〈後篇〉
1
――これからよろしくね……お互い頑張ろう?
そう最初に話しかけられた日のことを、新海尚美は今頃になって思い出す。
二年前の春――高校の入学式を終え、割り当てられた教室の席に座り、一息吐いたときだった。前の席にいた少女が振り向いて、彼女に声をかけた。
――え、ああ…うん、よろしく。
尚美は相手の笑顔を見返した。やけに嬉しそうというのが、少女に対する第一印象だった。
プロのバレー選手になることが、尚美の幼い頃からの夢だった。そのためならどんな努力も怠らず、ひたすら練習に打ち込んだ。クラスの女子とは疎遠になり、同じ女子バレー部の部員とも、部活以外の付き合いはなかった。
中学時代の尚美は、バレーのことしか頭になかった。それだけで三年間が過ぎた。だから彼女には、バレーに関すること以外はあやふやな思い出しかない。練習や試合で感じた辛さや悔しさばかりが目に浮かぶ。
好きで始めたことだ――自分自身が望んだことだ、後悔などしていないはずだった。
だが本当にそれは満ち足りた三年間だったと、胸を張って言えるかというと――なぜなのか、尚美は自信が持てなかった。
血と汗の滲む、中学の三年間だった。将来の夢を叶えるために精一杯の努力をするなど、至極当然のことだ。それでも改めて振り返ってみると、実際に失ったものの方が多いような気がして仕方がない。
《付き合いが悪い》とは、よく言われた。尚美はその度に反感を覚えた。大した努力もせず、無駄に日々を浪費している人間になど、自分のことをとやかく言う権利などない。
すべては将来の夢を叶えるためだった――そのためのはずだった。
それなのに、中学卒業の当日――友達同士で泣いたり笑ったりしているクラスメイトたちを見た尚美は、言いようのない疎外感を覚えた。
中学卒業という、一つの節目を迎えたことによる感慨を、尚美は誰とも共有することができなかった。
そして尚美は、自分が中学生活で何を失ったのかを実感した。楽しい思い出も悲しい思い出も、ともに分かち合える友人が誰一人としていないということがどれほどの孤独を生むのか、このとき自分の体験として、嫌というほど思い知らされた。
だからといって今更、これまでの生活サイクルを変えることは難しかった。一日でも練習を休んだだけでも不安に駆られてしまう今の状態では、友人を作る余裕はない。
そんな経緯もあり、尚美は暗澹たる面持ちで、高校入学を迎えることとなった。
――どうしたの? 元気がないけど……。
前の席の少女が、心配そうに尚美の顔を覗き込む。
――せっかくの高校生活初日なんだから、そんな顔してたら駄目だよ?
馴れ馴れしい子だな――そう思った。少しはこちらの気持ちを慮って、放っておいてくれることができないのだろうか。
日数を重ねるにつれ、段々と少女の人となりが何となく摑めるようになってきた。
男女問わず、誰にでも分け隔てなく接し、悩みを抱えるクラスメイトからは親身になって相談を受ける。裏表のない明るい性格で、すぐにクラスに打ち解けていった。
尚美が望む望まないに関わらず、少女とは何かと言葉を交わす機会が多くなった。席が近いせいだと思っていたが、実際はそうではなかった。
――新海さん……今日は部活あるの?
ある日の放課後、少女は突然尚美に声をかけてきた。
――ないよ……いったい何?
部活がなくても、個人的に練習をしようと思えばいくらでもできる。その日もそうするつもりで急いでいたため、少し苛立ってた。
――あの……よかったら一緒に帰らない? 途中でどこかのお店に寄っていこうよ。
いつになく遠慮がちに、少女は誘った。
他にもっと仲のいいクラスメイトがいるのに、もの好きにもほどがあると尚美は思った。
――悪いんだけど、別に用事があるから。
――そうなんだ……。
残念そうに、少女は言った。
――ええと、新海さんさえ迷惑じゃなかったら、また誘ってもいい? もちろん時間があるときでいいから。
――別に構わないよ。
――本当? ありがとう。
どうしてそこで礼を言うのか、尚美は少女の考えていることが理解できなかった。ここまで邪険な態度をとられれば、気分を害するのが当然だろう。だが少女からそんな様子は微塵も感じられなかった。それどころか逆に、少女は本心から安堵したように微笑んでいた。ただの口約束に過ぎないとは夢にも思っていないようだった。
本当にこの子は何なのだろうと、尚美は不思議で仕方がなかった。
それからも何度か、少女から放課後に誘われた。だが尚美はその度に適当な用事をでっちあげて断り続けた。
少女のことを嫌っていたわけではなかった。ただ、自分にはないものを多く持ち、クラスの友達と楽しげに笑い合っている少女が羨ましく、妬ましくもあった。自分に関わらなくとも、少女の高校生活には何ら影響しないだろうと、どこか自虐的な思いが尚美にはあった。
その日の昼休み――尚美はいつものように学生食堂で、低カロリーのB定食にありついていた。周りの生徒たちがみんな友達数人と談笑している中、一人でいる彼女の存在はやけに浮いていた。
食べ終わり次第、すぐに席を立つつもりだった。その分、尚美の食事スピードは他の生徒より随分と早くなっていた。
――新海さん……ここ、座ってもいい?
食事を初めて間もなく、尚美は声をかけられた。確認するまでもなく、あの少女だと分かった。尚美が頷くと、少女は礼を言って彼女の正面に腰を下ろした。
少女の昼食は持参の弁当だった。それなら教室でクラスの女子と食べればいいものを、なぜわざわざこんなところまで足を運ぶ必要があるのか、尚美は理解に苦しんだ。
――一度、新海さんとお昼を一緒にとりたいと思ってたんだ。
尚美の心を読んだかのように、少女はそんなことを口にした。
――……何で?
つい、口調が刺々しくなる。だが少女は気にした素振りも見せない。
――ううん……何でって聞かれても……新海さんって教室でいつも一人でいるから……わたし、新海さんともっと仲良くなりたいなって……。
――何それ? 同情?
少女は慌てて顔の前で両手を激しく振った。
――違う、そういうのじゃないよ。誤解しないでね?
――まあ正直、どうでもいいんだけど……。
言って、尚美は自分の食事を再開した。さっさと食べ終えて教室に戻ろうと思った。
――あ……そのお魚、美味しそうだね?
――……何? 欲しいの?
――ええと……それじゃあ、わたしの唐揚げと交換しない?
――太ったら困るから、いらない。
――そうか……残念。
少女はしょんぼりとした。
次にはいきなり、少女は話を変えた。
――そういえば新海さん……部活の方、大変そうだね?
尚美の食事を勧める手が止まる。
――最近、すごく根を詰めてるみたいだけど……たまには肩の力を抜かないと、体を壊したら元も子もないよ?
――…………。
―‐頑張ってるのは分かるけど……もう少し心にゆとりを持って、気分転換も必要だとわたしは思うんだけど……。
――あ……のよ。
――……え? 今、何て言ったの新海さん?
――あんたなんかに、あたしの何が分かるっていうのよ……。
怒気を込めて言い放ち、まだ食事中にも関わらず、尚美はトレーを持って立ち上がった。
――いつも能天気に笑ってるだけのあんたに、そんなこと言われたくないんだけど? あたしの気持ちも知らないくせに。
尚美の剣幕に、少女はたじろいだ様子を見せた。尚美がその場を離れようとしかけたとき、少女はぽつりと口にした。
――分からないよ……わたしには、新海さんの気持ちが。
――…………。
――そう簡単に、人の気持ちが分かるなんて言えないよ……。
少女は立って、尚美に近づいた。
――でも、見ていたら分かるよ……ねえ新海さん、バレーをやっていて楽しい?
尚美は言葉に詰まった。バレーは好きだ――だがバレーをやること自体を楽しんでいるかどうかなど、今まで考えたこともなかった。それはまた別のことだ。彼女はただ必死になって、厳しい練習に食らいついていた。
――た、楽しいに決まってるでしょ? だから続けてるんだから。
――本当に? だったらどうしていつも、辛そうな顔をしてるの?
――……辛そう?
――うん……わたし、新海さんのそんな顔、見ていたくないよ……。
――何を勝手なこと言ってんの? 楽しいって言ってるじゃない。
――嘘を吐かないで。
――嘘じゃな――。
言い返そうとして、尚美は唖然とした。
少女は、涙を浮かべていた。唇をきつく引き結び、何とか瞳から零れないよう堪えているようだった。
――……は? ちょっ……やめてよ、何で……。
尚美は大いに戸惑った。周りにいる食事中の生徒たちも、こちらをちらちらと見ている。
――……泣かないでくれない? あたしのせいだと思われるじゃない。
――ご、ごめんね……新海さん……。
――いや、別に謝らなくていいけど……。
涙を拭い、少女はぎこちないながらも笑みを浮かべた。
――本当にごめんね……わたしって昔から泣き虫だったから。
――それにしたってさ、何もあんたが泣くことないじゃない。
――うん、そうなんだけど……おかしいな、どうしてだろう?
――あたしに聞かないでよ……。
この少女は、他人のためを思って泣くことができる子なのだ――そんな人間を、尚美は初めて見た。
――せっかく好きで始めたことなんだから。初心に帰るじゃないけど、まず心から楽しまないと。
誰にも負けないくらいに上達すること――そこまでしないと、プロには到底なれない。そんな焦りがあったことは事実だ。だがバレー選手になりたいという確固とした目標はあれど、なぜ自分は他のスポーツではなくバレーを選んだのか、そしてなぜ自分はこれほどまでにバレーに執心するのか、いつの間にか忘れていた気がした。
バレーをすると楽しい、試合を見るのも楽しい――だから自分は最初にバレーを好きになったはずなのに、がむしゃらに突き進むあまりに返りみることをしなかった。
――うっかりしてたな……あたし。
――……え?
――今更になって思い出すなんてね……これまで死にもの狂いだったのが馬鹿みたい。
――でもそれはちゃんと、新海さんの糧になっていると思うよ?
――だといいんだけどね。
苦笑して、尚美はトレーをテーブルに戻した。
――……とりあえず、ありがとう。
――どういたしまして。
少女は白く綺麗な歯を見せて笑った。
――……えっと、それでさ……。
――何? 新海さん。
尚美は黙って、少女の弁当を指差した。
――……唐揚げ、やっぱり貰おうかな?
少女は目を丸くした。
――いいの? でもさっきは――。
――まあ、今日は特別ってことで。
――?
いい友人ができた、自分にとって特別な日だから――尚美はそう、心中で呟いた。
そうして新海尚美と少女――九澄優華は無二の親友同士となった。
2
朝を迎え、自然と目が覚める。登校時間にはまだ余裕があったが、ベッドから体を起こす。かつては当たり前のように二度寝をし、当たり前のように遅刻していたが、今ではこの規則正しい生活が習慣となっていた。
何がきっかけだったのだろう――自分を変えたのは、いったい何だったのだろうか。
一階に降りて洗顔と歯磨きを済ませ、朝食をとる。再び部屋に戻り、制服に着替えて鞄を持ち、自宅を出た。そのすべてを、ただ機械的に行った。
登校風景は、どこか色褪せて見えた。談笑する生徒たちの様子も、空々しく映る。
どこかに彼女の姿がないか、無意識に探している自分がいた――だが、どこにも見つからない。
真面目に登校するというのは、彼女との約束だった。だから心のどこかで、学校に行きさえすれば、また彼女に会えるかも知れないと思っていた。
そんな、儚い期待があった。。
校門から昇降口――昇降口から廊下、階段――そしてまた廊下へ。
二年C組のプレートが見える――彼はその教室のドアを、勢いよく開いた。
真っ先に、彼女の席に目を向ける。以前なら、そこには友人と楽しそうに話している彼女の笑顔が――。
「…………」
九澄優華の席には、菊の活けられた花瓶が置かれているだけだった。
そう――優華は死んだ。丹羽芳郎に続く猟奇殺人の犠牲者となった。
改めて突き付けられた現実は、耐え難いほどの苦痛を生んで梶谷透を蝕んでいた。
それは二本足でしっかりと立ち、息をすることさえ困難な絶望感だった。
顔色を失い、呆然と立ち竦む透の背後では、遅れて登校してきた生徒が教室に入れず困っていた。だが、透はそのことに気付かない。生徒は何度も呼びかけたが、彼の耳には何も聞こえない。痺れを切らした生徒に押しのけられても、透は何の反応も見せなかった。
優華は死んだ。もう彼女が笑いかけてくることはなかった――それだけではない。彼女の泣き顔も、怒ったときの顔すらも、学校はおろか町中――いや、世界中のどこを捜しまわったところで、二度と見ることはできない。
かつての公園で、ありがとうと言って見せてくれた満面の笑顔は、永遠に失われてしまった。それも何の前振りもなく、あまりに唐突な形でだった。
――やっぱり梶谷くんは、そういう笑顔の方がいいね。
「……だから、言ったのによ……」
――でもよ、そういう九澄が笑ってないと、何も意味がないんだよ。
「おまえが……九澄がいつも笑顔でいてくれるから、おれもようやく笑えるっていうのに……」
それなのに、なぜいなくなってしまったのか――教室のドアを支えに立ちながら、透は今は亡き少女の面影に問いかける。
「おれは……おまえがいてくれたおかげで救われたっていうのに……」
優華は真剣に透と向き合い、本気で怒ってくれた――両親ともにそんな経験をしたことはなかった。
だからきっと――自分はあのとき、嬉しかったのだろう。
「まだおれは……おまえに感謝の一つも言えてないんだぞ――っ」
強く噛みしめた下唇の皮膚が破れ――透は口の中に、苦い血の味を感じた。
教室内の雰囲気は、まさに先日に執り行われた優華の葬儀の続きのようだった。
どこを見回しても明るい表情など微塵もうかがえず、陰鬱な空気が澱のようにその場に沈殿しているのが、嫌というほど肌で感じられた。九澄優華という少女が、いかにクラスメイトから好かれていたのかよく分かる。
授業中、休み時間と問わず、誰もがあえて優華の席に目をやることを避けていた。当然ながら、優華の名前が口の端に上ることもない。ときおり女子生徒の一人が啜り泣く声が聞こえた。学校を早退する生徒もいた。
優華という存在が失われたことによって空いたクラスの穴は大きく、底が見えないほどに深いものだった。到底、代わりの者で埋められる類ではなかった。
それは、透自身も例外ではなかった。優華がいない今、自分が学校に来る理由すら見失っていた。生前における彼女との約束だからというのも、虚しい理由付けとしか思えなかった。実のところはただの惰性に過ぎないのかも知れない。
それでいいのだろうか――透は自らに問いかける。このまま、かつての彼女の思いを無にしてしまっていいのだろうか。
いいはずがなかった。あれほど我がことのように気に病み、尽くしてくれた彼女を裏切ることなど、できるはずがない。それこそ、優華の恩を仇で返す行為に他ならない。
姉のときと同じことを、自分は繰り返すつもりなのか――優華との付き合いを通して、自分は何も学ばず、何も感じず、何も得なかったというのだろうか。
優華からは、善悪や損得を越えた価値あるものの尊い輝きを教えられた。透の中にもそれは必ずあるのだということを、彼女は固く信じていたし、透もまたそういう気持ちになり始めていた。
姉はもう生き返らない――優華も生き返らない。だからといって、自分まで生きながら腐っていってどうするというのか。
「まずは……新海のことだな」
優華ならやはり、親友の新海尚美の心配をするだろう。葬儀のときの透は現実感が伴わず、夢の中を彷徨っているような体たらくだったため、尚美のことを気にしている状態ではなかった。
果たして今日は学校に来ているのだろうか――昼休みになると矢も盾もたまらず、透は隣のD組のクラスに向かった。
D組で最初に目に留まった女子生徒に話しかけ、尚美の所在を訊ねる。
「……新海さんは来てないけど?」
素っ気ない態度で、女子は答えた。
礼を言い、透はD組を後にした。尚美は学校を休んでいる。やはり親友である優華の死が、精神的に堪えているのだろう。
丹羽教諭との件から、ようやく立ち直りかけたところに今回の事件だ――尚美の心はもはやズタズタになっていることだろう。
自殺――その言葉が、急に透の脳裏を過った。
「……まさか」
口に出して否定しようとしたが、一度浮かんだ可能性は、なかなか消え去らない。むしろその不吉な予想が濃厚になっていく気すらした。
「畜生……やめてくれよ……」
焦燥感に追い立てられるかのように、D組に行ったその足で、透は階段をおりて職員室に急いだ。D組のクラス担任から、彼女の住所を教えてもらうつもりだった。
「……新海の住所? そんなものを知ってどうするんだ?」
D組のクラス担任は、透に対する不信感を隠そうともしなかった。
「新海のことは、担任であるわたしに任せておけ。おまえが気にする必要はない」
にべもなく断られ、どれほど透が粘ったところで無駄でしかなかった。
不真面目な生徒というレッテルが、ここにきて大きな壁となって立ち塞がった。
「どうする……どうすればいい?」
透は頭を掻き毟った。せめて生徒の中で尚美の自宅を知っている者がいればよかったが、あいにく彼女は優華以外に親しい友人はいないようだった。
自分の不安が杞憂に過ぎないことを、今はひたすら祈るしかないのだろうか――初っ端からの挫折に、透は肩を落とした。
とりあえず一日だけ様子を見ようと、透は結論を下した。尚美が自ら死を選ぶかも知れないというのは、はっきりとした確証があってのことではない。だからといって何かあってからでは遅い。もし明日になっても彼女が登校しなければ、早急に他の手立てを考えなければならない。
透に分かっているのは、今夜は眠れそうにないということだけだった。
それでも帰宅途中、どこかに尚美の姿がないかきょろきょろと見回してしまう。傍からすると挙動不審な生徒に見えることだろう。
商店街を東に抜けてしばらく進むと、やがて目の前に公園が見えてきた。
「…………」
いつかの記憶が蘇り、透は胸の奥に痛みを覚えた。
あのときのことは、自分にとっては自分を変えることになった、一つの記念になるはずだった。それが今では思い出すだけでも辛く、苦しくて仕方がない。
一人きりで泣いていた優華――彼女のそんな様子に、透は理不尽な怒りを覚えていた。あれからそれほど経っていないにも関わらず、相当の年月が過ぎた気がする。
そう、あのときも自分は、公園の入り口から休憩所に目を留めて――。
「――え?」
思わず、驚きの声が漏れた。
「く、九澄……?」
休憩所には、一人の少女が座っていた――決して見間違いではない。幻や幽霊の類でもなかった。
「………あ」
だがすぐに、透はその少女が優華ではないと気付いた。ただの早とちりだった。
それでもそこにいたのは、確かに透が捜していた少女ではあった。
「…………」
透は公園の入り口から休憩所まで歩いた。少女は近づいてくる彼の存在にはまるで気が付かないようだった。
「――おい、新海」
透は少女の名前を呼んだ。少女はのろのろと顔をあげて、彼の顔を見る。
「あ、ああ……」
尚美は、何とも気の抜けた返事をした。透に向ける瞳の焦点は合っていない。危惧した通り、彼女の受けたショックは相当なものだった。
その証拠に、尚美の左手首には血の滲んだ包帯がきつく巻かれていた。
「……ん? ああ……これ、気になる……?」
透の視線に気付き、尚美はひどく間延びした口調で言った。
「今度こそ、うまくできるかなぁって……そう思ったんだけどさ……どうにも、力が入らなくって。あと、もうちょっとだったのに……」
「……こんなところで、何をしてるんだ?」
これ以上は聞いていられず、透は尚美の言葉を遮った。
「……うん、まあ……次は、どこかから飛び降りでもしようかなって思ったんだよね……でも外に出てみたら、何か歩くのもしんどくなっちゃって……今は一休みしてるところ」
尚美は自暴自棄に陥っていた。自分の命に関わることを、まるで他人事のように語っていた。
透は黙したまま、尚美の正面に腰を下ろした。
「……学校は、どうする?」
「……は? 学校……?」
不可解な質問だと言いたげな、尚美の反応だった。
「学校なんて……行ってどうするの? もう部活はやってないし、優華もいないし……全然、行く意味なんてないし……」
「…………」
「はぁ……辞めちゃおうかな、学校……何かどうでもいいや……」
明後日の方角を向き、尚美は投げやりな態度をとった。
「…………」
透は気分が悪くなってきた。今の尚美は、以前の自分を見ているようだった。理不尽な現実に将来への希望が見い出せず、非生産的な日々を過ごしていた自分――残酷な現実に耐え兼ね、破滅的な方向に走る尚美は、鏡写しのように似ていた。
これが同属嫌悪なのかと、透は思った。それだけではなく、自分と比べて尚美は優華との付き合いが長かったはずなのに、彼女には進歩が見られない。
もし優華がこの場にいれば、尚美にどう接しただろう――想像しようとして、首を振った。そもそも透と優華はまったく違う人間だ。それなら、同じ状況でも手段は異なるのが当然だ。自分は自分なりの手段でもって尚美に接するべきだと、透は決断した。
「そんなに死にたいのか……おまえは?」
透は尚美に鋭い視線を向け、そう問い詰めた。
「……死にたい。早く優華に会いたい……」
台詞の書かれた台本を棒読みするかのような、尚美の口調だった。
「九澄がおまえに会うって、本気で思ってるのか?」
「……どういう意味?」
眉間に皺を寄せ、尚美が透に視線を戻した。
「おまえは九澄と仲が良かったんだろう? なら、自分の命を蔑ろにするような人間に対して、あいつがどう感じるかも分かるだろ?」
尚美の目が泳ぐ。初めて、彼女は動揺した。
「おまえが死んでも、九澄には会えない……」
透は断言した。尚美には残酷かも知れないが、荒治療以外にとれそうな手段が、彼には思いつかなかった。
「大体な、あの世なんてものが実際にあるのか? 天国だの地獄だの、死者の魂がどうのこうのといった不確かなものに縋るのは逃げだ。おまえはただ、甘えてるだけだ新海」
尚美は透を睨みつけた。
「……偉そうに、何様のつもり? あんたにそこまで言われる筋合いなんてないんだけど」
「そうか、なら誰だったら良いんだ? 九澄か? あいつはもういないぞ?」
ぎり、と尚美が歯軋りをする。
「九澄は何を言ってもすべて受け止めてくれると思ってたんじゃないのか? あいつはおまえの母親じゃないんだぞ?」
尚美の体が怒りに震える――だが、何も言い返さない。
「甘えられる相手がいなくなると、今度は死ぬか? 安易だな、おまえは」
左の頬に衝撃を受け、透の顔が右を向いた。遅れて熱をもった左頬が、痺れるように痛み出した。ゆっくりと、透は顔を戻した。
「――うるさいっ!」
今度は顔が左を向いた。右の頬も同様に痛む。
「あっ――あたしが、どんなにっ――どんなに苦しいかなんて、あんたなんかに――っ」
振りかぶられた右手を、透は素早く摑んだ。尚美を見やると、彼女の顔は涙で濡れていた。
「……知るかよ、そんなこと」
尚美が空いている左手を持ち上げる。透はすぐに反応できるように身構えた――だが結局その手は、そのまま力なく下ろされた。
「…………」
尚美は服の袖で、乱暴に涙を拭った。それから再び透に目を向ける。
「……あのさ」
「何だ?」
「手、離してくれない? いつまで摑んでるの」
「……もう叩かないか?」
「叩かないから、離して」
「分かった」
透は尚美の右手を解放した。顔を顰めて、尚美は手首をさする。
「加減っていうのを知らないの? 痛かったんだけど?」
「安心しろ。おれも痛い」
言って、透は両頬を押えた。
「新海の手形がくっきりと残ってるんじゃないか? 腫れが引くまで恥ずかしくて帰れないな」
「痕なんてないから、大丈夫」
「そうか、それは何よりだ」
透は真顔で、そんなことを言った。
「……何だか、死ぬ気が薄れちゃった。もしかしてそのつもりで、わざと怒らせたの?」
「さあ、どうだろうな……」
透は惚けて見せた。
しばらく間を空けて――後悔の念に、尚美は唇を噛む。
「あたし……これまで何してたんだろう? ずっと優華と一緒だったのに」
「おれたちまだ学生だぞ? 今はお互いやっとスタート地点に立てたばかりで、これからが本番なんだ。遅いってことはないだろ」
「うん……それもそうだね」
それからしばらく、尚美は黙り込んでいた。何かを言いだそうと迷っているようだった。
「無理することはないからな」
そう透は声をかけた。その声が尚美に届いたかどうかは分からない――だがたっぷり数十分かけた後、尚美は重い口を開いた。
「あたし……〈呪いのアドレス〉に丹羽の名前を送った」
「……そうか」
もしかしたらという可能性はあった。そのため透の驚きは少なかった。今は尚美に話の続きを促すため、簡単な相槌を打つにとどめた。
「本気だった……本気で死んで欲しいと思った。そうしたら、実際に丹羽は死んだ……あたしが丹羽を殺したんだ」
テーブルの上に投げ出した尚美の両手が、小刻みに震える。
「学校のみんなが言ってたことは全部正しいんだ……あたしは、人殺しなんだ」
「犯人は、別に存在してる。そんなオカルト染みた噂を間に受けることはないだろ」
透は尚美を慰めにかかる。
「……あたしのしたことが少しも原因じゃないって言い切れる? 噂絡みじゃなければ、これは殺人教唆で立派な犯罪なんだよ?」
堰を切ったように、尚美はまくしたてた。
「それに〈呪い〉なんていう噂だからこそ、罪に問われることもない……そんなのはあんまりじゃない?」
「…………」
「優華が死んでから、あたしはどれだけ恐ろしいことをしたんだろうって、やっと気付いた。いくら丹羽のことを恨んでいても、何も殺す必要はなかったんじゃないかって……でも気付いたところで、どうしようもなかった。警察に言ったって鼻で笑われるのがオチだし……」
「……それでおまえは、これからどうしたいんだ?」
透は尚美の目を見据え、問いかける。
「あたしは……」
尚美は考えながら、言葉を紡ぐ。
「あたしは、誰が優華の名前を〈呪いのアドレス〉に送ったのか……それが知りたい」
「そんなこと知ってどうするんだ? 今おまえが言ったように〈呪い〉なんてもの警察は歯牙にもかけないぞ。それともおまえのときみたいに噂を広めるような真似をするつもりか?」
咎めるような、透の口調だった。
「梶谷くんは、どうして優華が死ななければいけなかったか、知りたくないわけ?」
尚美は声を荒げた。
「もちろん知りたいさ……だがそれは、実際に手を下した犯人からだな」
〈呪いのアドレス〉との繋がりに関わらず、無差別猟奇殺人の犯人が実在することは間違いない。今度こそ犯人には正当な裁きを受けさせる――そう、透は決意した。
「ちょうど知り合いの刑事が一人いるからな。どれだけ聞き出せるか分からないが、当たってみる価値はある」
「……やっぱりあたし、優華を恨んでいたやつを捜したい……こんなこと信じたくないけど、これまでの事件の被害者に例外は一つもなかったんだから。誰にも言うつもりはない……ただあたしは知りたいだけ。あの優華が誰にどんな恨みを買ったのか……あの子の親友として」
尚美の決意は相当に固いようだった。透は諦めたように溜息を吐いた。
「そこまで言うなら止めないが……危ないことはするなよ? おれに手を貸せることがあったら、何でも相談するんだぞ?」
真剣な透の眼差しを、尚美は正面から受け止めた。
「大丈夫、無茶はしないよ」
そう言って、右の拳を胸に当ててみせた。
3
翌日の放課後に、梶谷透は占部岳彦刑事と、商店街の喫茶店で待ち合わせをした。
九澄優華の事件の進展について、透は直球で訊ねた。占部刑事は最初、露骨に困った態度をとっていたが、透の粘り強い説得に、渋々といった様子で口を開いた。
「――結論から言うと、今回の事件と丹羽芳郎の事件は別の人物による犯行の可能性が、極めて高いんだ」
開口一番、意外なことを占部刑事は小声で言った。
「九澄優華さん殺害事件は、丹羽芳郎殺害事件の模倣犯による仕業だというのが、現状における見解となってる」
「――模倣犯?」
言葉を失う透に、更に声を落として占部刑事は続ける。
「そう……なぜかというと、丹羽芳郎の遺体にあった傷口と九澄優華さんの遺体にあった傷口がまるで一致しなかった……つまり、使用された凶器が異なるんだよ」
「…………」
「事件で使われた凶器に関する情報は、マスコミにも伝えていない機密事項なんだ。だから被害者が鋭利な刃物で刺殺されたことは分かっても、その刃物が何であるかまでは警察関係者と犯人以外は知り得ない事実となっているんだ」
「犯人が急に手口を変えたということは?」
「過去の事件を照らし合わせても、まずありえない。この手の事件の犯人というのは、自分の犯行方法に独特のこだわりというか、美意識を持っていることがほとんどでね。手口を変えた可能性は除外して間違いない」
「………そんな」
自分の住む町に、二人もの殺人者がうろついているなど、透には信じ難かった。
「二つの事件で使用された凶器が何かは……?」
「済まないが、そればかりは君にも教えるわけにはいかない。ぼくの首が飛ぶ」
それ以上は話すこともなく、透は占部刑事と別れた。
「……余計に混乱させられたな」
事件のややこしさに、透は藍色の空を仰いだ。連続猟奇殺人だけでも充分すぎるほどに厄介なのに、おまけに模倣犯まで現れては一学生に過ぎない透には、あまりに荷が重すぎる。
だが、透は最後の最後まで足掻き続けるつもりだった。その覚悟もあった。
「――ん?」
視線を感じた気がして、透は振り向いた。
「何だ……?」
背後には誰の姿もない。怪訝に思いつつも、透は喫茶店から離れる。
「おれもさすがに疲れてるのかもな……」
早めに自宅に帰ることにして、定食屋の脇にある細い路地を抜ける。その先の地下道を通れば、すぐに自宅が見える。
階段を降り、薄暗い地下道内を進む。反響する足音は、彼一人のものだけだ。
やがて、地下道の出口に続く階段が近づいてきた。
地下道の階段をのぼりかけた、そのとき――。
「っ!」
透は素早く振り返った。喫茶店の前での視線を、またしても感じた。
それも普通の視線ではない――一言で済ますなら、〈憎悪〉だった。
「――誰だ?」
地下道内に戻り、呼びかける。だがそこには人っ子一人いない。
それもそのはずだ――地下道内はひたすら直進で、人間が隠れられる場所などどこにもない。
「…………」
背筋が冷たくなった。それは地下道という空間のせいだけでは、決してなかった。
〈呪いのアドレス〉――とっさにそのことが、透の頭に浮かぶ。
「……馬鹿馬鹿しい」
口に出して呟くと、気分はいくらかマシになった。地下道内に背を向け、再び階段に足をかける。
「〈呪い〉なんて、そんなものがあるわけ――」
突然――背後から肩を摑まれた。
「――――っ!」
ぐい、と後方に強く引っ張られる。足が階段から離れる。
眼前に地下道の地面が迫り――透の視界は暗転した。
「――いってぇ……」
後頭部をさすりながら、透は上体を起こした。
「…………?」
透が目覚めたのは、地下道内のちょうど中央辺りだった。彼以外に誰もない。当然、肩を摑んだ何者かの姿も見えない。
自分の体に異常がないか、透は確認した。刃物らしい傷はおろか、頭を少し打ったぐらいで怪我らしい怪我もしていない。
「――? 生きてるぞ、おれ……」
てっきり殺人犯に襲われたとばかり思っていたため、拍子抜けするやら安堵するやらで困惑するばかりだ。
「なら、さっきのは誰なんだ? いったい何がしたかったんだ?」
相手の目的の見当がつかず、透はしきりに首を捻った。
――こつ、こつっ……。
「……?」
透が降りてきた方の階段から、足音が聞こえてきた。
――こつっ、こつっ、こつっ……。
誰かが階段を降りてくる。自分がいまだ地面に跪いた姿勢のままでいることに気付き、透は慌てて立ち上がる。
――こつっ、こつっ、こつっ、こつっ……。
服についた汚れを、両手で叩き落とす。
――こつっ、こつっ、こつっ、こつっ、こつっ……。
地下道内の地面に、相手の両足がつく。どうやら男のようだ。
男が、透の方を向く。こつっ、こつっ、と足音を響かせながらこちらに歩いてくる。
「…………」
既視感があった。男の風貌に、透は見覚えがある気がした。
歩きながら、男は右手を腰のベルトに差し込んだ。
透の本能が、男に対して危険を訴えていた。早くこの場を離れろ、全力で逃げろと喧しく喚き続ける。
伸びるにまかせた髪と髭のせいで、記憶の方に今一つ決め手に欠ける。頭の中から余分なものを取り払い、うまく記憶にある風貌に合わせていく。
男の右手で、きらりと光るものが見えた。
「――――あ」
ようやく、透は思い出した。だが、そんなことはありえない――あの男がここにいるはずがない。
この世に生きてはいない男だった。なぜなら男は自ら命を絶ったからだ。
「……樋口?」
その名前を口に出して呟いた瞬間――男が右手を振るった。
「――ぐっ!?」
反射的に翳した右腕に激痛が走った。大きく裂けた傷口から血が溢れ出した。
「……君、おれのことを知ってるのかい?」
大振りのナイフを右手に持ち、樋口潤平は口を開いた。
「まあ、知っていても不思議じゃないか。ワイドショーで目にする機会も多かっただろうし」
一人で納得し、樋口はうすら笑いを浮かべた。
「いきなり名前を呼ぶから、驚いて手元が狂ってしまったじゃないか。しなくてもいい痛い思いをすることになって、君もついていないな」
後退したとき、突き出されたナイフが右肩を抉った。鋭い痛みに、透は呻き声をあげた。
「抵抗しても苦痛が長引くだけだって分からないかな?」
呆れた口調で、樋口は言った。
「――んでだ?」
「……? 何だい?」
一端ナイフを下ろし、樋口は訊き返す。
「何で……姉貴を殺した?」
「……え?」
思わぬ質問に、樋口は呆気にとられた表情をした――だがすぐに大きく頷いた。
「ああ、そうか……君は梶谷深月ちゃんの弟か」
「そうだよ。おまえが殺した姉――」
「違うんだけどな、それ」
透の糾弾を、樋口は遮った。
「取り調べのときも裁判のときも散々言ったけど、おれは深月ちゃんを殺してない……どうせ信じはしないだろうけど」
「――なら、どうして姉貴のことを知ってた?」
「面識はあったよ、一度きりだけど。そのときに聞かされたってだけでいつの間にか容疑者扱いだから、本当に日本の警察は優秀だね」
皮肉の言葉とは裏腹に、吐き捨てるような口調だった。
「やってないなら、どうして自殺した?」
「どうしてか知りたい? そんなに聞きたいなら教えてあげるさ……」
いまや樋口の表情には、ありありと憎しみが現れていた。
「警察に容疑がかけられていると分かった途端、それまでこつこつと堅実に積み上げてきたものが、すべて崩れ去った。仕事も家庭もいっぺんに失った。どれほど声高に無実を訴えたところで、誰も耳を貸そうとしない……この世に絶望するには、充分な理由だろう?」
憑かれたように、樋口は喋り続ける。
「留置所の中で、おれは現実の何もかもを心の底から恨んだ。恨んで恨んで恨み続け――ついには自分という存在が、現実世界にいまだに留まっていることにすら我慢がならなくなって、気が付いたらここにいた」
「どういうことだ? おまえは死んだはずだ。何で生きてる?」
「それも間違いだよ。おれは確かに死んでる。自分で首を吊ってね」
「なら――」
「ここは現実世界じゃない」
「――何?」
「正確なことはおれにも分からない。それでもこの世界は、おれの願いを聞き入れた。どういう仕組みになっているのか、おれはここから携帯の電波を介して、かつての世界に恨みの種をばらまくことにした。そうしたら面白いほどメールが届いたよ。初めは思わず笑ったもんだ。こんなにも向こうの世界は醜い感情で満ちてるのかー―ってね」
右手のナイフを弄びながら、樋口は更に話す。
「おれが現実世界に干渉できるのは、返信者の恨みに応じたときだけなんだ。ここに標的を引き摺り込めば、殺すのに誰の邪魔も入らないし――」
そこで何かを思い出したかのように、樋口は、「ああ」と声を発した。
「そういえば、この間……もっとも最近になって殺した子なんだけど……」
樋口の言葉に、透の表情が強張る。そんな彼の反応に構わず、樋口は続ける。
「あの女の子、死ぬ直前に呼んでた名前って……あれって君のことかな? 梶谷くん」
「――――っ!」
透の視界が真っ赤に染まった。頭の中は強い憎しみで塗り潰され、相手が凶器を持っているのに対して、自分が丸腰であることが一瞬で吹き飛んだ。
血を吐かんばかりに叫びながら、透は樋口に殴りかかった。それが自殺行為であることに考えが及ぶほどの、冷静な判断力を失っていた。
左の脇腹を刺されたのと、透の右の拳が樋口の顔面を捉えたのはほぼ同時だった。
透は痛みをほとんど感じなかった。仰向けになった樋口に馬乗りになり、両の拳を何度も食らわせる―― 樋口の鼻骨が砕け、数本の歯が折れて宙を舞った。
「――あ……」
しばらくして、透は我に返った。その直後――忘れていた左脇腹の痛みが爆発した。
「ぎっ――あ……」
堪らず、地面の上に転がる。見ると、左の脇腹には、樋口のナイフが刺さったままだった。
「う……や、やばい、な……これ……」
躊躇いながら、突き出したナイフの柄を握る。深呼吸を繰り返した後――思い切ってナイフを引き抜いた。
「――――がっ!」
意志とは無関係に口から絶叫が迸った。手から離れたナイフが地面に落ちる。
「ぐ……う……」
血は止めどなく流れ、透の服をべとべとに濡らした。
「あ……」
思うように、体に力が入らない。全身で壁に寄りかかり、少しずつ移動して地下道の出口に向かう。
左脇腹の血は止まる様子がない。次第に呼吸も荒くなる。一刻も早く安全な場所まで離れ、救急車を呼ばなければ――。
「――人の話はちゃんと聞かないと駄目じゃないか、梶谷くん」
背後で、樋口の声がした。愕然とし、透は振り向く。
樋口の顔は、暴行の痕跡など跡形もなくなっていた。腫れた瞼も、潰れた鼻も、切れた唇も、折れた歯も、どこにもない。
「ここは現実ではなく、おれもすでに人間じゃないって言ったばかりだろう? 頭に血がのぼりやすいのは最近の若者にありがちだね」
溜息を吐き、地面のナイフを拾う。
「もう分かった? ここではいくら足掻いても無駄だってことを」
「――っ」
速度をあげ、透は出口に急ぐ。それに伴い、左脇腹の出血は一層ひどくなる。
「遅いよ遅い。そんな速度だと簡単に追いつける」
嘲笑うような声が背後から聞こえる。無視して、透は歩を進める。視界は霞がかかったようにぼやけ、足取りもおぼつかない。
出口に続く、階段の下に倒れ込む。全身を使って這いずるように階段をのぼる。
こんなところでは死ねない――姉と優華の顔が、脳裏を過る。奥歯を噛みしめ、いうことのきかない体を叱咤しながら出口を目指す。
殺されるわけにはいかない、まだ終われない――自分にはまだ、やり残したことがある。
「――ほら、捕まえた」
声とともに、樋口が透の腰を勢いよく踏みつけた。喉の奥から絞り出すような叫びが、透の口から漏れる。
「これで逃げられない――それじゃあ、終わりにしようか?」
ざくっ――肉が裂ける音を、透は聴いた。
これで本当に終わりなのか――無念な思いに、透はきつく目を閉じた。
――こつっ、こつっ、こつっ……。
遠ざかる足音が聞こえる。それはつまり、透の命がまだ肉体に宿っている証だった。
「…………?」
そっと目を開ける。やはり、自分はまだ生きている。
恐る恐る、透は背後を見る。
「――え?」
階段の下に、樋口が倒れていた。傍らにはナイフも転がっている。
「……何、で……だ?」
頸動脈を切断され、樋口の首からは血が噴水のように迸っていた。全身が断末魔の痙攣をしている――傷口は一向に癒える様子はない。
透が見ている前で、樋口は普通の人間と何ら変わらないまま、息絶えた。
「いった、い…どう、なって……」
そんな疑問とともに、透の意識は急速に薄れていった。
4
「……な、何で……何で?」
教室の自分の席に座り、小野寺和馬は携帯を握りしめていた。顔面は引き攣り、暑くもないのに額には汗も滲み、明らかに尋常な様子ではない。不審そうな視線を向けるクラスメイトの視線を気にする余裕すら、今の彼にはない。
「何で……何で、生きてるんだよぉ……」
和馬は混乱していた。あまりに理解不能な事態に直面し、頭が正常に働かない。
連続猟奇殺人犯に襲われた梶谷透は、重傷を負いながらも一命を取り留めていた。一連の事件における初めての生存者となった透が搬送された病院には、マスコミ各社が大勢詰めかけているようだった。
今朝のニュースでその報道が流れ、和馬は我が目を疑った。
何かの間違いだ、そんなことは有り得ない――和馬は必死に、その事実を否定しようとした。
〈呪いのアドレス〉に名前を送られた者が、生きていられるはずがない。ただの一つも例外は存在しない。
ニュースを見てから、和馬は何度も〈呪いのアドレス〉に透の名前の送信を試みた――だがその度にエラーメッセージが表示される有様だった。
「お、おかしいよ……どうしてだろう?」
九澄優華の名前を送信したときは、何の問題もなかった。それがなぜ今回に限ってうまくいかないのか、和馬の焦燥感が増すばかりだった。
九澄優華は、梶谷透に想いを寄せている――いつかの放課後、自分を放って透の後を追った優華を見て、和馬はそう悟った。透のことは、一年のときに同じクラスだったため知っていた。
クラス担任の注意に耳も貸さず、平気で学校には遅刻し、気分次第で授業も欠席をする、いい加減な生徒だった。よりにもよって、なぜあんな男を優華は選んだのか――とても彼女と釣り合うように思えない。もし透ではなく他の男だったとしたら、自分も潔く身を引くことができたかも知れないというのに、これではまるで納得がいかない。
梶谷透と九澄優華――二人に対する怒りが憎しみに転じるのに、そう多くの時間を必要とはしなかった。
そのうち〈ある人物〉から、和馬はいきなり声をかけられた。怪訝に思う彼をよそに〈ある人物〉は、自分の携帯に登録してある〈呪いのアドレス〉を、さりげなく和馬に教えてくれた。
そうして和馬はまず、透の前に優華の名前を〈呪いのアドレス〉先に送った。どちらが先でも構わなかった。ただこれ以上長く、彼女の姿を学校で目にする辛さに耐えられなかった。
正直、和馬は半信半疑だった。だがやがて現れた結果に、彼は〈呪い〉の実在に確信を得た。
すぐに透の名前も送ろうとしたが、それは思い止まった。慌てず慎重に、もう少し相手の反応を見てからにしようと、和馬は決めた。
そして昨日の夕方に、透が喫茶店で刑事らしき男と話しているのを見かけた。危機感を覚えた和馬は、急いで透の名前を、〈呪いのアドレス〉へと送信した。
これですべてが終わった――和馬は、そう信じて疑わなかった。
授業にもまともに集中できずに、和馬は放課後を迎えた。〈呪いのアドレス〉の効果が失われた原因も分からないままだった。
鞄を持って自分の席を立ち、和馬は教室を出ようとする。
「――小野寺くん」
帰りがけに呼びかられ、和馬は声の主を見た途端、自分の体が硬くなるのを感じた。
「あ……えっと、し、新海さん?」
「ちょっといい? 話があるんだけど」
険しい表情で新海尚美は言うと、誰の邪魔も入らない屋上へと和馬を連れていく。走って逃げる気も起きず、彼は項垂れて大人しく後に従った。
屋上に着くと、尚美は和馬に射るような視線を向けた。
「小野寺くん、今日はやけに携帯を気にしてたけど、何で?」
「な……」
「そのこともそうだけどさ、傍から見てもかなりおどおどして落ち着きもなかったし、どう考えても普通じゃないよね?」
「あ……いや……」
畳み掛けるように、尚美は和馬を質問攻めにしてきた。その場しのぎの言い訳を考える暇は与えないと言わんばかりだった。
「もしかして、梶谷くんの事件と関係あったりする?」
「な……ど、どうしてそうなるの?」
「だって、偶然とは思えないじゃん。これまで同じクラスでこんなこと一度もなかったし」
「…………」
「はっきり言うけどさ小野寺くん。あんたが〈呪いのアドレス〉を使って、優華を殺したんじゃないの?」
容赦なく詰め寄ってくる尚美に、和馬の目が泳ぎ出す。
「そ、そんなの……ぼ、ぼくはし、知らないよ……」
「知らないじゃなくて、違うならちゃんとあたしに納得できるように説明してくれない?」
「ぼくは……か、関係ないよ。そんなア、アドレスも知らない……」
「嘘……あんたのせいだ」
言葉を紡ぐ、尚美の唇が震える。
「去年、優華にフラれて……その逆恨みでやったに決まってる……許せない」
小心者である和馬は精神的に追い詰められたことで、もはや限界に達しようとしていた。
「き、き、君だってそうじゃないかぁ……」
「――え?」
「君だって、に、丹羽先生を、の、〈呪いのアドレス〉で、こ……殺したんだろぉ?」
どもりながら、和馬は喋り続ける。自分の口が勝手に動いているようだった。
「な、なのに……な、なん、何でぼくだけ責められるんだよぉ……お、おかしいじゃないかぁ……」
尚美の表情が、徐々に抑えきれない怒りで朱色に染まっていく。
「そうか……やっぱりあんただったんだ……」
低い声で、言葉を発した。
「も、もういいだろぉ? 勘弁し、してよぉ……ぼく、帰っていいよね? ぼく、もう帰るよ……?」
和馬は踵を返すと、そそくさと屋上のドアに向かった。
「……駄目」
尚美が呟いたが、和馬の耳には入らない。
和馬の右手が、ドアノブを握る。
「帰さない……絶対に」
屋上のドアを開けた、その僅かな隙間から――。
「――――あ」
白く細い手が伸び、和馬の右手首を摑んだ。
「――――ひぃっ!」
短い悲鳴をあげ、助けを求めるように背後の尚美を振り返る。
右手首が、凄まじい力で引っ張られた。必死の踏ん張りも虚しく、和馬はドアの隙間の向こうにある暗闇に飲み込まれていく。
和馬が現実世界で最後に目にしたのは、自分が手にした携帯を見つめている尚美の姿だった。
病室のドアが遠慮がちに数度、ノックされた。梶谷透がその音に応じると、静かにドアが開かれる。
「――やあ」
現れたのは占部岳彦刑事だった。連日の捜査のためか、表情には疲労の色が濃く滲んでいる。
「どうも……」
透は軽く頭を下げて挨拶をする。
「ここにくる前に君の担当医から話を聞いたんだけど、来週中には退院できるらしいね。後遺症の心配もないとのことで、何よりだよ」
ベッド脇のパイプ椅子に、占部刑事は腰かけた。
「まあ……不幸中の幸いってやつですね」
占部刑事の視線を避けるように、透は窓の外に目をやった。
いたしかたないとはいえ、透は占部刑事に対し、少なからず罪悪感を覚えていた。そのため、どうにも彼の顔を直視できない。
占部刑事が最初にこの病室にやってきたとき、透は一つの嘘を吐いていた。それは自分が襲われた際に、犯人の顔をよく見ていないというものだった。地下道の薄暗さに加え生き延びることに必死で、それどころではなかったと説明をした。占部刑事はその話を聞き、納得したのかしてないのか、どうにも微妙な表情でしきりに相槌を打っていた。
まさか死んだはずの樋口潤平が自分を殺そうとしたなどと、そんなことを言えるはずがない。
「君さえ犯人の姿を覚えていてくれたらよかったんだけど……」
溜息交じりに呟く占部刑事の声が、まるで自分を責めているように聞こえる。
「――占部さん」
視線を窓の外からはずして、透は問いかける。
「三年前の、姉貴の事件ですが……」
思いもよらぬ言葉に、占部刑事は怪訝な顔をした。
「あの事件で……樋口が実は、冤罪だったという可能性はありませんか?」
「――何だって?」
占部刑事は、透の質問の意図を測りかねている様子だった。
「今頃になって、なぜそんなことを?」
「深い意味はないですよ……ただ、ふと気になっただけで」
透にじっと視線を据えて、占部刑事は答えた。
「樋口の……あの男の犯行を覆すような事実は、当時も今も何一つとして存在しない」
「やけに遠回しな表現ですね。あいつの犯行で間違いないって言い切ればいいのに」
突然、占部刑事の懐で携帯が鳴った。彼は慌てて携帯を手に病室を出る。
「病院では、携帯の電源を切ってください」
廊下で聞き咎めた看護師が強い口調で抗議する声とともに、ドアが閉ざされた。
数分後――ドアが開き、占部刑事が病室に戻ってきた。
「……何か、あったんですか?」
思わず透がそう訊ねるほど、戻ってきた占部刑事の顔色は青ざめていた。
「……まただよ」
「……また?」
「また……やられたよ」
占部刑事の口調は陰鬱だった。
「また被害者が出た……しかも今回も、君の学校の生徒だよ」
「誰ですか?」
深く息を吸い、占部刑事は重々しく口を開いた。
「小野寺……和馬くんだ」
5
翌週の水曜日に、梶谷透は退院した。扱い慣れない松葉杖での登校は、段差や階段の昇降に相当の労力を要した。
教室では予想通り、小野寺和馬の事件の話題で持ちきりだった。学校関係者が立て続けに三人も犠牲になるというのは、さすがにただ事ではない。これはすでに〈無差別的〉な猟奇殺人とは呼べず、犯人の明確な意図が透けて見えるようだ。皮肉なことに、九澄優華が二人目の被害者となったことで、新海尚美に疑いの目を向ける生徒は誰もいなかった。
だが、透はそうではなかった。身を持って体験したことで連続猟奇殺人と〈呪いのアドレス〉の繋がりを信じざるを得なくなった。
樋口潤平が死んだ今、彼のアドレスは使えないはずだ。そうなると、和馬のときに使用されたのは、あのときに樋口を殺した人物のアドレス以外に考えられない。
〈呪いのアドレス〉は、もともと二つ存在した――それが透の出した結論だった。
それなら、いったい誰が和馬の名前を〈呪いのアドレス〉に送信したのだろうか。この学校で彼に恨みを抱いていそうな人物はいるのだろうか。
透はそこで、生前における優華と和馬の遣り取りが脳裏を過った。思い返すにあれは和馬が一方的に優華に好意を持ち、かつては彼女に告白したがあえなく玉砕し、それでもなおしつこく交際をせがんでいる様子だった。
「――なら、もしかすると九澄は……」
つい思考が短絡的になるのを戒めるように、透は自分のこめかみを拳でこづいた。和馬が〈呪いのアドレス〉を用いて、樋口に優華を殺させたなど、ただ推測の域を出ない。
だが、彼女の場合もそうだとは限らない――尚美は自分で優華に恨みを抱いていた人物を捜すと言っていた。優華と親友だった彼女なら、以前に和馬のことが話題にのぼったことがあるかも知れない。もしそうなら、尚美の方から彼に接触した可能性も充分に考えられる。
当然、尚美も最初は普通に話し合うつもりだったはずだ。だがそこで、あの弱気な和馬が彼女に気圧され、自分のしたことだと認めたとしたら――。
どうにも予想が嫌な方に向かってしまう。いずれにしろ直接、尚美に確かめれば済むことだ。
そうとなれば、人気の少なくなった放課後に尚美を呼び出そう――透はそう決めた。
ロングホームルームの終了を待ち兼ねた生徒たちが、堰を切ったように廊下に溢れ返る。彼らの注目を浴びないように、透はD組から少し離れた廊下の窓際で、尚美が教室から出てくるのを待っていた。
だが――廊下の人気がまばらになっても、尚美はなかなか姿を見せない。
「……何やってんだ? 新海のやつ」
階段を降りるなら、必ず透の前を通るはずだ。彼がうっかり見逃したということも有り得ない。
生徒たちが廊下からいなくなるのを見計らって、透はD組に向かった。
廊下に面したD組の窓から中を覗く。空席ばかりとなった教室内に、ぽつんと尚美の姿だけが見えた。
どうにも、尚美の様子はおかしかった。ドアを開いて、透はD組の教室に入る。
「……ん? ああ、梶谷くんか」
透に気付いた尚美は、ひどく思い詰めた表情だった。心なしか、顔色も悪い。
「新海、おまえ……」
透は口を開いたものの、その先の言葉をどうしても発することができなかった。今の尚美を見れば何かあったのは一目瞭然だった。
「あたし、小野寺の名前をここに送った」
手元の携帯を翳し、尚美は言った。透の悪い予感は的中した。
「……なら、あいつが?」
「そう、優華の件はあの男の仕業だった」
透の推測通りだった。だが彼はそんなことは少しも望んではいなかった。むしろ外れていてくれた方がよかった。
「でも証拠はないんだけど……そもそも〈呪い〉で人を殺したとか、誰も相手しないし」
尚美は話を続ける。
「小野寺のやったことを裁く法律なんてないからね。だからといって、あいつがこれからも何の罪も背負わず、のうのうと生き続けることを思うと……とてもじゃないけど、あたしは耐えられない」
歯を食いしばる、尚美の肩が震えた。
「誰も何も裁けないなら……あたしがやるしかないじゃない」
机の上に、点々と涙の雫が滴り落ちる。
重苦しい沈黙の後――尚美が自分の携帯を、透に差し出した。疑問に思いつつも受け取って見ると、メールの送信画面になっている。
「……何のつもりだ?」
「あたしの名前……〈呪いのアドレス〉に送って」
「――っ!」
透は両目を見開き、尚美を凝視した。
「今度はあたしが罪を償わないと……情けないけど勇気がなくて、自分じゃできないんだ。だからさ、梶谷くんがやってくれない?」
「ふざけるのもいい加減にしろよ」
机に尚美の携帯を放り出し、透は彼女を睨み付けた。
「前に言わなかったか? おまえが死んだところで九澄は――」
「じゃあ、あたしにどうしろって言うのよっ!」
尚美は机を両手で叩き、叫んだ。
「こうするしか他に方法はないじゃない! あたしは自分のしたことを、どうやって償えばいいの!?ねえ、教えてよっ――知ってるなら教えてよっ!」
泣きじゃくりながら、尚美は透の両腕を摑んで揺さぶった。
「自分のしたことが、怖くって苦しくってしょうがないのにっ――なのに罰を受けることもできないの!? おかしいでしょそんなことっ? 人が死んでるんだよっ――あたしは許されたらいけないんだよっ!」
声が枯れるほど訴える尚美の姿を、透はしばらく見つめていた。
「そうだな……新海の言うことはもっともだ」
尚美の言葉が途切れるのを待ってから、透は口を開いた。
「おれも、おまえのやったことが許されていいとは思わない」
自分の腕から、尚美の手を引き剥がす。
「……けどな、死んで償うなんて一番卑怯な手段だ」
九澄優華は透にとって、大切な存在になっていた。彼女には将来の夢もあった。だが、樋口潤平によってすべてが奪い去られた――そして、その樋口はすでに死んでしまっている。懺悔を求めることすら、もはや叶わない。
「死ねばそれでお終いか? おまえの意見なんて知ったことか。それは新海にとって、より手っ取り早く楽に償える手段なだけだろ? 今が苦しいって言ったよな? だったらもっと苦しめ。息をするのも辛くなるほど苦しめよ。おまえが生きている限り、寿命が尽きるまで自分を責めて苦しみ続けろ――」
肺腑からマグマのような憤怒が、止めどなく溢れ出した。
生きる苦痛が耐えられないなどと、それでよく贖罪などと言えたものだ――犠牲となった人々はみんな、もっと生きていたかったはずだった。この世でやり残したことも、数え切れないほどあったはずだった。自分で死にたいなどというのは、いかに彼らを貶めることであるか、どうして理解できないのか――そんな透の感情のすべてが、彼の言葉に込められていた。
尚美は机に突っ伏し、啜り泣いた。その嗚咽を聞きながら、透は彼女が落ち着きを取り戻すまでの間、決してその場を離れなかった。
短くない時間が経過して顔をあげた尚美は、涙で濡れた自分の顔をハンカチで拭った。
「……ごめん、あたし……どうかしてた」
鼻声で尚美は言う。
「冷静に考えれば……あたしの償いなんだから、あたしにとって一番辛い方法じゃないと意味がないよね……」
「当然だろ、そんなの」
透は言い放つ。
「……あんた、容赦ないね」
尚美は一つ、大きな吐息をついた。
「……まあ、あたしがいけないんだけど。手間かけさせて、本当にごめん」
「構わない。おれの時間なんて有り余るぐらいだからな」
「あたし、この通りいろいろと駄目だからさ……また迷惑かけるかも知れないし……」
「いや、そこはもっと頑張ってくれよ……」
透は口元に微苦笑を浮かべた。
「……けど、それでも無理そうなときは、いくらでも協力するさ」
尚美はその言葉に頷き、「ありがとう」と呟いた。
「ところで外が暗くなってきたから、そろそろ帰らないとな……もう大丈夫か、新海?」
「うん平気……あと、梶谷くんがここまで本気で怒ってくれたのって、それだけ優華のことを想ってくれてたってことだよね……あの子の親友として、ありがとう」
「いや、おれは別に――」
それに優華のことだけではない。自分の姉のことも――。
「――――?」
透はそのとき、何か引っかかった。いうなればそれは既視感に似たものだった。
「――なあ、新海……」
「何?」
「おまえの携帯……さっきの〈呪いのアドレス〉だけど、もう一度だけ確認させてもらっていいか?」
「……いいけど?」
「悪いな」
尚美から携帯を借り、先ほど目にしたメール画面を呼び出す。
〈呪いのアドレス〉が、透の視界に飛び込む。
「――――え?」
透は急いで自分の携帯を取り出し、ずっと削除できずに登録されたままになっていた、あるアドレスと、〈呪いのアドレス〉とを比べる。
次第に、透の顔から血の気が失せていった。松葉杖が音高く床に倒れる。
「――? ちょ、ちょっとどうしたの?」
異変に気付いた尚美の呼びかけも、まるで透の耳には入らない。
「な……何でだ?」
透は〈呪いのアドレス〉から、目を離すことができなかった。呟く声も震えている。
もう一つの〈呪いのアドレス〉――その持ち主がはたして誰なのか、透には分かってしまった。
それは三年前に死んだ透の姉――梶谷深月が生前に用いていたアドレス、そのものだった。
6
自分の中で整理ができるまで時間が欲しい――その後にすべてを話すと梶谷透が伝えると、新海尚美は釈然としない様子を見せつつも、渋々納得した。二人は揃って教室を出たが、透は用を足すためにトイレに向かい、尚美だけを先に帰した。
男子トイレの個室に入ると、透はすぐに制服のポケットから携帯を出し、アドレス帳を呼び出した。
用を足すというのは、ただの口実に過ぎなかった。透がこれからしようとすることを知れば、尚美は何としてでも食い止めようとするはずだ。罪悪感はあるが、これ以上は彼女を巻き込み、危険に晒すわけにはいかない。
姉の深月が二つ目の〈呪いのアドレス〉の持ち主だとすると、透が樋口潤平に襲われた際に彼を救ったことにも説明がつく。だが三年前に死んだ姉が、なぜ丹羽芳郎や小野寺和馬、または彼ら以前に犠牲となった人々を手にかけるに至ったのか――そればかりは、直接本人から聞き出さない限り解けることのない疑問だった。
姉と会って、一連の猟奇殺人の真相をすべて問い質す――そのために残された唯一の手段が、透が持つ携帯に登録されている、彼女のアドレスだった。
透は自己犠牲に殉じる気は毛頭ない。だからといって更に〈呪いのアドレス〉による犠牲者が増えていくのを黙って見過ごすつもりもない。深月の犯行を止めることは、彼女の実の弟である自分にしかできないことだ。危険は伴うだろうが、事件を終わらせるにはこれしか方法は残されていない。
メール画面を開き、本文に自分自身の名前を打ち込んでいく。
最後に一度だけ大きく深呼吸をして――透は姉のアドレス先にメールを送信した。
「…………」
個室のドアに寄りかかり、軽く目を閉じる――全身に纏いつく空気が、冷たさを増していく気がした。
そのまま待っていると、どこからか鼻歌が聞こえてきた。透は目を開けると、個室から出た。
暗くなった廊下を、自分の耳を頼りに鼻歌が聞こえる方へ進む。窓の外はすっかり闇夜が支配していた。
《三年A組》の教室――その中に、鼻歌の主はいる。静かに開けるつもりが、横開きのドアは想像以上に喧しい音を立てた。その音に鼻歌が途切れる。
開け放たれた教室の窓縁に腰かける、制服を着た少女の後ろ姿が見えた。
「……姉貴」
呼びかける透の声に応じて、少女が振り返る――三年前までと何ら変わらない容姿の、梶谷深月が笑いかけた。
「ようこそ――久しぶりね、透」
窓から降りて、深月は朗らかに歓迎の意を示した。
「それにしても三年は長すぎるわね。おかげでこっちは気が狂いそうだったわよ」
「…………」
「とにかくまたこうして会えたのは嬉しいわ……そんなところに立ってないで、こっちへ来て座りなさいよ。積もる話もあるでしょう? お互いにね」
「ああ……そうだな」
同意し、透は深月から視線を逸らさずに教室に入り、彼女からなるべく離れた――それでいて会話をするのに支障のない席から椅子を持ち出し、腰を下ろした。
「……つれない態度ね、別に取って食おうってわけじゃないんだから。あなたに危害を加える気があるなら、そもそも樋口から助けたりしないわよ」
不満そうに、深月は唇を尖らす。
「――なら、何で今回はおれのメールに応じた?」
警戒は解かずに、透は訊ねる。
「愚問ね。あなたはわたしに用があって、わたしの方もあなたに用があったから――それだけのことよ」
「姉貴の用っていうのは何だ?」
そこで深月は、透にとって予想もできないことを口にした。
「ここで、わたしと一緒に暮らさない?」
「――は?」
「だから現実のことなんて忘れて、この世界にずっといればいいのよ。ね、そうしましょう?」
「冗談を言ってるのか? 姉貴」
「わたしは本気よ? ここなら他に誰もいない、余計な邪魔もなく二人きり、姉弟水入らずの時間をいつまでも過ごすことができるのよ? それって、とても素敵なことじゃない」
陶酔し切った深月の表情に、透は自分の背筋が粟立つのを感じた。
外見こそ三年前までと同じだが、今目の前にいる深月は、透の知っている姉とはかけ離れている。実の姉の本性を、彼は初めて目にしていた。
「お父さんもお母さんも先生も、ちゃんとわたし自身を見てくれた人はいなかった……あなただけよ、透? わたしと本気で向き合ってくれたのは。わたしには透さえいればいいの」
「……でも姉貴は、家を出るつもりだっただろ?」
「それはそうよ。いくら何でも、あんな両親がいたんじゃ白けるだけよ。実家からはできるだけ離れたところにアパートを借りて、いつかはあなたを呼んで一緒に住むつもりだったの。透だって、いつまでもあの家にいるなんて嫌なんじゃないの?」
言葉を交せば交わすほど、透には自分の姉が、まるで違う存在に変貌していくような気がした。彼に対する深月の愛情は、すでに家族という一線を超えている。
深月が透に近寄る――だが彼は姉の異常性に触れたショックのためか、金縛りにあったように身動きができない。
「透……」
深月は透の頬を両手で挟み込んだ。
「姉貴、何をっ――」
抗議しかけた透の口を、深月は自分の口で塞いだ。粘っこい姉の唾液が、透の口内に広がる。
「――――っ!」
驚愕に目を見開く透に構わず、深月は更に舌まで入れてくる。
「――――やめろぉっ!」
透は全力で姉を突き飛ばした。手の甲で口を何度も拭う。床に腰を強かに打った深月だが、口の端に残った唾液を舐めとると、艶然と微笑んだ。
「……これまでも何人かとしたことがあるけど、やっぱりあなたが一番ね、透」
深月は立ち上がり、スカートの汚れを払った。
「……何? 今、何て言った?」
透は、思わず聞き返した。
「どういう意味だよ……まさか……」
「ちょうど学校の友達にね、そういうのに詳しい子がいたのよ……わたしがお金を必要としていることを相談したら誘われてね。一回だけのつもりが思いのほか実入りがよくて、そのままずるずると続けちゃったの」
明言はしなかったが、透には深月が言わんとしていることがすぐに分かった。
「援交……したのか、姉貴」
根も葉もない噂だと信じていた。姉がそんなことをしていたなんて考えたくもなかった――だが当の姉自身の口によって、透のそんな思いは打ち砕かれた。
「何でなんだ? 姉貴……何でそんなことを……」
「あなたとの生活のためなら、わたしは何だってやるわよ。他のことなんて、どうでもいい」
熱っぽく語る深月に、後ろめたさは欠片も見えない。
「樋口と知り合ったのもそのときよ。わたし、あの男と一度だけ寝たことがあるの」
かつて樋口自身の口から、透が聞かされたこととも辻褄が合う。だが、まさかそんな形で面識があったとは思いも寄らなかった。
「結局バレちゃって何もかも失って……本当に哀れな男。わたしも責任を感じないではなかったから、彼をこちら側に引き入れてあげたの。もっとも、あの男は最期までわたしの存在に気付かなかったみたいだけど」
どうでもいいことのように、あっさりと深月は喋った。それは彼女自身が〈呪いのアドレス〉による一連の事件における元凶だという告白に等しかった。
「わたしも後悔はしているのよ? もっと早く、適当なところであのバイトを辞めておけばよかったってね。そうすれば死なずに済んだわけだし」
「姉貴が殺されたことに、援交が関係しているのか?」
「透ったら、あまり援交援交って口にしないで。わたしが遠回しに言ってる意味がないじゃないの」
「いいから、どうなんだよ? 誰が姉貴を殺したんだ?」
透は問い詰める。
「誰って……透もよく知ってる人よ?」
「だから、誰だって――」
「真壁先生よ。真壁倫子先生」
これもまた、思いのほかあっさりと深月は言った。
「――――は?」
透にとってみれば、その名前は完全に想像の範疇を超えていた。
「真壁って……おれのクラスの担任だぞ? それがどう関係するっていうんだ?」
「あの先生、わたしのときにも担任だったのよ」
深月は眉間に皺を寄せた。三年前のことを思い出そうとしているためか、その記憶があまりに忌々しいためなのか、判断がつかない。
「前に夜中にお客さんといるところを見られて、あの日に先生から呼び出しを受けたのよ……さすがにこれはまずいと思ったわ」
当時を鮮明に思い出したのか、深月は苦々しい顔つきになった。
「このことが広まれば、わたしの進路に響く……そうしたらわたしの夢は叶わない。だからわたしは呼び出された喫茶店にハサミを隠し持って行ったの。でもそのときはまだ、決断はしてなかったのよ」
一呼吸おいて、深月は続けた。
「明確な殺意を抱いたのは、真壁先生から実際に問い詰められてからよ。あのときは目の前が真っ暗になったわ。それですっかり外が暗くなった帰りに先生の後をつけて、人気がなくなる場所を通るのを待った。そしてわたしは、ハサミを手に先生を襲った――」
「…………」
「でも、すぐに先生に気付かれて避けられた。それからわたしの手首を摑んでハサミを奪おうとして、二人で揉み合っているうちに転び――その拍子にハサミの刃が、わたしの首に刺さったのよ。運悪くそこが頸動脈で、錯乱した先生がハサミを引き抜いたせいで血が一気に噴き出したのを見て、わたしはもう死ぬんだと分かった。将来の夢のために、いろんなものを犠牲にした結果がこれなんだと思うと、何もかもが憎くて堪らなくなって――今に至るというわけよ」
深月はそこまで一息に喋ると、口元を歪ませた。
「それにしても、本当に人間ってろくでもないわね。わたしの放った餌に、ああも容易く食いつくんだから」
「……もういい、これ以上は聞きたくない」
透は首を左右に振った。
「最初から、姉貴のせいだったんだな。九澄も死んだのも、全部……」
「九澄さん? もしかしてその子、透の彼女か何かだったの? だとしたらそうね……確かに残念だわ」
本気で悔んでいるのか、深月の声は震えている。
「……先に分かっていたら、わたしが自分で殺してやりたかったわ」
ぞっとするほど、憎悪のこもった声音だった。
「わたしの弟に手をつけるなんて……絶対に許せないわ。まったく、どうせならわたしにメールをくれればよかったのに。そうしたら簡単に死なせたりはしない。たっぷりと時間をかけていたぶって、恐怖と苦痛と屈辱を極限まで味あわせてあげる」
自分の妄想の世界に浸っているのか、深月は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「透もいけない子ね。わたしという姉がいながら、よその女に現を抜かすなんて……でもいいわ、特別に許してあげる。今こうしてやっと、あなたに会えたんだから」
そこには、かつて透と同じ屋根の下で暮らし、お互いの長所も短所も知り尽くしていると思っていた深月の姿は、微塵も残されていなかった。
あまりにも身勝手な理屈を並べ立てる実の姉を目の当たりにした透の中では、怒りよりも悲しみの感情が多くを占めていた。
「……そうか、結局……おれを騙していたのか」
「ん? 何のこと?」
「高校卒業後の進路……介護士になって人の役に立ちたいっていうのは、姉貴のただの口実だったのか?」
三年前――あの日の春の記憶が蘇る。
――誰かの助けになれる仕事に就くことは、わたしの小さい頃からの夢なんだから。
そう言った深月のはにかんだような笑み――もっとも印象深く、かけがえのない思い出だった。それが今、当の姉の手によって穢されていく。
「心外ね、嘘を吐いた覚えはないわ……福祉に興味があったのは事実よ」
「……でも結局、真剣じゃなかったんだろ? 天職だって、おれに話してくれたのに……」
あのときの言葉を、透は本気で信じていた――陰ながら応援していた。だがその思いはすべて裏切られた。
「姉貴の頭は、自分のことだけでいっぱいなんだな……おれの気持ちを考えることもしない」
軽蔑を込めた視線を、透は姉に向ける。
「……どうして、そんな目でわたしを見るの?」
透の態度に、深月は初めて怒りを露わにした。
「透まで、わたしを拒絶するの? わたしのありのままを認めてくれないの?」
「…………」
「――そう、透はわたしとここにいる気はないのね? だったら……」
深月の右手で、ハサミの刃が光った。どこの文房具店にでも売っている、ごく有り触れたものだ。
「また離れるくらいなら、いっそのことあなたを殺すわ……大丈夫よ、わたしも後を追うから」
近づく深月から逃れようとし、透は椅子から転げ落ちた。松葉杖なしでは満足に動けない。
顔をあげた透の喉元に、ハサミの刃が触れた。
「……ほらな、やっぱり」
怒りの形相で見下ろす深月に、透は冷ややかに言う。
「自分の思い通りに行かないと、すぐにそうやって癇癪を起す……だから言っただろ? 姉貴に介護は無理なんだよ」
「――っ」
ハサミを握る深月の手に力が入り、尖った先端が喉に食い込んだ。わずかに皮膚が切れ、血が滲む――だが、そこまでだった。
ぎりぎりと、深月は歯を食いしばっていた。ハサミを持つ手は小刻みに震えている。
「ああっ――もうっ!」
深月は叫ぶと、右手のハサミを投げ捨てた。
「何でこんなことになってるのよっ? どこで間違ったのよ? わたしの何が悪かったのよ? ねえ、透っ? わたしは誰よりあなたのことをっ――」
「気持ち悪いんだよ、正直」
透は、そう吐き捨てた。
「おれをそんな、姉貴の特殊な趣味に巻き込むなよ。迷惑だ」
透の台詞が信じられないかのように、深月は口を半開きにして固まった。
「……さっきから憎いだの許せないだの、何を言ってる? すべて姉貴の自業自得だろうが? 勝手に自滅したくせに、逆恨みもいいところだな」
「…………あ」
深月は呆然と透を見つめる。
「そもそも、金欲しさに平気で他人に体を売るようなやつ、彼女としても願い下げに決まってるだろ?」
「う、う…………」
深月の瞳から、次第に涙が溢れ出していく。
「ひ、ひどいわ……透。わたし、わたしだって、辛かったのに……で、でも頑張って……がん、頑張ったのに……そんな言い方、しなく……ても……」
表情を歪め、深月は顔中を涙と鼻水で濡らしながら訴える。
「何も姉貴だけが特別じゃない……みんな頑張ってる」
一転して言い聞かせるような透の口調だった。
「これまで姉貴が手にかけてきた人たちだって……辛いことがあっても、みんな頑張って生きていたんだ」
その言葉に、深月は透を見上げた。
「ああ……殺すって、そういうこと」
深月はぼそりと呟いた。彼女はようやく、自分の行動を客観的に認識した様子だった。
「そんなひどいことするなんて……わたしは何て最低な女……透に相応しくないわね」
「…………」
「人殺しは……罰を受けるべきよね」
「……そうだな」
「でもそれには、ひとつ問題があるわ……」
「分かってる。姉貴の罪を裁ける法はない」
「償うって、難しいわね……」
「その方が姉貴にとって、償い甲斐があるだろ?」
「償い甲斐って、変な言い方……でも、その通りよ」
薄く微笑を浮かべた深月は、紛れもなく透の知っている姉そのものだった。
深月は立ち上がると、自分の携帯を取り出した。それから、折り畳み式のその携帯を開く。
「――いったい、何を?」
訝しげな透に対し、深月は微笑んだままだった。
「見ていて、透……わたしが自分に下した罰を」
言った直後――深月は自分の携帯を、真っ二つにへし折った。
「姉貴っ!?」
透は思わず驚きの声をあげた。深月は手に残った携帯の残骸を、窓の外に放った。
「……これでもう、わたしと現実世界との唯一の繋がりが途絶えたわ」
そう口にする深月の表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「後はあなたが戻ったら、わたしはここで一人きりになる……これからは終わりのない時間を、この閉じた世界で過ごしていくわ」
「……それでいいのか、姉貴?」
愚問と知りつつ、血を分けた肉親として、透はそう問わずにはいられない。
「ええ……ここからわたしの、本当の贖罪が始まるのよ」
何の迷いもない、その答えが――透が訊いた、姉の最後の言葉だった。
7
梅雨入りの季節を迎えた町の空は、今日も気が滅入りそうな雨雲に覆われていた。激しさを増す降雨は、頭上に差した女の傘を、耳障りに叩き続ける。
校門を出て、女は商店街に足を向ける。普段は日用品や食料など、自分の生活にとって必要なとき以外は滅多に寄り道をすることはない。
だが――今日はいつもとは事情が違う。重要な件で人と会う用事があった。
目に見えて、女は緊張していた。心臓の鼓動が、雨音と同じくらいに早鐘を打っている。
すぐにでも引き返したかった。だが今日という日を先延ばしにしたところで、遅かれ早かれまたこの問題と向き合うはめになることは明らかだった。
いつまでも隠し通せるはずがないとは、うすうす感じてはいた――それでも女は、今の生活を失うことに、誰よりも恐怖していた。
無情にも時間は進み、待ち合わせ場所との距離が近づき――女はベージュを基調とした外観の、小洒落た喫茶店の前で足を止めた。
視線は自然と、歩道に面した喫茶店の窓に向かう。そこに女が会う予定となっている人物が、一人で座っているのを確認した。
それは女とは一回り年の離れた少年だったが、その姿を目にする女の目に、怯えの色が見える。
梶谷透というのが、待ち合わせしている少年の名前だった。
三年前に女――真壁倫子教諭が自らの手で殺害したかつての教え子、梶谷深月の実の弟だった。
『将来の夢』と題された小学校の作文を、真壁教諭は今でも大切に保管している。当時から彼女は教師という職業に強い憧れを抱いていた。
理想を現実に替えるためには一切の手抜きを許さず、真壁教諭は寝る間も惜しんで勉強に励んだ。そしてそれが彼女の、青春時代のすべてだった。
念願が叶い、教員資格免許を取得したときの達成感といったら言葉では到底言い表せないほどだった。
そんな真壁教諭だからこそ、自分が受け持つクラスにいた梶谷深月が、何やら良からぬアルバイトをしているという事実は、教師という仕事に誇りを持っている彼女にとって、決して看過できることではなかった。
今となって、真壁教諭は後悔をしていた。あのとき自分の信念を曲げてでも、見て見ぬ振りさえしていればよかったのに、と。まさか深月が、口封じのために自分を殺そうとするなど思いもよらなかった。
正当防衛だった――抵抗しなければ自分が死んでいたのだから、仕方がなかった。だが学校側はその限りではない。ただでさえ保護者たちの理不尽なクレームに頭を悩まされ、神経過敏になっている上に今回の事件が公になれば、自分は確実に職を追われる――それだけは何としてでも避けなければならない。
そもそも、自分の方には何一つとして非はない――むしろ悪いのは、保身のために短絡的な行動に出た深月の方だ。自分はあくまで被害者だ。だから責任をとる必要などない――真壁教諭はそう考えるに至り、凶器のハサミを処分することで証拠隠滅を図った。
やがて、樋口潤平が冤罪で逮捕されたと知った際は、さすがに良心が痛んだ。それでも自首するわけにはいかなかった。真壁教諭には何としてでも、現在の立場を守らなければならなかった。
それから一年後――真壁教諭にとって予想だにしない事態が起こった。深月の弟の透が、よりにもよって姉と同じ高校に進学したのだ。その容姿もどこか深月の面影を感じさせる透の存在は、まるで暗黙のうちに自分の罪を糾弾しているように思え、彼女は生きた心地がしなかった。
更に悪いことは重なり、真壁教諭は透が三年になったとき、彼のクラスを任されるようになってしまった。拒むにもそれ相応の理由を説明できず、彼女は結局、毎日に渡って透と顔を合わせなければならなくなった。彼の一挙手一投足が気にかかり、ついには心労で体調を崩すこともあった。やがて透の遅刻や欠席が目立ち始めたのは、真壁教諭には願ったり叶ったりだった。だからといって黙認すると返って怪しまれると思い、最初のうちに形だけの指導をするに留め、後は好きにさせることにした。
だがそこに、余計なお節介をする女子生徒が現れた――クラス委員長の、九澄優華だった。彼女はなぜか再三に渡り、透を真面目に授業へ参加させようと目論んでいた。優華がそこまで彼に心を砕く理由は分からないが、その行為に当面は大した効果が見られないと判断し、真壁教諭は彼女が断念するまで様子見に徹することにした。
そんな自分の見通しの甘さを実感したのは、透がそれまでの自分の行いを改め、朝のホームルームから遅れることなく授業に出るようになってからだった。優華が彼をどう説得したのかは、真壁教諭の与り知らぬことだが、彼女はこれからの日々を思うと、暗澹たる気持ちに囚われた。
そんな折――真壁教諭の携帯に、〈呪いのアドレス〉が届いた。
最近、生徒間でその噂が流行っているらしいとは耳にしたことがある。だが実際に自分のところに来てみると、ただの迷惑メール以外の何物でもない。
それでも真壁教諭は、そのメールをすぐに削除することはしなかった。今になって思い返しても、その理由は判然としない。あえて言葉にするなら、そのときにすでに、何らかの予感に似たものがあったのだろう。
そしてその予感は、悪い方に的中した――丹羽教諭殺害事件の際、朝の校門前で、透が一人の刑事と言葉を交しているしているところを、出勤時に偶然にも目撃してしまったのだ。距離があったため詳しい会話内容までは聞こえなかったが、お互いの様子から、どうやら顔見知りらしいことは分かった。
かつて自分がその手にかけた教え子の弟が刑事と繋がっている――ただでさえ精神的に不安定になっていた真壁教諭にとっては、その事実だけで充分なほど、透の存在が現実的な脅威となり得た。
だが、いくらなんでも殺人を犯してまで自分の立場を危うくするわけにもいかない――そこで真壁教諭の脳裏に浮かんだのが、以前に自分宛に送られた〈呪いのアドレス〉のことだった。世間を騒がせている連続猟奇殺人事件とも、どうやら深いお関わりがあると噂されているようだが、そんな眉唾な存在は信じてはいなかった――信じてはいないものの正直、彼女には藁にも縋りたい状況だった。
それでもやはり真壁教諭は、間接的とはいえ自分の教え子を、猟奇殺人犯の手に渡すことは気が咎めた。そこで彼女にとって幸運だったのは、小野寺和馬の存在だった。
きっかけは授業時に和馬が提出したノートの余白に、当の透に対する恨みつらみが殴り書きされているのを見つけたことだった。書いた本人ですら、その存在を忘れてしまっているのだろう。普段は大人しい生徒なために意外な気持ちもあったが、それだけ内に溜め込むものも多かったのだろう。
渡りに船だと思い、真壁教諭はすぐさま和馬と接触した。そこでなるべく何気なさを装い、タイミングを見計らって〈呪いのアドレス〉を彼に教えた。所詮は噂であり、たとえ透が死んだとしても、明確な因果関係はなく、自分が罪悪感に囚われる必要もない――そう自分に言い聞かせた。
まさか和馬が、梶谷透ではなく九澄優華を対象として選ぶなど、思いもしなかった。
やがて透がなぜか九死に一生を終え――和馬が死んでから以降、どうやっても真壁教諭の〈呪いのアドレス〉は送信エラーとなり、使えなくなった。そうして彼女がとれる、唯一の手段は絶たれた。
「――この場所、覚えてますか?」
窓際のテーブル席で相対した透は、開口一番にそう訊ねてきた。先手を打つことで真壁教諭の反応を窺う意図があるのは明白だった。
喉がからからに渇く。ウェイトレスが運んできた水を、真壁教諭は一息に飲み干した。
「……何のこと?」
平静を装い、惚けてみせる。それでも余裕は一切なかった。
「三年前もここで、姉貴と待ち合わせしたんでしょう?」
なぜそのことを知っているのか――思わず、そう口にしかけた。
「だから、何が言いたいの?」
「先生が、姉貴を殺したんじゃないですか?」
心臓の鼓動が、喧しいほど大きくなる。
「……冗談よね?」
「おれは本気のつもりですが」
「わたしが教え子を殺すなんて……ありえない」
射るような視線を、透は真壁教諭に向ける。
「どうしても、認めてくれないんですか?」
「わたしは知らない……まったく関係ないことよ」
「そうですか、残念です……」
落胆の表情をして呟いた後、透は窓の外に目を向けた。真壁教諭もつられてそちらを見る。
「――――え?」
透の視線の先には、背広を着た中年男性が歩道に寄せた車の中で待機していた。刑事だと、真壁教諭はすぐに察した。
「嘘よ……」
自分を取り巻く世界が、急速に絶望一色に塗り潰されていく感覚を、真壁教諭は味わった。
「警察は三年前の過ちを認め、改めて姉貴の事件の再捜査をしてくれました」
そこで透は、視線を真壁教諭に戻した。
「本当に残念です……最後に直接、先生の口から真実を訊きたくて、無理を言って時間を貰ったっていうのに」
深々と、透は溜息を吐いた。
「そ、そんな……嫌よ……」
真壁教諭の表情が引き攣り、次第に蒼白になる。
「あれ……あれは、どうしようも……どうしようもなかった……殺す気はなかったの……本当よ、し、信じて……」
透の両手を握りしめ、真壁教諭は慈悲を乞うた。互いの立場や年齢など頭から吹き飛んでいた。
「ね、ねえ……お願い、見逃して? わたしを助けて……」
だが透はゆっくりと首を横に振った。
「……すみません、それはできないです」
「わたし、わたしにとって……教師は生きがいなのよ……失うわけにはいかないのよ……」
恥も外聞も捨て、涙ながらに訴える真壁教諭を前に、透は苦渋に満ちた表情で、それでも決して頷くことはなかった。
やがて時間になり、外の車から刑事が降りてきた。真壁教諭の手をそっとどかし、透は席を立った。
「自分の罪から、目を背けないでください……先生」
そう言い置いて、透は喫茶店を出ていった。そして入れ替わるように、今度は刑事が入ってくる。
そのとき真壁教諭の脳裏に、ふと『将来の夢』の作文のことが掠めたが、当時の自分がいったいどのようなことを書いていたのか、彼女はついに思い出せず終いだった。
8
逮捕された真壁倫子教諭は、しばらく魂の抜けた状態だったようだが、数日経ってようやく取り調べに応じ、事件のあらましを自白した。その中で〈呪いのアドレス〉についても言及したが、警察が本気で取り合うことはなかった。連続猟奇殺人事件の真相は、関与した一部の人間が知るのみとなった。
過去と現在――ともに強い繋がりのある二つの事件は、こうして終結した。
まさか放課後、学校の図書室で真面目に勉強するようになるとは、梶谷透は思いも寄らなかった。しかも自主的な行動だというのが、もっとも重要なところだ。
「……先が思いやられるな」
気が抜くと、そんな弱音を吐いてしまう。定期試験すら真剣に取り組んだことがないというのに、高校卒業後の進路をかけた受験勉強となると、プレッシャーは段違いだった。
そもそも透には、効率的な勉強方法というのが見当もつかない。商店街の書店で、何冊か参考書を買ったはいいものの、最初にどこから手をつけるかで、いきなりつまずいてしまった。
さすがに危機感を覚えた透は、不本意ながら学校の知人にアドバイスを求めることにしたが、彼が気軽に話せる相手など、ごく少数――いや、わずか一人だった。
そういう経緯で、透は新海尚美の協力を仰ぎ、こうして必死に受験勉強に励んでいた。
「焦るのは分かるけどさ、ちょっと休まない? 集中力の持続にも限界があるし」
「ん……そうだな」
シャーペンを机に置き、透は大きく伸びをし、首を鳴らした。
「付き合わせて悪いな。新海も大変だっていうのに」
「気にしなくていいよ。あたしもこの方が捗るし」
「そういや新海は進路、もう決まったのか?」
透の質問に、尚美は小さく頷く。
「うん……まあね」
「ええと……何に決めたのか、訊いてもいいか?」
「構わないよ。実はあたし、またバレーを始めようと思うんだ。だからその部活がさかんな大学を志望することにしたよ」
「……そうか」
「うん。ずっと目指していた夢だから、簡単には捨てられない」
「良いんじゃないか? おれも応援する」
「梶谷くんの応援か……頼もしさの微塵もないんだけど」
「……今の言葉で、おれの心は深く抉れたぞ」
「冗談はともかくとして……梶谷くんの方は、どうしてその進路を?」
言って、尚美は透の脇にある参考書を示す。
積まれた参考書はどれにも――〈福祉介護士〉の文字が見える。
「……おれはずっと、他人に尽くすことに何の意味があるのか、疑問を持ってた」
当時を振り返り、透は苦笑いを浮かべる。
「でも、ようやく分かったんだ……意味なんてなくてもいいんだ」
「……?」
「こんな自分でも誰かの役に立てる……必要としてくれる人がいるという事実が、もっとも大切なことなんだ。おれはここに居てもいいんだって、自信を持って生きていける気がするんだよ」
自分の手を見つめ、透は穏やかな表情で語った。
「……今の言葉、優華に聞かせてあげたかった」
ぽつりと呟いた尚美の声に、透は顔をあげた。
「いったい何度あたしは、梶谷くんの話を優華から聞かされたことか……しかも、本人はまるで自覚がないからね」
かつての日々を思い出しているのか、尚美は遠い目をする。
「……あいつは、喜んでくれるだろうか?」
「それは喜ぶよ、優華だったら」
確かに九澄優華というのは、そういう少女だった。
もしこの場に優華がいれば、またあの満面の笑顔を見せてくれたのだろうか――そんなことを、透は思った。
失われた存在の大きさに、自分たちが得たささやかな希望とは到底釣り合うものではない。だが、だからこそこの希望をより尊く、愛おしいと思う。今はまだ小さな芽に過ぎなくても、未来に向かって育んでいける、大きな可能性があるはずだ。そうやって信じ続ける気持ちがあれば、これから先にどんな過酷な現実が待ち構えていようと、自分は二度と屈することはない――。
――今ここに、透は強くそう誓った。
(了)




