episode3 世界の始まり
教会を出ると、風が襟元をやさしく撫でていった。
昼と夕のあいだの、呼吸をゆっくりとさせる時間。木柵の向こうでは、干し藁が細く鳴り、遠くで羊の鈴がかすかに揺れる。
小さな村の道は、靴の裏にやわらかい土の温度を残しながら、淡い斜陽の奥へと延びている。
私は、背中で閉じた木の扉の気配をひとつ深く吸い込み、家へ向かった。
今日という日が、掌の中にまだ温かいまま載っている。落としてしまわないように、歩幅を整える。
台所には、乾いた草の香りと、わずかな火の匂いが満ちていた。母が窓際で乾燥棚を点検している。蔦の影が板床に薄く揺れて、母の横顔の輪郭にやわらかい陰影を刻んでいた。
「ただいま」
「おかえり、ミュリ。陽のあるうちに、これを少しね」
母が指したのは、束ねたセイジと、摘み立てのアキノキリンソウ。私は指先のささくれを気にしながら、茎の向きをそろえ、いちばん香気のとおる方角へ吊った。麻紐の細い繊維が指に触れて、微かな痛みと一緒に、生活が肌に刻まれてゆく。
乳鉢に入れた葉は、すこし湿り気を含ませてからすり潰す。すりこぎが陶器の内側を撫でるたび、ささやきのような音がする。粉になる途中の匂いは、はじめ苦く、のちに甘く、最後にすっと清らかに変わる。
私は粉を紙にとり、計りもなく、けれど母から教わったこの村の重さで、包みを作る。糸をひと巻き、ふた巻き。小さな薬が、掌の上で静かな形になる。
次は、隣家のおばあさんのもとへ。
背の低い戸をくぐると、囲炉裏の煙が目の高さで薄く流れている。腰に手を当てて立ち上がろうとしたおばあさんが、顔をしかめた。
「今日は冷えるねえ」
「軟膏を持ってきました。温めてから塗りますね」
私は瓶に入った軟膏を指先で少し救って手に取って平で温め、腰の筋に沿って静かに広げた。
皮膚のきめの隙に、ゆっくりと薬が沁み込んでいく。おばあさんの呼吸が、少しずつ長く、深くなる。
「楽になったよ。助かるねえ」
窓の外では、夕雲が薄紫の層を重ねていた。家の端の蜘蛛の巣が、光る糸でその色をつかまえている。
「卵を、持っておいき。今朝ね、鶏がやっと一つ、2つ、」
陶器の小鉢に、宝もののように丸い黄色がひとつ、ふたつと、ころんと転がった。私は両手で受け取る。卵は、村の一日の中でもっとも柔らかい祝福だ。
戻るころには、野の影が長くのび、道の輪郭は藪に溶けかけていた。
私が戸を押し開けると、母は鍋に湯を細く落としていた。火は小さく、けれど確かに息をしている。
今日のスープには、卵が一つ。
熱の端で、黄身がひかえめにほどけてゆく。黒パンは固く、歯の先で押し切ると、粉の匂いが舌に広がる。
「……いただきます」
蝋燭の灯は小さいのに、二人で向かい合うと、なぜか机の上だけは明るかった。母の睫毛に火が映り、瞬くたびに、灯が胸の内側で揺れる。
「いつも、ありがとうね」
母の声は、何かを飲み込むように、ほんの少し震えていた。
「急にどうしたの? お母さん。早くしないと、もう日が暮れちゃうよ」
言ってから、胸の奥でなにかがきゅっと鳴った。言葉の浅さを自分で知っていて、それでも口に出してしまう幼さを、私は抱きしめた。
この苦しくて、愛おしい日常が、きっと私の背骨になる。
前の世界で落としてしまったものを、もう一度拾い直すために。
母が寝床に入ったあとも、私はしばらく火の名残を見つめていた。蝋燭は音もなく短くなり、芯の先で、淡い青がたえず瞬いている。
机の上には、神父さまから借りた聖書と、薬草図鑑。紙は乾いた季節の匂いがして、頁をめくる指に、わずかにささくれが引っかかった。
私は、静かに読み始める。
世界のはじまりを、もう一度、はじめから知るために。
はじめに、世界は形を持たず、ただ静かであった。
声はなく、数もなく、光も影もなく、
海も陸もなく、時の名もなかった。
ただ一柱、最初の神のみが在り、
その御心は、満ちて、溢れて、円にめぐった。
御心が円を描くたび、ひとつの理が滴り、
滴りは十二の光となって、空に浮かんだ。
光は名を持ち、役を得て、
十二柱の神々となった。
ザイオン、天を張る者。雷を以て秩序を告げ、
王権と裁きを守る。
セメティア、地を耕す者。母の胸をもって、
種を抱き、穂を満たす。
テナリエ、知の刃を携え、
法の道を人に示し、戦略の糸を編む。
ポサーレ、海を揺らし、深きを統べ、
馬の息とともに潮を運ぶ。
フィロメア、美を灯し、愛を結び、
心の鏡を澄ませる。
アルヴォス、太陽を背に歌い、
音と癒しを人にもたらす。
アルティナ、月影をまとい、
森と獣と清めの道を守る。
アラスタル、戦の赤を掲げ、
誓いを立てる者の証人となる。
ヘパリエル、火を飼い、槌を振るい、
形なきものに骨を与える。
メルカエル、風の路を知り、
商いと旅の足を軽くする。
セリシア、調和の衣をひろげ、
家を守り、婚姻の環を結ぶ。
ディオリス、葡萄をみのらせ、
祭りの灯を夜に点す。
十二柱が座を得たとき、最初の神は言を発した。
「循環あれ」
言は風となって四方に走り、
そこに初めて時が生まれた。
時が流れはじめると、最初の神の息が世に触れ、
まず精霊が生まれた。
火は踊り、風は歌い、水は祈り、大地は眠り、
それぞれに名も形も持たず、ただ理の色にきらめいた。
次に、精霊の周りに亜人が芽吹いた。
森はエルフを抱き、長き耳に風の詩を授け、
山はドワーフを生み、火と鉄の言葉を授けた。
海は人魚に潮の道を示し、
砂漠は獣人に熱の耐え方を教えた。
しかし、十二柱はまだ満ち足りず、
最初の神に問うた。
「主よ、意志をもって選び、過ちを学び、
また立ち上がる者を、地に与えたまえ」
そこで最初の神は、精霊の澄んだ部分と土の温みをまぜ、
人をつくった。
人は弱く、短く、移ろいやすい。
けれども、涙を持ち、笑いを持ち、
過ちを悔いて学ぶ力を持つ。
最初の神は、人に契りを与えた。
「祈るとき、我がしもべら(十二柱)を呼べ。
彼らは役をもって汝らを導き、
汝らは感謝を以て彼らを讃えよ。
その循環のうちに、力は流れ、
汝らの手は世界の理に触れ得るだろう」
こうして、祈りは流れとなり、
流れは魔法と呼ばれるようになった。
魔法は所有するものではなく、
巡り来ては返すもの。
与えられては謙り、使えば次に手渡すもの。
そのとき、天に沈黙が降り、
最初の神の名が、ひとつ、秘されて封じられた。
名はただ、王の家と、聖の座にある者のみが知る。
名を軽々しく呼ぶこと、
すなわち根に刃を立てるに等しいがゆえに。
人はこれを畏れ、また慈しみ、
収穫のたびに、戦の前に、旅の出に、婚の朝に、
十二柱を讃え、最初の神の沈黙に耳を澄ませる。
かくて、世界はめぐる。
生まれ、別れ、祈り、また実る。
めぐりの中に汝が日々を置け。
汝がパンを分け合い、塩を忘れず、
火を粗末にせず、言を嘘で汚さぬなら、
神々は汝とともにいる。
——ここに、はじめの章の終わりを記す。
頁を閉じると、蝋燭の炎が少しだけ背伸びをした。紙の端に影が寄り、机の節に彫られた古い傷が、夜の底で小さく光る。私はそっと指でなぞる。そこに、前の世界の時間は触れてこない。
「めぐり、か」
口の中で、ひとつだけ言葉にしてみる。
もし、めぐりが本当にあるのなら。
私はその輪の外へ飛び出したいのではない。輪の中で、誰かの手を離さないために生きたいのだ、と胸の奥で思う。
窓の向こうでは、森が暗闇の重さに身を預けていた。
どこか遠くで梟が鳴き、風が軒の隙間を通るたび、家は小さく息をつく。
私は蝋燭の火がじゅっと短くなるのを見届け、
彼方の沈黙の中に在る最初の神へ、言葉にならない感謝を捧げた。
——もう一度、与えられた。
この灯を、二度と手放すまいと。
夜は、刻々と深まっていった。




