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薬草村から世界へ:お母さん、私、錬金術師になります!  作者: 鹿ノ内


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episode18 使い走り

 

 昼食を終え、清儀院の静けさから理術院の回廊へ入ると、はたまた空気の密度が少し変わった。足音は同じ石床に吸い込まれていく。


 戸口ごとに封蝋、机ごとに帳簿、棚ごとに秤。

 それぞれが正確さという名の薄い刃物を抱いていて、近づけばこちらの姿勢が正される。


「ミュリア」


 書記机の列の端、淡い茶髪の男が顔だけ上げた。ラシェルだ。

 袖口の白金の幾何刺繍が、光を受けて極細の線を浮かべる。

 余計な感情の置き所が一切ない声で、次々と指示が落ちてくる。


文祀院ぶんしいん第二写本室へ、この書簡三通を届け出てください。書簡は全て封緘印ふうかんいんの割れと欠けの確認を怠らないように。

 戻りに星読院の予報票を受領してください。時刻は午刻以降の最新版のみです。

 移動中は広間の立ち番に従い、通行列を崩さないこと、道に迷った場合も立ち番に尋ねなさい」


「はい。かしこまりました」


「その後は薬液庫での仕事です。今日付けの補充票はこちらに書いてあります。

 記載の草片“アマリス葉”は乾燥棚の第三列—下から二段目です。誤って“アマレス菜”を持ち出さないように。他、こちらの届いている薬草の仕分けですが、瓶に中身を入れるところまでは見習いでも構いません。

 ですが、密封作業は侍祭以上と管轄なりますので出来る範囲で」


「それから、重さを量る時は分銅を使い、少量誤差の四刻以内に収めること。もし基準から外れたら勝手に調整しないでメモに記録し、必ず報告を」


「承知いたしました。一点、質問よろしいでしょうか?」


 頭の中で情報をリピートしながら噛み砕き。必死でメモを取る。

 メモを取らせてくれるだけありがたいことだと私は知っている。前世ではそんなものは甘えで教えてもらっている時はメモは取らず人の目を見る、ただ立つだけでは駄目だ。腕を後ろで組まないこと。これについてしこたま怒られている。メモは思い返して後で取るものらしい。これ何ハラスメント?と思っていたことも懐かしい。


「簡潔に」


「今日の回廊の通行指示というのはどこで確認すれば――」

「最初の柱を過ぎた壁際の掲示板。青い縁が通行路の印だ」

「ありがとうございます。行ってまいります」


 神殿は祈祷導線が最優先になる。人が祈るために歩く道と、仕事で使う道は時間帯やその日によって切り替わるらしい。

 回廊そのものが儀式の一部として扱われるというか、ただ祈祷時間時間厳守というか、

 とにかく最短距離がいつも通れるとは限らないらしい。

 そのため書簡を一つ届けるだけでも、

 いちいち今日の道を確認してからでないと進めない。


 間違えれば、ただの通行ではなく儀礼の妨害になる。

 ひどく遠回りになるのは、そのせいだ。


 たった三通の書状でも、

 それは通してよい道筋を選んで初めて運べる。

 そういう仕組みになっているのだ。


 返事は短く、身体は早い。

 ミュリアは書簡袋を抱え、回廊へ滑り出た。

 昼の光が天窓から斜めに差し、封蝋の赤がわずかに温度を持って見える。

 割れと欠け——袋を開かず、蝋の縁だけをなぞって確認。目は細く、歩幅は一定。

 文祀院の扉前で一礼、受け渡し、受領印をもらう。

「お疲れさま」と短い囁きが落ち、それに「ありがとうございます」と返して、次の指示先に足を進める。


 星読院の廊下には夜の色が薄くたゆたう。

 机上に広がる天球盤の傍で、占者が午刻以降の予報票を何枚か束ねて渡してくれた。

 紙は乾いていて、手に貼りつかない。

 一礼、反転、回廊の列へ戻る。立ち番の視線が一度こちらを掠め、すぐに離れた。

 ——手を止めない限り、誰もこちらを止めない。

 その規律がありがたくもあり、少しだけ息苦しくもあった。


 理術院の奥、蝋燭の匂いがほのかに混じる扉の前で足を止める。

 薬液庫に入るための印。ミュリアは許可印を掲げ、中へ通される。

 ひやりとした空気。棚がまるで畑の畝のように並び、木札とガラスの光が交互に続く。


 補充票を開く。

 《アマリス葉 乾燥 4束/薄霊油びょうれいゆ 2瓶/封止紐(黄色) 20尺/小瓶(無印) 12本》


「……アマリス、アマレス……」


 似ている名を口の中で二度、転がす。

 第三列—下から二段目。

 木箱の縁に焼印の印。Amaris。

 隣にはAmales。——間違えたら、香りも効き目も変わってしまう。

 箱を引くと、乾いた葉が柔らかく鳴いた。

 次に薄霊油。

 ラベルの書体が古いものは、粘度がわずかに違う。揺らして、光の走りで古さを見分ける。

 古いものの方を二本、選ぶ。

 封止紐は黄色。長さを尺棒で測り、二十尺。

 小瓶は十二本。口縁を指で確かめ、欠けのないものだけを。掛けてるものはそれ用の箱に移動させておく。


 アマリスとラベルの貼られた箱を机まで持ってくる。秤の上に分銅を載せ、四刻の範囲に収める。

 葉の束は乾燥度合いで重さが変わるため、しっかり乾燥されてるか確認してからそれぞれ薄紙で仕分けする。


 棚から棚へ、視線の速度と手の速度を合わせて巡回。

 瓶詰め補助は、漏斗ろうとを使って音を立てない。器の口がガラスどうし擦れる音は、ここでは失点になる。

 息を止め、手首だけで角度を制御する。

 液面のなぎが揺れない瞬間に、栓。

 紐を掛け、札を結ぶ。

 自分の指が、自分のものじゃないみたいに静かに動いた。やっていることは村でやっていたのと同じ目をつぶっていても出来る行為だった。


 一息で庫を出ると、立ち番の場所に目だけを走らせた。青い縁の掲示板。

「渡し・南回廊→清儀院分岐:祈祷列折り返しあり」

 列の切れ目で一礼、渡り。

 広間を横切る時だけ、すこし背を伸ばす。

 見られているという感覚は、清儀院とは違う刃の冷たさだ。ここでは、乱れではなく誤差が嫌われる。


 使い走りは、足が仕事、目が仕事、手が仕事。

 考え過ぎないのがいちばん早い。

 渡し終えて戻るたび、机の上の書類が少し低くなっているのを確認し、次の束に手を伸ばす。

 ラシェルの机に積まれていく入力済みの帳票は、端が完全に揃っていた。

 紙の白と白の間に隙間の影がない。

 ——この人は、影ですら許さないのか



 午後の二刻め、侍祭の印の入った革表紙の帳冊が回ってきた。

「小瓶(無印)への分注——研修補助の範囲」

 ミュリアは台の上に布を敷き、安定板を置き、空瓶を12並べる。

 漏斗の首に薄い布を通す。異物を眠らせるための薄膜。薄霊油の瓶の口を拭い、肩に印を合わせ、静かに傾ける。


 一滴、二滴——音がしない。

 液体はのどを通るように、ただ流れる。

 半分を超えたあたりで、わずかに腕が重くなる。

(……あれ?)

 緊張? それとも、昼の疲れ?

 肩を少し回し、深呼吸をひとつ。

 グラスの縁が揺れないうちに、残りを収めた。

 栓をして一つづつ並べていった。どちらも、乱さないことを求められている。



「ミュリア」


 気配の薄い声。

 顔を上げると、ラシェルが新しい束を示していた。


「内書簡の振り分けお願いします。手配至急赤印は左、通常日内黒印は右。封の裂け・汚れは除け箱に。文祀へ写し票が付いていれば指示通りに束ねるように」


「はい。かしこまりました」


「終えたら、回廊の立ち番に伝達。星読より一枚追加の件、掲示前に口頭で通す」


「承知いたしました」


「質問は」


「ありません」


「よろしい」


 紙の束は次から次へと入れ替わる。

 ミュリアの返答は、気づけばほとんど鍵の回転音みたいになっていた。

 はい/かしこまりました/承知いたしました。

 歯車が合わさる音。

 その音に、自分の心が追いつく前に、手だけが先に走る。


 言われるがまま、滑稽にも思えるけど、今はそれでよかった。

 手が遅いより、心が遅いより、ずっといい。



 天窓の光が金色から淡く灰に傾いた。

 回廊を行く列の長さが短くなり、空気の温度も沈む。

(もうすぐ、夜の祈祷)

 ミュリアは最後の封を確認し、束を揃え、角を揃える。

 指の腹に残る蝋の粉がすこしざらつく。

 机に置く音が立たないように、布の上へそっと落とす。


 その横で、ラシェルはまだ書類の海にいる。

 筆先の速度は変わらない。

 呼吸も、目線も、指の角度も、何ひとつ崩れない。

 今日一日、この人は一度でも「ふう」と息を吐いただろうか。

 ——たぶん、吐いていない。


 胸の奥で、ちいさな決心が芽を持った。

 今なら、言える。

 今言えなければ、きっとずっと言えない。


 ミュリアは机の端へ歩み寄り、上司に声をかけるみたいに姿勢を正した。


「あの——いま、お時間……大丈夫でしょうか」


 声が自分のものではないように固い。

 会社の上司という言葉が、前の世界のどこかから顔を出す。ラシェルは、手を止めないまま「どうぞ」とだけ言った。

 

 喉がからからに乾く。


「……錬金術のことを、学びたいと思っています」


 筆の音が、そこで止まった。

 ほんの一拍。

 顔を上げる、その動きがわずかに遅い。

 眉が、きゅ、と音もなく小さく動いた。

 蜂蜜色の瞳がこちらを捉える。

 ミュリアは反射的に背中を伸ばし、胸の奥がびくりと跳ねた。


 沈黙は刃物ではないのに、切っ先だけがこちらに向く。

 ラシェルは真正面から見て、目を逸らさず、しかし声は低く落とした。


「……錬金術師とは、国家資格を伴う技術と知識が必要な、最重要職です」


 言葉は柔らかくない。

 けれど、怒りでもない。

 ただ、事実の密度が高すぎる。


「ここに勤める者の多くが、その境地へ至るために日々励んでいます」


 そこで、彼は視線だけを紙へ戻した。

 集中の糸が再び結ばれ、その張力が室内の空気を元の位置へ押し戻す。

 緊張がふと緩んだ、その隙間で、背後から視線の気配に気づいた。


 机列の向こう、同い年くらいの女の子が、こちらを睨むように見ている。

 くるくるの金のカール。

 光をふくんだ髪が、蜂蜜ではなく砂糖菓子のように輝く。

 視線は甘くない。

 真っ直ぐで、痛い。


「あなたはここに来て、まだ二日ばかり」


 ラシェルの声が、視線の芯を引き戻した。


「その知識に触れるには、研鑽が足りません。

 まずは与えられた仕事を、求められた以上にこなしなさい。それがここの基準です」


「……はい」


「以後、無駄な質問は控えなさい」


 最後の一文が、胸の真ん中に静かに沈む。

 怒られたのではない。

 線を引かれた。

 それだけなのに、涙腺のどこかがぴりりとする。


(そうか。わたし、特別だと思って……いた?)

 誰も言っていないのに、自分だけが勝手に、それを思ってしまっていたのかもしれない。


「お時間、ありがとうございました。失礼いたします」


 頭を下げる。

 背筋を戻すと、視界の端で金のカールがわずかに動いた。

 女の子は、ふん、とほんの少し鼻を鳴らし、視線を切る。


(フィオンレンティア……)

 名前だけが、風に乗って届いた。同期。

 同じ列に立つはずの誰か。

 敵意ではない、が、距離。

 この世界も優しいだけじゃない。



 席へ戻る。

 封筒の束。

 仕分けの箱。

 黒印は右、赤印は左。

 角を揃え、紐を掛ける。

 指が自分の意思より先に動くのは、もう怖くない。

 働かせてもらえることそのものが、今の自分の救いだ。


 紙の匂いの向こう、祈祷の呼び鈴が遠くで鳴った。

 胸の奥にどんよりが沈む。

 自分で自分が少しだけ嫌いになる瞬間。

 でも、手は止めない。

「求められた以上に」——その言葉だけが、今は正しい。


 束をひとつ仕上げるたび、机上の影が少しずつ薄くなる。

 窓の外に夜が降りる。

 回廊の列が再び伸び始める。

 ——行かなくては。

 祈るために、ではない。

 正しく在るために。


 束を最後に置き、椅子を引く。

 袖の端の点刺繍が、灯に霞む。

 いつかこれが線になり、陣になり、

 誰かの役に立てる日が来るのだろうか。

 それとも——

 


 分からない。

 けれど、今日はもう、これ以上は望まない。


(明日は、無駄な質問をしないようにしよう)


 胸の奥で小さく誓い、列へ向かった。

 理術院の回廊は冷たく澄んでいて、

 その澄みの中に、ほんの微小な痛みだけが浮いていた。



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