episode14 始まりと再び別れ
丘をひとつ越えた瞬間、視界が急にひらけた。
村にいた頃、空はまっすぐ広かった。けれどここでは、人の作ったものが空の形を変えている。
石造りの巨大な外郭の壁。
こつこつ積んだ岩ではなく、魔力で整えられたのであろう石がぴしりと継ぎ目なく並ぶ。
まるで大地ごと削って城壁の姿に固めたみたいで、建物というより地形そのものだった。
門の前には荷馬車の列。
人、獣、行商人、旅芸人、荷台の上で泣き叫ぶ子ども、聞いたことのない楽器の音。
村人の生活音とはまるで違う、人間という生き物の密度を感じて圧倒される。空気も薄く感じた。これが都会…!
「ミュリアちゃん、王都へようこそ」
セオドールが笑って言う。けれど私は返事も忘れて、ただその光景に目を奪われていた。
門をくぐると、さらに世界が変わった。
まず、明かり。
蝋燭の影ではない。魔道灯──ガラスに閉じ込められた光が昼間みたいに揺れずに灯る。
風が吹いても消えない。
私の呼吸よりも確かに、そこに在り続ける光で煌々としていた。
次に、風。
立ち並ぶ店先に吊るされた花束はひとつもしおれていない。ここでは風除けまで魔法で張られている。
自然に咲いている花ですら守られている。
さらに、水。
どこにも水路がないのに、各所の桶樽が常に満たされている。綺麗すぎて、空から落ちてきたみたいな透き通った水。
(……魔法が、都市の大前提なんだ)
前世での文明の利器の時代と過程を知る私からしたら、なんだか生きる苦労の前半分を、仕組みごとすっ飛ばしたように感じた。
これを豊かと呼ぶのだとしたら、私はまだ全然世界を知らなかったのだと思い知らされた。
「……すごい……」
思わずこぼれた息を、セオドールが聞きとめる。
「驚くよね。でもまだ入口だからね」
「えっ、ここで……?」
「うん。ここはただの下町。神殿街に近づけば近づくほど、王都は王都らしくなるよ」
わたしはその言葉に背筋を伸ばす。
心臓がどくんと大きく脈を打った。
今見ているのは、世界の表紙にすぎない。
下町を抜け、石畳が急に滑らかになった頃──
空気そのものが違った。
ざわめきが遠のく。
気づけば、活気付いた声音は全くなくなり、整然とした落ち着いたざわめきに切り替わる。行き交う人々の足取りが揃って整って見えるのは礼儀ではなく無意識の畏れのように見えた。
視界の端に白い尖塔が見え始める。けれど、塔だと思ったものは塔ではなかった。
「……あれ……?」
セオドールが笑って、わざと答えを遅らせる。
「顔を上げてみなよ。全部、見える位置から」
促され、足を止めて真正面を見る。
瞬間、肺が止まった。
空を支えているのではない。
まるで空がそこに屈服させられているかのようだった。
大樹の幹みたいに伸びる巨大な白亜の柱。
そのさらに上に、山脈みたいに連なる屋根。
尖塔はたくさんあったのではなく、大神殿全体で城を三つ積み上げた高さで天を押し上げていた。
(これが大神殿、)
教会なんて言葉で括れるものじゃない。
祈りを捧げる場所ではなく、権威そのものが建築になっている。
「びっくりした?」
「……すごい……」
それしか言えなかった。
すごい、の中に畏怖も反逆もない。
ただこの世界の頂点が視覚的に理解された。
近づけば近づくほど、建物が引いて見えない。
視界いっぱいを神に奪われている。
村の教会は神に届くように祈る場所だった。
けれど、この建物は人間が神の足元に跪く前提で造られている。
「すごいってなるよね」
セオドールは穏やかに笑った。
「王城より先に大神殿ができた街だからさ。
ここじゃ政治より先に信仰が上にあるんだよ」
彼の言葉が、視界の光景ですべて裏付けられていく。
大神殿は王都の奥ではなく堂々と中心にある。
城郭も行政区も、その周りに従属する配置だった。
──つまり、
王が法を作る以前に、神殿が秩序を支配している。
それを説明されなくても分かってしまう風景。
「ここから先は、もう別世界だよ」
セオドールが言った。
「ミュリアちゃんが踏み入れるのは、ただの都じゃなくて、神々の元で作られた理の真下」
私は深く息を吸った。
胸の奥に火がついたみたいに熱くなる。
(こんな場所で……学ぶの?…わたしが?)
怖さより先に、光の方が勝った。
ここで生きれば、きっと何かが変わる。
ここで掴めるものがある。
世界の続きが、この先にある。
そう思った瞬間、私は自分がもう村の少女ではいられないことを理解した。
大神殿の正面へ続く大路から一本それた、石畳の細い通り。
表に比べて人の気配が薄い。けれど静かではない。規則正しい足音、荷車の軋み、短く交わされる合図の声。仕事の音が、空気を引き締めている。
「ここだよ。一般参拝の入口じゃない。働く人たちが出入りする職務門と呼ばれている」
セオドールが足を止めた先に、無地の大扉があった。装飾は最小限。代わりに蝶番と閂は頑丈で、見えないところに魔法の封鎖が張られているのが素人の私にも分かる。
門の前には白銀の小盾を佩いた神殿騎士が一人。姿勢は真っ直ぐで、風に揺れるものが一つもないような立ち方だ。
「ご用件を」
短く、しかし冷たくはない声。
セオドールは懐から封蝋のされた封筒を取り出し、胸元で両手を添えて差し出した。
蝋には見覚えのある印——麦の穂と皿、あれはセメティア様の紋章だ。
「行商人セオドールと申します。イレリウス殿よりの紹介状をお預かりしております。側仕え見習いとして、ミュリア・ルヴェールをお届けに」
神殿騎士の表情が、ほんの僅かに和らぐ。
封を確かめ、横合いの小扉へ合図を送った。内側の閂が音もなく外れ、生成りの法衣を着た若い侍祭が顔を出す。
「紹介状、確認いたしました。ミュリア・ルヴェール殿、こちらへ。まずは仮登録と持ち物の確認を致します」
胸の奥がどくん、と跳ねた。
——ほんとうに、入るんだ。
祈りに来たのではなく、働く人間として。
「行っておいで」
セオドールの声が、いつもより少しだけ低く響いた。
振り返ると、彼はいつもの調子で笑っている。だけどその笑顔の芯に、あったかい火が入っているのが分かる。
「王都は広い。迷ったら迷ったって言えばいい。困ったら、めぐり樽商会においで。下町の川沿い、粉屋の角を曲がった先だ。少なくともひと月は王都にいるつもりだから」
「……めぐり、樽商会」
口の中で何度か転がす。
樽が巡る、めぐる。行商の家らしい、いい名前だ。
「合言葉とか、いるんですか?」
「はは、それもいいね。セオさんの知り合いですって言えば、たぶん誰でも笑って通してくれるよ」
「たぶんなんですか」
「王都は人が多いからね。断言はできないのさ」
冗談めかして肩をすくめた彼は、ふっと表情を引き締めた。
そして私の荷紐を一度だけ直してくれる。
その手つきは、兄みたいにやさしい。
「ミュリアちゃん。ここからは君の見せ場だ。
怖くなったら深呼吸。分からなかったら聞く。辛くなったら休む。それでも前に進める時は、迷わず進めばいい」
「……はい」
「君がここに来るのを、何人もが嬉しがってる。君自身もでしょう?それじゃ、行ってきなさい。帰り道はいつだって、君の背中のほうにある」
胸が熱くなる。うん、と強く頷いた。行ってくる。
私は侍祭の後ろ姿に続いて、小扉をくぐった。
中は想像していたよりも静かで、軽やかだった。
白い石の廊下。足音が吸い込まれるような敷石。壁には最低限の掲示と小さな標。働くために必要な線だけが残されたみたいな、無駄のない空気。
「荷物はそのままで結構です。貴女の当面の仕事は清儀院の補助区画です。所属先は理術院になりますが、新人はまず祈祷から学んでもらうという決まりです。それ以外は神官長付の側仕え候補として、院内の清掃、物品の管理、受け渡し、巡回の付き添いなどから。昼には配膳補助も回ります」
「はい」
侍祭は歩きながら、要点だけを落とすように説明していく。慌ただしいけれど、乱れていない。
ここは忙しくなく仕事で世界が回っている場所だ。
「それと——イレリウス殿は、理術院に縁の深いお方です。名を出す必要はありませんが、困った際はイレリウス殿の紹介で参りましたと言えば、道は開けます」
思わず小さく笑ってしまった。
道は、もう目の前で開いている。
扉も、仕事も、時間も。
廊下の途中、私は一度だけ振り返る。
小さな職務門の向こう側——外光の帯の辺りに、セオドールの姿はもうなかった。
きっと、すぐさま荷馬車に戻って、次の仕事に進むのだろう。
(……行ってきます)
胸の内で囁いて、前を見る。
◆
仮登録を終え、私は細い木の札を一枚受け取った。
名前と臨時所属を書いたその札は、今日からの私の居場所そのものを表していた。
まず案内されたのは理術院の裏手、物資の集積室に隣接した小部屋だ。
布、薬瓶、干し草、擦りガラス越しの光。村の薬屋の匂いとなんとなく似ているのに、並び方も数も、すべてが体系化されている。
「まずはこの一覧に沿って、今月分の補充と在庫数の確認をしてもらいます。この表のここの列に基準の個数が書いてあります。足りなくなりそうなものはここの空欄にチェックをお願いします。また終わり次第大掃除に入るので周りにいる同じ衣装を着た側使いに仕事を割り振ってもらってください」
「はい。……あの、質問してもいいですか」
「どうぞ」
「この薬液庫——鍵が三つありますよね。ここを利用権限を持つのは理術院と慈癒院、もうひとつの印はなんでしょうか?」
「そちらは神殿騎士の印です。緊急時、戦傷者の搬入が生じた際の開庫権限が必要となります。ここでは信仰と医療と護りが並列で動きます」
並列。
その言葉が、私の中にしっくり落ちる。
村ではひとりの母が全部抱えていた仕事が、ここでは三つの役割で同時に進むのだ。
息を整える。
緊張はある。覚えることがたくさんだからだ。
でも、負けてはいけない。
(わたしは、来た。見て、触れて、覚えて、役に立つ。そして胸を張って帰るのだ)
布袋の山に手を伸ばすと、指先が村の朝を思い出した。
薬草の葉脈、乾いた茎の節、瓶に沈む色。やることは変わらない。世界が大きくなっただけだ。
制服の裾を軽く摘んで結び直す。
袖を少しだけまくる。
「では、よろしくお願いします」
侍祭が頷き、チェック表を手渡した。
◆
夕の鐘が鳴る。
配膳の手伝いで湯気の向こうに人の数を知る。
さっきまで建物として見ていた大神殿が、急に生き物のように生き生きと感じられた。
食事を運び、片付け、洗い、拭き、並べる。動線は長いけれど、心は意外なほど軽い。
ふと、胸元の薄い紐が揺れて、木札が小さく当たった。
『ミュリア・ルヴェール』
この名が、ここでも通る。
(セオさん、今ごろどの辺りを走ってるかな)
浮かんだ問いに自分で笑って、首を振る。
次のかごを持ち上げる。
できることを、今ここで積む。
困ったら、めぐり樽商会。
その逃げ道が胸に一つあるだけで、不思議と足取りは前へ出る。
この日、王都の空はよく晴れていた。
光は上からだけでなく、廊下の磨かれた床や白い壁からも跳ね返ってくる。
世界は明るい。
だから、私は見失わない。
——さあ、働こう。
ここから、始めよう。




