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薬草村から世界へ:お母さん、私、錬金術師になります!  作者: 鹿ノ内


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episode16 鏡の中の萌葱

 

 夜明けの鐘が一度だけ鳴り、静けさがゆっくりと割れる。

 小侍従区を出ると、すでに神官たちが列を整え、ぞろぞろと祈祷前の回廊へと向かっていた。

 誰も言葉を交わさない。歩幅さえ一定に揃っている。


 列に紛れる──というより、列の中に自分も吸い込まれる感覚だった。


 回廊の途中、光を反射する背の高い姿見が並ぶ場所がある。

 ひとりずつ、無言のままその前に立ち、衣と身支度を確認していく。整えてから清域へ向かう。神殿ではそれも祈りの一部とされていた。


 私もその流れで一歩、鏡の前へ進み出る。

 映った姿を見た瞬間、見慣れない姿に胸の奥がすこしだけ高まる。


 薄い生成布の衣。

 袖口にはまだ形にならない光の点がひと粒。

 亜麻茶色の髪は起きたばかりの光を受けて柔らかく透ける。瞳は薄い灯りを孕んだ若草色――鏡に映った自分が、これが神殿での私で、今までの薬草村で畑を耕す私とは、全く違うと静かに理解させられた。


 髪を整える仕草すら、乱れの確認ではなく、内の揺れを沈めるための所作として全員が淡々と行っていた。


 前の人が一歩進み、次の人が姿見の前へ。私も同じように横へ抜け、誰にも呼ばれないまま祈祷区画の列へと戻る。


 誰も褒めない。誰も見ない。


 だからこそ、姿は己で律するしかない。軍隊のようだ。


 その空気が、神殿という場所の温度だった。

 祈祷区画に近づくにつれ、空気がわずかに変わる。

 声ではなく、沈黙の密度で分かる違い。

 そこにいる者たちは皆、何も語らずただ整っている。


 清儀院は水を司る院。祈祷に入る直前、全員が手を水盤へ掲げ、静かに右指先を濡らし、胸元──ではなく眉間に近い位置へ触れる。神前に立つ意識の切り替えを示す印を結ぶ。


 誰も迷いもしない、当たり前の日常がそこにあった。


 ミュリアは少し動揺したが周囲の所作を観察し、順番が来ると同じ動作をなぞった。そしてそれはミュリアにとっても当たり前かのように馴染んでいた。


 冷たい水が、指先から静かに落ちる。


 祈祷そのものはまだ指導されない。

 声を出すことも許されない。ただ形の中に立つだけでいいのだろう。


 右隣も、左隣も、規律という壁で隔たっているかのように静か。


 ミュリアは列に溶け、まだ自分の居場所を持たないまま、けれど拒まれもせず、ただ神殿の中に立っていた。



 ◆



 祈祷が終わり、静かな余韻が場を満たす。

 列が解かれ、神官たちはそれぞれの仕事をなすべく四方八方に散っていく。

 ミュリアが所在を測りかねて立ち止まったところへ


「こっちにおいで。まずは道具からよ」

 柔らかさを含んだ声が肩越しに落ちた。


 振り向くと、淡い青の刺繍を袖に抱いた女性がにこりと笑ってこちらを見ていた。ピンと張り詰めていた空気が和らいで肩の力がちょっと抜けた。


「清儀院所属のクラリサです。見ない顔だから、最近噂になってたあの人のところの子でしょ?」


「あの人……?」


 クラリサはポニーテールに結い上げた川の流れのように美しい黒髪を揺らしては小さく笑う。


「イレリウス神父さま。元理術院の方ね。

 あの方、若い子引き抜くの上手よねえ」


 そこでようやく自分がどう見られているかが掴めてきた。噂が回っていたのか。村から来た、元々いた偉い人から預けられた異物。そりゃ遠巻きに見るよね…。



「初日はまずここの説明からすることになっているわ。神具の扱いについても何も聞いてないわよね?」


「あ……はい。村の祈祷にも神具や祭具と名のつくものはなかったです」


「うんうん、わかるわかる。村祈祷は心で直通、神殿祈祷は形から入るものね。王都から離れれば離れるほど信仰心は薄いしね」


「それにしても――」


 クラリサは周囲をちらりと見て、声を少し落とした。


「…ラシェルの元につくってことは、あなたもちゃんと評価されてるのでしょうね。というか、あの子はほんっと仏頂面で、無愛想で、損してるわよね…」


 最初はここに来てよろしく頼むぐらい声かけてくれてもいいのにね?とぶつぶつ。


「でもね、落ちてくる子はちゃんと拾いあげてくれるいい子なの。ちゃんと見てる。ほんとに」


 じゃあ行こっか、とクラリサがゆるやかに手招きする。そらはここに来て初めて厳しさではなく、迷子を拾う自然さだった。


 ミュリアは頷き、彼女のあとに続く。


 ⸻


 清儀院の奥へ進むほど、空気はさらに澄んでいく。

 回廊に沿って刻まれた円弧の紋様は、水面の波紋のように奥へと重なっていた。


「ここね、いちばん最初に建てられた区画なの。」


 クラリサは歩を緩めることなく続ける。


「最初は、人の揺らぎを鎮める静けさの場所だったの。でもね、誰かがここで手を合わせたら――ゆっくりと、心も周りも澄んでいくのが分かった。」


 はじまりは誰かが教えた祈りではなく、神さまの方に心が向いた瞬間に自然に生まれた祈りだった。


「そのうち、人々は気づいたの。

 祈ると世界もまた、少し澄むって。」


 彼女の声は柔らかいまま、ほんの少しだけ熱を帯びる。


「だから祈祷って最初から形があったわけじゃないの。澄んだ心は神さまへ還るって、人が理解した結果としてこういう形になっただけ。」


 神具室の扉の前に立ち、クラリサは振り返る。


「村の祈りは神さまへ心を向ける人がするでしょう。神殿の祈りは世界を濁さない姿へ整えると言われているわ。でもどちらとも両方とももとは同じ根っこにある」


 そして、釘を刺すようにやさしく言う。


「だから――濁ったまま祈るのは、いちばんの無礼よ。神さまの世界で息をしている以上、澄んだ姿でお返ししなきゃいけないの」


 優しいのに、逃げ場のない真理。クラリサは扉を押し開く。


「ここが、その澄ませる形を扱う場所。あなたはまず、触れて覚えるところからね。」


 静謐な空間が二人を迎え入れた。



 室内は水の気配が、息を潜めるように静かに満ちていた。並んだ器具はどれも磨かれているのに、光沢ではなく透明さで存在を示している。


 クラリサは最奥の水盤の前で足を止め、表面をそっと撫でるように手を添えた。


「澄んでいる水は、ただの水じゃないわ。ここでは神さまに見られても揺れない心を映す鏡になるの。」


 それから、自分の横にスペースをつくるように下がり、ミュリアを促す。


「触れてごらん?」


 ミュリアは静かに水盤へ近づき、両手を添える。

 想像していた冷たさはなく、まるで母に手を包まれるようなやわらかい温度が返ってくる。


 驚いて瞬きをすると、クラリサは微笑んだ。


「ね?水は人を拒まないの。

 拒まれるのはいつも澄むことを忘れた心だけ。」


 その言い方には、決して責める響きがない。

 ただ事実として、水に教わった真理をなぞる声。


 ミュリアの指先の下で、水面がほんのわずかに揺れる。けれど濁らない。微かに揺らぎはするのに、曇らない。


 クラリサの視線が一瞬だけ細められる。

 評価ではなく 「確認」 の眼。


「……大丈夫。

 あなた、まだ何色にも濁ってないわ。」


 それは褒め言葉というより 神殿で働く資格の宣告に近い。試されたのか、と思ったがそれは疑いの色ではなかったので息を吐いた。クラリサは水盤から手を離し、静かに続けた。


「この水を整えることが最初の務めよ。すぐに上手くなんてできなくていいわ。でも――」


 ここで声がひとつ、優しく締まる。


「世界を曇らせないように、丁寧にね。

 それが神さまへの礼儀だから。」


 その言葉は祈りより深く、戒律より温かかった。ミュリアが水盤からそっと手を離すと、クラリサは少し距離を取り、腕を軽く組んでこちらを向いた。


「勘違いしがちなんだけどね、神殿の祈祷って、手でなにかをすることじゃないの。」


 水面のきらめきが、クラリサの言葉の柔らかい輪郭を補う。


「祈りは形じゃなくて、在り方。あの朝の祈祷はね、あそこに立った瞬間から始まってるの。」


 そう言うと、軽く指先で空気を示す。


「場の方が澄んだ器になっていて、そこに自分を置くことで、心の曇りが静かに落ちる。だから誰も神具には触れないの。神さまに近い場所でこそ人の手は余計だから。」


 ミュリアは目を瞬かせる。さっきまで触れていた水盤とは、違う役割。


 クラリサは続ける。


「奉仕をしてるのは人間じゃなくて場。私たちはそれに恥じない静けであそこに立つ」


 静かな言葉なのに、祈祷という行為が儀式から姿勢や思想を伴って、理解の形を変えていく。


「じゃあ、清儀院は、」


 ミュリアが問いかけると、

 クラリサはにこりと笑って答えた。


「私たちは、その場を壊さないための裏方になるわね。水も器も、濁りや乱れを放置したら祈りの通り道が歪んでしまうから。」


 そして、少しだけ声を落とす。


「神さまの目に映る世界を美しく保つのが、私たちの務め。だから形の手入れをする人は、誰よりも《澄んで》いないといけない。」


 やさしいのに、一点だけ揺るがない芯。


「本質は自分自身を汚さないこと。神様と周りを信じるということ。そしてそれを整えること」


 ミュリアは自然と息を整えていた。

 

 クラリサは水盤の縁から少し外れた台座部分を指し示した。


「祈りは聖句をただ並べるだけじゃ意味ないわ」


 布巾をたたみ直しながら、穏やかに続ける。


「神さまは言葉じゃなくて心の向きをご覧になるわ。

だからこうして神前の裏側を知って、触れて、整えることがとっても大事よ。それを知らない祈りが村での祈り、形を知らない心の祈りね」


 クラリサは台座の木部に布を滑らせる。

 そこにはほんのわずかな霧跡のような曇り――人が祈った痕跡。


「聖域が澄むっていうのはね、誰かが意識の下でここに重さを置いていった証でもあるの。」


 彼女の手元の拭き取りは、汚れではなく滞りの除去。ミュリアも道具を受け取り、同じように縁を拭き上げる。布越しに伝わる空気が、ひやりと変わる。


(……違う。ここだけ、何かに見られているような)


 人の空間ではなく――誰かの目の届く空間。緊張がわずかに身体へ降りてくる。村でも感じていた既視感。


「だから最初に整え方を知ることが大事なの。神さまの前に立つとは、ただ並ぶことじゃなくて澄んだ姿で見られることだから。」


 クラリサの言葉はやさしいのに、逃げ場がない。


 ミュリアが縁を拭き終えた瞬間、

 膝からふっと力が抜けた。


(あれ……緊張してた……?)


 肩が少し軽い。

 呼吸も深くなっている。

 本人はただ「気が張ってたせい」と思う――

 だがその実、祈祷の場がほんの少し、言葉通りミュリアを澄ませていた。


 クラリサは、気づいたように目を細めたが何も言わない。


 ただ、確認するように一言だけ。


「ええ、ちゃんとできてるわ。」



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