第1話:【0km/h】山の神、霧の向こうへ
あと、1秒。
その1秒を、どうやって削り出すか。それだけが俺のすべてだった。
橘宗一。二十歳。
江戸国際大学駅伝部の二年生。
世間が「箱根駅伝」と呼んで正月に熱狂する、あの東京箱根間往復大学駅伝競走。その中でも最も過酷とされる「5区・山登り」で1年生にして区間賞を獲得し、令和の山の神として、注目を浴びているランナーだ。前回は優勝を逃したが、今度の箱根では絶対優勝を目標に、他大学のライバルたちと血を吐くようなタイムの削り合いを演じていた。
本番まで、あとわずか。
選考の最終段階に入り、プレッシャーで頭がおかしくなりそうだった。
居ても立ってもいられなくなった俺は、まだ夜も明けきらない午前四時、大学の寮を抜け出して一人、箱根の山道にいた。
オーバーワークなのは分かっている。
だけど、走らなきゃ死ぬ。いや、走れないことの方が、俺にとっては死と同義だった。
「すぅー……はぁー……」
晩秋の箱根の空気は、ナイフのように冷たくて肺を刺す。それが心地よかった。
上り坂。傾斜は7パーセント。
前傾姿勢を維持し、骨盤を立てる。着地は足の裏全体、いや、やや爪先寄りのフォアフット。体幹で地面からの反発を綺麗に受け止め、推進力に変える。
ピッチを刻め。
ストライドを伸ばすな。山登りはリズムだ。
濃い霧が視界を遮っていた。
一メートル先も見えないような白い世界。
だが、この坂のカーブの角度も、斜度の変化も、頭の中のGPSにすべて叩き込んである。俺は目を瞑ってでもこの山を登り切れる。
ハァ、ハァ、ハァ――。
心拍数が一分間に百八十回を超える。心臓が胸の内で爆音を立てる。
最高だ。俺は今、間違いなく世界の誰よりも速く、箱根の山を登っている。
その時だった。
突如として、白い霧の向こうから、二つの強烈な光が差し込んだ。
鋭いクラクションの音が、山霊を震わせる。
(あ――)
早朝の不法なトラック。
避ける間もなかった。
衝撃は、感じなかった。ただ、身体が信じられないほど軽く浮き上がった気がした。
せっかく覚醒した俺のリズムが、バラバラに砕けていく。
視界が急速に暗転する。
せめて、タスキだけは――。
誰にともつかない思考を最後に、俺の意識は深い底へと沈んでいった。




