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闇の虜囚  作者: 黒砂糖
1/2

〈前篇〉

 

 夜空を覆い隠す分厚い雲からは、大量の雨粒が絶え間なく降り注いでいた。

 耳障りなほどの雨音の中――駅前のロータリーには、タクシー待ちのサラリーマンやアルバイト帰りの学生などの姿が多く見られる。

 二十代半ばのOLである萩尾恵子はそんな人々を尻目に、携えていた真っ赤な傘を開くと、パンプスの音を響かせながら駅前を離れた。

 水溜りを避けながら、恵子は足早に歩く。

 大通りから住宅地への角を曲がると、途端に人気は少なくなる。民家の塀に挟まれた路地は非常に狭い。通り抜けるときに限って、前方から車のヘッドライトが近づいてきた。恵子は塀に体を押し付けるようにして、何とかやってきた車とすれ違った。おかげで着ているスーツの肩の辺りが汚れてしまった。

 自宅マンションに続くT字路を右折したところで、いきなり携帯電話が鳴った。着メロは一昨年のデビュー以来、常にオリコンの上位をキープしている、三人組の男性アイドルグループの新曲だった。

 ハンドバッグの中を探り、携帯を出す――液晶には《水原部長》と表示されている。

「もしもし……部長、どうしたんですか?」

 恵子はできる限り甘えた声を出した。それで彼女と水原部長がどのような関係にあるのかは歴然だった。

 

 水原部長は妻子持ちで、恵子もそのことを承知で彼と交際をしている。〈不倫〉というフレーズが劇薬のような危険さと蜜のような甘さを孕んでいるようで、彼女はその魅力の虜になっていた。それでも恵子自身に遊びのつもりはない。まず最初に心を惹かれ、交際を申し込んだのは彼女の方だった。その時点では水原部長が既婚者だとは知らなかった。後になって事実を伝えられてからも、彼と別れるつもりは毛頭なかった。すでにふたりは、そこまで親密な関係にあった。

 だが恵子にとっては刺激的な関係でも、水原部長まで同じとは限らないらしい。小心者である彼は、いつ妻に気付かれるのかと思うと気が気でないようだ。妻への愛情はなく、同じ屋根の下で暮らすことすら苦痛だと言うが、もし不倫がバレれて離婚になれば、多額の慰謝料を支払うはめになるのは彼の方であるのは目に見えている。何とか穏便に、それでいて手っ取り早く別れる方法はないかと常に頭を捻っていた。

 水原部長のそんな悩みについては、恵子もうすうすは感付いていた。その上で彼女は知らぬ振りをしていた。いずれにしろ彼女に、水原部長と別れるという選択肢は存在しなかった。


 「――萩尾さん?」

 電話の相手が言葉を発した。だがその声は、明らかに女性のものだった。

 「あなた……あなたが萩尾さんね?」

 「ええ、そうです」

 訝しげに、恵子は応じる。

 「わたし、水原の妻です」

 ついにバレてしまった――いずれこういう日が来るだろうとは思っていたので、恵子はそれほど驚きはしなかった。

 「あなたと夫の関係が、どれほど進んでいるのかまでは知りません……ですが、旦那とはもう別れてください」

 口調は冷静さを保とうと努力しているようだが、内心の怒りのためか、声は微かに震えている。

 「部長はこのことを知っているんですか?」

 「夫は何も気付いていません……ですから、あなたの方からあの人に別れを切り出してくれませんか」    

一方的な物言いに、恵子は鼻白んだ。

 「お断りします」

 恵子がきっぱりと言うと、相手が息を呑む様子が電話越しに伝わった。

 「あなた、自分の立場が分かっているの?」

 「ええ――それが何か?」

 「何か……ですって?」

 「部長からは、奥様に対する不平不満をたくさん聞いています……むしろ、別れるべきなのはそちらじゃありませんか?」

 「なっ――?」

 「夫婦間の仲は、とっくに冷え切っているそうじゃありませんか。毎日のようにねちねちと小言を聞かされるし、貰った給料で自由に使えるお金はほんの僅かだとか、よく愚痴を零してましたよ?」

 「黙りなさい……何様のつもりよ」

 水原部長の妻に、憤怒を隠す余裕がなくなっていた。

「そちらこそ、いつまで部長の奥様でいるつもりですか?」

 相手の歯軋りが聞こえるようで、恵子の口元が優越感に歪む。

「旦那と別れて……息子はまだ小さいの。こんな早く父親がいなくなれば――」

 喉の奥から絞り出すように、水原部長の妻は訴える。

「別れる気はありません。わたしは水原部長を愛しています」

 語気強く、恵子は言い放った。

 「――そう」

 僅かに間を空けた後、水原部長の妻が声を出した。

 「分かったわ……なら、仕方がないわね」

 一転してひどく平坦な声に、恵子は思わずぞくっとした。

 「あなたがそこまで言うのなら、もう勝手にするといいわ……」

 そこまで喋ると、唐突に電話が切れた。

 「おかしな奥さんね、まったく……」

 鼻を鳴らし、恵子は携帯をハンドバッグにしまった。

 自宅マンションに着くと、一階の集合ポストから郵便物を取り出し、奥のエレベーターを呼び出した。自宅のある八階のボタンを押し、恵子は中に乗り込んだ。

 エレベーターは静かに動き出した。階数表示のランプがそれに伴ってあがっていく。

 連日の残業による疲労のため、恵子は壁に凭れて、八階に到着するのを待つ。

 ごぉん――。

 振動ともに、エレベーターが急に止まった。

 「…………?」

 恵子が顔をあげると、ランプは三階に点いたままだった。

 「何なのよ……」

 苛立ちながら非常ボタンを押し、マイクに向かって喋る。

 「すみません、エレベータが動かないんですけど――」

 応答はなく、マイクは沈黙を守っている。

 「あの……わたし、中に閉じ込められているんです。早く出してください」

 それでもマイクからは何も返ってはこない。恵子は次第に焦りはじめた。

「ちょっと、聞こえているの? ここから出してよ」

 いきなり箱が揺れ、恵子はひっ、と短い悲鳴をあげた――それから何事もなかったかのように、再びエレベーターは上昇していく。

 「……もう、驚かせないでよ」

 恵子の口から、安堵の吐息が漏れたとき――。

 

 ――すぐ後ろに、誰かの視線を感じた。


 強烈な悪寒が、一気に背筋を走った。両腕にぶつぶつと鳥肌が立つ――冷気もないのに体の震えが止まらない。

 「あ――」

 うまく声が出せない――かちかちと、歯が勝手に鳴る。

 一階からエレベーターに乗ったとき、箱の中には誰の姿もなかった――確かにそのはずだ。なら今、自分を凝視しているのはいったい何者だというのだろう?

 視線の主は身動ぎもせず、ただ恵子の背中を見つめている。そうして、彼女が振り向くのを待っている。

 正体を知りたい――だが怖くて振り返れない。それでも確かめずにいるのは、尚のこと怖ろしい。

 階数表示のランプは、六階から七階に点る。

 八階に着けばここから解放される――駄目だ、とてもではないが耐えられない。

「――――っ!」

 思い切って、恵子は振り返った――直後、その表情が恐怖に歪む。両目が限界まで見開かれる。

 そんな恵子の喉が、伸ばされた白く細い手に摑まれ――直後、彼女の視界は暗転した。

 

 ――やがて、エレベーターは八階に到着した。そこには誰の姿もない。床には女性もののハンドバッグが、ただぽつりと残されているだけだった。


     1


――姉貴、高校卒業したら家を出るつもりなんだって?

 三年前の春だった。当時のことを、梶谷透は今でもはっきりと覚えている。彼にとってはそれほどまでに、強い印象が残る出来事だった。

 ――うん……まあね。

 透の姉、梶谷深月は自室の机の前に座り、きまりが悪そうに答えた。机の上には介護の専門学校のパンフレットが置かれている。高校三年の深月は電車で片道二時間かけて、その学校のオープンキャンパスに行ってきたばかりだった。

 ――親父とお袋は? 了解したのか?

 ――そんなこと言ったところで、反対されるに決まってるわ。

 昔から学校の成績が優秀だった深月は、両親にとっても自慢の娘だった。小さい頃からそんな出来のいい姉と嫌になるほど比較されて育ったためか、透の方は両親に対して反抗的な態度をとることが少なくはなかった。その分、彼らが深月にかける期待はひとしおだった。

 ――あの二人はただわたしを、自分たちの目の届くところに置いておきたいだけよ……。

 ――けど、そうなるといろいろ大変じゃないか? バイトだけじゃ厳しいだろ。

 ――確かに、仕送りなんか望めそうにないわね。

 深月はひとつ、大きな溜息を吐いた。

 ――それでもわたし、絶対にこの家を出る。いつまでもあの二人に縛られるているの、我慢するつもりもないし……。

 ――贅沢な悩みだな。こっちはずっと姉貴のために、肩身の狭い思いをしてるってのに。

 ――期待される方も大変なのよ? その点、透は自由気ままで羨ましいわ。

 ――皮肉か? それ。

 ――本心よ。おかげでプレッシャーで心が休まる暇もないんだから。

 それから互いに口を閉ざしたことで、気まずい沈黙が流れた。先に耐え切れなくなった透が口火を切る。

 ――まぁそれにしても、姉貴が介護士とはなぁ……。

 ――何よ、何か言いたそうね?

 ――いや、想像できないっていうか……意外ではあるな。

 ――意外? 何が意外なのよ?

 ――そもそも介護を含めた福祉関係の仕事って、ある程度の寛容さが求められると思うんだよ。姉貴ってほら、短気だろ? そこがどうなんだろうなって。

 ――どうもこうもないわよ。だいたい今までだって、老人ホームでボランティアもやっていたんだから。これこそわたしの天職よ。

 ――天職、な……姉貴のとって、それほどやりがいがある仕事ってことか?

 ――それはそうよ、だって……。

 そこで深月は、照れ臭そうに笑みを浮かべた。それは透自身も初めて目にする姉の表情だった。

 ――誰かの助けになれる仕事に就くことは、わたしの小さい頃からの夢なんだから。


 「――――ん」

 唐突に意識が現実に引き戻され、透は不機嫌な呻き声を漏らした。しかめ面で体を起こす。頭は、まだぼんやりしていた。

 どうやら夢を見ていたらしい――懐かしい夢だ。何しろ自分がかつて、実際に経験したことなのだから。

 今の透は、かつての深月と同じ高校に通っている。学園生活もまた三度目の春を迎え、年齢的にもあの頃の姉と並んでいた。

 そこは高校の、屋上にある塔屋の上だった。透が授業をサボるとき、いつも昼寝をする場所だった。人目につかないので一人でのんびりと過ごしたいときには最適だ。

 思い切り伸びをして、腕時計を見ると、ちょうど昼休みに入ったところだった。そうと分かった途端、空腹を意識する。

 「よし、飯にするか」

 昼食は午前中にあらかじめ購買部で買ってきていた。漫画雑誌を読みながらカツサンドを手にとり、豪快に噛り付く――肉汁とソースが口いっぱいに広がる。全学年でもっとも人気なパンだけあって、なかなかの美味だった。

 食後に自販機のコーラを飲み干して一息吐いたとき、がたんっ、と屋上のスチール製のドアが開いた。

 物音を立てないよう静かに移動し、透は塔屋の下を覗く。

 「――げ」

 その人物の姿を認め、思わず声が漏れる。

 肩まで伸びた黒髪に、華奢な女子生徒の後ろ姿が見えた。きょろきょろと辺りを見回している――誰かを捜しているようだ。

 その女子生徒は透のクラスで委員長をしている、九澄優華だった。

 もうすぐ、昼休みが終わる時間だった。遅刻と欠席の常習犯である彼を、優華はわざわざ連れ戻しに来たらしい。

 「……いくら委員長でもここまでするか? 普通」

 優華が見上げるのを察し、透は慌てて顔を引っ込めた。しばらくしてドアの開閉音がした。どうやらギリギリセーフのようだ。

 「ったく……いい加減、放っておいてくれよ」

 クラス担任の真壁倫子にすら見放されているのに、なぜか優華だけは一向に諦めようとせず、何かと透に構おうとしてくる。だが彼にとっては正直、余計なお世話だった。

 「それにしてもしつこい奴だなぁ……」

 一人呟き、透は定位置に戻る。優華のことを頭から追い出すことに努め、それからはいつものように時間を潰して過ごした。


     2


 放課後になり、各教室から次々と生徒たちが姿を見せ始める。気の置けない友人と雑談を交わす者や、部活やバイトに行くため足早に廊下を去る者など、人それぞれだ。

 クラス委員の仕事の一環で職員室に用事があり、ちょうど昇降口の前を通りかかった九澄優華は、ふと足を止めた。

 「尚美?」

 下駄箱から革靴を取り出していた女子生徒は、声をかけられて顔を向けた。長身で、栗色の髪をポニーテールにしている――彼女は一年のときから優華ともっとも仲の良い、隣のクラスの新海尚美だった。 

 「あれ? 尚美……これから帰りなの?」

 「え……うん、そうだけど」

 どうにも歯切れの悪い返答だった。

 「今日は部活、ないの?」

 「ううん、違うけど……」

 尚美にとってはあまり触れられたくない話題のようだ。

 「部活……もう辞めるから。今日、退部届も出してきた」

 「えっ!?」

 優華は驚きの声をあげた。尚美は女子バレー部のキャプテンで、バレーに対する情熱は他の部員の誰にも負けないほどだった。

 「そんな……どうして?」

 「まぁ……あたしもそろそろ進路とかね、将来のこととか考えないといけないし。いつまでもバレーやってる余裕がないっていうか」

 まるで台詞でも棒読みしているかのような平坦な口調――本心から語っているわけでないのは明白だった。

 「あんなに打ち込んでいたのに……」

「大丈夫。自分の意志で決めたことなんだから、優華が心配することじゃないって」

 そこで何かを思い出したような表情になり、尚美は改めて口を開いた。

 「そういえばさ、先々月くらいだっけ……優華のところに例のメール、届いたって言ってたよね?」

 「……メール?」

 いきなり話題を変えられ、優華は戸惑った。

 「うん。ほら、よく分からない空メールがきたって言ってたでしょ?」

優華も遅れて、そのことを思い出した。

「ああ……あの迷惑メールのこと?」

 「そうそう、それ。あれってさぁ……あの後どうした?」

 「どうしたって?」

 「だって〈呪いのアドレス〉じゃないの? あれって」

 見覚えのないアドレス先から送られてくる空メールに、恨みを抱く人間の名前を入れて返信すると、相手は死ぬ――そんな噂が今、優華の学校では流行っていた。  最初は誰も本気にはしていなかった――だが、ちょうど噂が広まり出したころから集中するように、世間では無差別的な猟奇殺人事件が多発していた。被害者はみんな鋭利な刃物で刺殺されており、現時点において被害者は二十人を優に超えていた。

 やがて事件が起こる前後に、ネットの掲示板に被害者の名前を〈呪いのアドレス〉に返信したという書き込みが増えてくるようになり、噂の信憑性は一気に増した。当然ながら警察は、一連の事件は根も葉もない噂を利用した生身の人間による犯行の線で捜査を続けているが、いまだに犯人の手がかりを得られないでいる。

 「あれが本当に〈呪いのアドレス〉だったかどうかは分からないよ?」

 「いいからいいから……で、優華は結局どうしたの?」

 「どうもしないよ。削除しちゃった」

 「ってことは、もう残ってないんだ」

 尚美はあからさまに落胆してみせた。

 「残したところで意味がないよ」

 「……意味が、ない?」

 「うん。わたし、別に殺したいほど憎い相手もいないから」

 「ああ……そうなんだ」

 一瞬、親友の顔が引き攣ったように優華は見えたが、すぐに自分の気のせいだと思い直した。

 それから尚美はじゃあね、と言って昇降口を後にした。親友と別れてからも、優華の脳裏には一つの疑問が残されていた。

 なぜ急に、尚美が〈呪いのアドレス〉などを話題にしたのか、それがどうにも気にかかった。

 嫌な胸騒ぎを覚えながら、優華は昇降口から離れた。

 

 夕焼けに染まる商店街を、透は歩いていた。下校途中だが、今日は家に帰る前に、寄り道して買わないといけないものがあった。

 透の目的は、ジュエリーショップの左隣にあるケーキ屋だった。だがいざ店に着いてみると、そのピンクを基調とした可愛らしいデザインに彩られた外観に怯み、男一人で店内に足を踏み入れる勇気が出ないまま、所在なげに店先をうろうろするはめになった。

 このままだと不審者に間違われて通報されてしまう――それと目当てのケーキを買う短い間だけ羞恥に耐えるのと、果たしてどちらがいいのだろうか。透に選択の余地はなかった。いずれにしろ彼がケーキを購入する機会はこの日しかないのだ。今日という特別な日にケーキを買わずして、いったいいつ買うのか。

 長い逡巡の末、透はついに覚悟を決めた。

 「そうだ、外観なんかに惑わされるな……たかがケーキ屋じゃないか」

 そう己を鼓舞し、いざケーキ屋の自動ドアをくぐる。

 俯きがちになりながら、とりあえず視界に入ったショートケーキを、焦るあまりに値段も確認せずに選ぶ。

 「××××円です」

 店員が口にした値段に透は魂消た。だが今から変更するには彼の精神力は限界に近かった。泣く泣く会計を済ませ、店を出る――。

 「――あ、梶谷くん」

 目の前に優華がいた。

 「う――――」

 透の視界は真っ白になった。

 もうすべてが終わりだ――明日からはどんな顔で学校に行けばいいのか。混乱する透の頭では、何も考えられない。足元すらおぼつかなくなる。

 「梶谷くん、今ふらついてたけど大丈夫?」

 「…………」

 「? ねぇ梶谷くん?」

 透ははっと我に返った。

 「ああ……こんなところで奇遇だな九澄」

 「え……あ、うん。ところで梶谷くん」

 「……何だ?」

 「ここのケーキ屋さん、よく来るの?」

 「…………」

 「梶谷くん?」

 「ああいや……大丈夫だ」

 内心の激しい動揺を押し隠して、透は答えた。とにかく、この場をどうやり過ごすか――それが問題だ。

 「梶谷くんをケーキ屋さんで見かけるのって、何か意外だな……悪い意味じゃないから怒らないで?」

 「……ここに来たのは今日が初めてだ」

 「そうなんだ。このお店のシュークリームは絶品なんだよ」

 優華はいつになく嬉しそうに語る。

 「そうか……九澄はよくここで買うのか?」

 「うん、行きつけのお店だよ」

 「そ、そうか……あのな、九澄」

 「何?」

 「今日、ここでおれを見かけたこと、誰にも話さないでほしいんだが」

 透の言葉に、優華は怪訝な表情をした。

 「え、どうして?」

 「どうしても、だ。頼むよ」

 「いいよ。でもその代わり――」

 そこで優華はにこやかに笑った。

 「明日からちゃんと遅刻せずに学校に来てね。もちろん授業もサボったりしたら駄目だから」

 透は思わず目を剥いた。

 「い、委員長が脅迫なんかしていいのか!?」

 「脅迫なんて人聞きが悪い……交渉と言って欲しいよ」

 笑顔のまま優華は言う。透は諦めたように溜息を吐く。

 「……分かった。行けばいいんだろ」

 彼の返答に、優華は満足気に頷いた。

 「それじゃあまた明日、学校でね」

 手を振りながら、優華は去って行った。

 「ああ……マジかよ。よりにもよって九澄に」

 うなだれたまま、透はとぼとぼと歩きだした。

  

 透が玄関をあがると、台所では彼の母が夕飯の支度をしていた。帰ってきた透には見向きもしない。すでに慣れている彼は気にせず、居間を横切り奥の仏間に移動する。

 「――ただいま、姉貴」

 壁際にある仏壇に声をかける――仏壇の写真では、透の通う高校の制服を着た、一人の少女がこちらに笑いかけている。

 透の姉である梶谷深月は三年前の六月、アルバイトの帰りに通り魔に襲われ、殺害された。死因は鋭利な刃物によって、頸動脈を刺されたことによる失血死だった。容疑者は二十八歳の会社員の男性、樋口潤平だった。逮捕後の取り調べで、樋口は一貫して犯行を否認し続けた。

第一審の判決では有罪となり、当然ながら納得のいかない樋口は控訴した。だがその第二審でも判決は覆らなかった。

そして、第二審の判決から一月後――樋口は留置所内で自殺した。着ていた衣服をロープ代わりにして、自ら首を吊ったのだ。                  

 結局、樋口は被害者やその遺族に対する謝罪や償いはおろか、犯行の事実さえ認めることもないまま、卑怯な手段で自らの罪から逃げていった。

 透は、やり場のない怒りと悲しみに苛まれた。

 梶谷深月には叶えたい夢があった。その夢を無残な形で奪った卑劣な犯罪者は、その行いを裁かれることなく、この世からいなくなってしまった。そんな理不尽な結末は、到底許容できるはずがない。

 姉の死と樋口の死――それぞれの死により異なる意味で失意のどん底に落とされた透は、そんな世間において将来の展望を見出せないまま、怠惰な日々を送っていた。

 「ほら見ろ、ケーキ買ってきたぞ。姉貴が好きだった店のだ」

 透は写真に話しかけ、仏壇にショートケーキを供える。            「――誕生日おめでとう。姉貴」

 そして最後に手を合わせ、腰をあげた。

 台所に面した居間に戻り、自室に行くために廊下に出ようとしたところで――ふいに声をかけられた。

「……どういうつもり?」

 台所にいる、透の母だった。気が滅入りそうなほど陰鬱な口調だ。

 「何だよ? お袋」

 足は止めたものの顔は見ないまま、透は応じる。

 「それはわたしたちに対する当てつけ? だったら口ではっきり言えばいいじゃない。わざわざケーキまで買ってきて……」

 我慢できず、透は振り向いた。

 「どうしてそうなるんだ?」

 「もう死んだ人の誕生日なんて祝って、何がそんなにめでたいの? 娘を亡くしたわたしたちの気持ちも知らないくせに……いい加減、忘れさせてよ」

 「……そうかよ。だからろくに仏間に近づきもしないのか? 姉貴の思い出だってたくさんあるのに、全部なかったことにするのか?」

 「思い出すだけ辛い思い出なんて、いらないわよ」

 吐き捨てるように透の母は言った。そしてまた、元の口調に戻る。

 「安心しなさいよ……あなたには初めから期待なんてしていないから」

 「…………」

 それ以上は会話を続ける気になれず、苛立ちで足音を大きく響かせながら、透は居間を離れた。

 母親から、面と向かってあそこまで辛辣な言葉を浴びせられたことは、今までになかった。透自身分かってはいたものの、実際に言われると多少は傷ついた。

 他人にどれほど疎まれようと構わないと思っていた――だがそれが肉親になると、その限りではない。

 血の繋がった家族に必要とされない辛さを払拭するのは、並大抵ではないということを、透は改めて実感した。


     3


 翌朝は九澄優華との約束通り、いつもより早めに自宅を出た。通学路には同じ高校の制服を着た生徒たちによる登校風景が見られ、梶谷透にはそれがやけに新鮮だった。 

 そそくさと校門を抜け、昇降口へ――ここにも多くの生徒がいる。当然なことだが、いつもは授業中で校内は閑散としているため、ひどく落ち着かない。

 弱みを握られているとはいえ、馬鹿正直に従うことなどないのにと、登校中に何度か疑問が頭を過った。ただ単純に気が向いたからのような気もすれば、他に理由があるような気もする――だが結局、自分自身のことでありながら、透は答えを出せなかった。

 騒がしい教室内に足を踏み入れる。友人同士で談笑していた二、三人が意外な顔をしただけで、特に変わりはない。透を見て優華がこちらに微笑みかけるのを、癪なので気付かないふりをして自分の席に着く。

 やがて予鈴が鳴り、クラス担任の真壁倫子教諭が教室に入ってきた。透の存在に気付いた途端、表情が強張る。その後の朝のホームルームの最中も緊張した様子で、明らかに彼を意識しているのが見てとれた。毎度のことながら、どうしてそこまで露骨に警戒されているのか、透にはまるで身に覚えがなかった。

 一時間目からまともに授業を受けるのは久しぶりだった。出席したはいいもののまったく身が入らず、授業内容は頭に入らない。授業開始から十五分後には、早くも睡魔に襲われた。意識は途切れ途切れになり、気が付いたときにはすでに授業は終わっていた。

 周りを見ても、他の生徒は平然としている。よくこんな退屈な時間に耐えられるものだと、透は他人事のように感心した。開き直った彼は顔を机に突っ伏し、居眠りを決め込んだ。

 「――ところでさぁ優華。梶谷くんのことなんだけど……」

 お喋りをしていた女子のグループ内で、いきなり透の名前があがった。彼は眠ったふりをしたまま聞き耳を立てた。

 「え、何? 梶谷くんがどうしたの?」

 優華の怪訝な声がする。

 「今日は珍しく朝から学校来てるけどさ、やっぱり優華が説得したからなの?」

 「うん……まぁ、そうなるのかな?」

 「自信なさげな返事だなぁ。でも今までだっていくら言っても全然効果なんてなかったのに、何だって急に来る気になったんだろうね?」

 「それは……ええと……」

 「優華の根気強い説得に、ようやく心を入れ替える気になったってことかな――うん、塵も積もれば山となるってやつだね」

 「それは大袈裟だよ」

 「そうでもないと思うけどねぇ……ま、よく頑張ったと言いたいけど、あまり余計な苦労を背負い込むのもどうなのかなぁ?」

 「わたしは別に、苦労してるなんて思ってないよ?」

 「自覚がないから問題なんじゃない。特に優華は、梶谷くんにかなりこだわってるし」

 「こだわってる? わたしが?」

 「うん。初めのうちはさ、優華のお節介な性格が現れたと思ってたんだけど……だんだん、何だかそれだけじゃない気がしてきたんだよね。これはどうも臭いな、て」

 「臭いって、刑事ドラマじゃないんだから」

 「それでね、しばらく注意して見てたら……やっとピンときたよ」

 「……何のこと?」

 「つまりさ、優華は梶谷くんのことが好きなんでしょ?」

 透は驚きで、思わず顔をあげそうになった。

 当然ながら、優華は否定するだろうと思った――だが彼女は沈黙して、何も言わない。

 「図星かぁ……そりゃそうだよね、それ以外にないもんね」

 「…………」

 「そうか、梶谷くんか……優華ってああいう無愛想で、問題児なのがタイプなんだ?」

 「……梶谷くんは問題児じゃないよ」

 「あ、庇った……ごめんごめん、そりゃ好きな男を悪く言われたら、いい気はしないよね」

 女子は愉快そうにからかう。以降の優華の声はかぼそくなり、透には聞き取れなくなった。

 何だか優華と同じ教室にいるのが、どうしようもなく気まずくなった。今日を平穏無事に切り抜けるためには、授業中とはまた違った意味での忍耐力が必要となりそうだ。

 透に出来ることは、とにかく優華のいる席に極力目を向けないようにすること、ただそれだけだった。


  新海尚美は、自らの不運を心の底から呪った。

  昼休み――学食から教室に戻る途中、今もっとも顔を合わせたくない人間と会ってしまった。

 それは女子バレー部顧問の、丹羽芳郎教諭だった。短く刈りあげた髪に大柄な体格の、とても威圧的な教師だ。生徒間の評判もすこぶる悪い。高校在学中はなるべく関わり合いたくない教師の筆頭だった。事実、丹羽教諭の行き過ぎた指導のせいで辞めた部員は少なくない。

 だが尚美自身、今年まで自分がそのうちの一人になるとは思っていなかった。今までもどんな過酷な練習にも耐えてきた。

 そう――それだけなら、まだよかった。

 「おう新海、ちょうどいい。おまえに用がある――ちょっと来い」

 部活中は鬼のような剣幕で怒鳴り散らしている丹羽教諭が、今はうすら笑いを浮かべている。  尚美は、ぞっとした。逃げることもできず、俯いて後に従うしかなかった。

 丹羽教諭が向かっているのは屋上だった。生徒は滅多に立ち寄らず、人目につきにくい。

 階段を上る足が震え出した。それを押して、尚美は足を動かす。

 屋上に出て、周囲に誰もいないことを確認した途端――丹羽教諭は尚美の右腕を摑んだ。加減のない力が入れられ、爪が皮膚に食い込む。

 「い、痛い……やめて、先生」 

 だが、丹羽教諭が力を緩めることはない。

 「おれは、裏切り者を生徒に持った覚えはねぇぞ?」

 表情には相変わらず笑みを張り付けたままだった。それが更に尚美の恐怖心を煽る。   

 「これまで散々、目をかけてやっただろうが? 学校じゃ教えないことも体験させてやったよな? なのに退部したいだと? 受理するわけねぇだろうが」

 丹羽教諭の顔が近づく。煙草臭い息に、尚美は顔を背ける。

 「おい、ちゃんとこっちを見ろ」

 もう片方の手で、丹羽教諭は尚美の顎を摑み、強引に自分に向かせた。それでも尚美は視線を合わせない。

 「反抗的な生徒だな。よし、ペナルティを与えてやろう」

 言った直後、丹羽教諭は尚美の首筋を舐めた。

 「っ!」

 悲鳴にならない声が漏れた。生理的な嫌悪感で、気が狂いそうになる。

 尚美は女子バレー部に所属中、丹羽教諭に何度もセクハラを受けていた。日が経つに連れてその行為はエスカレートしていき、彼女はついに退部を決意するところまで追いつめられた。

 誰かに相談するにも、簡単に打ち明けられるようなことではなかった。一番の親友である九澄優華にすら、これまで隠していたほどだ。

 「――退部すれば安心だと思ったのか? 馬鹿だな。そんなことをしても、おまえが学校にいる限り逃げ場はねぇんだよ」

 そう丹羽教諭は、尚美の耳元で囁いた。

 絶望感で、尚美の視界は暗くなる。意志とは無関係に、きつく閉じた瞼から涙が零れた。

そのとき――丹羽教諭が低く呻いた。尚美から離れ、後頭部を抑える。

 「いってぇ……」 

丹羽教諭が見下ろした足元には、生徒の上履きが転がっている。

 「……あ?」

 事態を飲み込んだ丹羽教諭の表情が、たちまち憤怒の形相になり、頭上を睨み付けた。尚美もその視線の先を見上げる。

 一人の男子生徒が、塔屋の上に立っていた。あからさまに侮蔑の表情を浮かべ、丹羽教諭の視線を真っ向から受けている。

 「……おまえ、教師に向かって何をする?」

 「…………」

 「何だその目は? それが教師に対する態度か?」

 「…………」

 「聞いてるんだぞ? 答えろ」

 「…………」

 ちっ、と丹羽教諭は舌打ちした。それから落ちている上履きを見やる。

 「梶谷か……そういえばC組にそういう名前の生徒がいたな。頻繁に授業をサボる不真面目な生徒だと、担任の真壁先生から聞いたことがあるぞ」

 打って変わり、口元を歪める。

 「そんな落ちこぼれの言うことなど、誰も信じねぇか……」

 そう呟くと、丹羽教諭は尚美に顔を向ける。

 「またな新海。今度は邪魔が入らないときにな」

 尚美は黙って、目を伏せた。

 丹羽教諭は大股で歩き、屋上のドアを開いた。

 「…………?」

 ドアの向こうには優華がいた。慌てて横にどき、丹羽教諭を通す。

 「……丹羽、先生?」

 不可解な表情で丹羽教諭の背中を見送り、屋上に足を踏み入れる。そこでようやく親友の姿に気付き、両目を見開く。

 「な……尚美? どうしてここに?」

 驚いたのは尚美も同じだった。

 「優華こそ、こんなところに何の用事?」

 声が震えないよう細心の注意を払いながら口を開く。

 「尚美……顔色がすごく悪いよ?」

 結局、親友の目は欺けなかった。

 「うん……ちょっと風邪気味かも。今日はもう早退しようかな」

 平静を装い、相当に無理をして作り笑いをする。目の前にいる、このかけがえのない親友だけは心配させたくなかった。事情を知れば、自分と同じかそれ以上に心を傷めることは目に見えていたからだ。

 「……あの、尚美?」

 「何? 優華。もう中に戻ろう」

 「それ……何?」

 優華の視線が、僅かにずれていた。

 優華の目は、尚美の首筋に釘付けになっている――そこは先ほど、丹羽教諭に舐められた辺りだった。

 はっとして手の平で首筋を隠すが、すでに手遅れだった。

 「ねえ、今の……何?」

 静かな口調で、優華が訊ねる。

 「……何でもない」

 「でも確かに今、わたし……」

 「……見間違いでしょ?」

 「本当に? お願い、正直に話して」

 「嘘を言ってるって? あたしが? 信用しないんだ、親友なのに」

 いきなり怒り出す尚美に、優華は理由が分からずに怯む。

 「そんなことないよ……そんなことないけど……」

 「だいたい親友だからって、何もかも包み隠さず話さなきゃ駄目? 誰にだって人に言えないことの一つや二つあるでしょ? 違う?」

 優華は首を振った。

 「違わないよ……わたしはただ……」

 「あまり詮索されるの迷惑なんだけど。優華のそうところ不愉快だよ」

 自らが放った言葉が、優華を傷つけていくのがありありと感じられた。親友を巻き込むことを避けたかったはずが、どうしてこんなひどい台詞を吐いているのか、分からなくなっていた。

 自分の意志とは無関係に、勝手に口が動いているとしか思えなかった。

 「ちょっとはこっちの気持ちも考えてよ、親友だったらさ。もう鬱陶しくってたまらないよ。直した方がいいんじゃない? その性格」

 「…………」

 「それが無理なら絶交だから。今だから言うけど、ずっと我慢してたんだから」

 何も言えなくなった優華の脇をすり抜け、屋上のドアに手をかける。

 「――分かったら、あたしのことはもう放っておいて」

 言い捨てて、尚美は校内に戻った。


 このような事態は想定していなかった――いや、想定しようがなかった。親友に拒絶された優華に、果たしてどのような言葉をかけることが理想的なのか、いくら考えてもさっぱり思いつかない。

 まず最初に、自分がなぜ尚美を助けたのか、そこからが疑問だった。無視することも可能だった。良心を抑え込めばいいだけだ。

 結果的に、透はそれをしなかった。二人が屋上に来たときのただならぬ雰囲気に、少しばかり様子を窺うだけのつもりだった。

 だが眼下で繰り広げられる出来事を眺めていると、だんだんと気分が悪くなっていた。率直にいうと、丹羽教諭の行いに反吐が出そうになったのだ。

 そうなると一刻も早くこの正視に耐えない状況を終わらせてしまいたくなり、ほとんど衝動的に上履ぎを脱ぎ、丹羽芳郎教諭の後頭部めがけて投げつけていた。

 困っている人間を助けるなどということを、まさか自分がすることになるとは思わなかった。そんなことをして自分にどんな利益があるというのか――透には理解できない。

 立ち去った丹羽教諭と入れ替わりに、今度は優華が現れた。また透を捜しに来たのかも知れない。もしかすると、今回は尚美の方を捜していた可能性もある。

 とにかくそれから更に一悶着あり、現在の状態に至る。

 見るからに、優華は打ちひしがれた様子だった。間もなく昼休みが終わるというのに、微動だにしない。透はさすがに優華のことが気の毒になってきた。

 あらん限りの語彙をフル活用したところで、どうにも自分では手に余る。つまるところこれは、親友である彼女たちの問題なのだ。外野がおいそれと口を出せることではない。透が何を言ったところで、本当の意味で優華を救えるのは尚美しかいないのだ。

 そんなことを思っていると、優華はやがて踵を返し、とぼとぼと力ない足取りで屋上を後にした。充分に間を空けてから、透は梯子を降りる。

 透にしたところで、優華のことを鬱陶しいと感じたことはある。だがそれも彼女の純粋な善意によるものと分かっていたからこそ、あえてはっきりと態度に出さなかった。それがよりにもよって、もっとも気の置けない親友にあそこまできつく言われては、立ち直るのに相当の時間を要してもおかしくはない。

 本人はよかれと思ってしていることが、なぜか空回りしてしまう――そんなことは珍しくはない。善意が必ずしも報われるとは限らない。

 姉が死んだ三年前に、透はそんな現実の残酷な側面を、真っ向から突き付けられた。善と悪の天秤がまるで釣り合っていない。善き行いをすればそれ相応の利益を得るべきだし、悪しき行いをすれば、それ相応の報いを受けるべきなのだ。そうでなければ、あまりに理不尽だ。

 透は結局、そんな世間に絶望した――なら、優華はどうなのだろうか。

 いつの間にか透は、九澄優華という少女が気になり始めていた。


 深夜0時を過ぎ、両親はとうに寝静まっている。壁にかけられた時計の秒針が虚ろに響く。     

 部屋には勉強机の蛍光灯だけが点っている。だが机の上は綺麗に片づけられたままだ。

 ひどく緩慢な動作で机の引き出しを開き、尚美が取り出したものは、真新しいカッターナイフだった。

 そして尚美は、少しずつカッターの刃を出した。蛍光灯の明かりを受け、刃は鈍色に輝く。

 唇から自然と、重苦しい吐息が漏れる。

 丹羽教諭のセクハラからは逃れられず、無二の親友まで傷つけてしまい――尚美はこれ以上、精神的に耐え切れそうになかった。

 今もここでこうして生きて存在し、呼吸をすることにすら苦痛を伴う。まともに思考は働かず、気が付くと右手にはカッターを握っていた。

 「……そうか。もう、死ぬしかないんだ……」

 呟く声に、覇気はない。

 左腕を机に乗せた。皮膚の下に血管が走っているのが見える。

 ゆっくりと、尚美はカッターの刃を左手首に近づけた。皮膚に触れた刃は驚くほど冷たい。

 緊張で息が乱れてくる。目を閉じて、何度か深呼吸を繰り返す。

 意を決し、一気にカッターの刃を引く――。

 「づ――――っ!」

 鋭い痛みが左手首で爆ぜ、次いで電流のように全身を駆け抜けた。悲鳴をあげそうになって唇をきつく噛みしめる。握っていたカッターを、つい床に落としてしまう。

 左手首にはうっすらと血が滲んでいた。切る寸前に怯んだせいか傷は浅く、致命傷にはほど遠かった。

 「……何で?」

 それでも、自分で自分の体を傷つけることの恐怖を実際に体験したことで、カッターを拾って再度同じことをする勇気を、尚美は失っていた。

 「何で……何で?」

 嗚咽まじりの疑問を漏らした。涙が点々と机に滴る。

 「何であたし……こんな目に……こんなこと、しなくちゃ、いけないの?」

 両親を起こしてしまうため、存分に声もあげられず、尚美は独りですすり泣いた。

 「だ、誰でも……いいから、た……助けて……よ」

 その祈りに答えるように――いきなり、傍らにある携帯が鳴った。

 「…………?」

 なぜかそれが、尚美には自分に救いの手を差し伸べる救世主に思え、縋るように携帯を摑んだ。

 「こんな時間に……誰から……?」

 見ると一件のメールを着信している。アドレス元だけが表示されているため、友人知人ではありえない。

 「……?」

 尚美はとりあえずメールを開いた。

 「……え?」

 メールの中身は、件名のみならず本文までも空欄のままだった。

 「あ……」

 そのとき尚美の頭をもたげたのは昨日、優華とも話題にした噂のことだった。

 「……これ、〈呪いのアドレス〉?」

 いざ自分の元にも届いてみると、まるで実感が湧かない――というよりただの迷惑メールにしか見えなかった。

 それでも尚美は、これが本物の〈呪いのアドレス〉だと信じることにした。この状況、このタイミングで送られてきたことがどうにも偶然とはおもえなかった。

 「来た……あたしのところにも」

 携帯を持つ尚美の手が若干、震えていた。


     4


 梶谷透が教室に入ったとき、予鈴までまだ少し時間があった。

 何も今朝は早く登校する理由はなかった。九澄優華の方も、今は彼との約束どころではないはずだ。

 それでも透がいつものように遅刻しなかったのは、優華が昨日の今日で彼女がどんな様子でいるのか、なるべく早めに確認しておきたいと思ったからだった。

 結論から言うと教室における優華は、特に目立った変化はないように見えた――だがそれはあくまで表面上の話だ。事情を知っている透の目には、笑顔が心なしかぎこちなく感じる。クラスの友人に心配させないよう、あえて普段通りに振舞おうとしているようだ。

 午前の授業は、そのまま滞りなく進んだ。何の変哲もない、透にとっては拷問のような時間だった。

 昼食は変わらず、屋上の塔屋の上でとる。だが予想していた通り、わざと予鈴間近まで待ってみても優華は姿を見せなかった。

 「……来ないは来ないで、何だか物足りないな」

 それだけそんな日常に、自分が慣れてしまっているのだろう。透は午後の授業に遅れないよう、急いで屋上を後にした。

  

 学校での一日を終えてみると、優華は自分がひどく疲れていることを意識した。

 内面を表に出さないよう努めていた分、なおさら辛い気持ちになる。友人と一緒にいても、自分が孤独でいる気がして仕方がなかった。

 一度だけ廊下で、新海尚美を見かけた。彼女も優華に気が付いたようだったが、すぐに目を逸らし、足早に歩き去ってしまった。その姿にまた、胸が痛んだ。 

 優華は自信を失いかけていた。これまで正しいと思っていたことを親友に否定され、最初はショックを受けたが、その後はただ途方に暮れた。今までの自分はいったい何だったのか、これから自分は人にどう接していくべきなのか、見当もつかない。

 優華には放課後、アルバイトのシフトが入っていた。どんなに落ち込んでいても、休むわけにはいかなかった。 

 「――ね、ねぇ九澄さん。ちょっと待って」

 階段の踊り場で声をかけられ、優華は振り返った。すると一人の男子生徒が、階段を駆け降りてきた。

 「く、九澄さん……」

 銀縁眼鏡をかけた、気弱そうな猫背の男子生徒だった。

 「……小野寺くん?」

 顔を見て、優華は思い出す。確か小野寺和馬という名前だったはずだ。

 「――あ、ぼくのこと……覚えててくれたんだ……良かったぁ」

 慌てて追いかけてきたのか、乱れた呼吸を整えながら和馬は言った。

 「ええと、どうしたの?」

 「うん……あのさ、やっぱりぼく……九澄さんのことどうしても諦められなくて」

 優華は昨年末に一度、和馬に告白をされていた。そのときは後腐れのないよう慎重に言葉を選んで断っていた。彼が言っているのはそのことだろう。 

 「そんなこと言われても……」

 正直、今はそんなことを考えられる気分ではない。アルバイトの時間もある上に、そもそも彼女にはすでに気になっている男子生徒がいた。

 「今はちょっと急いでるから……ごめんなさい」

 言って、優華は踵を返す。

 「そ、そんな……ぼくの話、最後まで聞いてよ」

 情けない声をあげながら、和馬は優華の後を追う。

 「五分でいいからさぁ……ねえ九澄さん」

 例え話を聞いたところで、優華の返事は変わらない。困り果てていると、上の階から透が降りてきた。

 「…………?」

 透は訝しげに二人を見やっただけで、そそくさと傍を通り過ぎてしまった。

 「あ……梶谷くん」

 呼びかけたが、透は足を止めない。優華は遠ざかる背中を目で追った。それから和馬の方に向き直った。

 「ごめんなさい、小野寺くん」

 和馬は何かを悟ったようだったが、優華はすぐに透を追ったため、それを確かめなかった。

 

昇降口の手前で追いついた優華が、透に抗議の視線を向けた。

「梶谷くん……どうして無視するの?」

 「取り込み中に、邪魔をしても悪いだろ」

 憮然とした様子で、透は答えた。

 「誤解してない? 梶谷くん」

 「何がだよ。別におまえがいつ誰と一緒にいようと、おれには関係ない」

 昇降口で革靴に履き替えている間も、透は不機嫌だった。

 「ったく、人がどれだけ心配――」

 しまった、という表情で透は口を噤む。

 「何か言った? 梶谷くん」

 「え、おれか? おれは何も言ってないぞ? 気のせいじゃないか?」

 透は白々しく惚けてみせたが、優華は明らかに納得のいかない様子だ。

 「…………」

 気まずい沈黙が流れた。言い逃れしようにもその方法が思いつかない。優華の物問いたげな目を直視することができなかった。

 そうこうしているうちに、ふたりは校門を抜けた。

 「――それじゃあ、わたしはこっちだから」

 透の帰り道とは反対方向に、優華は行こうとする。

 「あれ? 九澄は商店街の方じゃないのか?」

 かつてケーキ屋の前でばったりと会ったことを思い出し、透は言った。

 「うん。でも今日はバイトがあるから」

 「おまえバイトしてたのか?」

 透にとって、それは初耳だった。

 「そうだよ、途中でバスに乗っていくけど」

 「いったい何のバイトだよ」

話の流れで、何の気なしに訊ねる。

 「デイサービスだよ。老人ホームの」

 「――――え?」

 「わたし、将来は介護士になって、いろいろな人のお世話をしたいと思って」

 透の頭に、ありし日の思い出が浮かび上がった。


――まぁそれにしても、姉貴が介護士とはなぁ……。


 「……梶谷くん、そんなに驚くことないでしょ?」

 透の様子を勘違いしたのか、優華は口を尖らす。

 「そんなに変かな……わたし、向いてない?」  

 

 ―-何よ、何か言いたそうね? 


 「え? あ……それは」


 ――いや、想像できないっていうか……意外ではあるな。

 ――意外? 何が意外なのよ?

 

 「……そんなことはない」

 気が付くと、透はそう口にしていた。

 「?」

 「九澄らしくて、おれはいいと思う」

 それは紛れもない、透の本心だった。

 優華は目を丸くしていたが、やがて笑みを浮かべた。

 「ありがとう……ねえ、梶谷くん?」

 「何だ?」

 「やっぱり梶谷くんは、そういう笑顔でいる方がいいね」

 「……笑顔? おれが?」

 「うん。今ね梶谷くん、笑ってたよ」

 反射的に口元に手をやる。だがすぐに無駄と知った。

 「わたし、ずっと気になっていたんだ。梶谷くんは無理に自分を押し殺してるんじゃないかって」

 「何を言ってるんだ。そんなことあるわけないだろ」

 透は否定したが、それが形だけに過ぎないことは彼自身が一番よく分かっていた。

 「わたし、勘はいい方なんだよ?」

 穏やかに微笑みながら、優華は言った。

 「本当にありがとう……梶谷くんと話せてわたし、少し元気が出たよ」 

 「ちょっ――礼とかやめろよ……」

 人から感謝されることに慣れていないため、透は反応に困った。

 優華はくすりと笑うと、また明日ねと口にして歩き去った。

 透は、優華の姿が完全に見えなくなるまで待ち、踵を返した。

 「笑顔の方がいい、か……」

 これまでの人生で、そんなことを言われたのは初めてだった。戸惑いはあるものの、透は内心、満更ではなかった。

 

 改札口に通じる階段の脇で、丹羽芳郎教諭は帰りの電車が来るのを待っていた。やがて駅内アナウンスが流れ、プラットホームに急行電車が滑り込んでくる。

 空いている座席に、どっかりと腰を落とす。

 一昨日の屋上における、新海尚美の怯えた表情を思い返し、周囲の乗客に気取られないように下卑た笑みを浮かべる。

 丹羽教諭は今年でちょうど四十歳だった。独身だが、本人に結婚して身を固めるつもりはない。

 かつて交際していた女性との苦い記憶が蘇り、丹羽教諭は舌打ちした。

 高慢で飽きっぽく、自己中心的な女性だった。なまじ容姿が優れているだけ、余計に始末が悪かった。

 以後、丹羽教諭は女性を自分の欲求を満たすだけの慰み者と割り切ることにした。そういうことなら、いっそ若い娘の方がいいという結論に至った。

 そして彼は自分の教え子――新海尚美に目をつけた。

 実は丹羽教諭は、尚美に対するセクハラ行為に及ぶ最中に、こっそりと携帯のカメラで彼女のあられもない姿を撮っていた。画像データは自宅のパソコンにも取り込み済であり、もしまた何かあれば、それを切り札に使おうと密かに考えていた。

 電車の揺れに身をまかせているうちに、丹羽教諭はまどろんだ。

 その間に、いくつの駅を通過したのかは不明だった。

 「――――?」

 ふと目を開け、丹羽教諭は周囲を見回した。今、電車はどこまで進んでいるのだろう。

 もしかすると、うっかり通り過ぎてしまっているかも知れない。だが窓の外はトンネルの中のように真っ暗で、風景から推察することができない。

 いや、それ以上に――電車内が異様に静かなのが気になった。

 「……何だ?」

 走行中の揺れもなく、まるで停車しているかのようだ。電車内もやけに暗く、他に乗客の姿さえ見えない。

 頭をがしがしと掻きながら座席を立ち、丹羽教諭は隣の車両に移る。

 「…………え?」

 そこにも乗客は一人もいなかった。次々と車両を移動しても、それは変わらない。

 いつの間にか、自分がとんでもない世界に迷い込んでしまったことを、丹羽教諭は理解した。

 「くそ……どこかに人は?」 

 焦りを覚えながら、足早に最後尾の車両を目指す。車掌がいれば自動ドアを開けてもらえるだろうし、 いなければ自力でどうにか脱出するしかない。

 「誰か……誰かいねぇか」

 丹羽教諭は足早に通路を進む。                                                  

 「…………?」

 すると行く手から、誰かがこちらにやってくるのが見えた。

 暗いために人相までは分からないが、しっかりと意志を持って歩いてくる様子は、紛れもない人間ものだった。

 「おお……」

 安堵感で、丹羽教諭は足をさらに速める。

 互いの距離が、次第に縮まっていく。やがて、すぐ目の前にまで近づいた。

 「よかった……おれ以外にも人がい――」

 丹羽教諭の声が、唐突に途切れた。

 「――――は?」

 唖然とした表情で、自分の胸元を見る。

 丹羽教諭の胸から、何か刃物らしきものが生えていた。白く細い手が、その柄の部分を握っている。

 「あ――――?」

 みるみるうちに、胸元が血で染まっていく。そこでようやく丹羽教諭は、自分が刺されたことを認識した。

 「な……どうし――」

 改めて眼前の人物を見た。

 「――え? お、おま…………」

 驚愕の声を発しかけ、丹羽教諭はその場に崩れ落ちた。

 すぐに意識は、周囲の闇よりなお深い暗黒へと沈んでいった。


     5


 全校朝礼のために、列をなした生徒たちがぞろぞろと体育館に集まった。ところどころで不安げなざわめきが漏れる。

 やがて壇上にのぼった校長が、重々しい口調で丹羽芳郎教諭の死を伝えた。ざわめきは一層激しさを増し、生徒間に広がる。

 まさか自分たちが通っている学校から、連続猟奇殺人の犠牲者が出るとは思ってはいなかったのだろう。彼らにとって事件はより身近なものとなり、多感な時期である生徒たちは一様にショックを隠し切れずにいる。中には失神して、保健室に運ばれた女子生徒までいた。

 「――これってさぁ、またあの〈呪いのアドレス〉のせいだよね?」

 黙って校長の話を聞く梶谷透の耳に、女子生徒同士のそんな囁き声が届く。

 「ええ? それって誰かが丹羽先生の名前を返信したってこと?」 

 「うん……もしかすると犯人、この学校にいるかもよ?」

 「ちょっと、犯人は言い過ぎじゃない? 噂を試したぐらいでさ」 

 「本当に効果があるって分かってたら、同じことでしょ」

 「ん……まぁそうかも」

 聞いているうちに、透は苛立った。訳の分からない噂なんかで、いちいち人が殺されてはかなわない。犯人は頭のネジが何本か抜け落ちた生身の人間に決まっている。そこにオカルト的な要素が加わる余地などない。

 女というのはどうしてここまで、都市伝説や怪談の類が好きなのか――透は理解に苦しむ。ただ内輪だけで騒ぐ分にはいいが、現実に人一人の命が奪われている事件のおいてその手の話題を持ち込むのは、不謹慎極まりない。

 一昨日の新海尚美の件が、透の頭にあったことも関係しているのだろう。

 確かに尚美は丹羽教諭を憎んでいるかもしれないし、噂のメールを行ったのも彼女かも知れない――だがいくらネット上で因果関係を示唆されていようと、そんなもので人殺しの共犯であるかのように吹聴されることが許されるはずがない。

 その点において、透の考えは警察の捜査方針と似通っている。殺人者は人の憎む気持ちを目くらましに、ただ自分の殺人衝動を満足させたいだけに決まっていた。

 問題は、こんな女子生徒たちの話を聞いた尚美がどう感じるかだ。そんな心配をするのは、彼女が九澄優華の親友だからなのか。

とにかく今の状況で、尚美が丹羽教諭からセクハラの被害に遭っていたことを知られるのは非常にまずい。それはまさに最悪の展開だろう。このまま誰にも知られることなく済まされれば、それが一番いい。罪悪感はあるが尚美の思いを汲んで、優華にも事実は隠しておくべきだろう。

 だがその願いは、早々に打ち砕かれることとなった。

 

 丹羽教諭の死を知らされてから数日が経過した。

 優華は心の中で葛藤していた。今回の事件に関する校内の噂は、すでに彼女の耳にも届いていた。

 学校関係者の誰かが〈呪いのアドレス〉を用いて丹羽教諭を殺した――あるいは殺させたという噂だ。それはただでさえ皆が感じている不安を、更に煽る形で女子生徒を中心に広がっていた。

 優華の脳裏に以前、放課後に尚美と交わした会話が蘇る。あのときの尚美は、今でも不自然に思えるほど、何の脈絡もなく〈呪いのアドレス〉の話題を振ってきた。優華が自分のところに届いたそのメールを削除したと聞くと、がっかりした様子も見せた。

 あのとき、尚美は〈呪いのアドレス〉を知ってどうするつもりだったのだろうか――部活を辞めること、一昨日の屋上で尚美と丹羽教諭が二人で会っていたことと、その後の遣り取りなどが次々と思い返される。

 もしかすると、やはり尚美は丹羽教諭と何かよくないことが遭ったのだろう。そして何らかの形で〈呪われたアドレス〉を手に入れて、そして丹羽教諭を――――。

 「わたしの――馬鹿」

 優華は頭を強く振って、その想像を追い払った。親友を疑うなんてどうかしている。自分まで根拠のない噂に乗っかっては、誰か尚美を信じるというのだろう。

 最近、尚美と顔を合わせる機会がほとんどなくなっていた――というより、どうやら尚美の方から優華のことを避けているようだ。かつて自分の言動で親友を傷つけたことに罪悪感を覚えるあまり、謝罪のきっかけ作りに難儀しているのかも知れない。今の騒ぎに対して、尚美はどんな思いでいるのか、優華は気になって仕方がない。だがそのことを確かめること自体、彼女のことを完全には信用していない証拠のようにも思えてしまう。事件が落ち着くまでは辛抱するべきだろう。

 「そうだよ……尚美は悪くない、何もしてない……」

 朝の通学路で、そう自分に言い聞かせる。

校門前では、いまだに警察や報道関係者の姿があった。生徒としてはいい加減、そっとしておいて欲しいというのが正直な気持ちだろうが、あちらもあちらで仕事なので、そういうわけにもいかないのだろう。

 昇降口で革靴から上履きに履き替える。階段をのぼり、廊下を進み、二年C組のプレートが提げられた教室を目指す。

 横開きのドアを開け、優華は教室内に入る。 

 直前まで固まって会話をしていたらしい女子のグループが、優華を見てぎょっとした顔をして口を噤んだ。

 「……?」

 訝しげに眉を寄せる優華に、女子たちは慌てて取り繕うような笑みを一様に浮かべる。

 「……お、おはよう優華」

 「うん……おはよう」

 どうも今日は、教室の雰囲気が妙だった。優華の様子をちらちら窺う生徒や、彼女の耳に入らないように声を落としてひそひそ話をする生徒が多く見られる。

 優華は居心地が悪くなった。自分の席に鞄を置くと、彼女はさりげなく教室を出た。

 廊下の突き当たりにある女子トイレに向かった。個室に入ってしばらくすると、二人の女子生徒がトイレにやってきた。彼女たちの会話が、優華にも聞こえる。

 「……丹羽にメールを送ったの、誰か知っている?」

 「ああD組の女子でしょ? 名前は……ええと」

 「新海尚美だよ。でね――」          

 続けて、女子生徒は言った。

「その尚美って子、死んだ丹羽にセクハラされてたらしいよ?」

 「――――っ!」

 優華は、あと少しで声をあげるところだった。

 二人の会話に注意して、彼女は耳を傾ける。

「そうなんだ。それが動機かぁ」

 「うん。あたしたちも恨みを買わないように注意しないと。まさか本当に同じ学校だなんてね……気が気じゃないよ、まったく」

 二人の女子生徒が話題にしているのは、〈呪いのアドレス〉に関することなのは間違いない。

彼女たちがいなくなるのを待ってから、優華は女子トイレを後にした。尚美のクラス――二年D組に急ぐ。

 D組の教室のドアが開き、尚美が廊下に飛び出してきた。手には鞄を持っている。

 「――尚美っ!」

 階段を駆け降りようとするところに、優華は声をかけた。それを受けて尚美の背中がぴくっと静止する。

 「尚美……」

 優華は尚美のすぐ後ろに走り寄った。

 「尚美……教室で、何か言われたの?」

 「……あたしに関わらないで」

 そう尚美は言った。その震える声から、彼女が泣いていることは明らかだった。

 「あたしに話しかけてたら、優華までとばっちりを受けるよ?」

 それだけ言い、また階段を降りようとする。

 「待って、尚美」

 引き留めるために、優華は尚美の腕を摑む――だが尚美は彼女の手を乱暴に振り払った。

 「……ごめん」

 優華に顔を向けないまま、尚美は謝った。

 「…………」 

気にする必要はないと、優華は伝えたかった。だが尚美はあっという間に階段を駆け降りていったため、結局その言葉を伝えることができなかった。

 「どうして……」

 どうして親友がこんな辛い目に遭わなければいけないのか――そんな肝心なときに、どうして自分はここまで無力なのか。

 こんな何もしてあげられない自分が、どうして尚美の親友だと言えるのだろうか――心中で発する問いに、答えを与えてくれる者は誰もいなかった。

 

 もっと他に調べることはないのだろうか――校門前で生徒たちに聞き込みをしている警察や、取材をする雑誌記者などの姿を目の当たりにした透は、うんざりしてそんな感想を抱いた。

 連続猟奇殺人の被害者は、何も丹羽教諭だけではない。性別、年齢、職業もばらばらで共通点などありはしない。だからこそ無差別なのだ。それにも拘わらず被害者の身辺を執拗なまでにつつき回して、市民の心情などまるで顧みようともしない。警察もメディアも、三年前からまるで進歩が見られない。あの事件を通して、彼らはいったい何を学んだというのか。

 それとも、今回の事件はよほどのこと捜査が行き詰っているのか――被害者が増えればそれだけ警察は無能の謗りを免れない。だからこそほぼないと思われる可能性に賭けるしかないのかも知れない。そういう目で見れば、彼らの顔に焦りの色が浮かんでいるような気もしてくる。

 「――? 君は……」

 声をかけられ、透がそちらに顔を向けると、先ほどから一緒に組んで行動をしていたらしい刑事から離れ、背広を着た痩身の刑事が近づいてくるところだった。

 「……占部さん」

 思い出した名前を口にする。その刑事――占部岳彦は、三年前に起きた透の姉――梶谷深月殺害事件も担当していた。

 「……透くん、だったよね? 梶谷深月さんの弟さんの」

 「……ええ、まあ。お久しぶりですね」

 複雑な思いで、透は返答した。

 「うん、久しぶりだ――そうか、君はお姉さんと同じ高校に進学したのか」

 それから占部刑事は神妙な表情をした。

 「お姉さんの件は……本当に残念だった」

 「もう、過ぎたことですよ……」

 「だが、あんな形での決着となってしまって……ご両親ともども無念だったと思う」

 「…………」

 その点においては、占部刑事の言うとおりだった。だから透は何も言うことができなかった。

 「……占部さんは、犯人を逮捕してくれたじゃないですか」

 代わりに透は、そう口にした。

 「だが犯人の樋口潤平には、しっかりと法の裁きを受けてほしかった……ぼくは今でも、そのことが心残りでね」

 占部刑事は悔しそうに表情を歪めた。

 「そういえば、占部さんは今回の事件も担当されているんですか?」

 気まずくなり、透は話を変えた。

 「ああ、そうだよ。ただこの事件は妙な噂が絡んでいる分、情報が錯綜していて結構やっかいなんだ」

 「噂っていうのは、〈呪いのアドレス〉ですね?」

 「やっぱり知ってるか。きっとそれは犯人の狙いなんだろうけどね」

 「警察の捜査を攪乱させようと?」

 「うん。事件の発生は噂が流行り出したのとほぼ同時期だ。もしかすると噂の発生源も犯人自身かも知れないと、ぼくは見ている」

 「……いいんですか? 一般市民にそんなことをぺらぺらと喋って」

 透は苦笑した。

 「……確かに、どうにもぼくは口が軽くていけないね。警察には向いていないのかも知れない」

 占部刑事は自嘲気味に口の端を歪めた。

 「それに君たち家族には、三年前に辛い思いをさせてしまったし……」

 「ああ……」

 それはこれまで、あえて思い出さないよう努めていた出来事だった。

 当時、警察が被害者である梶谷深月の身辺を洗っている最中、彼女に関するある噂を入手した。そしてその情報を、警察内に独自のコネを持つ一人の雑誌記者が摑んだ。問題なのはその記者が、読者の興味を惹くためなら手段を選ばない、倫理観の著しく欠如した人物だったことだ。

 占部刑事がそのことに気付いたときには、その噂について書かれた雑誌はすでに発行されてしまった後だった。

 その噂というのは――梶谷深月が援助交際をしていたというものだった。

 当然ながら透も両親も、そんな噂は信じなかった。だが周囲の人間はその限りではない。

 透の母は近隣住民の陰口を恐れて昼間に買い物すら行けず、彼自身も学校でクラスメイトから虐めを受けるようになった。

 透が噂に踊らされる人々に不快感を抱くのは、そんな過去があってのことだ。

 「そんなこともありましたね……でもそれだって、もう済んだことですよ」

 「そうか……そう言ってくれると助かる」

 占部刑事が安堵の表情をしたとき、校舎の方から予鈴が鳴る音が聞こえた。

 「すみません。もう、行かないと」

 「ああ。引き留めてしまって、こちらこそすまない」

 透は占部刑事と別れ、校舎まで走った。

 教室では、クラス担任の真壁倫子教諭が出席を取り始めたところだった。

 何とか滑り込みで間に合ったと、透は自分の席でほっとした。

 だがふと優華の方を見ると、彼女がやけに暗い様子であることに気付いた。何か痛みに耐えるような表情をして、目を伏せている。周囲はそんな優華を気遣わしげな視線をよこすばかりだ。

 どこか体調でも悪いのだろうか――最初はそんな風に思った。

 透が事実を知ったのは、昼休みになってからだった。

 いったいどこの誰が、そんな情報を流したのか皆目見当もつかない。そもそもセクハラのことを知っているのは透と尚美、死んだ丹羽教諭だけとは限らないはずだ。決してそう思い込んでいたわけでもないし、事態を楽観的に捉えていたわけでもない。

 だがそれにしても、あまりに残酷すぎるだろう。被害者でしかない尚美が、なぜここまで非難の的になるのか理解できない。

 伝染病のように広まった噂は、人間の醜悪な側面をここまでむき出しにするものなのか。

 これもまた、現実における理不尽さの発露なのか――透は無意識のうちに、深く重い溜息を吐いていた。


     6


 梶谷透にとって休日の自宅ほど、息が詰まる場所はなかった。

 三人の家族が同じ屋根の下で暮らしているとは思えないほどの静寂が、その場を満たしていた。聞こえるのは申し訳程度の生活音ぐらいだった。

 姉に似て堪え性のない透が音をあげるのに、そう時間はかからなかった。自分の部屋で漫画を読みながら音楽を聴いて誤魔化そうとしても、どうしても息の詰まりそうな空気を肌で感じてしまう。

 自宅を出ると、得も言われぬ解放感が透の身を包んだ。自宅の淀んだ空気とは比べようもないほど澄んだ空気を吸い込んで、彼は歩き出した。

 外出をしたからといって、特に目的があるわけではなかった。強いて言えば、家から外に出ること自体が目的で、その目的はすでに達成されている。

 とりあえず近所をぶらぶらと散策してみることにした。ランニング中の女性や、飼い犬を連れている子どもとすれ違う。

 商店街では書店やCDショップなどで時間を潰す。昼時になると、手頃なファストフード店でハンバーガーのセットを平らげた。

 姉の深月が生前、この店でもアルバイトしていたことを思い出す。高校卒業後は一人暮らしをするつもりだった深月は、貯金のためにいくつものアルバイトを掛け持ちしていた。学校が休みの日は、それこそ朝から晩まで働いており、友人と遊びに出かける暇すらないようだった。

 夜遅く帰宅したときなど、両親に叱責されているのを耳にした回数は、両手両足の指を合わせても足りないほどだ。それでも深月は、彼らには自分の目標を伝えることはなかった。

 最後まで深月は、両親には黙っているつもりだった。まさかそこまでした努力が、一夜にしてすべて水泡に帰してしまうなど、思いもよらなかったに違いない。

 

 事件があった日、外が暗くなってもなかなか深月は帰ってこなかった。

 いつものアルバイトだろうと、透は思った。だが深月にはその夜、アルバイトのシフトが入っていなかったことを知ったのは、事件が発覚した後日になってからだった。

 深夜を過ぎた時間――警察からの連絡を受けたのは、透の母だった。激しく動転し、まるで要領を得ず、見兼ねた父が電話を代わった。

 透の父は昔から寡黙な性格だった。多くを語らず、透は母と一緒に父の運転する軽自動車に乗り込んだ。寝惚けていたせいか状況がうまく把握できず、ただ漠然と自分の姉に関係することなのだろうと考えていた。

 そのときは、まさか自分の姉が死んでいるなど思いもよらなかった。車内の重苦しい沈黙の後、警察署に到着してから霊安室に通されたときも、本当の自分はまだベッドで眠っていて、今はただ悪い夢を見ている途中なのだと、半ば本気で信じていた。

 だがその夢は結局、いまだに覚めることはなかった。

 薄暗い霊安室で、警察の手によって姉の顔を覆うシーツがめくられる――変わり果てた姉の姿を目の当たりにした瞬間、透は今という現実を――姉の死という事実を、認めざるを得なくなった。

 透の母は冷たくなった深月の体に覆い被さり、泣き叫んだ。娘の名前を何度も呼ぶ悲痛な声が、透の耳朶を打った。

 母とは対照的に、父は呆然と娘を見下ろしていた。感情のすべてが麻痺してしまったかのようだった。

 そのとき、微かに父の唇が動いた。

 ――おまえが……。

 喉の奥から絞り出すような、父の呟きだった。

 ――おまえがいなくなってしまうなんて……。

 その間、父は一度も娘から目を逸らさなかった。

 ――おまえじゃなくて、透の方だったら……。

 何かよくない者に、父は憑かれているように見えた。

 ――そうだ……透が……透が死ねば……。

 自分の声が隣にいる息子に聞こえていることなど、まるで考えに至らない。

 ――透が代わりに……おまえの代わりに死ねばよかったんだ……。

 それからは延々と、似たような台詞を繰り返していた。父の呟きは、透以外の誰も耳にしていなかった。

 姉の死と父の言葉――一夜のうちに、透は二度も絶望を味わうこととなった。

 今でも当時の記憶を、本気で抹消してしまいたいと願う。だが重要なことをうっかり忘れてしまうことはあるのに、忘れたいことに限っては、なかなか頭の中から消えてはくれない。

 人間は嫌な思い出ほど、いつまでも根強く残っているものだった。


 透はファストフード店を後にすると、次は斜向かいにあるゲームセンターに立ち寄った。入口近くにある両替機で、千円札を何枚か小銭に替える。それから店内の片隅にあるシューティングゲームの個体の前に座った。小銭はあっという間になくなり、また両替を済ますと、今度は先週から新しく稼働したばかりのレースゲームに挑戦した。

 ゲームに夢中になっていると、時間が経つのは早かった。気が付くとすでに西の空が赤くなっている。

 そろそろ帰ろうと思い、透はゲームセンターを出た。

 商店街の東の外れにある公園の前を通る。設置してある遊具といえば、ブランコと滑り台ぐらいだ。一見は広く見えるが、かつてはジャングルジムやシーソ、雲梯などもあったところが、事故による子どもの怪我が増えたことが原因で撤去されたため、そう映るだけだった。

 ブランコや滑り台でも怪我をする子どもはいるはずだが、なぜこれらは良くてその他の遊具は駄目なのか、その線引きが透には不可解だった。

 そもそも子どもの怪我を公園の遊具のせいにするというのも、少し乱暴な気もする。あくまで遊具は子どもを学ばせ、育ませるもので、決して彼らを傷つける凶器ではない。

 遊具に限らず、完璧な安全を保障できるものなど、この世に存在しない。それが少なからず人間の手が加わっているなら、なおさらだ。使う人間次第で、どんなものでも安全にも危険にもなり得る。そのすべてを取り上げていたらきりがない。

 そうしたことの現状が、透の目の前にある公園だった。中途半端な対処による結果が、こうして目に見える形で残されている。不自然なほど開いた空間は、全体として捉えたときにちぐはぐな印象を受け、どうにも居心地が悪くなってくる。

 そのためなのか、休日にも関わらず公園に子どもの姿は見られない。人気のない公園の風景というのは、眺めているだけで寂しい気持ちにさせられる。

 いや――公園内には、誰もいないというわけではなかった。

 「……?」

 公園の休憩所に、透と同年齢ほどの少女が腰かけているのが見えた。彼自身、少女にどこか見覚えがある気がした。

 「――あ」

 ようやく思い出した。私服姿だったためすぐには気が付かなかったが、その少女は九澄優華に間違いない。

 近頃はよく彼女と出くわす機会が多いが、休日に見かけるのは初めてだった。

 「妙な偶然だな……」

 透は独りごちた。それから一言声でもかけようかと迷ったが、すぐに自分はそんなことをする柄ではないと思い直した。

 それに――優華はどうやら泣いているらしかった。公園の入り口から休憩所までの距離は離れているものの、彼女が手で目元を覆い、俯く様子からそうと察した。

 優華が泣いているとなると、余計に声をかけ辛くなった。まず最初に何と言って話しかけるべきなのか、見当もつかない。

 「……おれにやれることなんか、初めからないか」

 そして透は、公園の入り口を横切った。

 優華のために、どうして自分がここまで心を砕かなければならないのか――そこまで相手にいい印象を与えたいのか。そうしたことで自分はどんな見返りが得られるというのか。           

 無償の行為に時間と労力を費やしたところで、後で裏切られたときのショックが大きくなるだけだ。それなら、確実にメリットがあると判断したときのみ、行動を起こすべきだ。

 そこまで考えた結果として、透にはやはり、優華に声をかける理由が見つからなかった。

 公園は次第に遠ざかり、やがて視界から見えなくなった。


 透が公園から離れて、十五分が経った。

 「――――あれ?」

 間の抜けた声が口から漏れた。ふと我に返り、自分は今何をしているのかと自問した。

 商店街には、もう用はないはずだった。だが気付いてみると、自分が歩いているのは商店街の歩道だった。

 「…………」

 足が勝手に動いた――そうとしか考えられない。二本の脚が、自分の意志を無視して体を運んでいる。そう考えることにした。

 実際、そんな映画や小説のような事態は、現実世界では起こらない。

 そういえば、手にもいつの間にかどこかの店の箱らしきものを持っている。いったい自分はこれから何をしようというのだろうか。

 再び公園の前までやってきた透は、今度は躊躇うことなく敷地内に足を踏み入れた。

 まっすぐ休憩所に向かっている時点で、透は自分のやろうとしていることを正しく理解した。

 頭の中では、自分の行動に対する疑問が渦巻いていた。それでもなぜか、抗う気は失せていた。自分のことながら、とにかく最後まで成り行きに身を任せることにした。

 「――よぉ」

 透が声をかけると、優華は大袈裟なほど驚き、慌てた。誰にも見られていないと思っていたのだろう。

 「え――? か、梶谷くん? ちょ、ちょっと、ちょっと待って――」」

 顔を隠し、急いで涙を拭く。透にはすでにバレバレなので、あまり意味がない。

 それでも優華は、彼に泣き顔を見られたくないのだろう。

 「ええと、ごめ、ごめんね……」 

 鼻を啜りあげ、優華は透に顔を向けた。笑顔を作ってみせるが、対照的に目の赤さが際立ち、それだけに痛々しい。

 「……前、座っていいか?」

 「うん……」

 優華が頷くのを確認して、透はテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。

 「…………?」

 優華は、透がテーブルに置いた箱が気になるようだった。

 「ねぇ、梶谷くん」

 「何だ? 九澄」

 「そこのお店に行ってきたの? 前には内緒にしてくれって言ってたのに……」

 透が持っていたのは、以前に優華と鉢合わせしたケーキ屋の箱だった。

 「ああ……まあな」

 「わたしはてっきり、梶谷くんはもうあのお店には行かないものだって、勝手に思ってたけど……」

 「いや……その通りだけどな。今日は事情が違うっていうか」

 「もしかして、誰かのお祝い?」

 「そうじゃないんだが……」

 「?」

 優華は首を傾げた。彼女からすれば当然の反応だろう。透は自分の不器用さ加減に嫌気がさしてきた。

 「……今日はな、これを買ってきたんだ」

 透はおもむろに箱を開けた。

 「ほら……あのとき、おまえが薦めてくれたものだ」

 「――え?」

 透が箱から取り出したものを見て、優華は目を丸くした。

 「シュークリーム。ここの店で一番美味いんだろ?」

 「あ……」

 どうやら優華は、自分の発言については今まで忘れていたようだった。手に持ったシュークリームを、透はそのまま彼女へ差し出した。意図を測りかねるように、優華は彼の顔を見る。

 「……やるよ」

 ぶっきらぼうに透は言った。

 「やるって……わたしに?」

 「そうだよ。だから早く受け取れって」

 「だって、梶谷くんが買ってきたものじゃないの?」

 「いいんだって。ほら――」

 得心のいかない様子だったが、言われるままに優華はシュークリームを受け取った。

 「ありがとう……でも、どうして?」

 優華が訊ねると、透は口調を変えずに答えた。

 「落ち込んでるときは甘いものを食うといいって、よく言うだろ」

 「――っ」

 その一言で、優華は理解したようだった。

透が彼なりの方法で、彼女を励まそうとしていることに気付いた途端、彼女の目尻に涙がまた滲み出した。

「お、おい泣くなって――絶対に泣くなよ?」

 透が滑稽なまでにおろおろしたことで、優華は泣くに泣けなくなったようだった。目尻の涙を指で拭い、口元を綻ばせる。

 「ありがとう梶谷くん……いただきます」

 「お、おう……」

 透も自分のシュークリームを手にし、二人で向かい合って食べ始める。

 「……うん、美味いな」

 「そうでしょ?」

 「クリームもかなり濃厚だな。それに思っていたより甘すぎなくて、食べやすいな」

 「うん。ダイエットしてても安心して食べられるよ」

 「……え? 九澄ってダイエット中だったのか?」

 「――あ、ごめんね。違うの。ダイエットしてるのはわたしじゃなくて、なお――」

 はっとした表情をして、優華は言葉を切った。彼女が口にしそうになったのは、親友である新海尚美のことだろう。

 「……あのさ、九澄」

 真面目な口調で、透は言う。

 「おれが言えた義理じゃないけど、辛いときは辛いって正直に言ってもいいと思うぞ」

 「梶谷くん……」

 優華はしばらく何かを考えるように、手にしたシュークリームを見つめたまま黙り込んでいたが、やがて決心がついたのか口を開いた。

 「今日は……尚美の家に行ってきたの」

 「……そうか」

 「でも部屋に籠りきりになってるらしくて、結局……顔も見られなかった」

 「…………」

 「クラスの友達に聞いたんだけど、尚美のいた女子バレー部が廃部になりそうなんだって……」

 「代わりの顧問が見つからないのか?」

 「うん……それで学校では、部活の子たちがよってたかって尚美の悪口を言いふらしてるんだって。まるで尚美が丹羽先生を殺したせいみたいに……」

 丹羽教諭によるセクハラについても、そのときに伝わったのかも知れない――込み上げる嫌悪感を、透は唾液とともに飲み込んだ。

 「携帯で電話をかけても、メールをしても、尚美からは返事がなくて……これからわたし、どうしたらいいか分からないよ……」

 優華の声が次第に震えてくる。

 「尚美が丹羽先生からのセクハラで悩んでいたなんて、わたし知らなかった……何かあったかもとは思っていたけど、尚美に嫌われたくなくて聞けなかった……でもこんなことになるなら、嫌われてもいいから聞けばよかった……」

 透は黙って、優華の紡ぐ言葉に耳を傾ける。

 「……わたし、尚美に無神経なこと言っちゃった。尚美と〈呪いのアドレス〉の話題になったとき、わたしは『殺したいほど憎い相手はいない』って……あのとき、尚美がどんな気持ちでいたのか、まるで知りもしないで」

 優華のせいではないと言って、彼女を慰めるのは簡単だろう――だがそんなその場しのぎでしかない台詞を口にすることに意味があるとは、透には思えなかった。

 「……悪かった」

 透は、深々と頭を下げた。

「……どうて梶谷くんが謝るの?」

 「実は屋上でおまえと新海が言い合いになったとき、おれもあの場にいたんだ」

 「――え?」

 「梯子をのぼった上だ。昼はいつもそこで過ごしてるからな」

 「…………」

 「だからその前に丹羽と新海の間で何が遭ったのか、そのことも知っていた」

 「…………」

 「その上でおれは、九澄には黙っていた」

 「…………」

 「でも結局、おれは間違っていた。あのとき、もっと早めに対処するべきだった……」

 「…………」

 「おまえよりもずっと罪は深い。おれは知っていたにも関わらず、何もしなかったんだからな」

 「…………」

 優華は自分を責めるだろうと、透は思った。罵倒されてもいい。それで少しは優華自身の罪の意識が軽くなるなら、それで構わない。

 他人から嫌われるのは、もう慣れている。それが優華だからといって、何も問題はない。すべて受け止めることができるだろう。

 長い沈黙の末、優華は口を開いた。

 「……ありがとう、梶谷くん」

 予想に反し、優華は笑みを浮かべて感謝の言葉を口にした。

 「…………?」

 「梶谷くんが黙ってたの、尚美を思ってのことなんだよね?」

 「違う……おれはただ見過ごしただけだ」

 透は全力で否定する。

 「それは梶谷くんが、自分でそう思い込んでいるだけだよ……根はとても優しい人だって、わたしは思ってる」

 「だから、違うって言ってるだろ?」

 透はつい、声を荒げた。

 「九澄はおれのことを買被りすぎなんだよ。おれはおまえが思ってるような良い人間でも何でもない」

 優華の表情が笑みが消え、透はようやく自分の発言を悔いた。だが一度、自分が口にしてしまった言葉は取り消すことなどできない。

 「……どうして、梶谷くんはそこまで意地になるの?」

 鋭い視線が、透に向けられる。

 「わたしは、本当に嬉しかったのに。梶谷くんの言葉で、本当に力を貰えたのに」

 どうやら優華は、本気で怒っているようだった。こんな彼女を見るのは、透も初めてだった。

「梶谷くんは、いつもそう……誰にも心を開こうとしない。それどころか自分自身とすら向き合おうとしない……そんなの、現実から逃げてるだけだよ」

 「っ――――」

 言い返そうとして、透は愕然とした。反論のための言葉が、何一つとして思い浮かばない。

 「さっきも、わたしのことを放っておくこともできたのに、そうはしなかった……梶谷くんが自分で認めようとしないだけだよ」

 優華の言葉は実によく的を得ている。勘がいいというのは事実らしい。

 「そんなやり方ってない……ズルすぎるよ」

 「待てよ九澄。おれの話を聞いてくれ……」

 かろうじて、透はそれだけ口にした。

 「聞かない。これ以上、自分を貶めるようなこと……わたし、聞きたくない」

 言って、優華はそっぽを向いた。強気になった彼女に、透はたじろいでいた。

 もしかすると自分は将来、嫁の尻に敷かれるタイプかも知れない――場違いにも、そんなことを思った。

 「――とにかく梶谷くんは、どんなに頑張っても悪役にはなれないよ」

 顔を背けたまま、優華はそう話を締め括った。

 「分かった。参った……おれの負けだよ」

 ついに透は白旗をあげた。完膚なきまでに叩きのめされたボクサーの気分だった。 

 優華は顔を戻し、ようやく表情を緩めた。

 「梶谷くんはありのままが一番いいと思う。わたしは、そんな梶谷くんの方が好きだよ」

 「――好き?」

 反射的に、透は訊き返した。

 「――え?」

 優華の顔が、見る間に赤くなる。

 「ええと――す、好きっていうのはそういう意味じゃ――いや好きじゃないっていうこととはち、違くって――好きは好きなんだけど、な、何ていうか、そ、その――」

 それまでと打って変わり、口調はしどろもどろだった。

 「……九澄って、そうしてると案外可愛いんだな」

 ぽろっと、透の口からそんな言葉が漏れる。

 「――――っ!?」

 ますます優華の顔は真っ赤になり、残りのシュークリームを口いっぱいに頬張った。

 「……な、何を言ってる……の? 梶谷くん……は」

 「そ、そうだな……おれ……らしくないな……」

 透も急に恥ずかしくなり、自分の食べかけのシュークリームを食べ切った。

 「……ごちそうさま。ありがとう、梶谷くん……」

 「ど、どうってことないぞ……」

 互いに意識し過ぎて、ぎこちない会話になった。

 「じゃあ、おれはもう帰るから……」

 「うん――あっ、そうだ」

 何か思いついたように、優華は透を引き留めた。

 「何だ?」

 「……あ、あのね梶谷くん。よかったら携帯の番号、交換しない?」

 「……へ?」

 「あ、ごめん……嫌ならいいんだけど……」

 そんなことを言われたら断れるわけがない――いや、そもそも透に断る理由はない。

 「別に、構わないぞ?」

 「本当? よかった」

 そして透と優華は、互いに自分の電話番号とメールアドレスを交換し、登録を終えた。その間、優華は終始嬉しそうだった。

 「……ねえ、梶谷くん。一つだけ聞いてもいい?」

 ふと、優華は口を開いた。 

 「ん? どんなことだよ?」

 「梶谷くんは今日、どうしてわたしに声をかけてくれたの?」

 「ああ……」

 透は答えに窮した。自分でも自分の行動に驚いているというのに、言葉でどう説明したらいいのか、彼は困った。

 結局、頭ではいくら考えても分からないので、透は自分の心に浮かんだ気持ちを、そのまま優華に伝えることにした。

 「……九澄さ、前に言ってくれたよな?」

 「?」

 「おれは笑顔でいる方がいいって、言ってくれただろ?」

 優華は頷いた。

 「でもよ、そう言う九澄が笑ってないと、何も意味がないんだよ」

 「…………」

 「笑っている方がいいのは、九澄の方だろ……当のおまえがへこんでいるのを見せられて、おれにどう笑えっていうんだ」

 「あ…………」

 「そう思ったら、何だかイライラしてきたんだよ……人には笑うように言っておいて、あまりに勝手だと思って。それで気が付いたら、な……」

 「……そうなんだ、ごめんね……」

 「謝る必要はないだろ。この場合さ」

 「うん……ありがとう」

 言って、優華は満面の笑顔を見せた。

 「……まったく、世話が焼けるな」

 「それはお互い様だよ?」

 「そうだな。それもそうか」

 そして透も優華に向けて、心の底から笑いかけていた。

     

     7


 公園における出来事から、更に二週間が経過していた。新海尚美は、いまだ学校に顔を見せずにいる。

 親友がまた以前のように登校できるように、九澄優華は行動を起こしていた。梶谷透が聞いたところによると、彼女は何度も噂の発端となった女子バレー部に足を運び、話し合いを試みているらしい。手を貸すことも考えたが、自分の存在で余計に話がこじれたら問題だと思い直した。陰ながら見守るしかないのはどうにも歯がゆい。

 これまでは、誰かのために協力するなど無意味だと思っていたのに、いざ、自分が協力したいというときには、それができない――皮肉としかいいようがなかった。

 自分の中に生まれた変化には戸惑いもあったが、日が経つにつれてそれも慣れてきた。こんな気持ちも、そう捨てたものではないと透は思い始めていた。

 その日も昼休みになると、透は購買部で買ったコロッケパン等の昼食を手に、屋上の塔屋に続く梯子をのぼった。

 コロッケパンの封を開け、いざ齧りつこうとしたとき――屋上のドアが開く音がした。

 「九澄……?」

 予鈴間近ならともかく、こんな時間にくるのは珍しい。

 屋上に来た人物は、迷うことなく梯子を上ってくる。

 「――あ、本当にいた。梶谷くん」

 現れたのは予想に違わず、優華だった。

 「どうして、おれがここにいるって分かったんだ?」

 「どうしてって、梶谷くんが教えてくれたんだよ?」

 「――そうだったか?」

 「そうだよ」

 言われてみれば、確かにそんなことを言った気もする。 

「わたしも、お邪魔してもいい?」

 優華はおずおずと訊ねる。

 「いいも何も、もともとおれだけの場所じゃないからな。許可はいらないだろ」

 「そうじゃなくて。今日のお昼は梶谷くんと一緒にと思ったんだけど、迷惑じゃないかなって……」

 「あ……おれの方はまったく問題ない。まだ食べる前だし、気にするなって」

 何でもっと素直な言い方ができないのだろうと、透は後悔した。

 「でも、九澄はいいのか? その……ほら、クラスの女子と一緒じゃなくて」

 「お昼はいつも、尚美と一緒だったから……」

 透はいきなり地雷を踏んだ。これまでの自分が、いかに周りに興味を持ってなかったかを自覚した。

 「う……マジですまない」

 「謝らなくていいよ。それに今日はいいことがあったんだよ」

 言って、優華は透の隣に腰を下ろす。

 「いいことって?」

 「女子バレー部の顧問が、やっと見つかったんだよ」

 「マジでっ? じゃあ廃部にならずに済むのか?」

 「うん、本当によかったよ」

 確実に好転しつつある事態に、透も喜びを感じた。優華が笑顔を見ていると、なおさら胸が熱くなる。

 「尚美にもさっき、メールで知らせたんだよ。そうしたら《ありがとう》って、返事が……」

 言葉を詰まらせた優華に、透はそっと話しかける。

 「いい親友なんだな、九澄は……きっと新海にもそれは伝わってるだろ」

 「だったら……いいな」

 「おいおい、もうちょっと自信持てよ。おれにあれだけ、がつんと言った勢いはどうした?」

 「そうだよね、ごめんね」

 優華は微笑みながら謝る。

 どんな困難でも、すべてうまくいく予感が透はしていた。今日、優華から知らされた朗報で、彼は実感した。


 その後の昼食も、透は優華と一緒にとるようになった。その度に尚美の件ついての途中経過が、彼女の口から語られた。

 顧問が見つかったことがきっかけとなったのか、女子バレー部の態度は次第に柔らかくなってきているようだった。噂そのものもも沈静化の兆しを見せ始め、最近では尚美への非難の声は、校内でほとんど聞こえなくなっていた。噂というのは広まるときも静まるときもあっという間だった。

 「――それでね尚美、明日になったらまた学校に来てくれるって」

 優華はにこにこと、心の底からの喜びを隠し切れない様子だった。

 「そうか……」

 優華の気持ちが移ったのか、透も感無量になり、何度も頷いた。

 「授業に追いつくの大変だと思うけど、協力して頑張ればすぐに差は埋められるよ」

 「……できたら、おれにも協力してくれないか?」

 「だって梶谷くん、最近はちゃんと授業出てるでしょ? それなのに居眠りなんてするから、自業自得だよ」

 「そこを何とか……」

 「…………」

 「お、お願いします……九澄さん」

 「まったくもう、しょうがないな……じゃあわたしと尚美と梶谷くんの三人、放課後は図書館でみっちり勉強ね」

 「お手柔らかに……」

 「うん分かった。特別に梶谷くんにはスパルタでいくから覚悟しててね」

 「鬼だな……」

 「……梶谷くん? 何か言った?」

 「いや、聞こえてるだろ……やめてくれ、その笑顔マジで怖いから」

 そんな会話を交わしながら、透は自分の心が浮き立っているのを、自覚せずにはいられなかった。

 

     8


 最後の記憶として残っているのは、〈何者かの手〉――それだけだった。

 慌てず急がず、慎重に記憶を手繰り寄せていく。その手は右手だったか、それとも左手だったか。

 そうだ――と、少女は思い出す。あの手はそう、右手だった。

 次にその右手は、男か女か、どちらだったのだろうか。更に記憶の深奥へ探りを入れる。

 無関係な記憶とそうではない記憶を選り分け、頭の中で整理をする。現状で必要となる情報の欠片同士を、パズルの要領で嵌め合せる。

 男――少女の記憶は、そう告げた。

 まだ足りない欠片はないか注意を怠らず、パズルを少しずつ仕上げていく。

 男の右手――その右手に、いきなり自分は肩を摑まれた。

 そこに至る以前の経緯――情報に繋がる欠片はどこにもない。すでに記憶から失われているのかも知れない。

 以上の思考は、一瞬のうちに行われた。直後に、少女の意識は戻った。

 だからこそ、夢は見ていない。少女は夢を見ていないはずだった。

 だが目覚めたところは、どう見ても夢でしかありえなかった。

 一言でいうと、そこは夜の世界だった。

 戸惑いつつも取り出した携帯は、いくら操作したところで何ら反応がなかった。壊れてしまったのだろうか。

 少女は町中を歩いた。とにかく自宅に帰ろう――自宅なら家族がいる。そこに疑問の余地などない。

 町中に、通行人の姿はどこにもない。かつてテレビで見たことのある、人類が死に絶えた地球を舞台にしたSF映画を思い起こさせる風景だった。

 これまで自分が暮らしてきた町の有様に、少女は怯えた。自分が意識を失っている間に、いったい何があったというのか――このような状況に陥る理由など、まったく想像が及ばない。

 今の自分が体験していることは、すべて悪い夢に過ぎないというのが、考え得る理由としてはもっともそれらしい。だが少女は、その結論を本心からは信じきることができなかった。

 早く帰りたい――早く自宅にあがり、普段と何ら変わらない両親の顔を見て安心したかった。

 自宅に着くまでがとてつもなく長い時間に感じられた。駆け寄って門を開き、庭を横切り玄関を開ける。

 「――ただいま」

 声をかける――返事はない。

 「……お母さん?」

 台所に居間、両親の寝室と覗いていく。

 「……いないの?」

 がたっ――突然、ドアが開かれた。

 「――っ!」

 反射的に、少女はそちらに顔を向けた。

 そこは、父の仕事部屋だった。内側から開かれたドアの向こうから、人の姿が現れた。

 父の仕事部屋なら、そこから出てくるのも父でなければならないはずだった。

 「――――誰?」

 だがそれは、少女の父ではなかった。

 「……おかえり、随分と遅かったな」

 そう口にしたのは、少女の知らない人物だった。ぼさぼさに乱れた髪、病的なまでにこけた頬と落ち窪んだ眼窩の、外見からすると二十代後半ほどの男だった。

 「駄目じゃないか、こんな夜遅くまで出歩いていたら……」

 男は喋りながら近づいてくる。少女は離れようと後退した。

 「無差別的な猟奇殺人――君もニュースで見たことない? だから……今は特に物騒なんだよ。犯人はどこで何をしているか知れたものじゃないし」

 少女は更に後退する。

 「もしかすると今、君の目の前にいるおれがそうかも知れない……」

 そう言った直後、男は少女に飛びかかった。

 少女はなすすべもなく、床の上に押さえつけられた。

 「いやっ――やめ――」

 抵抗する少女の上に馬乗りになると、男は腰のベルトから何かを取り出した。

 「――――っ!」

 少女は両目を見開き、それを見た。

 男が手にしているのは、大振りのナイフだった。

 「……最近、誰かの恨みを買った覚えはない?」

 ナイフの刃を少女の頬に当て、男はそんなことを訊ねた。

 すぐには何のことだか分からなかった――だが男の言っていることが、〈呪いのアドレス〉に関することだと気が付くと、少女を本物の恐怖が襲った。

 「誰の恨みか、身に覚えはない?」

 瞳から涙を溢れさせながら、少女は首を横に振る。

 「……そうか。知らずに死ぬのは酷だからな……教えてあげよう」

 男は少女の耳元に口を寄せ、誰かの名前を囁いた。少女は身を震わせた。

 「――思い出したみたいだな」

 言って、男が顔を離そうとしたとき――少女が暴れ始めた。

 「大人しくし――っ!」

 振り回される少女の手――その右手の親指が、男の左目を抉った。

 男の喉から叫び声が迸った。両手で左目を覆い、床を転げまわる。

 少女は、その隙に立ち上がった。がくがくと震える足を押え、必死で走った。玄関のドアノブを回し、庭に飛び出した。そして、その先にある門を目指す。

 少女は門に辿り着き、閂を外す――。

 「……残念だったな」

 門を開いたところで立ち塞がったのは、自宅内にいるはずの男だった。先回りすることなど、常識的に考えて不可能だった。

 「……どうして」

 愕然とする少女に、男は語りかける。

 「感付いていただろう? ここは君が知っている現実とは違うってことを」

 そして男は、左目を覆っていた手を離した。

 傷ついていたはずの左目は、何事もなかったかのように元通りになっていた。

 「おれはとっくに、この世界の住人なんだ」

 男は無造作に伸ばした右手で少女の髪を鷲摑みにし、そのまま門の内側に入った。

 「それでも人並みに痛覚はあるみたいだ。肉体の方はもう死んでいるというのに」

 躊躇なく、男は少女の頭をブロック塀に叩きつけた。手を離すと、少女は地面に倒れた。

 「……あ……う……」

 少女にはまだ意識があった。だが抵抗できるほどの力は失われていた。

 「……だ……」

 「ん? 何だ、質問でもあるのかい?」

 大振りのナイフを手に、男は少女の脇に屈みこんだ。

 「いいよ。分からないことがあれば、何でも答えよう」

 意識が混濁する中、少女は何度か口をぱくぱくとした後、ようやく言葉を発した。

 「だ……だれ、な……の…………?」

 質問内容を理解したことを示すために、男は頷いてみせた。

 「おれかい? おれは――」

 若干の間を空けてから、男は答えた。

 「おれは、樋口潤平だよ」

 そして男は、右手のナイフを大きく振り上げた。

 今まさに自分の命を奪わんと、弧を描きながら迫りくるナイフの切っ先を、少女は目を逸らさずに眺めていた。

 閃光のように、少女の視界がひとつの顔を捉えた。それが少女にとって、最期に思い浮かべた顔となった。

 それはかつて、少女がもっとも気にかけてやまなかった、ひとりの少年の顔だった。

 

 「……梶谷、くん――」

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