、それが気になる。
「わかりました。明日と明後日は、休ませてください」
結香は、安心した。これなら、別れなくて、済むし留年もしなくていい。
「いいだろう。福波を、あまりみてやれなかったし、ちょうどいい」
結局、結香の提案は、却下された。しかも、相手が、恵里子になるから、楽になるわけじゃない。今までも、こういう状況があったが、疲れて攻撃を止めれば、上木から攻撃されて、倒されたり、壁にぶつけられたりする。つまり、相手は恵里子だけではない。
実際、大晦日はとにかく時間が長かった。いつもと同じ、18時ごろから始めたのにいつまでたっても終わらない。休憩は、適度に取らせてもらえるが何度も、倒されてすぐ、起こされ精神的にも体力的にも限界だった。もうすぐ、日付けが、変わるという頃に上木は大きな、袋を持ってきて、
「今日は、特別に、年越しそばを準備してやったぞ。俺の奢りだから、遠慮せずに食え」
「すみません。私、こんなに遅くなるなんて思いませんでしたので、家に、連絡させてもらって、よろしいでしょうか? 」
「安心しろ。2人の家には、今日は年越し稽古だと言ってある。そばを食って、もう少し頑張るぞ」
疲れて、食欲が、なくなっているのに、まだ終わらないとなると、あまりたくさん食べられない。ハンバーガー屋さんで、結香が奢らされてるより、ずっと、安上がりだと思いながら、1パックを食べ終えた。
「まだ、あるぞ」
「私は、もう食べられません」
「私もです」
上木は、2パックを平らげて、
「よし。じゃあ、再開だ。高田、片付けろ。ゴミは、お前が持って帰れよ」
結香は、空のパックなどを、集めて、ビニール袋に、入れた。そして、稽古は、2時頃まで続いた。上木の車に乗って、スマホを、確認すると、『あけましておめでとう』LINEが、10件以上入っていた。達生だけに、返信して、残りは、まただ。
元旦から、体操服姿で、街を歩くのは特に恥ずかしい。一昨年、昨年もだったがまさか今年もその経験をするとは、思ってもみなかった。初詣に、行くのだろう。いつもより、すれ違う人が、多い。恵里子と会って、同じ格好をしているのが、自分だけじゃなくなると、少し安心感があった。
「おはよう。あけましては、もう終わったか」
「おはよう。眠いよ」
「本当に。今日は、もうやりたくない」
「あんなに、遅くまでは、無理だ」
それぞれ、今の感情を言いながら、同調することを繰り返していたらハンバーガー屋さんに着いた。その途端、浜末に会って、2人が新年の挨拶をすると、
「正月も、体操服を、着ているんだね。よほど、気に入っているんだね。でも、風邪ひいたりしないでよ。忙しいから」
誰が、好き好んでこんな格好するのかとツッコミたかった。しかも、私たちがこうなってから喜んで話しかけられてるような、気がした。着替えて、店に出ると暖かいせいもあり、ひまな時間は、やたらあくびが出た。ちょっと、気を抜くと、寝てしまいそうになる。恵里子も、そうだったようで、話しかけると、ガクッと動いてから、
「ん、どうした」
みたいな、反応があった。そして、時間通りに上木はきた。そして、いつもと同じように注文して結香に払わせた。結香と恵里子は、いつものように、上木の車に乗って学校へ向かう。上木は、
「昨日は、よく頑張った。今日は、早めに、切り上げるつもりだ」
「ありがとうございます」
結香は、自分の声しか聞こえなかったので、恵里子を見ると寝ていた。
「ただし、ダラダラやっていたら話は別だからな」
「わかりました」
「しかし、昨夜は、たっぷり稽古して美味いそばを食って満足だっただろう? それを、お前は休養を取らせろだの言いやがって」
「はい。申し訳ありませんでした」
「藤島は、休まされて残念だっただろうな」
「そうですね」
学校が、近づいたので、恵里子を突いて起こす。恵里子は、ガタッと音を立てて目を覚ました。
「どうした、福波」
「いいえ。なんでもありません」
結香は、クスッと笑った。
稽古では、疲れのせいか思った以上に、体が動かない。結香も、恵里子も上木に倒された。昨夜より、時間が経つのが、随分、遅く感じる。結香は、上木の言葉を信じて、気力を振り絞った。
結局、終わったのは、いつもと同じ時間だった。結香は、すっかり気力も使い果たし、自力で立てない状態だった。恵里子が、飲み物を、持ってきてくれた。
「高田、もう1回、防具つけろ」
「どうしてですか? 」
「このままじゃ、帰れなくなる。防具つけてりゃ、福波が紐を引っ張って連れて帰れる」
結香は、言われた通りにしようとしたら、恵里子が、それを止めて、
「私は、結香の防具の紐を引っ張るような、かわいそうなこと、できません。お願いです。もう少し待ってください」
恵里子は、自分のと結香の防具を片付けて結香に肩を貸した。部室まで、連れて行って着替えも手伝った。上木は、
「そんなやつ、ほっとけばいいのに。じゃあ、帰るぞ。すっかり、遅くなってしまったじゃないか」
結香は、車に乗るまで、その状態だった。上木は、発車させると、
「高田。明日も、そんな状態になったら、ほっとくからな」
「はい。すみませんでした」
それから、家に着くまで散々、罵られた。恵里子が、
「結香、大丈夫? 家の中に、連れて行ってあげるよ」
と声をかけたが、
「大丈夫」
と言って、ふらふらしながら玄関を開けた。中に入ると、すぐに倒れてそのまま寝てしまいそうになった。風邪ひいてしまうと思い、なんとか自分の部屋にたどり着いた。それ以降、記憶がないので、寝ていたと思う。気がついたのは、0時過ぎだった。
今日から、達生もまた部活に、出てくる。昨夜みたいな、情け無い姿を見られなくてよかった。特に、部活中には、話はできないけど、達生の頑張っている姿を見るだけでも、勇気をもらえた。恵里子に会って、昨夜のお礼や謝罪を言った。すると、衝撃的なことを聞いた。
「私、上木先生に、体を許したことがあるって、言ったことがあるよね? 」
「うん」
「昨夜の結香みたいな、状態の時だった。ふらふらになって、立てなくなって、『元気を注入してやろうか』と言われて、なんのことかわからなかったので、『はい』って言ってしまった。私、スケベなんだろうな。そんな時でも、感じてしまった。実際、気持ち良かった。奎吾に、申し訳ないけど。結香が、まだ藤島君とそんなことしてないんだったら、気をつけてね。もちろん、私がいる時なら、守ってあげる」
恵里子は、珍しく、笑顔じゃなかった。涙を浮かべているように、見えた。
達生は、朝、ハンバーガー屋さんに、姿を見せた。まだ、年が明けてから、顔を、合わせていなかったからとのことだった。もちろん、バイト中なので、あまり話はできないが、結香は嬉しかった。達生は、結構長時間いて、
「じゃあ、また夕方、頑張ろう」
と言って、かえっていった。
この日の練習前に、結香は上木に、疑問に思っていたことを聞いた。
「私たち、4月からの就職のために、自動車学校へ通いたいんですが、いつまで、部活に出ないといけないのですか? 」
「高田、お前は、何を言っているんだ。俺は、お前らが校則を破ったりするからそれを剣道の稽古を頑張ってすれば、見逃してやってもいいと思って、毎日、付き合ってやっているんだぞ。お前が、留年するか退学するなら今日からでも、やめてやってもいい。まあ、留年すれば、部活も自動的に延長になるが。さあ、どうする? 」
「すみませんでした。稽古お願いします」
「教習所は、通いたかったら、申し込めば良いだろう。バイトだって、そうしているようにその時間は稽古を入れないようにしてやる。だが、高田は、当分許可しない。最悪、働いてから、通うんだな」
「どうして、私だけダメなんですか? お願いします。稽古、がんばります」
「お前が、今のところ、留年の可能性が、一番高い。よし、始めるぞ」
結香は、暗い気分で稽古を始めた。しかし、上木の結香へのあたりは、昨日以上になっていたのでより一層気を引き締めてやらねば、怪我してしまうと悟った。
冬休み最後の日、相変わらず、3人での稽古は、続いていた。2週間ほど、毎日バイトと稽古をやったんだからさすがに、上木も許してくれると、たかを括っていた。いつもより、少し遅くまで、稽古して上木の前に3人が横一列に、正座した。
「冬休みの間、よく頑張った。藤島と福波は、今日で終わりだ。お疲れ様」
結香は、自分を指差して、
「上木先生、私はどうすれば、よろしいですか? 」
「お前は、まだ、終わりじゃない。お前が、心から反省した姿を見せない限り、稽古に出させる。卒業式までに、それができないなら、留年が決定だ」
「じゃあ、俺も付き合います」
「ダメだ。そんなことしたら高田の留年は、決定だ。福波、お前もだ。それと、お前はもうバイトにも体操服で行かなくてもいい。それも、付き合ったりしたら、高田の卒業はないからな」
「結香だけ、どうして、今日で、終わりじゃないんですか? かわいそうです」
「何が、かわいそうだ。俺だって、3人ともこの冬休みだけで、許してやろうと思っていた。しかし、高田だけは休ませろだの教習所に行かせろだの、全く反省していない。校則を破るのが、悪いことだと思っていない。そんなやつを、社会に出すわけにいかない」
「すみませんでした。反省していますので、許してください」
結香の頬を涙が伝った。
「しつこいな。今、口だけで、反省しているとか言われてもダメだ。それが、本当かどうか明日以降で判断すると言っているだろう。俺は、泣かれても、許したりしない」
「わかりました。明日以降も、よろしくお願いします」
「よし、じゃあ高田。今日まで、相手してくれた藤島と福波にお礼を言え」
この後、結香は何回も、2人に、お礼を言った。上木から、声が小さいとか、心がこもってないとか言われて、やり直しになったからだ。
翌日は、始業式のためバイトは、午後からにしていた。そのため、結香は上木の命令で朝練にも出ることになった。今日から、上木の送迎もないため、まだ暗い道を1人歩く。すると、いつもと同じ場所に制服姿の恵里子が立っていた。
「おはよう」
「なんで、恵里子が? 」
「だって、毎日結香と一緒に、学校へ行っていたのに1人じゃ寂しいし。それに、これくらいのことしか結香にしてあげられない」
「それにしても、今から学校へ行っても早すぎるよ」
「いいよ。でも、さすが結香だね。こんな状況でも、道場の掃除しようとしてるんだ。上木先生にも、ほかの部員にも、1度も、感謝されたことないのに」
「恵里子だって、一緒にやったじゃない。私たち、上木先生に特に嫌われてたよね」
恵里子は、自分のコートを脱いで、結香にかけた。
「まずいよ。上木先生に見つかったら。それに、恵里子が、寒いでしょ」
「これでも、結香と比べればずっとあったかい。それに、上木先生は、こっちから通勤しないから、大丈夫。でも学校に近づいたら、返してね」
「もちろん。ありがとう。ごめんね、私のために」
「こっちこそ、ごめん。結香は、私や藤島君が、言いたくても、言えなかったことを代弁してくれたのに」
「そんなことない。今回の標的は、どっちにしても、私だったと思うから。だから、恵里子は教習所の申し込みしてね。私のことは、気にせずに」
「うーん。私も、働いてからでもいいかな」
「絶対、今のうちに、行った方が良いよ。私なんかに、付き合うと後悔するよ」
学校が、近づいたので、コートを返す。
「ありがとう。やっぱり、寒い」
恵里子と別れ、武道館へ、向かう。案の定、1番乗りだった。昨夜、上木から鍵を借りていて正解だった。中に入ると、部室に入って、着替える。ソックスを脱ぐと、床の冷たさが、全身の体温を奪ってしまうようだった。モップを、道場、部室、廊下にかけ、トイレ掃除を終えたところで、1年生の富野アイノと岡見日子と永末鈴々が、駆け寄ってきた。
「高田先輩。ありがとうございます。来てくれたんですか? しかも、掃除まで」
「そうなんだ。私だけ、しばらくお邪魔するから、よろしく。それより、私なんかに、先輩なんて言っているのを上木先生に聞かれたら、怒られるよ」
「私たち、高田先輩や福波先輩は、尊敬してますので、先輩です。それより、2年の人たちこそ先輩なんて呼びたくないです」
「何かあったの? 」
「今、朝練も私たち1年だけなんです」
「2年の人たちが、上木に『1年が、下手すぎて、団体戦で勝てない』とか言って」
「で、1年と2年の勝率を出して。でも、賀田さんの成績を除いたら、私たちの方が勝っているのに、朝練は下手な1年だけにしようと言って」
賀田とは、賀田美月。ある程度、中学生の時に実績があり上木が引っ張ってきた。
「上木先生も、認めたの? 」
「はい」
3人が、声を揃えた。
「そうか。かわいそうに。さあ、そろそろ始めよう。よろしくお願いします」
その時、上木が来た。その向かいに、結香たちが並んで、正座した。
「高田。お前は、邪魔しに来てるんだから、下座だろう。それで、みんなに、『よろしくお願いします』だろ」
「みなさん、よろしくお願いします」
上木は、竹刀で、床を叩いて、
「1人ずつに、言うもんだろ。お前は、本当に失礼なやつだな」
結香は、言われた通り、1人ずつの前で、頭を下げた。
「先程は、失礼しました。よろしくお願いします」
「部のルール、覚えていると思うが、こんなやつに先輩なんて言うなよ。呼び捨てで、充分だ」
練習が、始まると、上木は4人に対して、横や後ろから攻撃したり押したり、引っ張ったり、やりたい放題。中でも、結香には、特に酷かった。
制服に着替えて、教室に入ると、恵里子が、
「お疲れ様」
と言って、デオドラントスプレーを差し出した。
「ありがとう。久しぶりに、朝からこの匂いはキツいと思っていた」
以前、それを使っているのを、上木に発見され取り上げられたうえ、こっ酷く叱られた。それから、定期的に持ち物検査をされた。
「今日は、バイト終わってからもなの? 」
「ついに、バイトの前も後もになってしまった」
「嘘。毎日? 体力、大丈夫なの」
「わからない。でも、1日でも早く、上木先生の許しを得ないといけないから仕方ない」
恵里子は、信じられないという、表情をした。
今日は、今後の出校日などの説明を受けて、下校になった。達生や奎吾など、何人かのクラスメイトもハンバーガー屋さんに行くというので、みんなで歩く。結香の横には、達生がいた。久しぶりに、ゆっくり会話できた。しかし、達生の口からは結香の置かれている状況を、謝罪する言葉ばかりだった。
「俺たち、表向きには別れたってことにしない? そうすれば、上木先生も許してくれるんじゃないかな」
「多分、無理だと思う。まあ、私が耐えれば済むことだから、気にしないで」
「俺、高田のために、なんの力にもなれないかな? 」
「顔を見せて。時々でもいいから、バイト先に来てくれるだけでも、頑張れる」
みんなが、店に入って、結香と恵里子は、店の制服に着替えるために、ロッカーへ行く。そこですれ違った、浜末に、
「高田さん、今日は体操服じゃなくていいの? 先生に、報告しておきましょう」
「店を、出る時は、体操服に着替えます。今日は、始業式でしたので、仕方ないんです」
いつのまにか、浜末と上木は、連絡を取り合っているようなので、厄介だ。冬休み中も、結香や恵里子のバイトでのミスも、全て、筒抜けで浜末から、叱られたうえに上木からも叱られた。本当に、浜末と、上木は性格合わないと思うのに、結香と、恵里子をいじめることには、とても強い結束力を感じる。
着替えて、店に出ると、みんなが注文せずに待っていた。別に、私たちじゃなくても、頼んでくれたらよかったのにと、思いながら、笑顔で、対応した。しかも、みんなが、バラバラの席に座るから、運ぶのも大変だった。恵里子は、なるべく結香に、体力を、温存できるように、気を使ってくれたけど、流石にじっとしてるわけにはいかないので、手伝った。
みんなが、帰ってテーブルを、拭いたりすると少し落ち着いた。恵里子は、
「結香、今のうちに、休憩したら」
と言ってくれたので、ハンバーガーを食べた。もうすぐ、また部活かと思うとハンバーガーもあまり美味しく感じないし、1人になると、落ち込んでしまうので、食べてすぐに戻った。バイトが、終わって体操服に着替えて学校に向かう。恵里子と別れると、ものすごく惨めな気持ちになった。
武道館は、まだ練習しているようだった。急いで、準備して道場に入ると、上木と1年生の3人だった。結香に気づくと、上木は、練習を一旦止めて整列させた。
「ようやく、来たか。今日から、1年の女子がお前の稽古に、付き合ってくれるそうだ」
「みんな、普通に、部活した後なのに、それは申し訳ないです。上木先生、相手してください」
「何が、申し訳ないだ。こいつら、いつまでたっても、下手だから、いくら練習しても、足りないぐらいだ。高田だって、下手だしちょうどいいだろう」
「私が、下手なのは認めますが1年生が、頑張っているから結構いい戦績なんじゃないですか? 」
「違う。こいつらのせいで、あの程度の結果しか残せない。いいから、黙って稽古を始めろ。そうだ、その前に、高田。制服をここに持ってこい」
「どうしてですか? 」
「お前、今日のバイトに、制服で行ってなかなか着替えが終わらなかったらしいな。人に、迷惑をかけるような服は、没収だ。早くとってこい」
「嫌です」
「やかましい。留年したいのか」
上木は、結香の防具の胴紐を引っ張って、部室に連れて行く。
「ほら、さっさと出せ。それとも、留年か? 」
結香は、無言で鞄から、制服を取り出そうとした。
「ちょっと、待て。ついでに、久しぶりに持ち物検査だ。鞄ごと出せ」
結香は、過去に、これで没収されて以来、余計なものは、入れてない。言われた通り、鞄を差し出した。
「どうぞ」
上木は、鞄を確認して、
「よし。これは、返してやる」
そういって、財布と、スマホを、渡された。
「鞄も、返してください」
「制服を、そのまま持っているわけにはいかないだろ」
「わかりました」
結香は、それらを、棚に入れた。上木は、そこにあったほかの鞄も開けた。
「勝手に、見ちゃダメです」
「お前は、さっさと練習に戻れ」
結香は、上木に道場に連れて行かれた。そして、上木は、
「今から、持ち物検査をする。これで、勝手じゃないからいいだろ、高田」
結香は、何も言わなかったが、みんなの表情が、変わったのがわかった。きっと、何か見つかると困るものがあるんだろう。女の子だし、男に見られたくないものも。今すぐ、部室にいって、隠したい気持ちも、結香にはわかったが、練習を始めてないと、上木から何を言われるかわからない。仕方なく、結香は、
「アイノ、稽古始めよう。号令よろしく」
そういって、催促した。3人も、半ば諦めたように、稽古を始めた。途中で、上木は4つの鞄を持って道場に入って、結香のそれの上に、座って眺めていた。途中で、立ち上がって、
「チンタラやってんじゃない」
と結香たちに、攻撃した。
休憩になり、上木の前に、整列すると、
「お前らは、ちょっと、こういうことをしなくなると、すぐに余計なものを持って来るんだな。それぞれ、自分の鞄から、それらを出して、『没収してください』といえ」
3人は、鞄から次々にいろいろ出した。そして、
「これらを、没収してください。すみませんでした」
と言った。
「お前らも、制服も取り上げてやろうか? まだ、あっただろ。出さないなら、制服を持ってこい」
3人は、また、鞄からいろいろ出した。3人とも、目に涙を浮かべていた。
「俺は、毎回、言っているが、お前らが泣いても、許したりはしない」
そういって、没収したものを、結香の鞄に入れた。そして、稽古が再開された。上木の攻撃は、結香だけでなく4人に、満遍なく、激しくなった。
翌朝は、恵里子は、学校に行かなくていい日なので、いなかった。暗くて、寒い道を歩くと学校がとても遠くに感じた。いつものように、武道館の鍵を開けようとすると、もう開いていた。部室に入ると、1年の3人が着替えていた。
「おはよう。今日は、早いね」
「高田先輩、おはようございます。昨日は、すみませんでした」
3人が、それぞれに、謝罪する。
「どうしたの? みんな」
「高田先輩、今の部活には、卒業がかかっているんですよね? 」
「恥ずかしい話だけど、実は、そうなんだ」
「私たち、高田先輩と福波先輩には、散々守ってもらったのに、余計なものを学校に持ち込んで上木先生を怒らせて」
「高田先輩の足を、思いっきり引っ張ってしまいました」
「今日から、心を入れ替えて、一生懸命稽古しようと誓いました」
「ありがとう。でも、私が卒業させてもらえるかどうかは、私次第だから、気にしないで」
「いいえ。多分、私たちも、関係あります」
「私たち、高田先輩を、卒業させてみせます」
「それで、私たち決めたんです。今日、上木先生に、制服を差し出します」
「ダメよ。みんなは、授業だって、あるんだし」
「昨日も、高田先輩は、持ち物検査に、抵抗してくださったんですよね? 」
「一応は。結局、止められなかった」
「昨日だけじゃなく、今までも、『今後、持ってこないようにさせますので没収はしないでください』って」
「だから、結局没収されたんだから、意味なかった」
「それが原因で、2人が居残り練習を、させられていたのも、知っています」
「多分、それが原因ではないと思う。私は、みんなを守ってあげたかったけど、結局何も出来なかった。だから、制服は、絶対に差し出さないで」
結香は、掃除に取り掛かった。3人も、手伝ってくれた。4人でやれば、流石に早く終わった。まだ、少し時間があったので、結香は気になっていたことを、聞いた。
「部室の棚に、鍵がついてるのはなんで? 」
「2年の仕業ですよ。私たち、小学校から一緒だから、親同士も仲良くて3人とも新人戦に出るってなった時に新しい防具を、買ってもらえることになったんです」
「どうせなら、同じのにして安くしてもらおうと3組の親子で」
「新人戦は、それで、出たんですけどその後2年のやつらに取り上げられて、鍵まで付けたんです」
「なんで、こんな少ない人数なのに、仲良くできないかなぁ。ごめんね。私たちが、自分たちのことで、精一杯でいい雰囲気を作ってあげられなかった」
「高田先輩や福波先輩は、何も悪くないです」
そろそろ、上木が来る頃なので、道場に入った。上木は、4人がそうするのを見計らったように姿を見せた。いつものように、上木の前に4人が並ぶと、今日の号令係の日子の掛け声で、一礼した。その後、上木が話をする前に、
「上木先生、昨日は不要品を持って来てすみませんでした。私たち、反省していますので、制服も没収してください」
「よし、持ってこい」
3人は、部室に制服を、取りに行った。結香は、
「みんな、やめて。上木先生、お願いします。制服を、取り上げないでください」
「あいつらが、反省して決めたことだ。お前が、ごちゃごちゃいうな」
「でも、1年生は、授業もあるんです。お願いします」
結香が、そういっている間に、3人は、制服を入れた鞄を、上木に渡した。
「みんな、ダメ。上木先生、お願いします。返してください」
「いつまでも、やかましい」
結香は、突き飛ばされた。
「高田。みんな、整列してるんだぞ。それとも、まだ俺に歯向かうつもりか? 」
結香は、納得いかなかったが、鈴々に、列に連れ戻され、
「ありがとうございます。でも、本当にいいですから」
と小声で言われ、黙った。上木は、
「じゃあ、これは、没収する。後悔しても、そう簡単には返さないからな。じゃあ、稽古始めろ」
稽古が始まると、開き直って、気を引き締めなければ、上木の攻撃に耐えられない。しかし、結香は、いつもより、たくさん倒された。
1月も、半ばに差し掛かると、結香は悩んでいた。卒業させてもらえた場合、やっぱり運転免許は必要だ。しかし、バイトを続けながら、教習所に行くと、部活に出る時間はない。バイト代で、その費用は賄えるはず。それに今でも、1年生に、遅くまで練習に付き合ってもらっている。3人に聞いても、教えてくれないが、おそらく学校が、休みの日は、ほぼ、1日中部活なんじゃないかと思う。本当は、恵里子に相談したいが、なかなか時間が、取れない。そのため、バイト中に、
「私、バイトを辞める。ごめんね」
と伝えるのが、精一杯だった。
「その方が、いいと思う。寂しいけど、結香大変そうだし」
そして、浜末が、休憩に入ったところで、意を決して言った。すると、
「あんたね、もう何ヶ月もやっていて、バイトが、足りてないのわかっているでしょ? ちょっと、保留させて」
「あの、今すぐってことではないですがなるべく早いところで、お願いします」
「だいたい、あんたたちみたいな出来が悪い人を私が優しく指導してあげたのに。働いてみると、きっとあなたなんか、叱られてばかりよ。就職まで、ここでしっかり勉強した方がいいと思う」
あんな、嫌味ばかりの指導が、優しいと言うのか。だいたい、そのせいで後から、入ったバイトも次々辞めていったのにと、思いながら、
「できれば、私もそうしたいですが、事情により続けられません。すみません」
「まあ、私だけの判断では、決められないから、店長とかに相談する」
相談するのは、店長だけじゃないんだと、思いながら、その場を離れた。恵里子は、
「結香、よく頑張ったね。お疲れさん」
と言ってくれた。それなのに、その日の部活後、上木が、
「高田は、話もあるし、居残りな」
と言われた。1年生に、
「ありがとうございました。お疲れ様でした」
と言って、見送ると上木は、防具をつけ終えた。
「高田。かかってこい」
結香は、恐怖を感じた。あの、制服を差し出した日から1年生の稽古に対する気迫はすごかった。みんな、本当に、強くなったなと、感心していた。その後で、元気な上木とまともにできるだけの体力は残っていない。少しでも、時間を稼ごうと、
「その前に、話というのは、なんでしょうか? 」
「そんなのは、後だ」
「じゃあ、お茶を1口」
と言って、水筒に近づこうとすると、上木が結香の背後から、
「面」
と言って、後頭部を叩いて、突進してきた。結香は、吹っ飛ばされ倒れた。上木は、
「ほら、立て」
と言って、結香を起こして、また攻撃してくる。結香は、攻撃も防御もする隙がなかった。何回か、それを繰り返すと、ついに、結香は立てなくなった。以前、恵里子が、犯されたのもこんな状況だったのかと、頭は、意外と冷静だった。上木は、結香の意識がしっかりしているうちにと、思ったのか言おうとしていたことを話し始めた。
「お前、バイトを辞めると、言ったらしいな。人が、少なくて困っておられるのに、なんでだ」
「運転免許をとりたいです。そのためには、バイトを辞めるしか、教習所に通う時間がありません」
「お前は、まだ自分が置かれている立場を、わかっていないのか。今のままだと、卒業できないんだぞ。そうなれば、免許なんかいらないんだ」
「お願いします。卒業させてください。上木先生が、望むことなんでもします」
「本当だな」
上木は、結香の袴の紐を解いた。そして、自分の袴を下ろして、結香の上に乗った。結香は、恵里子や達生にも悪いとは、思ったがこれが卒業させてもらえる、近道なら仕方ないと、ある程度覚悟していた。上木の手が、結香の胸から、だんだん下半身へと下がって行く。
「なんだ、お前は。もう、濡れているじゃないか。やらしいやつだ」
少しぐらいは、こんな時には、優しい言葉をかけてくれてもいいのにと、思いながら緊張しながら挿入されるのを、待った。すると、太くて硬いものが、結香の大事なところに入った。思わず、声が漏れた。最初は痛かった。
それを、しばらく我慢していると、上木は、結香に挿入していたものを抜いて、結香の面をつけた、顔に向かって発射した。
「どうだ。立てるようになったか? 」
上木は、結香の防具の紐を乱暴に引っ張る。結香は、よろよろしてすぐにその場に崩れ落ちた。そして、結香の袴は、ずり落ちた。
「うわ、恥ずかしい。まだ、ダメです」
「仕方ない。送ってやる」
「着替えますので、待ってください」
「そのまま、帰れば良いだろ」
「嫌です。明日の朝、この格好で、くることになります」
「別に、いいじゃないか。着替えの手間が、省けるぞ」
「じゃあ、私1人で帰ります。ありがとうございました」
「勝手にしろ。鍵は、確実にしておけよ」
「はい。最後に、1つお聞きしていいですか? 」
「なんだ」
「私の卒業は、決まりましたか? 」
「お前な。1回だけ、こんなことしたぐらいで、許されると思うな。それに、お前は喜んでいたが俺はどうってことなかった」
結香は、惨めな気持ちだった。上木を、目で見送ると這うように部室に入った。まずは、防具をとって顔を洗った。そして、面についた精液を拭き取った。着替えを、なんとか終えるとなんとか、何かにつかまっていれば、立って、歩けるようになった。鍵をかけて、道場を出ると、ふらふらしながら帰宅した。
結香は、それ以来ほぼ毎日、上木の相手をした。その度に、射精される結香の面は生臭くなっていた。流石に、毎回、足が、立たなくなるようなことはないので、そうでない時は、
「せめて、防具を外させてください」
とお願いするが、上木の性癖なのか、その前に結香を押し倒した。
一方で、恵里子と達生は、2月から自動車教習所に通い始めた。恵里子は、バイトもそれに合わせて半日だけに変更した。
「免許取ったら、結香を送迎してあげるね」
そういってくれるが、その頃にはこの生活から、抜け出したかった。
ある日、女子剣道部は、新チーム結成以来最大のピンチだった。美月が、昨日から熱が出てコロナウィルスに、感染したことが、わかったためだ。翌日は、小規模ではあるが大会が、控えていた。しかし、上木はそれが判明してからも、1年生に対しても厳しい練習は、変わらなかった。アルノと、鈴々が同時に倒され、
「上木先生。私には、今まで通りでも、構いません。でも、1年生は試合もありますので怪我したら大変なことになります」
結香は、抗議するが、
「そんなことは、関係ない。どうせ、こいつらは悪びれもせず、『負けました。すみませんでした』とか言って帰ってくるだけだ。始めから、期待していないんだから、どうでもいい」
「そうでしょうか? みんな、強くなっているし期待しても、良いのではないでしょうか」
「そりゃ、これだけ稽古すれば、多少は強くなったかもしれん。それでも、期待なんかできるわけないだろう。じゃあ、お前は、こいつらが優勝できると、思っているんだな? それが、出来なかったらお前は留年するんだな」
「そこまでは」
「それなら、もう何人かけても、一緒だ。つべこべいうな」
日子は、結香と、上木の間に入って、
「もういいですから、続けましょう」
と結香を、練習に戻した。
稽古が、終わると、上木は結香に、明日の試合に同行するよう命じた。結香は、慌ててバイト先に電話した。すると、浜末は、すでに、上木から聞いていたようで、もう聞いていることを、わざわざ、言ってくるなと言いたげだった。
試合当日、朝練終了後に結香は着替え上木の車に乗ると、
「高田。なんで、お前は着替えているんだ。遊びに、連れて行くわけじゃないんだぞ。今日のお前は、練習相手とマネージャーだ」
「すみませんでした。すぐ、着替えてきます」
「2年が、到着したら、出発するからな。間に合わなかったら、走ってこい」
どうして、試合に出ないのに、そんな格好で、行かなきゃならないかと、言いたかったが、昨夜も稽古後に反抗したとかで、散々説教されたので、黙って従う。急いで、部室に駆け込んで、再び剣道着を着ると、防具は手に持って、上木の車に乗った。まだ、2年生は到着していなかった。結香は、車の中で、垂と胴をつけた。ミラー越しに、上木と、目が合った。集合時間ギリギリになって、2年生は到着した。2人とも、なんで結香がいるのか、不思議そうだ。ちなみに、2人は、西波真奈と北山真季だ。上木は、それを、見透かしたかのように、
「今日は、高田に、練習相手と、マネージャーをお願いした。こき使ってやってくれ」
と言った。2人は、結香を一瞥すると、シートに座った。結香の隣に、座っていた鈴々は、
「気にしないでください」
と小声で言った。
会場は、すでにたくさんの人がいた。結香と、1年生はすぐに防具をつけて空いた場所で稽古を始めた。今、着替えに行った、2年生や電車でくる男子部員の練習場所確保のためだ。しばらくすると、男子部員が到着したので場所を譲る。キャプテンの曽井拓弥は、
「今日も、良い場所を確保してくれて、ありがとう」
とアルノに言った。いつものことだが、決して男子部員全員が、練習するには充分とは言えないが、礼を言ってくれる。結香は、男子部員の良き伝統が続いているのを、嬉しく思った。拓弥は、結香の存在に気づいて、
「今日は、高田も、来ているんだ。これは、心強い」
「はい。少しでも、役に立てるよう、がんばりますので、よろしくお願いします」
結香たち4人は、そこから近い壁際で、正座すると2年の2人がきた。
「あんた達、何やっているのよ。練習場所は? 」
「今、男子に譲ったから、少し空けてもらったら」
「あんなに、狭い場所でやったら、怪我するでしょ」
「気をつけてやれば、大丈夫だよ」
「高田。あんた、マネージャーなら、何とかしなさいよ」
結香は、もちろん、渋々ではあったが、練習場所を見つけるために立ち上がった。それを、真奈は勘違いしたようだ。突然、結香をこづいて、
「なんだよ」
と言った。不意をつかれた結香は、壁に背中をぶつけた。
「今、空いてる場所を、探してこようとしたのに」
本当に、そのつもりだったので、そう言ったが今度は、真季が、
「高田。今、真奈に何するつもりだった」
と結香に、今にも殴りかかろうとする。すると、鈴々が結香と真季の間に入って、
「やめてください。今から、場所を探してきます」
と言って、結香の手を引いた。そこへ、上木が来て、
「お前ら、練習もせずに、何をやっているんだ。高田、どういうことだ」
「私と、1年生は、もう練習して、男子に場所を、譲りました。そうしたら、この2人が来て場所が狭くて練習できないとかいうので、場所探しをするところです」
「もう、開会式が始まるんだぞ。何をやっているんだ。誰か、曽井にそろそろやめて、並ばせるようにしてくれ」
そういうと、結香を体育館の外へ、連れて出た。そして、冷たいコンクリートの上で、正座させられて大声で怒鳴られた。周りにいた人は、何ごとかと、振り返る。中には、笑って見物したりスマホで、写真や動画を撮る人もいる。恥ずかしい。そんな状況で、謝罪を求められても、どうしても、声が小さくなってしまう。
「すみませんでした」
「声が、小さい。本当に、悪いことしたと思っているのか? 」
その繰り返しで、結香は、声も掠れてきた。開会式を終えた、アルノ達が、2人を見つけて、
「上木先生。高田は、何も悪くありません。開会式の静かな中、2人の声が響いてましたよ」
上木は、結香を、立たせて、
「試合開始だ。マネージャーの仕事を、しっかりやれ」
というと、結香を、体育館の中へ押した。鈴々が、プログラムを、結香に渡してくれた。
「私達も、手伝います」
「いいよ。みんなは、試合があるでしょう」
「個人戦は、私達は出させてもらえませんでした」
「何で? 」
「私達は、下手だから、恥ずかしいそうです。上木先生と、2年生の判断だから仕方ないです」
アルノが、プログラムを見て、
「鈴々は、高田先輩と、Aコートに行って。私と日子は、Cコートに行く」
言われた通り、Aコートに行くと、曽井が、試合に出るところだった。結香は、襷をつけて、
「曽井君、頑張って」
というと、
「ありがとう」
と返ってきた。いよいよ、試合が始まる。結香は、自分の試合のように緊張していた。拓弥は、開始早々から積極的に攻め、勝利した。結香と鈴々は、拍手で、迎えた。そして、鈴々に、
「じゃあ、私は、Dに行くね」
と言って、移動しようとすると、
「女子のは、私達が行きますので、高田先輩は男子についてください」
「私は、別に、どっちでも行くよ」
「先輩が、2年に、馬鹿にされるのは、耐えられないんです」
鈴々は、Dコートに、急足で行ってしまった。結香が、1人になると、上木が近づいてきた。
「お前、当然、昼食は準備しているんだろうな」
「いいえ。どこかに、買いに行きます」
「当然、全員のを、買うつもりだろうな。あれだけ、迷惑かけたんだから」
「私、そんなに、お金を持ってないですよ」
「バイト先に、頼めば、安くなるだろう。デリバリーも、やっているだろ。もしかしたら、卒業が見えてくるかもしれん」
結香は、忙しかったため先月と今月の小遣いはほとんど使っていなかった。仕方ないので、試合の空いた時間にバイト先に、電話すると恵里子が出た。事情を、説明するとバイト終わりに届けてくれることになった。その上、恵里子も、費用を、いくらか負担してくれる。
個人戦は、男子は、4人が1回勝ちそのうち拓弥は、ベスト8になった。女子は、2人とも1回戦負けだった。恵里子が、注文したものを持ってきたのは、拓弥の準々決勝が、終わった時だった。そして、結香と会ったのは、すでに上木や、部員に行き渡った後だった。結香は、剣道着姿じゃない恵里子は、この汗臭い会場には、場違いな気がした。結構、周りの人から注目されている気がした。
「恵里子、ありがとう。早かったね」
「今日は、バイトも人数がいたし、早く帰らせてもらった。せっかくだから、試合をみたくなったし。結香、まるで試合に出るみたい」
「練習相手と、マネージャーってことだから」
「お疲れ様。結香は、どれにする? 」
「もう、みんなに配った? 」
「うん。あとは、結香のとあまり」
「私は、まさか今日も、ハンバーガーを食べるとは、思いもしなかった」
「でも、食べとかないと、帰ってから稽古あるんでしょう? 」
「聞いてはないけど、多分そう。みんなには、もう配った? 」
「終わった。まだ、余っているけど。それと、支払いは上木先生が、してくれたから」
「本当に? だったら、お礼を言わなきゃ」
結香は、上木を探した。すると、女子部員が、固まっているところで発見した。
「上木先生、ありがとうございました。ご馳走様でした」
「お前は、関係ない、福波にも払わせるつもりだったらしいな。毎日、俺を怒らせて何も改めようとしない」
「すみませんでした」
「違います。私が、頑張っているみんなのために、払いたいと思ったんです。結香は、何も悪くありません」
結香の後ろを、ついてきていた恵里子が、そういうと、上木は、
「わかった。じゃあ、福波はもうバイトに戻っていいぞ」
「今日は、もう休みをもらったので、このまま応援します」
「応援なんて、すぐ終わるぞ」
「どうしてですか? みんな、頑張って練習しているみたいだし上木先生が期待していない時は割と上位になりますよね」
「そんなことが、あったか? 」
「昨年のインターハイは、うちの学校の剣道部初の準優勝だったじゃないですか。あの時、上木先生はお前らには全く、期待していないって、何回も聞かされたのに」
「知らん。もう、忘れた。2年生が、活躍したんじゃないか」
「それは、否定しませんが、私も結香も、あの時の団体戦は負けませんでしたよ」
「やかましい。俺は、期待できる、男子の方に行く」
そういって、上木は、その場を離れた。気づくと、女子の団体戦がまもなく始まるところだった。試合に、出て行く順番で、並んでいるが、結香は違和感を感じた。結香は、大将の位置にいる真奈に聞いた。
「これって、どういう順番? 」
「上木先生が、『どんな順番だろうが、結果は同じ』と言って、五十音順だそうです。私、大将なんてプレッシャーしかありません。どうしたらいいですか? 」
よほど、不安だったようで、真奈は初めて結香に敬語を使った。目には、涙を溜めている。思わず、吹き出しそうになるのを、堪えて、
「堂々としていれば、いいよ。案外、相手も強い人を大将にしていないかもしれない」
「今まで、散々みたでしょ? 結香の絶対、一本取ってやるって気迫。団体戦では、神がかっていたでしょ」
「恵里子の絶対、負けないってのも、すごかったけど。とにかく、落ち着いて、頑張って」
結香は、真奈の背中を、ぽんぽんとたたいた。
今日の全ての試合が、終わった。団体戦は、男子は、1回戦で負け女子は3位になった。真奈は、奮闘していたが、準決勝では自分の負けで、チームの敗退が、決まったため、よほど悔しかったようで人目を憚らず、結香に抱きついて、号泣した。真季は、何回か真奈を結香から、離そうとしたが、無駄だった。恵里子は、真季に、
「結香に、任せたら」
と言って、真奈の面を、外した。表彰式が、始まりそうだったので結香は、
「真奈、表彰式だから、もう泣き止んで、賞状をもらってこなくちゃ」
と言って、真奈を離した。そして、真奈は、上木に、
「すみませんでした」
と謝った。上木は、
「まあ、賀田が、不在なのに、この成績は上出来だ。お前と、北山はよくやった」
「違います。今日は、1年生が、頑張ってくれました。私達は、むしろ足を引っ張ってしまいました」
「みんなが、とても頑張っていました。どうして、上木先生は、1年生を評価してくれないんですか? 」
「結構、負けたじゃないか」
「でも、それ以上に、勝っています」
上木は、まだ何か言いたそうだったが、真奈に、
「早く、並べ」
と催促した。恵里子は、上木に、
「今日は、良い試合が、見れて、良かったです。ありがとうございました」
「やっぱり、お前も見てるだけじゃ、つまらないだろう」
「いいえ。高校3年間で、十分すぎるぐらいやったので、もう思い残すことはないです」
「そうか? 高田なんかまだ、不足だそうだぞ」
「いいえ。私も、もう大満足なので、そろそろ解放してもらえませんか? 」
「お前は、今朝も、俺を怒らせたのを、忘れたのか? お前が、まともな社会人に、なれそうにないなら卒業は認めない」
「あっ、みんなが帰ってきた。上木先生、写真撮りましょう」
恵里子が、スマホを取り出した。
「3位で、はしゃいで、写真なんて馬鹿馬鹿しい」
「でも、新チームで、最高の成績だから、いいじゃないですか」
恵里子は、みんなを並ばせて、写真を撮った。その後、結香が、恵里子と代わって写真を撮った。恵里子は、自分が、その中に、入ることを最初は、拒んだがみんなから、お願いされたため、一緒に映った。
帰りの車には、恵里子も乗った。上木が、学校の前に恵里子の家に、寄ると言ったからだ。車が、走り出すと真奈が、意を決したように、
「上木先生。学校に帰ったら、私に稽古をつけてください」
「俺は、しないぞ。今日は、疲れた。そうだ、福波が入れば、ちょうどいい人数だ」
「私、何にも、準備していません」
「部室に、一式あったはずだ。それを使えば良い」
「嫌ですよ。長い間、ほったらかしにしてあるじゃないですか」
「じゃあ、男子のを、借りたらいい」
「それだと、ついさっきまで、使っていたんじゃないですか」
「やかましい。今日は、せっかく、福波がやる気になったんだから、やらせてやる」
恵里子は、ぶつぶつ言っていたが、もう何を言っても無駄だと諦めた。すると、真季が、
「大変、言いづらいですが、私も参加させてくれませんか? 」
「それだと、人数が合わなくなる」
「じゃあ、私は、やめておきます」
恵里子が、すぐに反応した。しかし、上木は、
「福波は、せっかくだから、やめなくていい」
「じゃあ、私がやめましょう」
結香は、仕方ないと言ったそぶりを、見せたが、
「じゃあ、俺が相手してやる。高田は、今日は元気なはずだからな」
結香は、苦笑いしか出来なかった。
学校に着くと、拓弥が残っていた。女子の試合も、最後まで見ていたらしい。拓弥は、恵里子に自分の防具を渡して、
「これ、使って。まだ、汗が乾いてないけど」
「ありがとうございます」
上木は、
「曽井。すまんな。当分、福波の臭い匂いが、染み付くかもしれんがな」
そういって、笑った。
「あの、上木先生。胴着は? 」
「女子の部室に、余っているのが、あっただろう。それが、嫌ならその服でやるか高田の体操服を借りるかだ」
恵里子は、部室の棚を、探した。もちろん、あるのは、みんな、知っているが誰が使ったものか洗ってあるかすらわからない。そのため、選びかねていた。もう、みんなが、道場に、集まっていた。上木は、女子の部室に歩いて行った。
「福波。入るぞ」
部室のドアが、開く音がして、
「何やってるんだ。まだ、着替えていないじゃないか。胴着なんて、どれでもいいだろう。ほら、これにしろ。さっさと、着替えて出てこい」
恵里子は、サイズが合わないのか、袖や裾を気にしながら姿を見せた。そして、防具をつけると結香に、
「まだ、湿ってる」
と言った。その様子を見て、上木は、
「福波。いつまでも、ごちゃごちゃいうな。お前は、自主的に稽古に参加するって言ったから多少のことは目を瞑ろうと、思っていたが、ここまで文句を言うなら、許さない。まず、お前からかかってこい」
恵里子は、久しぶりの上、袴が少し長いためしょっちゅう、転んでいた。上木は、何回目かの時に、
「福波は、ダメだ。誰か、代われ」
結香は、自分が代わるしかないと、思った瞬間に真奈が、
「私が、代ります」
と手を挙げた。上木は、
「お前が? 俺は、誰だろうが、容赦しないぞ。いいのか」
「はい。よろしくお願いします」
真奈が、上木とやるのはおそらく、初めてだった。真奈だけに限らず、2年生は上木と稽古することは今までなかった。だから、真奈は恵里子以上に、何回も転んだ。上木は、珍しく真奈に、罵声を浴びせた。
「西波。お前は、随分怠けていたんだな。コロコロ転びやがって。下手くそ。交代だ。次は、高田か? 」
結香が、ついに、自分の番だと返事をしようとすると、今度は真季が、
「次は、私とお願いします」
と言った。真季は、始めのうちは、持ち堪えていたが疲れとともに転ぶ回数が増えた。上木は、それを見て、
「もう、今日は、終わりだ」
みんなが、いつものように、上木の前に整列して正座した。
「今日は、たまたま、小さい大会で、運良く3位になったがお前たちは、決して強くない。良い気にならず、一層稽古に、励め。それから、高田はまだ、体力が余っているだろうから居残りだ」
結香は、やっぱり、今日も、許してもらえなかったかと、思いながらも返事をすると、真奈が手を挙げて、
「上木先生。私も、明日から、朝練に出ます」
すると、真季も、
「私も、参加させてください」
と言った。みんなが、驚いたように、2人の方を見た。
「構わんが、どうしたことだ」
「今日の試合、3位になったのは、1年生のおかげです。私が、もう少し頑張っていれば優勝だってできたかもしれません」
「私も、1年生の活躍を見て、自分が怠けていたことを知りました。明日から、一生懸命稽古します」
「わかった。じゃあ、明日から、出てこい」
「よろしくお願いします」
真奈と真季が、言った。
結香は、いつものように、居残り稽古をして上木に愛撫をされていた。上木は、その最中に、
「お前は、どうしてみんなを、やる気にさせられるんだ? 何の長所も、持っていないやつなのに。福波も、1年も、ついに、2年まで」
結香は、こんなに、気持ちよくなっている時に、そんなことを聞かないでと思いながら、
「知りませんが、私もみんなも、真面目で素直ないい子なんでしょう」
それほど、いうと、再び喘ぎ声を漏らした。上木は、愛撫をやめセックスを、始めた。
「ほかの者は、そうかもしれないが、お前は違う」
上木に、散々、けなされながらでも、結香はかんじていた。こんな時でも、気持ちよくて喘いでしまう自分が悲しかった。結香の目から、涙が流れた。その時、それとは違う、液体が顔に流れた。上木は、
「泣くほど、気持ちよかったか? ついでに、もう一つ、喜ばせてやろう。条件付きで、卒業を認めてやろう」
「ありがとうございます。卒業させてもらえるなら、大概の条件は、受けます」
結香は、上木にかけられた、液体で目が開けられない。こんな状態の時に、いうなんてと思っていると、
「条件は、聞かなくていいのか? まあ、明日以降に話してやろう」
結香は、条件が気になって夜も眠れなかった。こんなことなら、聞いておけばよかったと、後悔した。
翌日の朝練は、にぎやかだった。真奈と真季もきた。結香や1年生より、少しだけ来るのが遅かったが、初めて掃除も、手伝った。結香は、早く上木から、条件を聞きたかったが、真奈が、
「せっかく、準備も終わったので、始めよう」
と言うので、それに従った。結香は、稽古が始まると、夢中になっていて上木がきたのに気づかなかった。しばらくして、上木を、探してキョロキョロしていると、横から、体当たりをされて吹っ飛ばされた。
「稽古中に、何をよそ見してるんだ」
「すみませんでした」
上木は、倒れた結香に、面を1発見舞ってから防具の紐を引っ張って立たせた。
「集中しろ。昨夜、言ったこと、撤回しようか」
結香は、再度、謝罪した。しかし、よほど上木を、怒らせてしまったようでそれ以降何回も倒された。
朝練が、終わって、結香は、ついに、上木に聞けると、声をかけた。
「上木先生。条件を、教えてください」
「あんな、気の抜けた、稽古しかできないなら、教えない。まずは、卒業式まで休まず毎日来ることだ。お前が、稽古で、反省していると、俺に思わせたらいってもいい」
「すみませんでした。しかし、それが気になって集中できないんです」
「じゃあ、卒業式まで、言わない。俺も、忙しいんだ」
上木は、そういってその場を、去って行った。
結香は、バイト先まで歩いていても、モヤモヤしていた。着いてからも、浮かない顔をしていたようで恵里子から、
「どうしたの? 元気ないね」
と言われた。黙っていると、
「まさか、卒業させてもらえない? 」
「卒業は、させてもらえるみたいだけど、条件があるんだって」
「条件って、何? 」
「それを、教えてくれない。気になって、昨夜はほとんど寝てない」
「そうなんだ。それは、気になる」
恵里子は、結香を、憐れむように見た。そこへ、末松が来た。
「これ、来月のシフトね。また、よろしく」
結香は、それを見て首を、傾げた。
「私、ほとんど、空白なんですが」
「なんで。あなた、自分のことなのに、聞いてないの? 先日、上木先生から電話があって、『高田は、自動車教習所に、行きますので、卒業式以降は解放してやってください』って。本当に、良い先生よね? 担任だったの」
「いいえ。部活の顧問です。とても、良い先生です」
「あら、部活の顧問の先生なのに、あなたのことを、心配してくれるのね。じゃあ、もう少しの間だけどよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
結香は、上木の計らいに感謝した。自分からいっても、以前のように人がいないからと辞めさせてもらえなかったかもしれない。ただ、不安なのは恵里子が、半日だけでも、バイトを続けているのに完全に辞めること。もしかしたら、卒業しても、部活に、出させられるかも。今夜、ぜひ、上木に聞いてみたい。
今夜の部活には、真奈と、真季もいた。結香が、道場の扉を開けて、
「遅くなりまして、すみませんでした。よろしくお願いします」
と全員に、言った後、真奈と真季にも、改めて言った。上木は、それを見て、
「高田。ちょっと、こい」
早速、呼ばれたので、嫌だったが、行かないわけにもいかない。返事をして、上木の前で正座する。
「改めて、いっておくが、今朝みたいな、稽古したら許さないからな」
「はい。すみませんでした」
そう言って、頭を下げると、面を2発食らった。後頭部に、竹刀が当たったのでいたい。それを、我慢して頭を上げると、今度は、突きをくらって、後ろに倒れた。上木は、結香を起こしながら、
「こんなことで、本当に、気合いを入れていると、言えるか? 」
「すみません。座っている、体勢だったのでうまく、バランスを取れませんでした」
「それなら、立て」
言われた通り、立ちあがろうとした時、また突きを食らった。意表を、つかれたため今度も後ろに倒れてしまった。また、上木の怒号が、響こうとした時、鈴々が、
「上木先生。人数が、足りなくて、困っていますので、高田を貸してください」
と言ったので、結香は、逃れることが、できた。とはいえ、横や後ろからの攻撃は、食らう。そのため、何度か倒された。上木が、ほぼ結香に、集中してするので、仕方ないが。しかし、今度はアルノが、
「上木先生。いい加減にしてください。私が、打ち込もうとしている時、毎回、高田を倒されるのでは、集中して稽古できません」
上木は、舌打ちした。
「高田は、強くなってくれないと、困るんだ」
「どうして、もう卒業していく人が、強くならないといけないんですか? 本当に、そんなことで強くなれるなら私たちに、お願いします」
「アルノ。私は、平気だから。ごめんね。しょっちゅう、倒されてしまって」
「あんな、足を引っ掛けたり、後ろから引っ張られたりしたら、誰だって倒れます」
「私が、気をつけて、かわしたりできなかったから悪いの。稽古、続けよう」
「いいえ。上木先生が、高田に行き過ぎた嫌がらせをしないと、言われるまでやめません」
「どうやら、高田の留年が、決定したようだ」
アルノは、さらに語気を強める。
「上木先生に対して、言っているのは、私です。それなのに、どうして高田が留年になったりするんですか? おかしいです」
結香は、アルノを、上木から離れた場所に連れて行き背中をポンポンたたいた。アルノは、少し落ち着いたようで、稽古を、再開した。
その後の特訓は、いつも以上に、厳しかった。条件も、とても聞ける状態ではなかった。
それ以降も、上木は、条件を話してくれない。結香は、自動車教習所の予約はしたが不安な日々を送っていた。恵里子や達生は、結香には、隠しているが既に免許を、取っていた。毎日の学校までの道のりが、嫌になった。このまま、消えてしまいたくなった。それでも、確実に時は、過ぎた。
そして、卒業式の日の朝練が終わると、上木は、結香と1年生の制服を、返してくれた。みんなが、上木に感謝の言葉を言った。結香は、その後で、
「上木先生。もう、教えてください。条件というのは、何ですか? 」
「卒業式が、終わったら、俺のところへこい」
結香は、まさかこんなに、条件を聞かされないとは、思いもしなかった。みんなが、笑顔で話している教室は地獄のようだった。恵里子が、結香の姿を見て声をかけて来た。
「どうしたの? 暗い顔して」
「うん」
恵里子は、鼻をクンクンさせて、
「まさか、今朝も、朝練に出たの? 」
「うん。そんなに、匂う? 」
恵里子は、首を縦に振って、
「その顔は、条件がとんでもないものだったって事か? 」
「聞いてない。卒業式が終わったら、教えるって」
「そうなんだ。私も、付き合うよ」
「いいよ。もし、恵里子まで、巻き込まれても、助けてあげられないよ」
「私の高校3年間の思い出は、結香がいなかったら、ほとんどなかった。親友が、そんな憂鬱な気分でしか卒業できないなら、私も半分もらう」
「ありがとう。気持ちだけで、充分だよ」
「そうだ」
恵里子は、突然どこかへ行ってしまった。結香は、鼻をクンクンして自分の匂いを嗅いだ。こんな日にも、汗臭いなんて、最悪だ。惨めな、気持ちになって来た。そして、まもなく卒業式が始まるので体育館に、集まった。
卒業式は、校長先生や、何人かの偉い人たちが、入れ替わりに、ありがたい言葉を長々と喋っておられたが、結香は、周りの人に、自分の匂いが、気づかれていないかどうかが、気になって耳に入らなかった。
クラスに、戻ると、卒業証書が渡された。もちろん、結香にもあった。それを、まじまじと見て、初めて卒業できたと、安堵した。しかし、それも束の間で、これから、上木のところへ向かわなければならない。結香は、恵里子には、何も言わず、1人でいくことにした。すると、途中で、剣道部の1年生にあった。
「高田先輩、おめでとうございます。記念写真を撮らせてください」
日子が、結香に、スマホを向けた。すると、アイノが、
「日子、せっかくだから、みんなで撮ろうよ」
「高田先輩。福波先輩は? 」
「恵里子も? 」
「どうしてですか? まさか、福波先輩と何かあったんですか」
「何もないよ」
「じゃあ、どうして、いつも一緒だった2人が今日に限って単独行動なんですか? 」
「そうですよ。私たち、人数は違いますが何もかも高田先輩と福波先輩が目標なんですよ」
「あっ、福波先輩だ」
結香は、まずいと思った。案の定、恵里子は、
「結香。まだ、行ってないよね? 私も、いくって言ったじゃない。酷いな」
「ごめん。やっぱり、これは私だけが、いくべきだと思うの」
「高田先輩、どこに行かれるんですか? あっ、上木先生ですか」
結香と、恵里子は、図星と言うのが誰の目にも、明らかな表情をした。
「私たちも、一緒にいきましょうか」
「あなた達は、後2年も先生と生徒という、関係が続くから絶対に連れていかない」
「とりあえず、早く写真を撮ろう」
恵里子は、達生に、スマホを渡した。結香は、なぜここに達生がいるか不思議に思った。しかし、時間がないので、深く考えず、みんなで、並んでポーズをとった。何ショットか、撮るとグループLINEに、次々と、写真やコメントが、入ってくる。結香は、それを見ずに別れた。途中で、恵里子と、達生が追いついた。
「1人だけでは、行かせないからね」
「どうなっても、知らないよ」
上木は、難しそうな、顔をして、座っていた。一瞬、たじろいだが、
「上木先生。卒業証書、貰いました。ありがとうございました」
「ちょうどよかった。福波や、藤島も、一緒か。条件は、高田に、4月から剣道部の外部コーチをお願いしたい」
「そんなの、無理です。働いたら、勤務も、時間が、バラバラですし」
「わかっている。毎日、朝夕出ろとは、言わない。勤務の都合が、良い時だけ。それ以外は、福波や藤島にしてもいい」
「どうして、私なんですか? 今まで、散々下手だと罵られたじゃないですか」
「その通り、お前は下手だ。でも、お前の才能に、気づいたんだ。お前は、なぜか、他人をやる気にさせる。福波も、そうだったな」
「たしかに、そうですね」
今まで、黙っていた、恵里子が、口を挟んだ。
「その力が、欲しいんだ。考えてみろ。俺が、1人で男子も女子も見れるわけない」
「だからと言って、私が上木先生のような、指導を、できると思いますか? 」
「そんなのは、全く、期待していない。基本的には、俺に任せてくれたらいい」
「それなら、ただの練習相手じゃないですか? じゃあ、私じゃなくても良くないですか」
「だから、説明しただろう。お前の才能が必要だ。それに、お前はこの条件で卒業できたんだからな」
やっぱり、それを持ち出されるんだ。結香は、どうせ、上木が、引き下がることはないだろうから、諦めたように、
「わかりました。でも、期待はずれだったら怒鳴るんじゃなく黙ってやめさせてください」
「そんなことするか。じゃあ、これにサインしろ」
上木は、契約書を結香に、差し出した。一度、深呼吸をして、署名していると上木はパソコンから何かを印刷した。
「福波と、藤島も頼む」
「私も、交代勤務だから、あまり当てになりませんよ」
「いいんだ。お前たちは、髙田が出られない時の臨時コーチだ」
「上木先生。高田にも、あまり、負担がかからないように配慮してくださいね」
達生の言葉を聞いて、結香はその優しさに、感動した。
「それは、もちろんだ。もし、高田がこの日は、趣味の時間を、とりたいといえば休ませてやる。ただ、こいつに剣道以外の趣味があるか、知らないが」
結香は、悔しかったが趣味と、呼べるようなものはない。しかし、剣道は部活でやっていたので趣味とは思いたくない。そもそも、部活の時間が、長過ぎたので他のことをやる暇など、なかった。
「趣味は、これから作ります」
「無理することはない。グループLINEを、作るから勤務の予定表は共有するように」
結香達は、上木にLINEのQRコードを、見せた。すぐに、剣道部顧問・コーチグループが、作られた。そして、結香は、上木に、確認した。
「次に、出るのは、4月でいいですね? 」
「そう思っていたが、体が鈍ってもいけないな。高田は、教習所の予定表を見せること。すぐにだ。今日も、やって帰るか? 」
「結構です」
結香は、逃げるように、その場を離れた。
結香は、言われた通り家に、帰ってすぐに、教習所の予定表を送信した。上木から、『毎日、出られそうだな。まあ、朝練は、勘弁してやる』と返信があった。それについて、恵里子や達生が、抗議のメッセージを、入れてくれた。すると、上木のメッセージが入った。それを、傍観していた結香は、着信音に、驚いた。上木からだ。
「もしもし」
「お前は、どういうつもりだ。俺らのやりとりを、無視しやがって。俺は、お前が体が鈍るから出られる時にはくるっていうから、配慮してやったんだぞ」
「すみません。でも、毎日は」
「じゃあ、都合が、悪いのは、いつだ? 」
「今のところ、特に」
「じゃあ、明日から出てこい。休みたい時は、必ず前もって言え」
「わかりました」
翌日から、結香は、教習所に通った。初めてのことばかりで、緊張する。車に、乗せてもらっている時には簡単そうに、思っていたが、自分が運転するとなると、難しいことばかりだった。
初日の教習を、終えると、教習所の事務員さんから、
「高田さんは、毎日、学校に送るようにと、電話があったので、それで良いですね? 」
上木が、言ったんだと、すぐにわかった。
「はい」
他に、学校方面に帰るもう1人と一緒に車に乗せられた。この時期に、教習所に通っているのは同級生だとの確信があるのだろう。大井日向子は、気さくに話しかけてきた。
「家って、こっちの方? 」
「違うけど、事情があって、学校に行かなきゃいけなくて」
「もう、卒業式、終わったでしょ? 」
「そうなんだけど、用事があるから」
「誕生日は、いつ? 」
それは、誕生日の関係で、教習所から後回しにされたか勉強の出来が悪くて卒業が決まらなかったかを聞かれていると、感じた。それなので、言い訳のような回答をした。
「5月だけど、バイトに明け暮れてて、教習所に通うの遅くなってしまった」
「どこでやっていたの? 」
「ハンバーガー屋さん」
「あっ、わかった。だから、見たことあるって思っていた。いつも、笑顔で対応してくれた可愛い人だ」
「ありがとうございます。ですが、私は表情が悪いと何度か、お叱りを受けました」
「どうして、急に敬語なの? 」
「あっ、お客さんだと、思ったら癖で。どうして、遠い方の店に? 」
「友達が、あの辺にいたから」
教習所の車は、コンビニに入って、停まった。
「私、ここで降りるから。またね」
日向子は、手を振って車を、降りた。結香も、日向子が見えなくなるまで手を振った。
校門の前で、車を降りるとそこに、上木が、立っていた。
「お出迎えまでしていただき、ありがとうございます」
「お前が、素直に従うか信用できないからな。まだ、時間があるから、コーチ研修だ。さっさと着替えろ」
部室で、急いで着替えたが上木はそのままの姿だった。
「上木先生、研修と言うのは? 」
「まずは、飲み物を、準備してこい。それから、掃除だ」
「それって、コーチの仕事ですか? 」
「正確に言えば、違うかもしれん。でも、俺はマネージャーは入れないから部員にやらせている。ただ、その時間が、もったいない」
「それなら、着替えは、必要ないですよね? 」
「どうせ、着替えることだから、いいじゃないか」
「私は、本当に、コーチの扱いをしてもらえるんですか? 」
「お前は、俺が信用できないのか? 今までも、悪いようにしたことなかっただろう。ただ、言っておくがお前もコーチなら、俺のやり方に一切文句を言うなよ」
「わかりました」
「わかったなら、すぐに言ったことをやれ」
結香は、お茶の準備をして、掃除に取り掛かった。道場に、モップをかけていると上木が後をついてくる。結香が、気になって、振り返ると竹刀で、叩かれた。
「時間がないのに、休まずやれ。防具つけてて、よかったな」
それなら、上木も、手伝ってくれたらいいと、思ったが何も言わずに、続けた。朝練前にも、やっているだろうから、綺麗だった。そのため、予想より早く終わった。
「終わりました」
ずっと、ついて歩いていた、上木に言うと、
「まあ、合格にしよう。もうすぐ、みんなが来る頃だから、面は外しておけ。挨拶するのに、顔を見せないのは失礼だろう。もしかしたら、お前の場合、それも失礼かもしれんが。それと、お前の面、変な匂いがする」
「だから、何回も面を外させてくださいと、お願いしたじゃないですか」
「お前は、その方が興奮すると思ったら案の定、そうだった」
その時、何人かの足音が聞こえた。結香は、昨日までと、立場が、違うので少し緊張してきた。それに、男子もいる時は、久しぶりだ。次々に、部員が、道場の扉を、開けて、入ってくる。女子部員は、結香が、上木の隣で、正座しているのに、驚いた、表情をした。ほぼ、全員が、整列したところで、上木が、
「じゃあ、稽古を始めるが、今日からコーチを、お願いしたら、快諾してくれた、高田コーチだ。みんなも、よく知っていると思うが、よろしく。じゃあ、高田コーチ一言」
上木が、話している最中に、美月は、静かに列に加わった。上木は、美月を睨みつけた。
「今日から、コーチをすることになりました、高田です。よろしくお願いします」
「他にも、臨時コーチもいるが、きてもらった時に、紹介する」
みんなが、立ちあがろうとした時、美月が言った。
「上木先生。どうして、高田みたいな、下手な人がコーチなんですか? 」
「高田コーチだ。謝れ」
美月は、不貞腐れたように、
「すみませんでした」
と軽く頭を下げた。その態度は、さらに上木を怒らせた。
「だいたい、お前は遅れて、入ってきたが、何をやっていた。その上、高田コーチに下手だと言うし」
「だから、すみませんって、言ったじゃないですか」
「高田コーチ。賀田の制服を、もってこい」
「上木先生。私には、そんなこと、できません」
「高田コーチ。俺のやり方に、文句を、言わない約束だろ」
結香は、渋々、立ち上がって、部室に、向かおうとすると、美月が後ろから止めた。
「本当に、すみませんでした。許してください」
「私に、言われても」
美月は、結香を抑えながら、上木に、
「上木先生。許してください。お願いします」
「お前は、高田コーチに、なんてことをしているんだ。その手を、離せ」
「嫌です」
「このままだと、時間がもったいない。今日の稽古の最後に、試合をする。賀田が、女子全員に勝ったら許してやる。そのかわり、負けたら制服を差し出して、朝練も参加する。いいな」
「わかりました」
美月は、自信があるのか、あっさり承諾した。結香は、びっくりした。それは、美月にではなく上木にだ。今まで、部員同志の試合は、意味ないと言って、しなかったからだ。
そして、やっと稽古が始まると上木は美月に集中的に攻撃した。今まで、美月は、そんな経験がないので、序盤で、結構疲れているようだった。同時に、相当怒っているようで最初の休憩でも、上木に、抗議した。
「あんなことをしないと、高田コーチは、私に勝てないんですか? それなら、下手って、言っても謝ったりする必要なかったじゃないですか」
「お前が、どんな状態だろうと、高田コーチに勝てるわけない。じゃあ、今から俺と高田コーチが、稽古する。お前は、万全な、状態になったときに、知らせろ。その時に、試合をする」
結香は、上木の言葉を聞いて、不安になった。普通に戦っても、美月に勝てる保証はない。そもそも、女子部員同士で、稽古する機会は、朝練と、夜の特訓しかなかったので、どちらにも、出なかった美月は、未知の相手だった。
上木は、結香の立場が変わっても同じように激しく攻めてくる。結香は、このままでは美月との試合に挑める体力が、残らないと感じて、セーブした。しかし、すぐに上木に悟られた。倒された時、上から上木が、
「体力を、セーブしようなんてせこいことを、考えていると、怪我するぞ」
そういって、結香を起こした。こうなったら、後先考えず本気でやるしかない。開き直って、必死で上木にかかっていって、どれだけ時間が、たったのだろう。何回か、倒されたところで美月から、
「上木先生。準備できました」
と聞こえた。珍しく、上木が、優しく起こしてくれた。
「いつも通りやれば、大丈夫だ」
そう言われても、それが、できる自信がないくらい、体力を消耗していた。アルノが、
「高田コーチ、大丈夫ですか? 」
と言って、飲み物を差し出した。結香は、それを一気に飲み干した。
「じゃあ、始めるぞ」
上木が、審判の旗を持って、道場の真ん中に立っていた。すると、美月は、
「上木先生が、審判だと私に不利な判定をされそうです」
「そんなことするわけないだろう」
「いいえ、信用できません」
「じゃあ、男子部員ならいいのか? 」
「はい」
「じゃあ、すまんが誰かやってくれ」
男子部員が、3人真ん中に集まった。結香と美月は、対峙した。
結香は、少し、手こずりながらも勝った。上木は、美月に、
「約束通り、制服を、持ってこい。これだけ、お前に、有力な情況で、負けたんだから言い訳できないだろう」
「1回負けたぐらいで、2つも罰を与えられるなんて、納得できません。しかも、高田コーチです。明日から、朝練に出ます。だから、制服は、渡しません」
美月は、未だ、抵抗する。しかし、結香も、制服を取り上げられる気持ちも理解していた。そこで、上木に、
「上木先生。美月に、もう一度、チャンスを与えてください」
と提案した。
「高田コーチは、優しいな。自分は、3年間のほとんどを体操服で過ごしたのにな。賀田、どうするんだ? 」
「チャンスを、ください」
「じゃあ、賀田対女子部員の団体戦だ。負けた方が、制服を差し出す。いいな。こうしないと、わざと負けたりする者がいるかもしれん」
美月以外の部員には、迷惑な話だったが、受けるしかなかった。そして、3位になった時と同じ順番で行くことに、決めたようだった。
試合は、美月が1勝2敗2分で、負けた。美月は、悔しがって何か言おうとしたが上木に部室に引っ張られていった。一方、勝利を決めた真奈は複雑だったようだ。
「高田コーチ。私、どうしたらいいですか? 美月に、勝ってしまった」
「いい試合だったよ。みんなの制服を、守ったんだから、よかったじゃない。これが、今の実力だから仕方ない。勘違いしないでよ。私は、美月に色々言われているけど、本当のことだから恨んだり、憎んだりしてないからね」
結香の話が、終わるのを、待っていたかのように他の女子部員が、真奈にハグした。そこへ、道場の扉が力強く開けられ、バッグを持って、上木が入ってきた。そして、それを取り戻そうとしている、美月がいた。
「すみませんでした。お願いですから、返してください」
上木は、それを無視して、
「よし、男子は、ここまでだ。整列」
と言うと、正座した。みんなが、自分の順番のところに並ぶが、美月は上木のそばでバッグを返すよう頼み続けていた。
「いい加減にしろ。全員、並んでいるだろ。今日は、貴重な練習時間をお前のわがままに付き合わされたんだぞ。
終わりの時間まで、迷惑かけるつもりか」
美月は、黙って列に、加わった。泣いているようだった。しかし、上木はさらに追い討ちした。
「賀田。お前の場所は、一番下座だ。これから、ずっとそこが、定位置だ」
美月は、ついに嗚咽を漏らして、泣き出した。上木は、そんなことなどお構いなしで、
「今日は、男子にはつまらない試合に、付き合わせて、悪かった。女子も、今日は賀田以外は、帰っていいぞ」
結香は、上木を見た。こんな状態なのに、勘弁してあげませんか? と言いたかったが、どうせ聞き入れてはくれないだろう。他の部員は、次々に道場から、出ていった。真奈と真季は、美月に、
「ごめんね。頑張って」
と声をかけて、帰っていった。結香は、美月の隣に座って、
「もう少し、頑張ろう」
というと、美月は、
「うるさい」
と言って、結香を突き飛ばした。
「お前は、高田コーチに、何をする。もう、許さない。高田コーチ、こいつをボコボコにするぞ」
結香は、そんなことできないと、思いながら、防具をつけた。美月は、その場で座ったままだったが、上木に立たせられた。
「よし、どんどん打ち込んでやれ」
結香は、4回ほど打ったが上木には、不満だったようで美月を倒した。そして、胴を足で踏み付け、
「これなら、何発も打てるぞ。高田コーチも、こいつには何回もやられただろう」
たしかに、そうだったが結香には、できなかった。上木に、何回も促され仕方なく、3回面を叩いた。
「高田コーチは、優しいな。よし、俺が、代わってやろう」
結香は、そうすると、流石に、美月が、心配になって、
「すみません。私が、相手します」
と言った。なぜか、美月は無抵抗で、結香が打ち込んでも防御をしない。上木の攻撃にも、あっさり倒れた。
「やる気あるのか? 本当にボコボコにされたいか」
上木が、竹刀で何回も叩く。結香は、見かねて、
「上木先生。ちょっと、休憩しましょう」
「そうするか」
結香は、美月を、隅の方に座らせお茶を取ってきた。美月は、それを受け取り半分くらい飲むと、
「ありがとうございました」
と言った。上木は、結香に、
「こんなやつに、そんなことしなくていいのに。やる気ない、稽古しやがって。本気で、ボコボコにしてやる」
「上木先生。少し、私に美月と話をさせてください」
結香は、そう言って、美月に近づいた。
「美月、頑張ろう。そうしないと、終わらなくなってしまうよ」
「それなら、私をボコボコにしてください。私が、高田コーチに、やってきたように」
「私には、そんなことできない。だから、色々、ショックだったと思うけど、投げやりにならないで」
「どうして、私なんかにそんなに、優しくできるんですか? 今まで、散々酷いことをしたり、言ったりだったじゃないですか」
「私が、今の美月みたいなことを、たくさん経験したからかな。どんな時に、何を言われるのが一番嫌かわかるから、他人には、味わって欲しくない」
「でも、それをしていたのが、私なんですよ。同じように、言えば少しは仕返しになるんですよ」
「私がそうしたら、美月は同じようになった人に、仕返しするかもしれない。誰かが、我慢しなければ、悪い連鎖が、終わらないんじゃないかな」
「どうして、上木先生が性格が真逆の高田コーチを、招聘したかわかったような気がします。てっきり、上木先生の手先として、ビシバシやられるかと思っていました。私、心を入れ替えて頑張りますので、よろしくお願いします」
結香は、上木にしばらく攻撃せずに見守るようお願いした。そのあとの美月は、見違えたように気合の入ったいい、稽古をした。上木も、満足そうに何度も頷きながら眺めていた。そして、よほど、機嫌が良くなったのかいつもより、だいぶ早い時間に、切り上げた。美月は、笑顔で何回も上木と、結香に、頭を下げて、お礼を言って体操服で、帰っていった。
「あいつのあんな表情を見るのは、いつぶりだろう」
「良かったですね。また、強い美月が、復活するかもしれませんよ」
「さて、今夜は過去最高の気分になりそうだ。高田、防具つけろ」
「このままでも、良くないですか? 」
「俺は、お前が防具をつけて、臭い匂いをさせているのが、一番好きだ」
「上木先生、変態です」
結香が、防具をつけると、すぐに上木に押し倒された。しばらくして、結香の顔にいつもより大量の液体がかけられた。結香が、余韻に浸りかけていると、
「高田、送ってやるから、早く着替えろ」
「だから、着替えてからにしてくれたら、いいじゃないですか」
結香は、急かされながら着替え戸締まり前の点検をすると、道場の片付けも、まだだった。
「そんなに、急かされるなら少しでもやってくださいよ」
「なんで、顧問で、監督の俺がそんなことしなくちゃいけないんだ。高田は、コーチ兼マネージャーだろう」
「じゃあ、すぐに終わらせますので、近くまで車を持ってきてください」
「了解しました。高田コーチ」
上木は、敬礼をして、道場を出ていった。
上木は、車に乗ってからも、珍しく饒舌だった。
「まさか、賀田が高田に心を開くとは、思わなかった」
「でも、試合で、私が負けてたらどうなっていたのかわかりません。あんなに、部内の試合はしない方針だった上木先生が、そんなこと言われるなんて、思ってませんでした」
「高田が、賀田に負けるはずがないと思っていたからな。しかし、1年があんなに頑張ったのは予想外だった」
「1年生は、ほとんど不満も言わず毎日稽古していたじゃないですか。たまには、休ませてやりませんか? 」
「そうだな。来年度から、高田が出られない土曜日か日曜日に休みをやるか」
「それは、私にとっては、あまり嬉しくないです」
「俺は、高田には、毎日出させたいが、どうせそうならないから、いいじゃないか。ところで、腹減ったな。久しぶりに、ハンバーガーでも、食って行こう」
「じゃあ、ドライブスルーで、お願いします」
「俺は、車の中で、食べるのは、好きじゃない」
「私、臭くないですか? 」
「俺は、いつも高田は臭いと、思っているから普通通りだろう」
「誰のせいですか? 」
「俺のせいじゃないぞ。いいから、さっさと降りろ」
上木は、助手席側にきて、結香を、引っ張った。すると、バイトを終えた恵里子と会った。
「結香。今日も、上木先生と、デート? 」
「俺が、高田とデートなんて、するわけないだろう」
「せっかくだから、私も奢ってもらいます」
「どうして、福波に、奢ってやらないといけないんだ」
「臨時コーチを、受けてあげたじゃないですか」
今度は、恵里子が、2人を引っ張って店に入った。入口に、近いところで座ると恵里子は上木を連れて注文に行った。支払いは、上木がした。上木は、戻ってくると、
「どうして、俺が、払わせられるんだ」
とぶつぶつ言っていたが、
「上木先生、ありがとうございます」
と結香が、いうと、
「おう」
と言った。少し、待つと恵里子がテーブルに注文したものを持ってきた。
「さあ、食べよう」
「お前、動いてないのに、食ってばかりいると太るぞ」
「私だって、バイトで店内を、動き回っています」
「恵里子は、もともと痩せてるから、少しくらい太っても、いいんじゃない」
「ところで、上木先生。たまには、結香を、休ませてくれませんか? 藤島君が、今日もきてデートする時間がないって、嘆いてました」
「高田と、藤島がいないと、福波コーチの出番だぞ」
「私は、バイトで、なかなか出られません。結香が、やめたから人が足りなくて困っているんです」
「最近、入ったバイトの人は? 」
「辞めたよ」
「3人とも? 」
「そう。別に、珍しいことでもないでしょ」
「そんなにすぐ、やめてしまうのか。副店長の末松さんとか、好感の持てるいい人なのにな。まさか、福波が虐めたりするんじゃないか? 」
「私こそ、好感の持てるいい人ですよ。そんなこと、するわけないです」
「お前、自分で言って、恥ずかしくないか? 」
「私は、恵里子は本当に、そうだと思う。上木先生の評価が、低過ぎるんです」
「結香も、そうだよ」
「お前らのバカ話には、付き合っていられない。帰るぞ」
「結香、私が送ろうか? 」
「恵里子の車が、臭くなるといけないから、上木先生に送ってもらう」
「俺の車は、臭くなっても、いいのか? 」
「もう、手遅れじゃないですか」
「高田が、車を持ったら俺が臭くしてやる」
「嫌です。上木先生は、絶対に乗せません」
3人で、店を出ると改めて、上木に礼を言って、恵里子と別れた。
3月は、去るとはよく言ったもので、結香が教習所から、学校でコーチをして、帰宅する生活をしているうちに春休みに入った。注文していた、愛車が届き、待望の免許も、取った。
剣道部では、美月も、一生懸命練習するようになった。しかし、結香がいない、朝練ではそこまででもないらしいが、それでも、大きな進歩だ。
そして、いよいよ明日から、社会人になる。この日の練習後も、上木とセックスをした。上木は、射精すると道場から、出ていった。結香は、それを見て少し、腹を立てていた。ぶつぶつ言いながら、着替えていると、上木が戻ってきたのが、足音で、わかった。上木は、女子の部室前で、
「高田。開けるぞ」
と言って、ドアノブを回すが、鍵をかけているため開かない。
「今、着替えてますので、待ってください」
「今更、恥ずかしがるな。早く、開けろ」
上木は、何回もドアノブを回す。結香は、ほとんど着替えていたので開けると、
「相変わらず、着替えるのが遅いな。ほらよ」
そういって、防具や胴着を置いた。
「何ですか? これは」
「見ての通り、防具と胴着だ。コーチを、引き受けてくれたお礼と就職祝いだ。お前の防具、かなり臭かったからな。特に、面は、変な匂いがする」
「えっ、ありがとうございます。でも、面の匂いは上木先生のせいです」
「また、人のせいにする。まあ、今のは、俺との行為用として車に積んでおけ」
「嫌です。私の愛車が、臭くなってしまいます」
「お前の車は、どうせ臭くなる。後で、積んでやろう」
「上木先生の車は、大きいから荷物も、たくさん積めるじゃないですか」
「まあいい。袋に入れろ」
言われた通り、今まで使っていた、防具を袋に詰めると上木がそれを持って、
「よし。帰るぞ」
結香は、道場の点検をして、武道館の鍵をかけて上木を追いかけた。しかし、追いついたのは結香の車の近くだった。
「お疲れ様でした」
そう言って、車のロックを、解除すると上木が結香の車に持っていた防具を積み込んだ。
「じゃあ、帰ったら、グループLINEを、見ておけよ」
それほど言って、すぐに自分の車に乗って、走り去った。結香は、泣きたい気分で助手席から防具をトランクに移した。まだ、慣れていない、愛車の運転をして、家にたどり着き、グループLINEを確認すると来月の練習予定が、入っていた。これを、開いて、結香は思わず声を上げた。
「何これ」
勤務予定と、練習予定を見比べるとまるで結香が出れるように作られたとしか思えない。よく見ると、出席予定コーチの欄があり、全て高田と入れてある。また、欄外には注意書きがあり出席予定コーチ以外も、なるべく、出るようにとなっていた。それと、気になるのが、勤務が、休みの日の朝練と夕方からの練習の間だ。コーチ研修となっている。これは、一体、なんだろう。
恵里子や達生も、結香が、毎日出ることに、抗議していたが上木の返信はなかった。結香も、抗議と疑問を送信した。すると、すぐに上木から、「高田。明日もよろしく」とだけ返信があった。
結香は、ホテル勤務の初日だった。同期は、1人だけだった。山方美未と言った。結香は、美未と一緒に仕事内容の研修を受けた。そして、勤務時間が、残り少なくなったところで、指導役の上泉愛華に、ホテル内を案内された。愛華は、勤務時間が、終わると、
「せっかくだから、歓迎会ということで、飲みに行かない? あっ、高田さんは未成年か。それなら、食事だけでも付き合って」
「少々、お待ちいただいて、よろしいでしょうか? 」
愛華は、クスリと笑って、
「どうぞ」
と言った。結香は、せっかくなので行きたかった。祈るように、上木に電話した。上木は、
「なんだ」
結香は、怒られるのを覚悟して、
「すみませんが、食事に誘われまして、少し遅れてもよろしいでしょうか? 」
と聞くと、あっさり、
「楽しんでこい。なるべく早くこいよ」
と言って、結香が、お礼を言うのを待たずに、切ってしまった。結香は、愛華に、
「長居は、できませんが、行かせていただきます」
愛華は、またクスリと笑って、
「ありがとう。それで、高田さん、申し訳ないけど私と山方さんを乗せてくれないかな? 」
「かしこまりました」
結香は、言ってしまって、後悔した。私の車には、防具が積んである。今朝も、微かにその匂いがするのを感じた。どうやったら、バレないか、考えるが、方法を思いつくまでに、
「高田さん、早く行こう」
と愛華に、呼ばれた。一応、ギリギリまで考えていたが車まで到着する方が早かった。結香が、ロックを解除すると、愛華は、嬉しそうに、
「うわ、初心者マークだ。懐かしい」
「免許取り立てで、下手ですが、我慢してください」
そういって、結香は、発車させた。緊張のあまり、防具の存在をすっかり忘れていた。目的地が、見えたところで、信号待ちをしていると、愛華と美未のどちらかが、鼻をくんくんさせている気がして、結香は動揺した。愛華が、
「信号変わったよ」
と言ってくれて、結香は慌てて発進させた。目的の小料理屋さんの駐車場は、狭かった。愛華と美未に、誘導されて、なんとか車を、停めた。店の個室に、3人で、座る。それぞれ、注文すると、愛華が、結香に聞いた。
「高田さんは、剣道やっているんだね? 」
やっぱり、気づかれたと思うと、恥ずかしくなった。小さい声で、
「はい」
「私も、大学生までは、やっていた」
「やっぱり、匂いましたか? 申し訳ありません」
「懐かしい匂いだと、思っていた。私は、まだいいけど、山方さんは衝撃的だったかもね」
「あれ、なんの匂い何ですか? 」
「剣道の防具って、汗を吸ってあんな匂いになるの。でも、どうして防具なんか積んでいるの? 」
「事情が、ありまして、高校の部活のコーチを引き受けることになりました。今日も、この後向かいます」
「もう、社会貢献しているんだ。すごい」
「そんなに、立派なことではございません」
また、愛華は、クスリと笑って、
「その、言葉遣いも、剣道のせい? 」
「いいえ。私、卒業まで、ハンバーガー屋さんで、バイトしていました。そこの方が、言葉遣いに関して厳しかったので、その影響だと思います。しょっちゅう、叱られていましたので」
美未が、軽く手を叩いて、
「あっ、どこかで見たことあると、思っていた。私、結構いってた。丁寧な、言葉遣いをする店だと思っていたけど、やっぱり、厳しかったんだ」
「そうです。それと、笑顔についても、そうでした」
「もともと、接客が、好きだったんだ」
「いいえ。ですから、勉強も兼ねてバイトさせていただきました」
「じゃあ、私も厳しめに、教えても大丈夫だね」
結香は、一瞬食べていた、手を止めた。
「冗談よ。でも、今頃は少し、注意しただけで、やめてしまったりするけどそれぐらいでは逃げない根性はありそう」
「はい。いろいろ、ご迷惑をおかけすると思いますがご指導をよろしくお願いします。申し訳ありませんが、そろそろ、失礼させていただきます」
「じゃあ、頑張ってね」
結香は、財布を出して、いくらか支払って帰ろうとしたが愛華に拒否されたので、お礼を言ってその場を後にした。
結香は、車を走らせ学校に向かった。部室に入って、新品の胴着に袖を通す。中学生以来の上下白は、少し恥ずかしく思ったが、久しぶりの感触はよかった。しかし、防具を出して驚いた。とりあえず、それをつけずに道場に入って、上木に言った。
「上木先生、遅くなりまして、すみませんでした。ところで、あの防具は何ですか? 」
「白防具と、呼ばれている。知らないのか? 」
「もちろん、知っています。私が、あれをつけるんですか? 恥ずかしいです」
「何が、恥ずかしいんだ。お前は、コーチなんだから生徒とは、違っていた方が、威厳があっていいだろう。さっさと、つけて、俺と代わってくれ」
結香は、仕方なく、白防具をつけた。今まで、試合で一部の人がつけていてすごく目立つと思っていた。それを自分が、つけるとは、夢にも思わなかった。鏡で、何度見ても自分ではないような気がした。意を決して、道場の扉を、開けた。すると、部員の目が一斉に結香に、浴びせられた。しかし、それは気のせいだったようで、部員は稽古を、続けていた。
結香は、上木に代わって、稽古の中に入った。夢中になっていると、白防具をつけていることはすっかり忘れていた。遅れて、きたのですぐに、終わりの時間になった。上木は、
「まだ、練習したいと思うやつは、残っていいぞ。今年度から、よほど練習中の態度とかに、問題がない限り残るのや朝練を、強制しない。以上」
結香は、耳を疑った。それなら、今夜は無理してくる必要なかった。次々と、一礼して帰っていく部員を見て結香も、引き揚げようとすると、美月は、また面をつけていた。
「上木先生。私、残りますので、鍛えてください。高田コーチ、新しい防具に打ち込んでもいいですか? 」
「お前が、高田コーチに、そんなに打ち込めるわけないだろ」
「そうかも、しれませんが、よろしくお願いします」
「ところで、賀田は高田コーチのこの出立を、どう思う」
「カッコいいです。高田コーチに、似合ってると、思います」
上木は、結香の方を、見て、
「だそうだ。何が、恥ずかしいだ」
「すみません。でも、やっぱり目立つと、思います」
結香は、美月の相手をするため、防具をつけた。美月は、それを見て早くと急かすかのように道場の真ん中付近で、立って、待っていた。結香は、準備をして美月の前に立つと、どんどん打ち込んでいった。不意を、つかれたのか、防戦一方だった美月は、上木に、
「お前は、やる気あるのか」
と言われて、豪快に転ばされ、面を打たれて起こされると人が変わったように攻めてきた。結香も、防御はせずに、攻め続けた。しばらくして、美月が崩れるように倒れた。上木が、また面を打とうとしたところを、結香は身を、呈して守って、
「上木先生。今は、やめてください」
と言った。美月は、
「止めなくても、よかったです。私が、怠けてたから体力も落ちたんですから」
そう言って、自力で、立ち上がった。結香は、
「少し、休もう」
と美月に、言った。その場に、座った美月に結香が飲み物を渡す。それを、一気に飲むと、
「ありがとうございます」
と言った。上木は、
「おい、賀田。もう、今日は終わりか? 」
と言った。美月は、
「せっかく、高田コーチが、忙しい中来ていただいたんです。まだ、やります」
「もう、無理だ。お前だけ、朝練をして午後からも練習していたんだ」
「そうなの? 」
「私、このままじゃ、最後の大会の団体戦に出られないんです。どうしても、出たいんです」
「今の実力だと、そうだな」
「上木先生。そんなの、まだ先だし、頑張れば出れるよ」
「いや。もう、ほぼ確定だな。俺は、こいつには失望した。弱小だった、この学校に優勝でもさせてくれると思っていたが、一番下手になるとは」
美月は、目に涙を浮かべていた。
「上木先生、言い過ぎです。美月は、少し勘を取り戻したらきっと大きな戦力です」
「いいんです。上木先生は、間違ったことは、言っておられません。高田コーチは、明日も来てくれますか? 」
「夕方は、くるよ」
「じゃあ、今日はもう、無理みたいですので、明日もよろしくお願いします。上木先生、明日も朝練をお願いします」
美月は、結香と上木に丁寧に礼を言って、道場を出た。上木は、
「高田も、いつまでもそうしてないで着替えたらどうだ」
結香は、部室に入った。美月は、すでに体操服で帰ろうとしていた。結香が、着替えをする間も美月はいろいろ話しかけてきた。結香が、スーツを着ると、
「うわ。高田コーチって、何着ても似合うんですね」
「恵里子なら、そうかもしれないけど、私はそんなことない」
「高田コーチも、負けてないと思いますよ」
「そんな、お世辞を、言われても嬉しくない。私は、上木先生をまたしているから」
「まだ、何か、あるんですか? 」
「コーチとして、上木先生の指導方針を、共有していないといけないから」
「じゃあ、今日は、私なんかを庇われたので、怒られるんですね。すみません」
「そんなことないと、思うよ」
「それでは、お先に失礼します」
美月を送り、上木が待っている、道場に戻ると、
「待たせた上に、なんでそんな服を着てるんだ」
「初仕事だったので、スーツです。似合ってますか? 」
「似合うわけないだろ。さっさと、お前の車に積んであるのを、持ってこい」
「さっきまで、防具つけてたのに、またつけるんですか? 」
「お前は、俺が、プレゼントした防具を、臭くして汚すつもりか。大事に、使え」
「それは、大切にしますが、また古いのを、つけるんですか? 」
「いつまでも、つべこべ言ってないで、そうするんだ」
結香は、ぶつぶつ言いながら、駐車場の車から、防具を、持って武道館へ戻った。上木は、
「遅いな。もちろん、走っただろうな」
「いいえ。走れるような、靴ではないです」
結香は、着替えようと部室に入ると、上木も、入ってきた。
「どうして、入ってくるんですか? ちゃんと、着替えますから、待ってください」
「今更、着替えを、見られたからって、恥ずかしくないだろ」
「恥ずかしいです。でも、どうせ出て行っては、くれませんよね」
「よく、わかっているじゃないか。早く、脱げ」
「いくらなんでも、そんな言い方しないでください」
結香は、あきらめて、着替え始めた。せっかく、新品の防具のおかげで、汗臭くないのに長年の匂いが染み付いた、防具を、つけるのは、嫌な気分だった。
「小手は、つけなくても、よくないですか? 」
「小手ぐらい、すぐにつけれるんだから、つけて仕舞えば、いいだろ」
結香は、小手を、はめた。すると、その瞬間、上木に道場に、引っ張って行かれた。
「やっぱり、こっちは、高田臭が、すごいなぁ」
「そんなに、臭いならこんな格好じゃなくてもいいじゃないですか? 」
「何度も、言っているだろ。俺は、剣道する時の高田が一番好きだ」
「いくらなんでも、失礼ですよ。顔は、隠れてますし」
上木は、何も言わずに、挿入してきた。結香は、まだ、不満だったが気持ちよさには敵わなかった。余韻に浸る暇もなく、上木が、
「早くしろ。帰るぞ」
「もう少し、こんな時に、女の子に優しい言葉をかけられませんか? 」
「誰が、お前なんかに」
結香は、着替えをして、外に出た。すると、上木が立っていた。
「びっくりするじゃないですか」
「なんでだよ」
「いつも、待たずに、帰られるのに」
「そういえば、昨夜グループLINEに、質問を入れてたな」
「そうです。まず、ほとんど私の勤務に、合わせたような、練習日程じゃないですか? 」
「お前が、いないと、俺が大変だからな。そこで、生徒の自主性に、任せてみようと思った」
「そんなことで、いいんですか? 今までの上木先生の指導とは、真逆のようですが」
「とりあえず、賀田は、今日もきたし、明日もきそうだ。まあ、あいつのことだから、いつまで続くやら」
「大丈夫な、気がします。それと、私が、休みの日の研修って、なんですか? 」
「お前も、コーチならある程度、強くなってもらいたいから、武者修行でもしてきてもらおうと思って」
「それは、どこに行くんですか? 」
「その日に、都合が良い人のところだ。詳細は、また言う。質問は、そのくらいだったな? じゃあ、また明日」
上木は、車に乗って、帰っていった。結香は、重くて臭い防具を、その辺に捨てて帰りたかったが、車のトランクに、載せた。
結香は、ホテルの勤務と、剣道部のコーチという生活にもだいぶ慣れてきていた。
ホテルは、忙しく交替勤務のため、美未は早々にやめてしまった。唯一の新入社員となり、愛華や他の同僚の期待も、大きくなった。そのため、親切丁寧に、教えていただける反面、失敗には厳しかった。愛華は、時々様子を見に来て、悩みなどを、聞いて力になってくれた。
剣道部は、新入部員が、男女とも2人ずついた。美月は、結香が心配するほど日程以上の稽古していた。直近の大会で、団体戦から外れたのは、相当ショックだったようだ。その大会で、個人戦で、校内では最高のベスト16になったが、
「全然、嬉しくないです」
と言った。結香は、上木に、団体戦のメンバーに入れるよう頼み込んだが聞き入れてもらえなかった。
「ごめんなさい。私の推しが、足りなかった」
「高田コーチが、上木先生にずいぶん、言ってくれてたのは、知っています。先生の信頼を、裏切った私が悪いんです。コーチは、気にしないでください」
と言った。今の美月は、結香や上木に反抗することはなくなったが、真奈や真季と距離を置くようになったのが気掛かりだった。時々、コーチとして、顔を出す恵里子もすぐにその変化に、気がついた。しかし、恵里子は以前からそうだったが、美月を、よく思っていない。上木は、恵里子が来ると終わってから、3人を、食事に誘った。
その時には、いつも、結香が、美月を車に乗せた。美月は、だいたい恵里子に少し前までの態度を、責められ謝罪させられていた。だから、結香は、
「今日は、どうする? 帰りたかったら、家まで送るよ」
「いいえ。行きます。福波コーチに、今日こそ、許しを乞わねばなりません」
2人の待つ、テーブルに、座ると恵里子は、美月に、
「あんた、また来たの? 体操服なんかでいられると、私たちが恥ずかしい」
「臭い女を、3人連れている、俺も恥ずかしいけどな」
「福波コーチ。今までは、大変すみませんでした。お願いします。許してください」
「絶対に、許さない。あんたは、散々私たちを馬鹿にしてきたよね。心が、こもっていない謝罪は、何回されても変わらない」
「恵里子。美月も、心を入れ替えて頑張っているよ」
「そんなのどうせ、一時的に決まっている。団体戦のメンバーになれば、すぐに鼻高くして怠けて威張るでしょ」
「信じて、あげようよ」
「俺も、こいつに二度と、信用なんてしない」
「本当に、すみませんでした。なんでもしますから、勘弁していただけませんか? 」
2人とも、何も言わない。美月は、俯いていた。結香は、
「美月、お腹すいたでしょ。食べよう。きっと、許してくれるよ」
と言った。4人だと、いつもこうなる。恵里子は、
「どうして、結香はこいつに、一番ひどい目に遭ったのに、許せるの? 優しすぎるよ」
「一緒に、頑張ってきた、仲間じゃない」
「高田コーチ、もういいです。悪いのは、私なので、少しずつでも信頼を取り戻すしかないんです」
その後は、他愛のない話をした。美月は、黙ったままだった。
解散してから、結香は、美月を送る。結香は、気になっていたことを、聞いた。
「最近、真季や真奈と、何かあった? 」
「やっぱり、気づかれましたか。実は、あの校内の試合後、真奈は私から離れて行ったんです。それで、真季は真奈についてしまった。元々、私が、強かったから、従わせてきたのに、負けたら当然こうなりますよね。でも、毎日体操服でいることや、朝練で、臭くなっているのを、クラスメイトと、陰口言っているんです。2人が、あんなに、陰険だと思わなかった。あっ、でも私も高田コーチに、同じ事を言ってましたね。すみませんでした」
「そうか。あの試合は、美月は、連戦になるから圧倒的に不利だったのにね」
「それは、関係ないです。高田コーチは、圧倒的に不利な状況でも私に勝たれて、その後の試合は、私のわがままで、やった試合だったし」
「でも、私はあの試合で真奈や真季が、安心してしまっているような気がしている。それと、多分2年生はどこかで、自主練をやっているはずだから誘ってやって」
「でも、朝練も通常の稽古の後もでないじゃないですか? 」
「美月に、遠慮していると思う。きっと、美月が誘えば喜んで、出てくるよ。相手するのが、私よりずっといいと思う」
「そうしてみます」
結香は、美月をおろして、帰宅した。そして、メールをチェックするが今日も達生からは入っていなかった。以前は、毎日入っていたのに、もう何日も来ていない。コーチにも、全くきていないので4月以降は会っていない。もう、私のことなんて嫌いになったかもしれない。寂しいが、引き受けたからには、コーチとして上木や部員に対して、責任を持たなければならない。達生には、申し訳ないが、いい人と巡り会って、幸せになってほしい。
時は、あっという間に過ぎて県総体が、迫ってきた。あの翌日から、美月は2年生と、稽古に励んでいた。直近の大会でも、美月は団体戦に選ばれなかった。しかも、上木は美月にさらに、屈辱を与えた。補欠に、1年生の中田美香を選んだのだ。
「いくらなんでも、そこまでひどいことは、やめてください」
結香は、上木に抗議したが、
「もう、選手の報告をしたから、変更できない。どうせ、補欠なんて試合に出ることなんてないんだから誰でもいいだろう」
と一蹴された。美月には、何回も、謝った。しかし、
「高田コーチが、上木先生に、抗議されたことは、知っています。いつも、私のためにありがとうございます」
そういって、笑顔を、見せた。結香は、コーチの無力さを、思い知らされた。その、やり場のない怒りや悔しさを、コーチ研修で、ぶつけたが、上木が用意する相手は、県内では、名が知れた、強者ばかりなので、返り討ちに遭った。
その試合が、終わって、最初に、恵里子が、出てきた日に終わってから、食事に誘われた。結香は、いつものように、美月を誘った。すると、意外なことに、
「私も、福波コーチから、誘われました」
「そう。じゃあ、乗せてあげる」
美月は、結香の車に乗ると、
「私、やっぱり、総体の団体戦は、出させてもらえないってことですね? 」
「どうして、そんなこと言うの? 諦めずに、頑張ればきっと大丈夫だよ」
美月は、助手席で、怯えたように、座っていた。
「私なんかが、そんなこと言っても、説得力ないよね? 何にも、決定権がないもんね。でも、一生懸命頑張った経験って、すごく役に立っていると、バイトでも今の仕事でも、感じてる」
美月は、無言だった。そのまま、2人とも、喋らなかった。車の中は、結香の好きな音楽が、流れていた。
待ち合わせの店には、上木もいた。上木は、美月を見ると、
「また、お前まで、きたのか? 不愉快だな」
「今日は、私が誘ったんです」
「福波コーチが? 」
美月は、話に割って入る、タイミングを図っていてここだと思ったのだろう。
「福波コーチ。今日は、お誘いいただき、ありがとうございます。それから、上木先生と福波コーチ、今までは大変すみませんでした。どうか、お許しいただけないでしょうか? 」
「今日、私が誘ったのは、そのことよ。そろそろ、美月のこと許してやってもいいかと思った」
「本当に、ありがとうございます」
「ただし、絶対に今のように部活を頑張ること。前のように、怠けたり横柄な態度をしたらどんな罰でも受けること。これで、どうですか? 上木先生」
「福波コーチが、言うならそうするか」
「ありがとうございます。私、がんばります」
「上木先生。制服も、返してやってください」
「明日、朝練に、来たら、返してやる。それから、お前の希望は団体戦に出ることのようだがそれはまだ保留だからな」
「はい。実力で掴んでみせますのでご指導お願いします」
「上木先生。実際、美月の実力ならどう考えても入れたほうが、いいと思いますが、どうして外したりするんですか? 」
「俺は、2年生の3人は好きだな。全員、練習熱心で真面目で俺の言うことも素直に聞いてくれる。だから、入った時は、雑魚だと思っていたのに強くなった。俺は、あの3人は出す。補欠は、どうせ出ることなんてない。それを、3年にするより、1年の方が新チームになってからも、メリットが多い。じゃあ、3年で誰を落とすか考えると、誰がいい。これは、絶対に誰にも言うなよ」
「それは、私ですね」
美月は、寂しそうな顔で、言った。
「その通り、正解だ。ただ、それを覆せるかどうかは、明日からのお前次第だ」
美月は、少し、嬉しそうな、顔をした。
「と言うことは、私にもチャンスを、いただけるんですね? 」
帰りの車で、美月は、結香が流していた、曲を口づさんだ。
「いいことがきっとある いいことがきっとある」
「この曲、知っている? 」
「いいえ。初めて、聞いたんですけど、いい歌詞だし歌っている人の声が心に残ります。もう一回、聞かせてください」
結香は、もう一度その曲の最初に戻した。結局、それをずっとリピートした。そして、美月の家に着くまで2人で、歌った。結香は、家に帰るとこの曲を美月に、プレゼントした。
ある日、勤務が、休みだったため、結香は朝練に、出ていた。それが、終わった時に美香ともう1人の1年生の畠野理子が、結香を、呼び止めた。
「私たち、1年生なのに、掃除とかしていないのですが、いつ誰がやっているんですか? 」
「飲み物の準備とかもです」
「美月とか、2年生が多いかな。練習予定が、入っていない朝や休みの日も出ているから」
「高田コーチもだ」
「別に、私はいいんです」
「高田コーチは、マネージャーも、兼務しているんだ」
「私たちは、いつやればいいですか? 」
「先輩達が、予定がない日も練習しておられるのは、知っていますが私たちも出ていいですか? 」
「もちろん、誰が出ても出なくても自由。全て、自分達で、決めたらいいよ」
「ありがとうございます。考えてみます」
2人は、道場を出て行った。結香は、上木に、
「私は、今日は、どこに研修に、行けばいいですか? 」
「今日は、なかなかいい相手が、見つからなかった。今までより、力は劣るかも知れないがそれでも強敵だぞ。そろそろ、くるはずだ」
「えっ、ここに来られるんですか? 」
結香は、それならと防具をつけながら、待っていると、
「すみません。遅くなってしまいました」
と愛華が、道場に、入ってきた。結香は、びっくりした。
「上泉さん」
「俺の大学の同級生だ。お前と違って、全てにおいて綺麗だぞ」
「それは、言い過ぎでしょ。高田さんも、綺麗よ。白防具が、よく似合っている」
「こいつは、カッコだけなんだ。剣道は、体力に任せて、なりふり構わずだ。だから、たくさん打たれたような顔してる」
「高田さん、お客さんやスタッフにも可愛いって人気だよ。相変わらず、上木くんは失礼ね」
「上木先生は、昔からそうだったんですね」
「そう。私も、今日初めて褒められた気がする」
「うるさい。準備できたら、早く始めろ」
「はい。じゃあ、上泉さんお手柔らかに、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
結香は、思い切って、どんどん打ち込むがほとんど当たらない。逆に、上木が言ったように綺麗に返された。それを、繰り返すうち、上木が、
「こら。お前、何やってんだ」
と言って、豪快に、倒された。久しぶりだったため、無警戒だった。そして、上木が結香を何度か竹刀で叩くと愛華も、加わった。どうしようもないので、結香は謝るしかなかった。
「すみませんでした。許してください」
上木に、力ずくで立たされると、愛華から、怒涛の攻めに遭った。結香は、なんとか立て直すと愛華の攻撃は終わった。休憩で、結香は愛華から指導者としての心得を、教えられた。愛華も、地元のスポーツ少年団で指導をしていたのだ。
愛華は、大学に、入学した時に友人もいなかったので誘われた剣道部に入った。しかし、強豪と呼ばれる大学の剣道部では、初心者だった愛華には、とても厳しかった。毎日、倒され叩かれ泣いた。何度も、辞めたいと言ったが、許してもらえなかった。つらくて、大学自体も退学することも、考えた。それでも、せっかく、入学できた大学を、部活のせいで辞めたくなかった。だから、部活以外でも上木達に頼んで、特訓してもらい、試合でも、勝てるようになって、自信がついたことなどを、話してくれた。そして、最後に、
「剣道は、つらくて、厳しいものなの。それを、教えないと。そして、乗り越えたら、剣道もだけど人間としても強くなれる。高田さんは、優しいけどそれだけじゃダメ。あなたも、仕事でも、いろんなことがあっても、乗り越えているのは、剣道での体験のおかげでしょ」
稽古を、再開すると、結香は、上木と愛華からリンチをされているかのように、攻撃を受けた。
久しぶりに、足が立たなくなるまで、打ちのめされた結香は愛華に面を叩かれながら、
「時には、厳しくね。それが、本人のためなの」
と言われた。愛華は、それで、帰って行った。結香は、倒れているため確認出来なかったが足音でわかった。
「上泉さん、ありがとうございました」
愛華が、いなくなると、上木は、
「ったく、情け無いな」
と言って、結香を起こした。そして、続けて言った。
「お前には、よくやってくれて、感謝している。でもな、時には厳しさも大事だ。特に、賀田な」
その日の部活で、結香は倒れた美月に、面を打ちながら、
「美月、立って」
と言った。なぜか、自然に涙が溢れた。上木は、何度も頷き全員を集めた。
「今日は、総体の選手を、発表する」
結香は、自分のことのように、緊張した。ふと、美月を見ると俯いていたが顔を上げた。そして、精一杯やったので、後悔していないと言うような表情に変わった。