episode4 与える人
朝は、昨日と同じ形で始まった。
けれど私は、昨日よりも今日を大切にできる。
目を開けて天井を見上げるたび、
——もう一度ここで息ができる
その事実だけで胸に小さな灯がつき、ほっと呼吸が楽になる。
木の床に足を下ろし、薄く冷たい感触に身を引き締めたあと、私は両手を胸の前で組む。
祈りというより、ただ「ありがとう」を手のひらに集めるような仕草で、今日もこの世界にいさせてもらえることを、そっと神さまへ述べた。
台所では母が鍋の蓋を押さえながら湯気の香りを確かめていた。
「おはよう」
声を掛けると、肩越しに振り返って微笑んでくれる。
「おはよう、ミュリア」
その笑みを見るだけで、今日も生きる方向がわかる。
顔を洗い、朝食をいただき、いってきますを小さく置いて畑へ向かった。
朝露を払う草の匂いは、ここでの毎日の目覚ましだ。薬草は柔らかく光って見え、雑草はどこか湿りを帯びて沈んで見える。
昨日より境界線がはっきりしているような……気のせい?
どこかで、植物たちが「ここまで」と教えてくれている気がして、私は目をこすった。
——…ううん、これは多分疲れじゃない。
手を伸ばし、根を傷つけないよう慎重に摘む。
わっせ、わっせ。
背筋をまるめる作業すら、日常を愛おしく感じて胸の奥が温かい。
私はいつのまにか隣に並んで同じ仕事をしていたお母さんの背に話しかけた。
「お母さんのお仕事って……薬師さんってなにをする人なの?」
問いかける声は幼さのままなのに、中で息をしている感情は学びたいという灯りだった。
ミリアは少し驚いたように瞬きし、
やがて私に向き直り、私の目線に合わせてくれる。
「お母さんのお仕事はね、困っている身体が、もともとの元気を思い出すお手伝いをしているの」
うまく説明できない子供に言い聞かせる時みたいに、柔らかく続ける。
「たとえばこのお花。
眠れない夜にそっと香りを聞かせてあげたら、心がふわっと柔らかくなって眠りやすくなるの。」
次に小さな葉を一枚ちぎり、指先で香らせる。
「こっちはね、頭やお腹が痛い痛い~って泣いてる時、煎じて飲むと身体の痛みがほんの少しずつ落ち着いてくるの」
説明は魔法の話ではなく、手の届く救いのお話だった。
「薬師は病気をやっつけるんじゃなくてね、身体がもともと知っている治る道を思い出すように導いてあげるのよ。だから、ミュリアも患者さんとよくお話しして、その道を少しでも分かってあげてね」
そこまで聞いて、私は胸の奥でぽんと新しい感情が生まれる音がした。
助けてあげる。
私も。
誰かを導いてあげる。
ミリアは私の手を包みながら、
最後にやさしい言葉を落とした。
「だからミュリ。あなたがその子の痛みや苦しみに気がついて、助けたいって思えて、助けてほしいって声が聞こえたら、それはミュリが薬師さんに向いている証拠だと思うわ」
その言葉が、蝋燭の灯りのように胸の底で温かく燃えていた。母は私の様子を眺め、目尻を和らげていた。
「午後はね、いつもと違う作業をお願いしちゃおうかしら?」
いたずらを仕込むみたいに笑うものだから、私も自然と頬がほころぶ。
「ほんと? たのしみ!」
自分でも幼い響きに苦笑しつつ、それを許される今が愛おしい。
昼前になると、私は教会へ向かった。
扉は今日も重たく、腕に小さな決意を込めて押し開ける。
——けれど、そこにいつも最初に座っているアニーの姿はなかった。
神父さまから図鑑を返却し、また借りたいと願い出る。上目づかいの私に、神父さまは喉を揺らして笑い、「もちろんですよ」と本をまた預けてくださった。その幸せな厚みをもう一度腕に抱えた。
「この本を読んでから、なんだか薬草の“声”がわかる気がして……」
神父さまは目を細め、驚きと慈しみを柔らかく混ぜた表情で頷いた。
「セメティア様があなたをよく視ておられる証ですね。どうかそのまま、慢心せずに積み上げなさい。勉め続ける者には、必ず道が拓けます」
小さな礼拝堂に、その言葉は穏やかな鐘の音のように満ちていく。
——そのとき。
ぎぎ、と片側の扉が軋んだ。
振り返るとアニーが立っていた。けれどいつもの頬の血色はない。
呼吸は浅く、目の焦点がすこし彷徨っている。
「……あーちゃん? 具合、悪い?」
問いかけに、アニーはかすかに首を振る。
否定、というより、誰にも迷惑をかけたくないのだと伝える仕草だった。
神父さまと私とで目を合わせ、迷わず駆け寄る。
私の膝に枕を置き、アニーの頭をそっと乗せる。
「今日はね、お勉強より、お医者さんごっこにしよっか」
アニーは力なく笑って、「ミュリ、ありがとお……」と眉を緩めた。その日のわたあめは少ししょんぼりしているようだった。
その日の学びは、祈りの形を変えた。
神父さまは文字ではなく物語を選び、騎士の武勲や冒険者の旅路を、眠気を溶かす声で語り聞かせた。
外の時間は淡い金色に沈み、物語だけが子どもたちの背中を支える光として残った。
放課後、神父さまがアニーを抱えて家へ送り届けると、両親はその様子が遠くから見えていたのか慌てて戸口に飛び出てきた。
「気付けなくて……」「ごめんよ……」
その声を背に、私はそっと礼をして家路へ戻る。
アニーの家を後にし、夕の空気へ溶け出したあと、
私の足は自然と母のいる方角へ向いていた。
アニーを送り届けた帰り道、私は家へ戻る足を止めた。
胸の奥に、昨日まで知らなかった疼きのようなものが残っている。それは不安でも心配でもなく、
ただ——「失いたくない」という願いの形をした痛み。
気づけば足は踵を返して教会へ向いていた。
夕闇と夜気の境目、沈黙を孕んだ扉を押し開けると、堂内はぽつんと星を閉じ込めた箱庭みたいに冷たく静かだった。
誰もいない。神父さまは私の存在をちらりと片隅に置いて本来の仕事に戻ったようだ。
それでも見られている気配だけは残っている。
天井の梁に吊られた灯りは落とされており、代わりに夕日が細工窓からさし入り、聖堂中央の天使像の翼を淡く照らしていた。
私はその足元まで進むと、
すとり、と膝をついた。
胸に手を重ねると、言葉ではなく涙が先にこぼれた。
前世ではこんな祈り方を知らなかった。
誰に願えばいいのか、
何を差し出せば“救い”を手に取っていいのかさえ知らなかった。
ここではただ——願えばいい。
ちゃんと誰かが聴いてくれている。
ゆっくり口が動く。
神父さまに教えられた聖句が、自然に舌から零れていった。
慈光をともす御手よ、
痛みを抱く者の影に、
あたたかな朝をお与えください。
その灯が消えぬうちに。
声にならぬ声。
けれど世界へ投げた瞬間、聖堂の空気がすこしだけ震えた気がした。
天使像の掌に落ちていた夕日が頷くようにふふっと揺れた。誰かが返してくれた——そう思えるほど、静かに。
私は祈りの姿勢のまま目を閉じた。
アニーが治りますように。
名誉でも成果でもなく、欲しいのはいなくならないでほしいという祈願。
やがて立ち上がると、
聖堂の床は夕陽を浴びたのか先ほどよりも温かかった。
母はちょっと帰りが遅くなった私を心配してか、道がよく見える戸口で待っていた。
「おかえりなさい。今日はね、灯果の蝋燭を作りましょうか」
私の全部を目に収めてから、そう言って目を細め、薪の火より温かい声音で続けた。
「材料を集めましょう。使うものはね、」
母は戸棚から古びた籠を取り出すと、私の手にそっと持たせた。
「灯果はね、摘み取るものではなく迎え入れるものと言われているわ」
わかる?と問うように目だけが微笑む。
その言い方が、この行いの意味をすでに半分ほど語っている気がして、胸の奥がすうっと温かくほどけた。私を迎え入れてくれるお母さんみたいに接すればいいのかな。
夕映えの残り香が森の端まで染みわたり、枝葉の隙間では小さい星のような光が瞬いている。
近づくほどに、森は深い息を吐くように湿り気を増して、灯果の光が呼吸に合わせて脈打つのが見えた。
一本の低木の枝先、葉陰に抱かれるようにして実っている灯果。
透き通る皮の内に、心臓の鼓動のような明滅がある。私は息を整える。指先から力が抜けるまで、ひと呼吸。せーので触れず、ただ掌を添えるだけで、枝から灯果は自ら落ちるようにふわりと籠へ降りてきた。
「そう。光を驚かせないことがいちばん大事」
母は声を潜めて言う。
灯果は摘み取られるのではなく、安らげる場所へ降りる” のだ。
私たちは奪ってはいけない——分け与えられている。
いくつか丁寧に迎え入れ、帰り道をたどる。
森の奥から夕刻の鳥の声がひとつだけ落ち、空気が夜に傾く。村の灯が遠くでゆらめき、家々の窓に仕舞い支度の気配が灯る。この小さな暮らし全体が、まるでひとつの祈りみたいだと思う。
家に戻ると、母は部屋の中央に置かれた清水鉢の蓋を静かに開いた。
夜の始まりを映す水面は澄み、そのまま空を写し取っているようだった。
私は籠の底に手を添え、灯果たちをひとつずつ水へ浮かべる。
その瞬間、光がやわらぎ、丸みを帯び、まるで安堵したように静かに呼吸を整え、明滅する。
「灯果は水を鏡代わりにして落ち着くの。
枝を離れると落ち着ける場所を探してしまうから戻る場所を貸してあげるのよ」
揺らぎが静まる。
淡い光が一点ずつ星座を描くみたいに並び、
冷え始めた夜気に溶けながら、水面を淡く染めた。
灯果の光が天井を照らし、板の節に優しい影を落とす。それは火ではなく、炎のない灯り——宿っているという言葉の方が似合う、小さな息づかいだ。
灯果たちが落ち着くにつれ、光は粒のようにやわらぎ、水面に揺れる星の影だけが、部屋の空気を静かに照らしていた。
私は手をそろえ、そっと水鉢から離す。指先だけがまだ微かな温度を覚えていて、
——今、世界に触れたのだと、遅れて理解する。
その瞬間だった。
水鉢の縁に、見覚えのない“光の糸”がふと現れた。
細い、けれど揺らぎの柔らかい光。
まるで水面からこぼれた月の雫が、糸になって残ったようだった。
近づいて覗き込むと、それは苔のように縁に腰掛けていた。光そのものが結晶の衣を纏った形でそこに坐している。
「……お母さん」
思わず囁いて指差すと、母は一瞬だけ息を止めた。
「、月雫苔ね」
名を呼ぶ声は驚きよりも、どこか懐かしさに似ていた。
「久しぶりに見たわ。精霊が安心する場所に根付くものだから…」
私はその言葉を反芻しながら、そっと両手を差し出した。触れた瞬間消えてしまいそうで、
迷子に声をかけるような速度で指を伸ばす。
そして——
光は逃げなかった。
苔の輪郭が指先にやわらかく沿い、ほつれた糸のように掌へ落ちた。
水に濡れないはずの光が、私の手の温度にすとりと馴染む。
母はその光景をしずかに見守り、淡く息を吐く。
「……妖精の導きとも言うの」
呟きには喜びと敬意がまじっていた。
「灯果に宿る光を、あなたが驚かせず迎えられたから、それを見て、光に釣られてついてきたのだと思うわ」
それは褒美のようでもあり、試されていた返事のようでもある。この世界がこちらをじっと観察しているかのようで。
指先の月雫苔は、灯果の光と同じ呼吸でふるえている。
月雫苔。妖精がまるで私にここで、生きていっていいと、ここで共に呼吸をしていいのだというお返事のようだった。
それは祈りの形をしていなかったが、祈りよりずっと深く届いて、世界に許されたような、そんな気がした。
指先の上で月雫苔が灯果に寄り添うように微かに光る。私はそれを掌で包みこみ、光を逃がさぬように息を整えた。
母はしばらく何も言わず見つめていたが、
その横顔に——ほんの少し懐かしむような影が落ちる。
「……ねえ、ミュリ」
低く抑えた声。
炎よりも静かで、けれど灯りの芯を持っている声。
私が顔を上げると、母は柔らかく笑った。
「世界が、ちゃんとあなたを見ているわ。
こういう出会いはね……選ばれた時にだけ訪れるの」
選ばれた
その言葉は指先よりも先に胸の奥へ落ちた。
「昔、私にも……」
そこまで言いかけて、ふっと言葉を閉じる。
続きは語らない。
けれど、その沈黙が確かな事実を告げていた。
——母も、同じ体験をしていたのか
だからこそ、私を見て喜び、同時にどこか祈るような目をしているのだと気付いた。
継がせたいのではなく、見届けたいのだ。
歩いた先に同じ景色があるかどうか
母は私の掌にそっと手を添える。
「すぐ蝋の支度に入りましょうか。
灯果は待ちすぎると、遠くへ帰ってしまうからね」
世界に歓迎された実りを、
世界に還さず留めるための儀式が今から始まる。
私は小さく「うん」と頷いた。
ただの手仕事ではないことを、幼い手も確かに理解していた。
母は戸棚の一番奥から、白木の蓋つき壺を取り出した。冬に向けて静めて固めた蝋——薄い象牙色をした塊。
人の手で削られたものではなく、火と大地と時間がゆっくり結晶化させた静かな重みのそれ。
母はそれを割り鉢に置き、湯煎の支度を始めた。
火床は小さく、けれど呼吸の深い焔。
薪の香りがゆるやかに室内へ広がり、
炎の輪郭が灯果の光をやわらげて抱き込む。
「溶かしすぎても駄目。焦らず、静かにね。」
母は溶けゆく蝋を見つめながら教える。
それは作業手順というより——心構えのようだった。
次に、灯果の静水鉢のそばで母が掌を濡らす。
水面を撫でる指先をすべらせ、灯果を丁寧に掬い上げた。ゆっくりと蝋の鍋へ移す。
触れた瞬間、蝋の内側から淡い光が立ちのぼった。
焔ではなく、灯果と同じ——呼吸する光。
すり鉢にあたる金属音ではなく、うすい鈴のような余韻が鳴る。
私は無意識に息を止めた。
母は灯芯を取り出す。
麻糸に、桑皮を撚り合わせた素朴な芯。それを蝋へ浸す。
まるで清めの儀式のように所作が慎重だった。
「ミュリ、ここからはあなたの手で」
溶けた蝋の鍋が、私の前へ滑らせて置かれる。
私は両手で柄を支えた。
温かさが腕に伝わり、胸元の奥で鼓動がひとつ速まる。魔力という言葉では包みきれない、神秘。
燭台の型に母が用意してくれた芯を通し、縁の方からそっと蝋を注ぎ込む。湯気のなかを、光の粒が落ちていく。
灯火の溶け込んだ蝋が型へ沈む瞬間、
私はそれが火のもとになるのではないと理解した。
これは燃える灯火ではなく、宿る灯心。
焔ではなく
証。
すべてを注ぎ終えると蝋が静かに固まり始めた。
灯芯を取り巻く光は一度だけ震え、
そのあと深い静寂のなかに沈む。
本来は一晩置いてから使うものなのだが、一つだけ手に取ってミュリが初めて灯果を迎えた夜だから、と母は言った。
母はテーブルの中央へ蝋燭を置き、
蝋燭を挟んで私と向かい合う。
母が蝋燭に口を寄せてゆっくり息を吹きかけた。
私はその光景が神秘的に感じ。胸の前で両手を合わせた。声にならない言葉が、胸の奥でゆっくり形になる。
その瞬間だった。
灯芯の先が、息を吸うようにふっと膨らみ、
淡い金色の光が静かに滲み出た。
揺れない。跳ねない。
燃えているのではなく、確実に灯果がそこに宿っている。
日が落ちた暗がりを光は少しずつ部屋に満ち、
板壁の節を撫で、母の睫毛の影を長く伸ばす。
影が柔らかい形を保ったまま揺れていた。
母はそれを見つめ、ひとつ静かに息を吸い——
やがて目許をわずかに緩めた。
「ええ、これは妖精からの祝福の灯とも言うのよ」
祝福。
火ではなく、
焔ではなく、
宿りという名の光がともる。
それはとても小さく
けれどどんな夜より強い。
灯果の灯りが静かに揺れた瞬間、わたしは胸の奥底で、何かがこちら側へ戻ってきたのを感じた。
どこか宙から浮いて外側からこちらを見ていた気がしていたが。
私はもう、惨めで孤独なあの子じゃない。
この地に母と暮らす、地に足をつけたミュリア・ルヴェール。
灯がふわりふわりと踊るように揺れた。
自分が世界の内側にいるという実感がふつふつと沸いてくる。
前世の私は、あの街のどこにいても世界の外側を歩いている気がしていた。
惨めさは景色より先に思い出され、息ができる場所なんてどこにもなかったんだ。
けれど今は違う。
灯りを見つめれば見つめるほど、
わたしは拒絶されていないという感覚が
じん、と血の流れみたいに指先へ沁みていく。
ぶるり、と身体がわずかに震えた。
感動でも恐怖でもない。
ただ——境界に触れたのだ。
前世には存在していなかった錬金術という、この世界の根に近い扉の手触りだけを先に知った。
わたしは手のひらを見つめた。
かさついていて、爪も少し黒ずんでいて、
子どもの手にしては働きものの掌。
そして視線を移せば、台所で次の仕込みを始めている母の手も、
過去、思い起こされるあの時の母も、
同じようにひび割れ、同じように色づいていた。
——同じ手なんだ。
前世の私は、この温度を一度も掴めなかった。
気づけなかった。はたまた気付かないフリをして避けていた。
けれど今なら分かる。
この手はみじめな労働の象徴ではなく
“誰かを生かしている手”なんだ。
もう二度と、この温かさを手放したくない。
夕餉が終わり、母が眠りについてから
私は蝋燭をそっと持って机へ戻った。
灯りは焔というより守りの子宮のようで、
小さな光景をひとつ分抱きしめてくれている。
日課のように薬草図鑑を開く。
知らない植物、知らない工程、知らない呼称。
けれど不思議と怖くない。
前世でフランス語のレシピ本を噛み砕いて読み込んでいたときの知らぬ言葉を理解へ落とす筋肉がすでに私の中で育っていたからだ。ここで生きる術を、それを、わたしはすでに持っている。
読み進めて、気づけば夜の深さを忘れていた。




