episode34 黄金色の貝殻
その日、ミュリアは休みを取っていた。
夜明け前の静かな石畳を抜け、めぐり樽商会へ向かう。ラシェルにはすでに許可をもらっている。
――聖庇舎の厨房で、子どもたちに食べさせるための「栄養補助実験」。
書類上はそうなっているが、ミュリアの胸の奥では別の言葉が灯っていた。
あの子たちを、笑わせたい。
私に出来ることをしたい。
めぐり樽商会は朝から活気に満ちていた。
けれど、カウンターにセオドールの姿はない。
代わりに帳簿をつけていた店員が、小さな包みを差し出した。
「ご主人から預かってます。あとで来られないかもしれないので、伝言と一緒に」
包みを受け取ると、ほんのり潮の香りがした。
(ああ、届いたんだ……)
ミュリアは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
セオドールの筆跡で、端にひとこと書かれている。
――「西の街を、頼んだよ」。
その足で聖庇舎へ向かう。
厨房では、すでに子どもたちがわくわくと心躍らせて待っていた。
「今日は本当にお菓子を作るの?」
「うん。だからまずはこの貝殻を磨いてもらおうかな」
指示を出すと、歓声が上がる。
貝殻を水にくぐらせ、木片でこすり、布で丁寧に磨いていく。
光が宿っていくたび、子どもたちの顔にも明るさが映った。
「これ、つるつるになったよ!」
「すごい、鏡みたい!」
「うん。じゃあ、これにね、溶かしたバターを丁寧に塗ってもらおう。そうすると、生地がくっつかないんだよ」
説明しながら、ミュリアは横で材料を計り始めた。
秤は理術院の薬液庫から借りてきたものだ。
(ラシェル様、いつもありがとうございます)
思わず胸の中で小さく頭を下げる。
まずは、焦がしバターから。
鍋に油脂を落とすと、すぐにぱちぱちと小さな音が弾けた。
あの音――。
懐かしさが胸の奥を突き抜ける。
ふわっと立ち上る香ばしい香りが、前世の記憶をまざまざと蘇らせる。
焦げ茶色に変わる液面を見つめながら、ミュリアの喉の奥がきゅうっと熱くなる。
「……ふふ」
つい笑みがこぼれた瞬間、背後から声がした。
「ミュリア、にやにやして変なのー!」
子どもたちが覗き込み、指をさす。
「えっ!? あ、えっ」
顔を真っ赤にして咳払いするミュリア。
「さ、さあ、次は卵を割るよ!」
ボウル状の木器に卵を割り、砂糖を入れる。
(セオさん、いつもありがとう)
少し無理を言うようなおねだりをして砂糖を分けてもらったのだ。
心の中で呟きながら、湯煎の鍋に器を重ねる。
木製の泡立て棒で、力いっぱいかき混ぜる。
「死ぬ気で泡立てる」――前世の先生が言っていた言葉を思い出した。
体は小さいが、畑仕事で鍛えられた腕なら大丈夫……たぶん。
腱鞘炎を覚悟して、カッカッカッと音を立てて泡立て続ける。
やがて、卵液がふわりと膨らみ、色が淡くなる。
木べらですくって、八の字を描いてみせた。
「わあああ!」
歓声が上がる。
もこもこでふわふわの生地が子どもたちの瞳に映る。
ミュリアは少し息を弾ませながら笑った。
ふるった粉をそっと加え、泡を潰さぬように混ぜ合わせる。
足りない甘味を補うように多めに蜂蜜と、先ほど作った焦がしバターを少しずつ流し入れる。
オレンジに似た柑橘の皮を削る役目は、年長の少女が引き受けた。
果皮を擦る音がしゃりしゃりと響く。
「いい香り〜」
「ねえ、これがお菓子の匂いなの?」
「うん、きっとそうだよ」
そう答えたミュリアの声は、少し震えていた。
貧しさも、悲しみも、この香りの前ではほんの一瞬やわらぐ――
それを知っているから。
出来上がった生地を、子どもたちが磨いた貝殻型に流し入れる。
炉に火を入れると、ほのかな香ばしさが漂いはじめた。
「焼けるまで、ちょっと時間がかかるから……」
ミュリアは思いつく限りの遊びを引っ張り出した。
絵しりとり、あやとり、手遊び。
笑い声が、火の音と混ざって溶けていく。
やがて、
炉の奥から、黄金色の香りが立ち上った。
ミトンをはめ、慎重に型をひっくり返す。
かん、かん。
陶器の上に、ふんわりとした焼き菓子が並ぶ。
おへそを作って、こてん、と転がる。
子どもたちの歓声がはじけた。
「うわあああ!」
ミュリアも思わず声を上げていた。
胸の奥がじんわりと熱く、涙がにじみそうになる。
そのとき――
澄んだ鈴の音のような声が、背後から響いた。
「美しい焼き色だね」
振り返ると、そこにいたのは育生院の神官長――リアンセル。
白い光を纏ったような姿が、入口に立っていた。
その周囲には微かな光粒が漂い、まるで春の木漏れ日が形を取ったかのようだった。
ぽかんとするミュリア。
慌ててミトンを脱ぎ捨て、一礼する。
「り、リアンセル様……!」
「大丈夫。続けていいよ」
穏やかな声。
気にしないで、と言われても――気にしないのは無理だった。
子どもたちも一瞬で静まり返り、整列して最上級の礼を取る。
(神殿教育すご……)
ミュリアは居たたまれなくなって、何か話さずにはいられなかった。
「えっと……その、栄養補助食品として……えっと、ラシェル様には許可を、あの」
ちゃんと許可を取っているのだが、なんだかやってはいけないことを親に見つかってしまった子どもみたいに狼狽えてしまう。
この人はなんだか自然ととても目上の人なんだなと分かるオーラをしている。
「うん、よくできてるね」
リアンセルの瞳は、光そのものを映すように柔らかかった。
「これは……君が考えたの?」
「はい。あの、笑顔が、見たくて」
言葉足らずになってしまうミュリアをリアンセルは静かに目を細めた。
「甘味は罪と教える者もいる。けれど……笑顔が増えるのなら、それもまた、祈りの形。神様も喜んでいらっしゃるよ」
その言葉に、ミュリアの胸が大きく波打った。
炉の火がまるでそれに応えるようにぱちりと音を立てた。




