第104話
鋭い牙が私の喉笛を食い千切らんと迫る。だが、すでに私は自分の世界に入っているため、その動きは遅い。廊下を蹴り、後ろへ下がって対処する。
一体、どれほどの時間が経っただろう。常に意識を集中しているせいで時間感覚はすでに失われ、たった数秒が永遠のように感じる。
「ひゅっ」
私を噛み殺せなかったヤツラの脳天が長谷川さんの銃弾によって弾け飛ぶのを見ながら短く息を吸った。廊下には数える気すら起きないほどのヤツラで溢れかえっている。その分、戦闘は苛烈であり、息を吸う暇さえない。
しかし、これだけの敵を相手にできているのはやはり、東側の廊下を封鎖したおかげだ。もし、そうしていなければ挟み撃ちにされてすぐに殺されていただろう。
「はっ、ぁ……ぐっ」
だが、戦況は芳しくないのも事実。私の世界で必死に戦っているがヤツラの数が多すぎて前に進むどころか少しずつ後ろに下がっていた。長谷川さんとの距離がどれほどか後ろを向く隙がないため、確認できないがもうほとんどないのは確かだ。
それにいくら痛みを感じないとはいえ、私の動きも少しずつ鈍ってきている。体中には細かい切り傷。背中は動く度にブチブチと音を立て、私が立っている場所には瞬く間に流した血によって血だまりができる。しかし、制服だけは自動修復機能が付いているため、少しすると直った途端、その箇所が流血で黒ずんでいく。
一番酷いのは右腕。4本腕を持つヤツラの攻撃を咄嗟に右腕で防御してしまい、そのあまりの腕力にひしゃげてしまったのだ。その隙に長谷川さんが倒してくれたものの、それ以降、右手は拳を握ることすらできず、牽制程度にただ振り回すだけになってしまった。
これだけの怪我を負って動けるのは私が吸血鬼だからだろう。そうでなければ影に切り裂かれた時点で死んでいた。今だけは頑丈な体に感謝している。
「残り1分!」
前に進めないジレンマに奥歯を噛みしめていると長谷川さんの声が耳に届いた。その途端、私の世界から抜けてしまったがすかさず意識を切り替えて世界に潜り込む。あの世界では音が聞こえなくなるため、声が聞こえた瞬間に内容を把握しようと無意識のうちに世界から飛び出してしまったのだろう。
(あと1分……)
私たちを殺そうと迫るヤツラを前に思考を巡らせる。
私たちの勝利条件は前に進み、玄関を崩落させてヤツラの進路を塞ぐことじゃない。幻影さんが助けに来てくれるまで生き残ることだ。
そう考えながら私はチラリと左手首の黒いミサンガを見る。ヤツラと戦いながら切られないように立ち回っていたおかげでそれはまだ私の手首に巻かれていた。
幻影さんの矢は残り1本。そして、私が取れる選択は2つ。
玄関まで行き、矢で天井を崩落させるか。
この場で矢を放って目の前のヤツラを全滅させて戦況をリセットし、助けが来るまで耐えるか。
前者は廊下に侵入するヤツラの数は確実に減るので幻影さんが遅れた場合、生き残りやすくなる。
後者は1分後に幻影さんが来ると信じ、とにかく生き残ることを優先できる。
それぞれの問題点は玄関まで行くのに目の前にいるヤツラを倒さなければならないことと、幻影さんが遅れた場合、今と同じようにヤツラが廊下に溢れ、対処しきれずに私たちは殺されること。
(どうする……)
時間は残り少ない。この短時間で決断しなければならない。
幻影さんを信じるか、信じないか。
「……長谷川さん、一掃する!」
私の決断は幻影さんを信じてこの場をやり過ごすことだった。
私は動けるのが不思議なくらい満身創痍。長谷川さんの銃弾もおそらく残りは僅か。
こんな状態で玄関に辿り着けるわけがなかった。だから、今はとにかく生き残ることを優先する。
なにより、幻影さんを信じない、という選択をするのが嫌だった。
だって、私はどんなにみっともなくても彼女の相棒なのだから。
「ッ……承知いたしました!」
長谷川さんも私が幻影さんの矢を使ってヤツラを倒すことを察したようでリロードし始めた。彼女は前と右からヤツラが襲ってくる立ち位置にいるのでリロードする暇がなかったのだろう。そして、これが最後のリロード。残弾は20発だ。
「装填!」
先頭を走る右腕が槍のように尖っているヤツラはすでにそこまできている。急いで左腕を前に突き出し、『コマンド』を口にした。青白い矢が激しい紫電を走らせながら左腕に沿うように黒いミサンガから出現する。
「――――――!!」
その間にヤツラが私を貫こうと右腕を伸ばした。大丈夫、間に合う。あとは矢を放つ『コマンド』を口にするだけ。そうすれば、きっと――。
「射――」
――その瞬間、私の膝がカクンと力を失い、態勢が崩れた。
「――出」
『コマンド』を口にした刹那、待っていましたといわんばかりに左腕から射出された青白い矢は槍を持つヤツラの体を穿ち、その後方、周囲にいる他の個体を巻き込んで奥の壁へと激突する。狙い通り、私の目の前からヤツラの姿はなくなった。
「影野様、リロード終わりました! 急いで下がって……」
後ろで誰かの声がする。誰の声か、上手く聞き取れない。
「……」
だが、私はそれを気にする余裕はなく、ゆっくりと下を見た。
そこにはぽっかりと穴が開き、ボタボタと肉の塊が廊下に落ちていく自分のお腹があった。
「……がふっ」
遅れて口から血が噴き出る。それらは廊下を赤く染め、ゆっくりと広がっていく。
(やっちゃった……)
視界がぐらぐらと揺れる中、私は何故か苦笑を浮かべていた。情けない自分に対する嘲笑だろうか。それとも、こんなミスをした私を笑ってほしかったのか。
私の体は動くのが不思議なほどボロボロ? 違う、とっくの昔に限界を迎えていたのだ。
痛みは確かに動きを阻害するがそれ以上に体の異常を知らせるシグナルだ。それがなければ自分の体がどれほど危険な状態なのか把握し辛くなるに決まっている。
しかし、そんな簡単なことにも気づかず、私は戦った。
まだ大丈夫。
まだいける。
まだ戦える。
体は数えきれないほどの傷を抱え、出血多量で死んでもおかしくないほど血を流し、寒気など、別のシグナルで体の限界を伝えてくれていたのに私はそれを全て無視して前に突っ込んだ。
その結果、矢を放つ瞬間、膝から力が抜け、照準を合わせるためにほんの一瞬だけ『コマンド』を口にするのが遅れた。その一瞬で槍は私の体を貫き、トドメをさされた。
「影野様ぁ!!」
立っていられなくなり、数歩ほど後ろへ下がった後、ふわりと後ろへ倒れ込む。だが、その直後に誰かに抱き止められた。
(はせ、がわ……さん)
「―――! ――! ―――――!!」
霞む視界の中、誰かが叫んでいる。多分、長谷川さんだ。だが、それを認識できるほどの力を私は持っていなかった。
そう、私は判断を誤ったのだ。
もっと早く矢を使ってヤツラを一掃するべきだった。
長谷川さんが無理をするなと叫んだ時点で別の方法を考えるべきだった。
こんな無茶な作戦を立てるべきではなかった。
「―――!! ――!」
少しずつ、意識が遠のいていく。いや、違う。何かが消えていく?
痛覚だけ失ったはずなのに、今はもう何も感じない。
音も、ヤツラが放つ威圧も、長谷川さんの温もりも、何も、なくなっていく。
次第に視界がぼやけ、ゆっくりと暗くなっていく中、私は最期にやっと理解した。
(あぁ……私、死ぬんだ)
そして、私は――。




