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薬草村から世界へ:お母さん、私、錬金術師になります!  作者: 鹿ノ内


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episode2 新しい夢


 ——お母さん。

 夢の中で呼んだその声が、まだ喉の奥に残っていた。

 涙で濡れた頬に、朝の空気が冷たく触れる。

 まぶたの裏に、まだ光が残っていた。

 夢、夢ではない。

 それは、確かに私の記憶だった。


 目を開けると、低い天井が見えた。

 粗い木の梁には、冬の名残のような蜘蛛の巣が細く光っている。

 壁は板張りで、節の隙間からは細い風が吹き込み、

 藁の寝床の上で薄い毛布がかすかに揺れた。


 ミュリアはゆっくりと身を起こした。

 床板のきしむ音と一緒に、冷たい空気が肌を刺す。

 裸足の足先が、夜の冷気を吸った木の感触にびくりと震えた。


 薄く開いた窓の外では、森の木々がざわめいている。夜露を含んだ草の匂いと、薬草を干した香りが混ざっていて、これは確かにいつも嗅いでいる覚えのある匂いだった。


 そっと自分のひらを見た。

 柔らかく白魚の手ではなく、がさがさとしていて、爪の間には薬草の繊維と土が入り込んでいる。物心がついてからは母を手伝って薬草を摘み、雑草を抜き、田畑を耕し、水を汲む、努力の滲む生きた証。


 ミュリア・ルヴェール。

 今年で七になる年。

 薬師の娘として育てられた少女。

 そして——東京で生き、母を失い、雨の夜に終わった人生も、まちがいなく過去の私。


 忘れていたのではない。

 ただ区別する必要が、なかっただけ。

 夢のように何度も見てきた情景が、今朝ふと、はっきりと“現実だった”のかと腑に落ちた。


 ——そうか。

 私は、もう一度やり直している。

 後悔ばかりだった私を。


 この小さな家で

 薪の匂いの中で

 薬草を干す棚の傍で

 母の足音を聞きながら


 全部、全部、また与えてくださったのか、神様は。


 外では鳥が鳴き、朝靄が窓の隙間からやわらかく差し込んでいる。ここには怒鳴り声も物音もなく、ゆっくり呼吸をすれば、胸の奥に温かさが広がる。


 私はミュリア。

 でも同時に——前世のわたしでもある。

 そのことが、不思議なほど自然に胸へ沈んでいった。


 藁床の上に落ちた涙の跡が、朝の冷気でひやりと乾いてゆく。

 毛布をよけて立ち上がると、床板がみしりと鳴いた。つぎはぎだらけのワンピースは少し縮んで裾が心もとない。母が何度も繕った刺繍糸が、朝の逆光で浮かび上がるように見えた。


 ――なんだか、この世界は不思議と息苦しくない。


 窓の向こうに広がる森は、薄い霧をまとって白く光っていた。遠くから、薪を割る音と鳥のさえずりが聞こえる。どこにでもある村の朝。けれどその静けさが、胸の奥の寂しさを少しだけ温めてくれる。


 「……お母さん」


 また声が漏れた。

 寝室の奥の扉の向こうから、

 湯を沸かす音と薬草をすり潰す音が微かに聞こえる。


 「ミュリア?起きたの?顔洗ってらっしゃい」

 物音で気が付いたのか、母はそうやって私に声を掛けた。


 今世は母しかおらず、父は数年前から姿はない。もうぼんやりとしか覚えていない。

 村を襲った魔物と戦って、そのまま帰らなかったと母から聞いた。そう、覚えているのは、大きくて暖かな手の感触だけ。


 村は百人もいない小さな集落で、木造りの家が点々と並び、丘の上には崩れかけた古い祈りの塔がある。

 畑を耕して、薬草を採って、数か月に一度だけ商人が来る。それが、この村の、私の季節の流れだ。


 ミュリアは目尻を拭いながら、小さく息を吐いた。

 ——夢の中で泣いていたのに、目が覚めてもまだ涙が止まらなかった。



 この世界で、

 ミュリア(私)は幸せになってもいいのだろうか。


 お母さんと

 幸せになっても、いいのだろうか。


 神様は

 母は

 許してくれるのだろうか。



 私の宙に浮いた問いかけに返事をするように外の小鳥たちがピピピッと囀る。

 ちゃんと、地に足つけて生きていかないと。


 母と一緒に簡素な朝ごはんを食べる。

 皿に乗っているのは温めた黒パンと芋と薬草のスープだけ。パンは少し固く、ところどころ焦げた跡があって、スープには野草のえぐみが混ざっている。少なくない具材はどう見ても私のお椀に多めに入っている。


 あ、と思って顔を上げると、微笑む母が湯気の向こうで見えて、何も言えなくて、でも不思議と満たされる気がした。


 食事のあと、屋根の軒下で乾かした薬草を仕分けしていく。朝露がまだ残っているから、乾き具合を見て棚の奥と手前を入れ替える。

 粉ひき石の上にこぼれた葉っぱが指先に張り付いて、それを払うたびにふんわりと草の香りが舞い上がる。こうして母を手伝う時間が、私は前から好きだった。


 それが終わると、母は優しく頷いて言った。


 「行っといで、ミュリ。」

 わたしは小さく返事をして、丘の上の祈りの塔、傍にある小さな教会へ向かう。


 教会といっても、大きな鐘楼があるような立派な建物じゃない。木造りの壁は日差しで色が抜けて、屋根は苔でうっすらと緑がかっている。両開きの扉は重たくて、子どもの腕ではぎりぎり押し開けられるくらい。いつも片方だけをギュッと精一杯押し込んでいた。


 ぎ──……ぎぎ、と軋む音が室内に響くと、

 まだ冷たい朝の空気の中に乾いた木の匂いが広がった。中はひっそり静かで、天井の梁には教会虫がこつんとぶつかる音がする。

 奥の壁には質素な十字架が掛けられていて、その周りを漂う女神や男神の像。足元にはいくつかの女神と天使の像。磨かれてはいるけれど、欠け跡が残っている羽根がどこか愛おしい。


 長椅子は二列ずつ三つ並び、全部で六列。

 朝の光が窓から斜めに差し込み、木の床にやさしい線を描いていた。


 教壇の前には白髪を撫で付けた神父さまが立っていて、私の姿を見ると目を細めて微笑んでくれる。


 「ミュリア、おはよう」

 その声は母とはまた違う種類の慈しみに満ちている。


 そのすぐ前、一列目の端にはアニーが座っていた。

 小さな背中はこくん、こくん、と相槌を打っていて、半分眠った顔で目をこすりながら、ふわあっと小さくあくびを漏らす。

 そして私に気づくと、ぱっと花が開いたみたいに笑う。 


 「ミュリ、おはよお」

 寝ぼけていて、わたあめみたいにふわふわな声。

 私は思わず頬が緩む。


 「神父さま、あーちゃん、おはよう」

 小走りで彼女の隣に腰掛けると、椅子がかすかに軋んだ。


 神父さまがこの村に来てくれたのは、私のお父さんが亡くなってすぐのことだった。

 村の人たちから「王都で名のある方だった」と聞いたけれど、そんな威厳よりも、今の優しい眼差しの方がずっと印象に残っている。


 神父さまの提案で、私とアニーはここで読み書きを学び、礼拝の前に神さまのお勉強をしている。小さい頃読み聞かせをしてくれているようなただただ楽しいだけだった。


 でも——今は違う。


 あの夢が蘇ってから、

 私は自分がどれほど与えられていたのか、やっと気が付いたのだ。


 この村に教会があることも。

 文字を学べることも。

 こうして、朝を笑顔で迎えられることも。

 全部、奇跡が重なり合って出来た日常だ。


 私はそっと手を合わせ、胸の奥で覚えたての聖句を繰り返し、繰り返し祈った。



 ――神さま、チャンスをくださってありがとうございます

 ーーありがとう、ございます




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