第105話
金棒を横に振るう。肉が弾け、その全てが塵と化する。
(もっと……)
その勢いを殺さず、その場で一回転して後ろから迫っていたヤツラを殴打。殴られた個体は他のヤツラを巻き込んで肉壁の向こうへ消えていった。
(もっと……)
その場で後ろに向かって跳躍。先ほどまでいた場所に四方から伸びた触手や瓦礫が飛んでくる。
(もっと)
跳んだ先にいたヤツラの頭蓋を踏み潰し、金棒を地面に叩きつけた。凄まじい腕力で振るわれたそれは地面を叩き割り、周囲にいたヤツラがまとめて吹き飛んだ。
(もっと!)
「ああああああああああああ!!」
金棒の届く範囲にヤツラはいない。だからだろうか、かかってこいと私は自然とその場で咆哮。ビリビリと大気が震え、私を囲んでいたヤツラが思わず半歩だけ後ずさった。
(もっと……もっと、もっと!!)
殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
私の頭で何かがそう叫ぶ。そうだ、殺せ。周りにいるヤツラ全員を皆殺しにするのだ。
もっと激しく、もっと効率よく、もっと惨たらしく、もっと暴れて、暴れて、暴れて。
この敷地内にいるヤツラ全員が私に向かってくるように。
「――はは!」
無駄に吠えて、無駄に地面を壊して、無駄に目立って、無駄に笑って。
私の言動全てでヤツラをおびき寄せる。
そうだ、私はただひたすら金棒を振るい続けるだけ。ヤツラを潰し続けるだけ。たったそれだけでいい。それだけが私にできることだ。
そんな風に力任せに暴れていたおかげだろうか。私の周りからヤツラはいなくなることはなかった。
私にとってこんな包囲など突破することは容易い。
だが、それでは意味がない。鬼の本能によって支配された思考の中、ほんの少しだけ残った理性が私をこの場に踏み止まらせる。
たった5分。されど5分。
私は助けになっているのだろうか。
私は役目を果たせているのだろうか。
私は――ちゃんと守れているのだろうか。
敵にしか向かなかったはずの真っ赤に染まった視線が僅かに揺れる。そのせいだろうか。
「――?」
視界の端――東棟校舎から青白い何かが空に向かって飛翔するのが見えたような気がした。
「影野様!」
後ろへ倒れかけた彼女を咄嗟に抱き止めた。その瞬間、両手にはドロリとした感触。ゴーグル越しでも――いや、直接見なくてもわかる。影野様の血だ。
(こん、な……酷い……)
影野様の容態はまさに瀕死。全身傷だらけであり、ボタボタと現在進行形で大量の血が流れ続けている。
それに問題が腹部に開いた大穴。槍の腕を持つヤツラにやられたその傷はまさに致命傷。吸血鬼である彼女でもその一撃には耐えきれなかった。
いや、違う。影に背中を切り裂かれた時点で限界を超えていたのだ。普通の人間ならそれだけで死んでしまうような怪我。
でも、影野様は戦い続けた。最初は無茶だと叫んだが、それでも彼女は止まらなかった。
次第に彼女が吸血鬼であり、人間よりも頑丈なのだと納得した。そうでなければ痛みを我慢してあれほどの立ち振る舞いをできるわけがなかったから。
だが、それは私の勘違いだった。最初から影野様は無茶をしていた。
その結果がこれ。全身を傷つけられ、出血し、無数のヤツラからの攻撃をやり過ごし、ほんの僅かな隙を突いて一撃を与える。
そんな戦いがたった数十秒だったとしても彼女にどれだけの負担をかけていただろう。
そして、あの一瞬、これまで蓄積していた無茶が祟り、彼女の膝を折った。
「影野様、しっかりしてください!」
声をかけながら私にできることはないか探す。傷を塞ごうにも腹部の傷が大きすぎて不可能。止血も駄目だ。
「……」
そして、なにより、影野様の瞳孔はすでに開いている。息も少しずつ弱くなっていく。
「ッ……」
その時、前方から物音がして顔を上げ、歯を食いしばった。影野様が幻影様の矢を使い、全滅させたはずの正面玄関前廊下にヤツラが集まり始めている。
幻影様が到着するまで最短でも30秒弱。影野様を抱えながら戦えるだろうか。
そんな私の思考を笑うように今度は右側からガラスの割れる音がする。チラリとそちらを見ると中庭から数体のヤツラが東棟廊下へと入ってきていた。
「……」
私は黙って右手で廊下に落とした拳銃を拾う。そして、東棟廊下へと銃口を向け、引き金に指をかけた。
「―――!!」
それがきっかけとなったのだろうか。東棟廊下、正面玄関前廊下にいたヤツラが一斉にこちらへ向かってくる。
残り30秒。私たちが最も恐れていた挟み撃ち。きっと、幻影様が来る前に私たちはヤツラに殺される。
ですが――影野様が体を張って守ってくれた命、ただで散らすわけにはまいりません。
「ッ――」
私は左腕で影野様を抱きかかえながら引き金を引いた。
もう、胸に抱く彼女が息をしていなくとも、ここまで体を張って守ってくれたこの子を廊下に落とすつもりはなかった。
考えがまとまらない。
音もなく、匂いもせず、寒いか暑いかすらわからない。
ここはどこなのだろう。
私は誰だったか。
どうして、こんなことになっているのか。
そもそも、何をしていたのか。
わからない。わからない。わからない。
(ぁ、れ……)
その時、ズブリと体が何かに沈んだ。そこで初めて私の左半身に感覚がないことに気づいた。
(あぁ……そっか……)
その不可解な感触のおかげでふわふわしていた意識が僅かに戻る。
そうだ、私は――死んだのだ。
北高に現れた無数のヤツラと戦い、無様に晒した隙を突かれ、お腹に穴を開けられた。
そんな事実確認をしている間にも私の体はほんの少しずつ、それでも確実に何かに沈み続ける。すでに顔の半分以上は飲み込まれ、私が私でなくなっていく。
(死んじゃったんだ、私……)
消えていく感覚に私はどこか納得してしまう。あれだけ無茶なことをしたのだ、死んで当然である。
もっと、上手くできなかったのか?
もっと、早く体の限界に気づいていればよかったのか?
もっと、いい作戦を思いつけなかったのか?
そもそも、こんなことになる前に何か対策を立てられたのではないか?
そうだ、こうなったのは全て私の我儘のせい。
音峰先輩の提案を突っぱね、裏の世界に留まったのも。
長谷川さんの心配を無視して身の丈に合わない戦いに挑んだのも。
シノビちゃんの忠告を軽んじて幻影さんの隣にいたいと願ったのも。
幻影さんの期待を裏切ってこんな体たらくを晒したのも。
全部、全部、全部――私が悪いのだ。
ああ、こんなことになるなら――そう考えないわけではない。
でも、譲れなかったのだ。どうしても諦めきれなかったのだ。みんなの制止を振り払い、前に進みたかったのだ。
そして、その結果がこれ。こんな結末。小説にしたら賠償金を請求されるほどの駄作。
ただの女子高校生だった化け物が、人間に憧れ、命を散らしただけの面白くないお話。
(も、ぅ……だ、め……)
すでに体のほとんどがなくなった。かろうじてわかるのはいつの間にか伸ばしていた右腕のみ。それすらもあと数秒で何かに沈み切り、私は私でなくなる。
あれから長谷川さんはどうなったのだろうか?
音峰先輩は無事だろうか?
シノビちゃんは隔離世を守ってくれただろうか?
私が死んだらおじさんやおばさん、あやちゃんは悲しんでくれるだろうか?
それから……それから。それから?
「ッ――」
幻影さんは?
鶴来君は?
私の脳裏に2人の姿が思い浮かんだ瞬間、沈んでいた体が止まった。
このまま、私は死ぬのか?
何もしていないのに、仕方ない、と。
私が未熟だったから死ぬのも当たり前だ、と。
全部、私が悪いのだから死んで当然だ、と。
ふざけんな。
ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな! ふざけんな!
ふざけんな!!
何が仕方ないだ。
何が当たり前だ。
何が当然だ。
そんな言い訳で死んでいいわけがない。そんなことで諦めていいわけがない!!
だって、私は幻影さんの隣に立つと誓ったのだ。
まだ、鶴来君と友達になっていない。彼の事情を知ろうともしていない!
なにより、こんな簡単に諦めてしまったらあの満月の夜、消滅してしまった榎本先生の命はどうなる?
私はあの夜、彼を蹴落として生き残った。私の命は私だけの物じゃない。私はすでに降ろしてはならない責任をこの背中に背負っている。
(だ、からッ!!)
右手を握る。諦めるな。諦めるな。諦めるな!!
すでに沈んでしまった体を動かそうと藻掻く。だが、すでになくなってしまったものを動かせるわけもなく、再び私の右腕が沈み始めた。
(まだ、死にたくない! まだ、死ぬわけにはいかないの! 私には、まだやることがあるんだから!!)
――さっすが、ワタシ!
その時、誰かが私の右手を掴んだ。
(小さな……女の子?)
――さぁ、ワタシ! ここが頑張りどころだよ!
私の手を掴んだ何かが叫ぶ。頑張りどころ。
そうだ、ここで頑張らなければいつ頑張るというのだ。
でも、どうすればいい? 右手を掴んでくれたおかげで沈むのは止まった。しかし、根本的な解決にはならない。
私がするべきこと。私にしかできないこと。私だからできること。
――大丈夫、ワタシならできるよ!
できる、だろうか。こんな私にもできることはあるのだろうか。
何かしようとしてまた失敗しないだろうか。
余計なことをして取り返しのつかないことにならないだろうか。
そんな不安が私の心を燻り、また右腕が沈み始めてしまう。
――もー、弱虫だなぁ。でも、その気持ち、すごくわかるよ。
だが、それを止めたのはまた私の手を掴んでくれた何かだった。ぎゅっと、私を安心させようと手に力を込めてくれる。私だけじゃないよ、と寄り添ってくれる。
――ワタシはただ、強く願うだけでいいの。
強く願う?
何を願うのだろうか?
何を願えばいいのだろうか?
願ったら何か起こるのだろうか?
わからない。わからないけど――その声にはどこか説得力のある何かが込められていた。
(私、は……)
私はどうしたい?
私は何がしたい?
ううん、違う。
どうしたいだとか、何がしたいだとか。そんなものは関係ない。
私が願いのは――ただ一つ。
「私はッ!!」
――……あはっ、さぁ、もうひと踏ん張りだよ!
長谷川が戦闘を始めて10秒が経過した。
たったそれだけで彼女はすでに追い詰められていた。どんなに精密な射撃を行い、ヤツラの脳天を弾けさせたとしても圧倒的に手数が足りなかった。
「ぐっ」
もし、両手に拳銃を持っていればもう数秒は持っただろう。だが、彼女の左腕は役に立たない肉塊で埋まっていた。
(申し訳ございません、お嬢様、影野様)
右手に持つ拳銃はすでに弾切れを起こしている。もう一丁の銃は廊下に転がったまま。拾おうとしてもヤツラに殺される方が早いだろう。
長谷川は死を覚悟した。これ以上、戦友の遺体を傷つけさせまいと無駄だとわかっていても左腕に力を込め、肉塊を抱き寄せる。
「―――」
それを見たヤツラは目の前に座り込む獲物が生を諦めたのだと本能的に察した。
俺たちの勝ちだ。あとは戦利品を食い散らかすだけ。
北高の廊下にヤツラの勝利の雄叫びが響き渡る。そして、待ちきれないと言わんばかりに一斉に飛びかかった。
だが、その動きはすぐに止まる。
「これ、は」
長谷川の足元に幾何学的な模様が刻まれた緑色の円形の陣が突如として現れたからだ。その陣から光が溢れ、ボロボロになった校内の壁を照らす。
(何が、起こって……)
その陣の中心にいる彼女は困惑するしかなかった。そんな彼女を置いて陣はゆっくりと収縮し、肉塊になったはずの化け物へ集約する。
「……」
そして、死んだはずの『影野 姫』ははっきりと目を開けた。




