episode10 旅立ちの村
春は、村にとってご褒美の季節だ。
雪の名残りを抱いた斜面に、小さな青い花が点々と灯り、軒先では洗った布がぱん、と音を立てて風を受ける。山肌はやわらいだ緑に衣替えし、土は湿った匂いを返す。
冬のあいだため込んだ言葉が、日向にほどけていくように、人々の声が賑やかになった。
灯果の蝋燭、温石袋騒動からはしばらく経ち、村は穏やかに息を弾ませていた。けれど、ミュリアの内側にもあの季節が近づいて来ていた。
朝、薬草畑に出る。
芽吹きは、見るたびに見分けがつく。根の張り、葉の厚み、茎に宿る水分の重さ。
触れた瞬間、どれを今摘み、どれを明日に回すかが自然に分かる。
今日も神様に感謝するのだ。自然の恵みに。生きていることに。生命の糧に。
干し台に運び、刻み、陰干しと火乾しを使い分ける。春風の温度と湿りに合わせて干し時間を微調整するのも、もう体が覚えきっていた。
(できる。目をつむってでも、もうできる)
それは誇りであり、同時に、薄い空白でもあった。
神父さまに借りられる本は読み尽くした。
聖句も薬草図鑑も、頁のどこに薄い染みがあるのかまで覚えてしまっている。
知識は溜まり、手は迷わず働く。――なのに、胸の奥の渇きが消えない。
燻る言葉の名は、わかっている。
錬金術。
薬師は、傷や熱や咳と真っ向から向き合い、自然の恵みで人を日常へ連れ戻す。いのちの暮らしを守る仕事。
でも、世界のどこかに“境目を超える一滴”があるという。
神殿の奥でのみ伝えられる“生命の雫”。
鍋でも竃でもない、錬金釜という器で、神慮の秩序を借りて導く一滴。
それは、薬師の領分ではない。錬金術師の仕事だ。
(あれを知りたい。
あの先を、見てみたい)
声にはしない。土の上に落としてしまいそうで、怖かった。
その日も、夕刻。
母ミリアは店先の木枠に札を戻し、戸口の鈴を外した。湯気の立つハーブ湯を注いだ椀を手渡してくれながら、娘の顔を覗きこむ。
「最近、ミュリの目が遠くを見ているのよ」
「え?」
「畑のずっと先、山のもっと先。まだ見ぬ場所を見てる目よ。お母さんも昔に見たいと望んだことがあるわ」
ミュリアははっと息を呑んだ。
前世の、自分。見えない何かに追い立てられて家を飛び出し、背中だけを見せて出ていった自分が思い返される。
あの頃の胸の痛みが、今になって帰ってくる。
一度くらい振り返るべきだったと。
だからーーーー
「…いい目よ。怖がらないで」
その夜、ミリアはひとり、教会へ向かった。
星の薄い夜だった。祈りの声は低く、灯の下で白髪の神父が聖書を閉じた。
「神父さま。お願いがあります」
ミリアは、娘がこの村にしてきたことを語った。
冬の手仕事を広げたことも、病の子の枕元で軽くなる息を何度も見たことも、薬草の声を聞くように畑を歩く背中も――それがこの村の暮らしを、どれだけやわらかく変えてくれたか。
そして、その娘が、頁の先を欲しがっていることも。
「ミュリアを、王都へ学びに行かせたいのです。この村に残ることが親孝行だと、あの子は思っている。……でも、あの子の望みを閉じ込めたくない」
神父は静かに頷いた。
あの小さな手がどれほど働き、祈りを忘れずにいたかを、この数年ずっと見てきた。
祈りは人を無理にここへ縛りつけるための鎖ではない。
祝福は出発のためにも降る。
「…有難いことに私にはまだ王都に心当たりがあります。行商のセオドール殿が次に来る折、彼の隊に乗せてやれるでしょう」
ミリアは深く頭を下げ、帰り道、小さな星へ礼を言った。
知らせは、春の光で満たされた台所で告げられた。
焼いた黒麦パンの匂い、野菜のスープ、卵の黄色。ごく普通の夕餉の卓上に、その言葉は置かれた。
「ミュリ。……王都へ、学びに行きなさい」
器の縁を持つ手が、止まった。
スープの表面が静かに揺れ、それからぴたりとおとなしくなる。
「……お母さん、今、なんて」
「ミュリが読みたい本はこの村にはもうない。覚えたい技も、きっと向こうにある。あなたが望むなら、あの深みに指を伸ばせる場所へ」
言葉が喉で絡まった。
輝かしい憧れが脳裏を掠めるが、それを覆い尽くすほどの後悔と恐れを含んだ過去の影。
前世の家を出た日が、家に戻った最後の日が、血の気の引くほど鮮やかに蘇る。
「でも、わたし……。お母さんを、ひとりにしたくない。前は、わたし、勝手に、置いて……」
声が細かく震え、指が器を強く握る。
自分が何を言っているのかも分からなかった。
ミリアは席を回って隣に座った。
膝を合わせ、娘の手からそっと椀を外し、両の手を包む。
「ミュリ。……聞いてね」
母の声は、やさしく、そして誤魔化さない。
「お母さんももちろん寂しいわ。
あなたが隣にいない朝は、きっと泣く日もある。台所で、箒を持ったまま止まる日もあるでしょう」
ミュリアは反射的に首を振る。
ごめんなさい、と言いかけた唇を、ミリアの言葉が遮る。
「でもね、あなたがやりたいと思うことを、ここに母がいることが錘となって、前へ進めていないことが寂しいの。その異なる2つの寂しさは、どちらもあなたへの愛の証拠だと思っているわ。その愛ごと、あなたを送り出したいの」
ミリアは小さく息をついた。
温かいものと冷たいものが、同じ涙に溶けて落ちる。
「周りはあなたを親孝行してくれるいい娘さんだと、贅沢なことだと、たんまり褒めてくれるわね。私はその度に、胸が苦しいわ。私がひとりでは何も出来ない人みたいじゃない」
胸の奥で、固く結んでいた紐が一つ、するりとほどけた。
赦しは、説教ではなく、抱きしめることでもなく――相手の自由に場所を空けることなのだと、その場で知った。
「ミュリ。……あなたがほんとうにしたいことは、なに?」
問われて、ミュリアは眠っていた言葉をゆっくり取りにいく。
畑の匂い。灯の揺らぎ。薬包を折る紙の感触。
その全部を抱いたうえで、それでも胸の奥に残る渇きの名。
「錬金術師になりたい。
この世界の理に、触れたい。
いのちを、もう一歩だけ遠くまで連れ戻せる人に、なりたい」
「うん」
「いつでも帰ってこれるよね?帰る場所がここにあるから、遠くに行けるんだって、胸張って言えるよね?」
「うん」
「お母さんに、誇らしい娘だって思ってもらいたい。…わたし自身にも、誇らしいって思いたい」
ミリアは娘の額に手を当て、微笑む。
「なら、行きなさい。
ミュリア。あなたの進みたい道へ。」
堰が切れたみたいに、涙があふれた。
泣きながら笑い、笑いながら泣いた。前世の後悔が、静かに溶けて土へ吸いこまれていく。
許されてはいけない、許されないのに、それごと包み込まれたような気がした。
この涙は逃げるための悲しい涙では、ない。
その夜、灯を落としたあと、二人は小さな荷支度に取りかかった。
布の袋を広げ、必要最小限を書き出す。着替え、手帳、筆記具、簡易の乳鉢、小さな薬匙、包帯、夜の寒さを防ぐ肩掛け。
最後に、ミリアは店の棚から、小さな革装のノートを取り出して差し出す。表紙の角は擦れて柔らかい。
「お母さんの若いころの調合帳。余白がまだ少し残ってる。これをミュリに」
「でもこれ、お母さんの——」
「いいの。わたしはもう、書き終えたわ。買いてあることも覚えている。ミュリは、続きを書いて。王都で見たこと、学んだこと、失敗も、うまくいったことも。……あなたの目で見た世界を、ここに」
抱きしめる。
薬草と石鹸の匂いがする。
最近は軟膏のお陰か月日がそうさせたのかすっかり柔くなった掌の温度を、頬で覚える。
――出発の朝は、驚くほど静かに来た。
霜は降りず、空気は澄み、鳥が一定の距離を保って鳴く。戸口に立つと、村の道が細く長くつづいていた。
荷馬車の鈴の音。セオドールが片手を上げる。神父さまが見送りに来て、胸元で十字を切った。
「王都までなら、ゆっくり行っても三日とかからない。途中でニ泊ほどです。怖くなったら、いつでも言ってくれて構わないよ、引き返すのもまた知っている道の一つだから」
セオドールの言葉に、ミュリアは笑って首を振る。
「怖いです。でも、行きます」
ミリアは、泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
袖で頬を拭うでもなく、涙の筋をそのままに、娘の頬に両手を添え、じっと目を見た。
「ミュリ。
――行きなさい」
その“行きなさい”には、あらゆる意味が入っていた。
寂しい。誇らしい。心配。信じている。いつでも帰っておいで。ここは変わらずあなたの家。
全部がひとつになって、春の光に溶けた。
「いってきます。
絶対、ちゃんと学んで帰ってくる」
「うん。いっぱい見て、いっぱい失敗して、いっぱい笑っておいで。お母さん、ここで待ってるから」
荷台に上がる。
車輪が土を踏みしめる。
ミュリアは何度も振り返った。母の姿が小さくなり、村の屋根が重なり、山の色が濃くなる。
心が痛むたび、胸の真ん中に灯がともる。託された灯だ。風が吹いても、揺れても、消えない。
道が、ひらけた。
遠く、王都の方角に、薄い靄が立ち上る。
そこに錬金釜がある。未知がある。世界の理が、まだ名もない言葉で眠っている。
ミュリアは小さく息を吸い、膝の上の調合帳を開いた。最初の余白に、今日の日付と、ひとつの言葉だけを書く。
――旅立ち。
いのちを、もう一歩だけ遠くへ。
村の春を背に、ミュリアは錬金術師の道へ、最初の一歩を踏み出した。




