◆24 8時20分
◆24 8時20分
「起っきろー!!」
気持ちよく寝ていた私こと、暗世明の耳に、憎たらしいほど元気な声が入り込む。
当然眼が覚めた。
ゆったりと体を起こす明。
だが、完全に起き上がらないところで一時停止。
明の顔色がガラリと変わる。
それを見たのだろう。起きろと言葉を発した主が、どうしたのと声をかけてきた。
その声に、反射的に身を飛ばす――とは言っても、数十センチ移動しただけだが。
背をぴったりと壁につけ、声の主をにらむ。
なぜ平日の朝っぱらからそんな行動を。
答えは簡単。
今しがた明を起こした声、それは聞いたことのないモノだったから――。
「遅刻しちゃうけど……」
明の行動に合点がつかず、首をややかしげる女。
明は誰だお前と吼えようと声を出そうとしたとき、ふと記憶が蘇る。
今日の真夜中。
目の前の女が、アイツと同じように侵入してきたことを。
寝起きからようやく覚醒し始めた頭が、顔色を自然と元に戻す。
肩の力を抜いた明に、目の前の女は再度同じことを言った。
「遅刻するけど」
その言葉に、無意識に机にぽつんと置かれた時計へと眼を向けた。
アナログ時計が知らす、8時20分。
明の顔色がまたも悪くなり、口元がややひきつった。
「やっば!」
布団を蹴り上げ、飛び起きる。
飛び掛るかのようにタンスへと身を跳ねさせ移動した明。
女がまるで見えてないかのように、無視した態度。
そうせざるを負えない状況に立たされているので、仕方ないといえば仕方ないか。
1分という神業的な速さで身支度をすべて済ませる。
鞄をひったくり、朝ごはんの入ってない腹を無視し、靴に足を突っ込む。
履いたときに中へとへこんだかかとを、力に任せ指でもとにもどす。
鍵を出しながら玄関をあけようとする彼女の背に、あの女が声をかける。
「はい、お弁当」
まるで恋人かのように、可愛らしい笑顔で明がいつも使っている弁当を差し出す。
ものすごく驚いた表情のまま、それを受け取る。
早くしないと遅刻するぞ、と芝居がかったセリフをウィンクしながら口にした。
彼女の言葉に、遅刻しそうだということを思い出し、手ではなく、腕であて押し玄関をあける明。
玄関が閉まるや否、
「ありがとう。じゃあ」
やや上半身をひねり、礼と行ってくる旨を言葉にした。
ガチャンと大きな音を立ててしまる扉。鍵をかける。
明が口にした言葉の返事は――。
***
由奈と沙耶にいつもどおり挨拶を交わし、席につく。
まだ担任の西は来ていないようで、鐘が鳴り終わり皆が席についた状態だが、教室はざわざわとしていた。
席に全体重を落っことすかのように、座る。
ドクドク鳴る心臓を落ち着かせるため、長く息を吸い、少し溜め、ゆっくりとはいた。
季節は冬という、吹く風が冷たいを超える時期なのだが、全力疾走をして頬を赤くした明は、体中があつくてしかたなかった。
弁当と一緒に渡された、お茶の入ったペットボトル取り出し、中身を喉に押し込む。
冷えたお茶が愛しく、どれだけペットボトルをさかさまにしても、口から外さなかった。
いよいよ中身がなくなり、口からはずした。
横に掛けられた鞄に、放りこんだとき、がらがらと音が聞こえた。
教室の空気が変わる。まあ、それはいつものことだが。
騒がしかった教室が、いきなり静かになった。
みなれた格好で、今日もまた教室に入ってきた西は、教卓の前へと足を運んだ。
出席をとっていく。
いつもどおりだ。
いつもどおり……。
ただ、いつもではないが、ときどき起きることが今日も起きた。
あいつだ。
「やっほー! おっはよーございまーーす!! またまた遅刻しちゃいましたー。すいませーん」
朝からイラつくハイテンションで、教室へと入ってきた男、高瀬は、堂々と自分の席へと向かった。
だが、その足を止める西のどなり声。
「いいかげんにしろよ! なんだその態度は!」
「謝ってるじゃないですかー」
「謝る謝らないの問題でもなければ、それが謝っている人間の態度でもない!」
「細かいなー、ニッシーは」
「だからそのふざけたあだ名をやめろと何度言ったら分かるんだ! 私は教師で、お前は生徒という教えてもらう立場だ。敬語を使え! いつから友達になった! 同等の立場じゃないことぐらい、中学生なんだ理解しろ!」
どなり声が一方的に飛ぶ。
また始まった、と心の中でため息をつきながらつぶやく。
周りも同じことを思ったのだろう。
一体感という奇妙な空気が流れる。
そして横から、クスクスと抑えない笑い声。
だが、その声に西の耳には届かない。
当たり前だ、なぜなら笑った人物――いや、翼を持つ存在は、西には見えてないからだ。
西だけではない。
空中に浮いてる存在を、誰も指摘しない。
そして、見えてる人間は、見えてないふりをしていた。
たとえば、意味もなく机の傷を見続ける明とか。
つい先ほど弁当を突き出した女は、空気も読まず、聞こえないことをいいことに、空中で笑い転げていた。
なぜ彼女がいるのか。
その理由はとても簡単で、鍵をかけ走り出した明の背中へとついていくと元気のいい返事をし、あとを追っただけ。
もうこの時点で、いつもどおりではなかったのだが、それはさておき。
何度も走りながら、追い返そうと周りに人がいないことを良いことに、帰れとここで初めて吼えたのだが、帰らず今に至ると。
翼も広げず、カジュアルな服に包まれた女は、普通に街中を歩く人間と差はないに等しい。
まあ、ただの人間は、なにもなしに飛べやしないが。
「笑うのやめて」
ぽつりと、隣の席の人間にも聞こえないよう、本当にしぼった声で言った。
聞こえるだろう、と口にしたが、まったく聞こえなかったのか、聞く耳を持たなかっただけなのか、笑い声が止むことはなかった。
いつのまにか、どなる西の声は消え、そしてその姿も消えた。
ヘラヘラとした顔が、動き席についた。
またも騒がしさが復活する。
もちろん、さきほどよりは抑えられた騒がしさだったが。
今回の教室の空気を悪くした張本人へと、声が投げられる。
もちろん、文句などでなく、友達同士のからかいに似たような言葉であった。
いつのまにか過ぎた時間。
聞きなれた鐘が、一時間目が始まったことを報せる。
少し遅れて開かれた扉。
そこからは、理科担当の教師の姿。
今日もまた、丹野の号令で、授業が始まった。
後ろでようやく笑うのを止めた女が、明の耳へと言葉を送り込む。
べつに耳打ちなどしなくともかまわないだろうに。
言葉は短く、明はそれにため息で返した。
――先に帰ってるよーん。
教科書を開いた。




