閑話休題 ブレッシェル
結界の綻びが起きたのは本当に本当に瞬きを一度したくらいの一瞬の出来事だったんだ。
けれど、その一瞬が、この街の光を何日も何日も奪っていく。
昔の西の港は、今よりずっと眩しかったと聞く。
西陽を受けて海は金色に光り、サトウ葦畑は風に揺れて、潮の匂いと甘い香りが混ざりあっていた。
俺が物心ついた時には、そこまでの栄華はもうなかった。それでも、何年か前の大魔術師様が張ってくださった結界術によって夕方の海はちゃんと光っていたし、
父さんたちは笑いながら船を出していた。
「前の大崩れに比べりゃ、今は平和なもんだ」なんて笑って。
だからあれもただの昔話なんだと、どこかで思っていた。その油断を海は見逃してくれなかった。
それは初夏を迎えたまだ肌寒さを残す春の夜だった。
港の向こう――暗く沈んだ水平線のあたりから、ぱきり、と薄い氷が割れるような音がした。
冬でも海は凍らないはずなのに、背筋がぞくりとしたさ。
次の日の朝には、港の中に黒い筋が伸びていた。
最初はみんな、ただの海藻だろうと笑っていた。
けれどその黒は、潮に乗ってあっという間に広がっていった。
それが魔苔だった。
魔素の乱れが海底に沈殿して生まれる、と神官たちは言っていた。黒い苔みたいなそれは、網に絡みつき、舟底に張り付き、魚の通り道を塞いでしまう。
網を入れても、重みはあるのに魚の手応えはない。
引き上げれば、網に絡んでいるのはぬるぬるとした黒い塊だけ。
指でつまめば、じわりと冷たいものが腕をさかのぼってくる。それは潮の冷たさとは違う、いやな冷え方だった。
「今日もダメだな」
「明日は少し沖に出てみるか」
そんなやり取りを何度くり返したか覚えていない。
海鳥は鳴かなくなり、波の音だけが重く響いた。
畑の方でも被害は出た。
サトウ草の葉は黒い斑点を浮かべて萎れ、
甘みを作る茎は中から腐るように崩れていった。
妻は土を掘り返しながら、声も出さずにため息だけを落とした。
指先は土で汚れているのに、血の気がなくて真っ白だった。
やがて、誰かが倒れ、誰かが街を出ていった。
港の酒場には灯りがつかず、夜になっても歌は流れない。
潮風が運ぶのは魚の匂いではなく、錆びた鉄と、干からびかけた甘さの残り香だけだった。
大神殿から、神官たちが派遣されてきた。
清儀院の水が撒かれ、巡導の祈りが風に乗せられ、
理術院によって結界の補修が行われた。
それで魔苔は少しずつ薄れていった。
だが、海はすぐには元に戻らなかった。
何度網を投げても、魚は戻らない。
畑に新しい苗が植えられても、前みたいに茂らない。
「生きていけるだけマシだ」
誰かがそう言った。
確かにその通りなのに、誰も笑わなかった。
祈りの声だけが、風に溶けていった。
神官が書きつける帳面には、復興の文字が増えていったのだろう。
だが俺たちの胸の中には、どうしようもない空洞が残ったままだった。
そんな繰り返し祈る折のことだ。
ある日、港に白い外套の神官が現れた。
馬車でも船でもなく、荷車を引いて。
夏の終わり、曇った空の下で、その姿だけがやけに清潔に見えた。
「西海岸地区、第三漁港――ガレン殿のお宅はどちらでしょう」
港で網を繕っていた俺に、神官がそう声をかけた。
俺は自分に用があるなんててんで思わなかったから急いで立ち上がり、汚れ切った手を意味もなく拭った。
こんな辺鄙なところにわざわざ名指しで神官が来る理由なんて俺にはないはずだが。
「俺がガレンですが……何か、まずいことでも?」
神官はかぶりを振った。
「いいえ。大神殿聖庇舎経由で荷の届けがございます。ソラーナ殿からお手紙と共にお預かりしております」
ソラーナ――その名を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。母方のいとこだ。
昔は海に投げ出されては俺に引き上げられ、それでも泣かずに笑っていた西の街に輝く太陽のような娘。
今は王都の大神殿で働いていると風の噂に聞いていて、最近になってか便りが届くようになったと母から聞き、一月ほど前に何に使うのか分からないが手のひらで包めるサイズの貝殻を送って欲しいとの申し出を受けていた。
俺の戸惑いには目も向けず、神官は荷車の布をめくり上げた。
中に並んでいたのは、黄金色の貝殻だった。
いや、それは貝殻の「かたち」をした焼き菓子だった。
この浜でよく拾う二枚貝と同じ形。
だけど貝殻のくすんだ白とは違う、
夕陽を溶かしたような温かな色をしていた。
「……これを?」
思わず手が伸びる。
指先に触れたそれは、
焼きたてではないのにじんわりと暖かいような気がした。
「聖庇舎の子どもたちと、理術院付属の見習いが考案した慰問菓子です。復興支援として大神殿より送付するよう命が出ております」
神官はそう言ってから、封蝋のされた手紙を差し出した。封には、最近になって見慣れた文字で「ガレン兄さんへ」と書かれている。
手が震えた。
封を切ると、ソラーナの字があふれるように綴られていた。
「ガレン兄さんへ。
そっちのことは大神殿でも話題になっていたよ。
前に言ってた貝殻、覚えてる?
あれ、こっちに送ってくれたおかげで、友達がね、
“貝のお守りみたいなお菓子”を作ってくれたんだ。
形だけじゃなくて、気持ちも一緒に届けたいと祈りながらね。
聖庇舎の子たちも一緒に手伝ってくれた。
それを使ってちょっとだけだけど、募金も集めたから、同封する。
甘いものがあると、少しは笑えるだろ?
落ち着いたら、簡単な作り方も書くから、
いつかそっちの子たちとも一緒に焼いてみてほしい。
――ソラーナより」
文字のひとつひとつが、懐かしい声みたいに胸に響いた。
妻と娘が荷車のそばに寄ってくる。
箱を開けると、香ばしい匂いがふわりと広がった。
焦がしたバターと、柑橘に似た甘酸っぱい香りが混ざり合って、まるで昔の海風みたいだった。
娘が一つつまんで、恐る恐る齧った。
「……あまい」
その小さな一言だけで、喉の奥が詰まった。
ああ、としか声が出なかった。
妻もひとつ手に取り、そっと歯を立てる。
長いこと固いパンと薄い粥ばかりだった彼女は、
目を閉じて、ゆっくり噛んだ。
その目尻に、うっすら涙が光った。
箱の隅には、小さな紙切れが入っていた。
それは、レシピだった。
「卵と砂糖をよく混ぜて、焦がしバターを加える。
粉をそっと合わせて、貝殻の型に流して焼く。
焼き上がるまでのあいだに、誰かのことを思うこと。」
最後の一行を読んだとき、胸が痛くなるほど熱くなった。
俺は左腕に目を落とした。
そこには、娘が最近作ってくれた貝殻のブレスレットがある。
小さな手で拾い集めた二枚貝を紐に通しただけのものだが、
漁に出るたびに、それに触れて無事を祈ってきた。
今、机の上には、それにそっくりなかたちの黄金色の菓子がある。
遠く離れた王都で、見知らぬ少女が、
俺たちの海を思いながら焼いてくれたという。
俺はポサーレ様とセメティア様に祈った。
潮と大地と豊穣の神々へ。
それから、
この菓子を作った名も知らぬ子どもと、
彼女を支えた者たちに、どうか祝福を、と。
その翌朝だった。
港に立つと、潮の匂いが微かに変わっているのに気づいた。
重く澱んでいた空気の中に、少しだけ、懐かしい塩の匂いが混ざっている。
海面をよく見ると、魔苔の黒がわずかに薄くなっていた。
「……おい、見たか」
隣の親方が、震える声で海を指さした。
黒い帯の切れ目から、銀色の影がちらりと見えた。
魚だ。
誰かが息を飲み、誰かが叫んだ。
なにがきっかけだったのかどうかは、神様だけが知っている。
けれどその日を境に、海は少しずつ動き始めた。
育生院の神官たちが引き続き派遣され、
サトウ葦の畑は新しく土を入れ替えられた。
清儀院の水が何度も撒かれ、海底の魔素も安定していった。
結界の調整が進むたびに、空の色も変わっていった。
それでも俺たちがいちばん変化を感じたのは、仕事の合間――休憩時間のことだ。
漁の手を止めた港に、作業場に、畑に。
白い包みを抱えた神官や使いの者がやってくる。
中からのぞくのは、また黄金色の貝殻だった。
聖庇舎の子どもたちが、少しずつ焼いて送ってくれているという。
募金も集めているらしく、それは道の修繕や漁具の買い替えに回された。
その黄金色の菓子は、いつしか**〈ブレッシェル〉**と呼ばれるようになった。
祝福を意味する“Bless”と、海の貝“Shell”を合わせた言葉――
“祝福の貝”、あるいは“守りの殻”とも訳せる。
名づけたのが誰だったのかは、もう覚えている者はいない。
けれど、焼き立ての甘い香りと、波間のように柔らかな形を見たとき、
この街の誰もがこれは神様からの贈りものだと思ったのだ。
復興の始まりも、心の救いも、あの一口からだった。
ひと欠片で笑顔が戻り、ひと箱で家族が集い、
子どもたちはそれをおまもりのように胸に抱えた。
だから誰かが言ったのだ。
――「これは、Bless と Shell。祈りを包み守る菓子だ」と。
その名は瞬く間に広まり、
やがて西の街の港にも、神殿の供物棚にも、
同じ形の**〈ブレッシェル〉**が並ぶようになった。
それは、壊れた土地が再び光を受け入れた証。
そして、名もなき神官が残した祈りの結晶だった。
だが、俺たちにとってその名はどうでもよかった。
子どもがひと口かじって笑う。
それだけで、海はほんの少し明るくなる。
疲れた手でそれを割り、誰かと分け合う。
それだけで、今日も網を投げようと思える。
そういう周りを照らすあかりだった。
復興が本格的に進み、港に再び活気が戻り始めた頃、港の酒場の壁に、小さな額が掛けられた。
そこには、こう書かれていた。
「この街は、神々と、
聖庇舎の子どもたちと、
名もなき一人の少女のお守りに救われた。」
名前は記されていなかった。
俺たちは彼女を神とは呼ばない。
けれど時々、ポサーレ様とセメティア様へ祈るとき、そっと一緒に願いを乗せる。
――ミュリア様。
あなたの守ってくださった海は、今日もちゃんと光っています。
潮風が頬を撫で、波がきらりと光った。
俺は黄金色の貝をひとつ割り、娘と分け合う。
ふんわりとした甘さが舌に広がる。
その味は、涙に似ていた。
でももう、それは絶望の涙ではない。
救いと、少しの誇りの混じった、温かい涙だった。




