episode15 理術院のラシェル
言われるまま右へ左へ、誰かの腕に案内され、誰かの声に押され、気付けば夕鐘が鳴っていた。
――初日はこれにて終了か。
「はい」「すみません」「承知しました」「わかりません」
語彙がそれ以外に存在したか怪しいほどだ。
(やっと……ひと息つける……)
なんだかもう見知ったように感じるスタート地点薬液庫に戻ってくる頃には、足の裏がしびれて棒のようだった。重かったのは身体だけじゃない。視線。人の数。建物の広さ。
世界、とにかくでかいなという実感が、ずっしり肩に乗っかる。
いや、でも前世で熱を持ったばかりのフライパン投げられた日とか、お気に入りのペティナイフをごみ袋に突っ込まれた日とかに比べたら
(……全然マイルドだな?)
誰かに鼻で笑われたり、平民だと分かった途端に態度を悪くされたりしたけれど、存外大丈夫だったな。
お貴族様特有のぼかし表現と婉曲遠回し攻撃によって、全くと言っていいほど理解力が追い付かなくて気付いた頃には話は終わっていたのだ。
(というかそれ以前にこの建物デカすぎる……。部屋多すぎるし、人多すぎるし、どこがどこだか……覚えられる気がしない……)
そんなぐったり魂のまま薬液庫へ戻ると、入口の脇に立つ影が一つ。どんよりした背筋が上司(?)を前にしてピシッと伸びた。
生成りの法衣は一枚布のように端正で、立ち位置まで誤差なく揃っている。そこに影を落とすさらさら落ちる明るい茶髪。背筋の通り方だけで、立場が分かる。
「初日、お疲れさまでした。今更になってしまいましたが」
その声音は澄んでいるのに起伏がなく、水面で音を立てずに石を沈めたような静けさを纏っていた。
「ラシェルと申します。理術院付き侍祭であなたの直属上司となります」
袖口には白金糸で縫い取られた幾何紋――理術院の印章なのだろう。ちらりと見せて軽く会釈して下さった。
幾何の線がきびきびと交差し、そこだけわずかに光を返す。
繊細な刺繍なのに、飾り気ではなく “肩書きに伴う責務” そのものに見える。
しかし、名乗っているのに歓迎の色は一滴もない。
嫌悪でもない。ただ必要な情報だけを置くたんたんとした声音。
「神官長は日々政務でお忙しいため、あなたが顔を合わせる機会はほぼありません。したがって、神官長への挨拶は不要です。以後、報告と確認は私が受け持ちます」
ぶれない調子。
感情は存在しないのではなく、不要として除外している機械みたいな話し方。
筋が通っているぶん、怖くはない。
ただ、淡々としていて、仕事人という感じだ。
ラシェルは一拍おいて、必要以上でも以下でもない声音で続けた。
「明日以降、仕事の割り振りも私を通してください。
あなたの役割は側仕え見習いですが、基礎能力次第で上振れも下振れもあり得ます。その評価も、私の権限です」
(つまり私はあなたの裁量権を握る人間ですって宣言された……ってことでいいんだよね?)
ようやく、今日いちばん重要そうな人にちゃんと会った気がする。
そこでラシェルは一度だけ、ほんの少しだけまぶたを伏せる。それが彼なりの挨拶の終止符なのだと分かる。
そのままついて来なさいとばかり振り返り背を向けて、こちらを見て頷く。
夕刻の回廊は、昼間の静けさと少し違っていた。
祈りを終えた神官たちが交差し、ほんのわずかに空気が動く。それでもざわめきにはならない。気配だけの往来。
ラシェルはその後、私を振り返らず歩く。迷子を気遣うでもなく、急かすでもなく、ただ一定速度で。
「侍従候補の宿泊区画は理術院の外縁です。正式な執務権限が与えられるまでは、こちらで待機となります。」
等間隔の扉の並びまでたどり着いたところで、ようやく彼は足を止めた。法衣のポケットから取り出した鍵をかけたまま扉に手を添え、端的に示す。
「部屋はひとつずつ割り当てられます。寝具は整っています。個人の荷を置いて構いません。」
そこで初めて、淡い蜂蜜色の瞳がこちらへ向く。
「入室許可は今夕より有効とします。」
扉が静かに開かれた。
ようこその歓迎はなく、使用を許可する――神殿はこういう場所なのだと、言葉より空気が教えてくる。
「夕食はこのあと。案内します。」
室内を少し見た後、鍵を私に手渡し、再び歩き出す姿に続く。
石床の続く回廊を抜けると、灯りのともった大食堂が見えてきた。厳粛というより、凛とした規律。誰も無駄口を叩く様子はない。
「基本食は神官区の供食として同一です。出仕階層によって席の区分だけ異なります。」
彼の説明は短く、誤魔化しがなく、どこまでも直線的だ。
「貴女は侍従候補扱いなので中央寄りの従属席。明日以降は供給側——配膳補助などの仕事も発生します」
食べる場所の案内は働く場所の予告を含んでいる。
食堂の入口まで来ると、彼はそこで立ち止まり、
「夕食後は各自解散。夜間外出は原則禁止。明日は鐘の一打ちで起床、二打ちで祈祷開始に同行。」
端的に、最後の指示だけを落とした。
「本日の導線は以上。自由時間に入ります。」
それで解散。
感謝を求めもしないし、気遣いもしない。
でも、置き去りでもない。
「はい。ありがとうございました。」
そう告げると、ラシェルは一拍だけ静止し、
それから何も言わずに去っていった。
ただし――
視線だけは一瞬、確認するようにこちらを振り返って。歩幅も姿勢も崩れず、足音が最小限。
ミュリアはようやく息を吐いた。
(……すごい。
神殿って、人間関係まで仕様書みたいなとこなんだ……)
でもそんなラシェルのお陰か不思議と緊張は少しましになっていた。明確な線引きは迷わなくていい。
しかし息は詰まる。精一杯息を吸って吐いた。




