悲痛なる愛情、純然たる恋慕
純と愛花はあの後スーパーへ行き、蕎麦と麺つゆの他、人参やネギといった野菜、調味料など、暫く生活していくに足る材料を買い揃える。何しろ純はほとんど料理をしなかったため、冷蔵庫には本当に何も入っていなかったのだ。その間彼は安くで摂れる蛋白質として鶏肉を塩で味付けして焼いただけのものや、雑に切っただけの野菜を皿に乗せてサラダとして食べていた。『栄養面さえどうにか出来ればいい』という彼の主張は『ダメだよちゃんと美味しいもの食べなきゃ』という愛花のお叱りにねじ伏せられた。
「これからは私が料理するからね。私がハンバーグしか作れない訳じゃないってところ、見せてあげる」
愛花はそう言って、両手を胸の前でグッと握って気合いをアピールした。
*
それからした事は、純が愛花の家に泊まりに行った時。その時にすることを二人でやるだけで特に変わったことは無かった。シャワーを浴び、蕎麦を食べて他愛もない話をする。しかし、二人は意図的に『これから共に暮らす』ことを話題から外していた。話題にしてしまえばお互い下手に緊張して会話が途絶えてしまうことが目に見えるからだ。その様な会話を続けていると、時計の針は十時を回っていた。
「そろそろ寝るよ」
「まだトレーニング出来ないのに?」
「それでもいつも通りに起きないと、後で生活リズムが崩れるからな」
そう言って純は立ち上がり、買ったばかりの歯ブラシに歯磨き粉をつける。
*
純が部屋で就寝の準備をしていると、スマートフォンが着信を知らせる。相手の電話番号は知らないもの。間違い電話かと思い教えてやろうと出る。すると、そこから聴こえた声に、純はただ驚くことしか出来なかった。
『私だ、純。夜遅くにすまない。だが、どうしてもお前と話をしたかった』
何度も聞いた、間違いようもない声。電話の相手は山崎玲一、愛花の父だった。
「玲一さん!? ……話って何ですか?」
『予想はついていると思うが……愛花の話だ。だが、その前に……』
それまでの真剣な声から一転、純が最もよく知る優しい声で玲一は言う。
『ありがとう。アーシェラから愛花を守ってくれて』
「……気にしないで下さい。それは任務、そして俺が望んでやったことです」
『そうだな。そう言うと思っていた』
「それより、愛花の話って何でしょうか」
『ああ、あいつがアーシェラから狙われた理由についてだが……』
愛花がアーシェラから狙われた理由。それは純と愛花が今最も知りたがっている情報だった。
『私は、それが【彼女の魔導因子】そのものにあると推測している』
「魔導因子そのもの……ですか?」
『そうだ。過去の私は愛花の持つ膨大な魔導因子……それが奴らの目当てだと思っていた。だから、私は『手術』を実行した。未完成な技術をお前のような子供に使ってしまったことはーー』
「申し訳ない、なんて思わないで下さい」
純は玲一の言葉を遮った。純の方に謝られる道理など無かったからだ。
手術を受けたのはあくまで自分の意思、こちらから頼み込んだことだ。それが愛花を守ることに繋がるから、確率は低くてもどれ程彼が止めても、手術を受ける決意は折れなかった。それが無ければ、純は今この場にはいない。
「望んだのは俺です。貴方は俺のことを止めようとしていた。分かっています。『愛花の魔導因子を移植する』ことでどんな危険が予測されたか」
『全てを移植した訳ではないが、それでも危険は高かった。お前が今何の問題も無く生活出来ていることなど、結果論に過ぎんさ』
「問題ならありますよ。俺は愛花の因子の性能を三割も引き出せていません」
『元々因子を持たない人間に移植したんだ。それは当然だ』
二人が今話していることを、愛花は知らない。故に彼女は過去に超能力が扱えた自分が、ある日を境にそれを使えなくなったとしか考えていない。
『それはともかく、愛花の魔導因子自体が奴らの狙いだとすれば、それが通常の魔導因子とどう異なるかを調べる必要がある。だが因子の性質を詳細に確認する技術は今の我々にはない』
「愛花の身体から完全に魔導因子を除去することは出来ないんですか?」
『それは無理だ。魔導因子はそれ専用の内臓器官で生成される。そしてその器官は未だ未知数の部分が多い。二つのうち片方を除去するのはともかく、両方の場合身体にどのような影響が出るかは分からない。そんな事を、生きた少女で人体実験など出来るものか』
魔導因子に関する研究は、純が因子の移植手術を施工されてから十年が経とうとしている現在になっても未だ進歩が小さかった。魔導因子の所有者自体元々限られている上、魔法技術はその発展度を表向きには隠蔽している。それゆえ常にサンプルが不足しており、研究は難航している、というのが現状である。
『そういう訳だ。だから……今はお前しか頼れん。魔導因子を持たん私は言うまでもないが、克哉も今日本を離れている。極秘の任務が入ったらしい』
「克哉さんも帰ってこれないんですか?」
『愛花の一件があった直後に出て行ったようだ。緊急の任務に振り回されたのはお前だけではなかったらしい』
山崎克哉、愛花の兄。純の付き合いは愛花よりも長く、母親同士の関係もあって兄弟同然に育ってきた。彼が日本を離れる際、純に残した言葉は『任せる』だった。
「そうだったんですか。確かにあの人がフリーだったら、この任務を任されていたのはきっと克哉さんでしたし」
『ははは、そうだとしても私はお前を推薦したがな』
電話の向こうで笑う玲一に釣られ、純の頬も緩んだ。しかし直後、玲一から発せられた言葉は絞り出すような、心からの願いが漏れ出たような声だった。
『私に出来ることは、お前や克哉のような前線の若者を、少しでも生き残れる技術を開発することだ。だから頼む。愛花を……守ってやってくれ』
「命に代えても」
迷いなく言い放つ。最初から決めていたことだったから。誰に頼まれなくても、愛花が望まなくても。
滝本純は、山崎愛花を愛している。だが、彼は思っていた。
自分は弱い。だから、最初から愛花と『それ以上』に進みはしない。それを夢見ることはあっても、それを現実にするつもりはない。そう思っていたから、今まで戦ってこれた。愛花の笑える世界に自分の姿がなくても、その外側でその世界を守り続ける。それが、自分の戦いだ。
『お前という奴は……まあいい。だか、背負い過ぎるなよ。あとは、そうだ。恵梨香から伝言だ』
「恵梨香さんから?」
純は嫌な予感がした。
『「段取りは守るのよ」とのことだ。では、切るぞ』
「……? はい、玲一さん。お休みなさい」
スマートフォンの電源を落とし、ベッドに座り込む。
段取りとは何のことだろう。
数秒間考えた末、理解した純は深いため息と共に頭を抱えた。
「まずそうはならないんだっての……」
「純、起きてる?」
愛花が部屋をノックしながら訊ねてきた。心臓が口から飛び出るような驚きをどうにか取り繕い、平静を装う。
「あぁ、起きてるよ。どうしたんだ?」
「えっと、その……言ってなかったから」
愛花がドアから顔だけを出す。どこか照れくさそうに、伏し目がちに。
「あ、あのね、純……」
「あ、ああ……」
明らかに普段とは違う様子の愛花に、純にも緊張が走る。それから数秒間の沈黙の末、愛花が口を開いた。
「……これからもよろしくね。そ、それだけ! じゃあお休み!」
「えっ、愛花!? おい!」
ただ一言だけ告げると彼女はバタンと扉を閉め、急ぎ足で去って行った。純に返事をする間も与えずに。
「それを言うだけであんなに緊張するのか……?」
純は愛花の態度を不思議に思いつつ、部屋の電気を消しタオルケットに身体を潜り込ませた。
*
嘘を吐いた。
愛花は机の上で、日記と向かい合いながらため息を吐く。
『これからもよろしく』だけが言いたかったのではない。他にも伝えたかったことはたくさんある。例えば、保護のために遠くの国に飛ばされるかもしれないと思っていたから、そうならなくてホッとしたこと。就職してから純に会える日が大幅に無くなって寂しかったこと。純が自分の護衛に着くということが、純と今まで以上に一緒にいられることが嬉しかったこと。
でも、言えなかった。やっぱり私は、まだまだ意気地なしだ。
そんな純への思いの丈を、彼女は日記に思うままに書く。
もう何冊目かも分からない日記帳。今までと変わらず、書くことは純のことばかり。勿論、家族や友達のことを書く時もある。だが、『純』という文字が出るページに比べれば、その数は圧倒的少数。
それも当然のことだ。彼女が日記をつけ始めたのは、今から十年より少し前。母に、自分の感情が『恋』だと教えられた日。その日から彼女は日記を始めた。初めて恋をした少年のことを、その思い出をいつまでも抱いて生きていけるように。
日記を書き終わると、彼女は直ぐにそれを閉じて床に就いた。今日も、大好きな純を想いながら彼女は夢の中へ落ちていく。
その少年が彼女に寄せる、悲痛な愛情には気付かないままで。




