72.目覚め
熱い空気が体を包む。
押し潰された下半身の痛みが、だんだんと遠のいていく。
―――ああ、これは…私が命を落としたときの記憶だわ…。
アイラはそう思いながら、ゆらゆらとした記憶の波に意識を預けていた。
火の手が部屋を包み、倒れた本棚に押し潰され、意識を失いかけていたその時、ガラスが割れる音が響いた。
―――そう。確かこのとき、誰かが叫びながら私に近付いてきて…。
「―――アイラ!!」
え?とアイラは思った。あのときは聞こえなかったはずの声が、やけにハッキリと聞こえたからだ。
「アイラ!しっかりしろ…アイラ!」
その声は、何度もアイラを呼ぶ。聞き覚えのある、とても心地よい声だ。
それが誰なのか、ぼやけた視界の中でも分かる。
騎士団の服。黒髪に紅蓮の瞳。必死にアイラに呼びかけてくれているのは、間違いなくエルヴィスだった。
―――やっぱり、助けに来てくれたのはエルヴィス団長だったのね…。
嬉しくて名前を呼ぼうとしたが、声が出ない。これは記憶の中だということを思い出し、アイラは変な気分になった。
―――ああ、とても心配をかけているわ。エルヴィス団長に教えてあげたい。
私はこのあと、人生をやり直して騎士となって、貴方の隣にいます、って…。
アイラの瞳に、エルヴィスの紅蓮の瞳が映る。
「………きれい…」
あの日と同じように、掠れた声でそう呟いた。そして、頬を涙が伝う。
このあと、そっと瞼を閉じたアイラは、気づけば三年ほど時を遡り、再び目を覚ますはずだった。
けれど記憶の中の出来事だからなのか、やけにハッキリとした意識の中で、エルヴィスの声が届く。
「アイラ!…アイラ…くそっ!上手くいくか分からないが、これに懸けるしかない……!」
エルヴィスが胸元から取り出したのは、ペンダントのようなものだった。そしてアイラは、それに似たものを見たことがある。
つい先ほど使用して、壊れてしまった腕輪型の魔術具―――トリシアがくれた魔術具に、デザインが似ていたのだ。
エルヴィスはペンダントをアイラの手に握らせ、自身の手のひらをその上にそっと乗せる。
心地良い魔力が流れ、全身に駆け巡るのが分かった。
―――そう…そうだったのね…、エルヴィス団長…。
眩い光が部屋中を照らす。
アイラは意識を取り戻し、ハッと目を見開いた。
「―――アイラ!!」
視界に飛び込んできたのは、輝く蜂蜜色の髪だった。
クライドが心配そうにアイラを覗き込んでいる。
「アイラ、目が覚めて良かった…!どこか痛むのか?苦しいのか?」
「……お兄さま…?」
アイラは頬を伝う涙に気付いた。それを見て、どこか痛むのかとクライドは心配しているのだろう。
「私……」
「起き上がらなくていい、そのまま横になっているんだ。とりあえず、各方面にアイラが目覚めたと知らせるよ」
そう言って、クライドは近くの鞄をごそごそと漁り、魔術具を取り出した。
そこに音声を吹き込んでいる様子を見たあと、アイラは周囲をきょろきょろと見渡す。
見慣れた光景から、今いる場所が城の病棟だということが分かった。先ほどの記憶を思い出したため、アイラの頭はまだ混乱している。
――ええと、私は…そう、サイラスさまとネイトさまが倒れて…エルヴィス団長の手を取ろうとしたら…?ここから思い出せないわ。気を失ったのかしら。
クライドが魔力を込めると、羽のようなものが生えた小型の魔術具が、パタパタと何個も窓から飛んで行った。
ふう、と一息吐いたクライドに、アイラは問い掛ける。
「お兄さま、サイラスさまとネイトさまは?戦ったのは昨日…ですよね?」
窓の外を見る限り、昼頃のようだった。少なくとも一晩は経っていると思ったのだが、クライドは少し言いにくそうにしている。
「あの兄弟は、ひとまず拘束して地下牢にいて、処罰は保留になっている。……それで、戦ったのは五日前だ」
「……えっ!?」
アイラは驚きで目を見張った。五日も意識を失っていたことは初めてだ。
「このまま目を覚まさないんじゃないかと…本気で心配したんだからな」
「……また心配をかけてしまいましたね。ごめんなさい、お兄さま」
「こうして目を開けてくれたから、もう許す」
アイラの頭を優しく撫でながら、クライドがフッと笑う。アイラも自然と笑みが浮かんだ。
「私、目立ったケガはなかったと思うのですが…どうして気を失ったのでしょう?」
「医師は、魔力が枯渇寸前だったのと、心労が原因じゃないかと言っていたな。あれだけのことがあったんだ…無理もないと俺は思う」
「そうですか…」
アイラはゆっくりと、夜会から始まった戦いを思い出していた。
クローネに誘い出され、痺れ薬を盛られ、背中を斬られた。
そのあとネイトの元へ連れられ、闇の魔術で苦しめられ、かと思えば次はサイラスの闇の魔術に苦しめられ、床に叩きつけられそうになった。
そのあと大量の魔物と戦い、サイラスと戦い…アイラは我ながら、よく大ケガをせず生きていられたなと思った。
それは、皆がアイラのために動いてくれたからだと、もちろん分かっている。
「……そういえば、お兄さまは何故ここに?」
魔術学校へ通っているクライドが、アイラが目を覚まさなかった五日もの間、ここにいてくれたとは考えにくい。
アイラの問いに、クライドはニッと笑ってVサインを作った。
「ちょうど昨日、魔術師の試験に合格したんだ」
「ほ…本当ですか!?おめでとうございます!」
「ありがとな。それで、魔術師になると城に来ることも増えるから、許可証の手続きとかをして…アイラの顔を見て帰ろうと思ってたところだったんだ」
アイラは、運良くそのタイミングで目を覚ましたらしい。
大好きな兄が魔術師となったことを、直接知ることができてとても嬉しかった。
顔を輝かせて拍手をするアイラに、クライドが照れたように笑う。
「とりあえず、肩の荷が一気に降りたよ。アイラが命を狙われている問題と、俺の魔術師の試験がな。……あともう一つは、まだかかりそうだけど…」
最後の言葉がうまく聞き取れず、アイラは首を傾げた。
「あともう一つが、何ですか?」
「……あー、いや…何でも…。いや待てよ、アイラにも関係あるのか…」
クライドが眉を寄せ、ぶつぶつと呟いている。気になったアイラが、ゆっくりと体を起こしたところで、バタバタと足音が響いた。
「……アイラ!目が覚めたって!?」
「うるさいよ、体に響くかもしれないでしょ」
扉から入ってきたのは、デレクとリアムだった。アイラは二人の姿を見て顔を輝かせる。
「デレク、リアム!おはよう!」
「おはようって…君、五日も寝てたんだけど、他に言うことないわけ?」
「いいじゃんかリアム、アイラにとっては一日寝てただけの感覚なんだろ!それより良かったよ、またやり直し、とかならなくて……あっ」
デレクがしまった、とばかりに両手で口を塞ぐ。視線はクライドへ向いていた。
「……やり直し?どういう意味だ?」
きょとんとした顔でクライドに訊かれ、アイラは口を閉ざした。
―――お兄さまには、全てを打ち明けたい気持ちはあるわ。けれど、余計な心配をかけることになるし…。それに、まだ…。
蘇るのは、先ほどの目を覚ます前の記憶だった。他の誰でもない、エルヴィスに確認しなければならないことが、まだあるのだ。
「……お兄さま」
「ん?」
「私…お兄さまにお話したいことがあります。けれど、今はまだ、どうしてもお話できません」
眉を下げてそう言えば、クライドは何故か笑う。
「いいんだアイラ。誰にだって言いたくないこと、言いにくいことはある。それをいつ言葉で伝えるかは、お前の自由だ」
アイラの頭をポンと叩き、クライドが立ち上がった。鞄を持つと、デレクとリアムを見る。
「二人とも、アイラを頼んでいいか?困ったことに俺はまだ、やることがたくさんあるんだ」
「はい、分かりました」
「任せてください!」
二人の返事に満足したように微笑むと、クライドはまたアイラの頭を優しく叩く。
「じゃあアイラ、何かあればすぐ手紙を送ってくれ。落ち着いたら、父さまと母さまにも一緒に会おう。……ベラも心配してたぞ」
「……はい!ありがとうございます、お兄さま」
両親やベラの顔を思い出し、アイラはじわりと目頭が熱くなる。クライドがひらひらと手を振って部屋を出て行った。
扉が閉まった途端、デレクが大きなため息を吐く。
「っはーーー、ごめんアイラ!口が滑った!」
「本当だよ、その口縫い付けた方がいいんじゃない?」
リアムに睨まれ、デレクがまた口元を押さえる。アイラはいつも通りの二人の様子に笑ってしまった。
「ふふっ、いいのよデレク。戦いは一応終わったし、お兄さまにはいずれ話したいと思っていたの」
「そっか…良かった。そうだアイラ、あの戦いのあとのことなんだけど」
「ええ、詳しく話が聞きたいわ。……その前に二人とも、任務は?訓練はないの?」
アイラが問い掛けると、デレクとリアムは顔を見合わせる。
まさか抜け出してきたのでは…とアイラは思ったが、そうではないようだった。
「今日さ、騎士団の入団試験の日なんだよ」
デレクの言葉に、アイラは目を丸くした。
入団試験。その日付が近いことを、すっかり忘れていたのだ。
「それでフィン副団長はいないし、先輩たちも試験官役で何人も抜けててさ。任務も簡単ですぐ終わって、訓練場で自主練してたら魔術具が飛んできて…」
「……アイラの目が覚めたって、お兄さんの声で話し始めるから驚いた。デレクが飛び出してくから僕がそれを止めて、そしたらオーティス先輩が行ってきていいって言ってくれたんだ」
リアムがそう言いながら、窓の外に視線を向ける。
「ここからだと、試験会場は見えないか…。たぶん団長も副団長も、すぐに飛んで来たいと思ってるはずだけど…さすがに試験を放っておけないからね」
「そうね…エドくんは試験を受けているのかしら?」
「ああ、カレン先輩の弟だっけ?いると思うよ。先輩が朝からそわそわしてたから」
「ま、エドなら大丈夫だろ。終わったら尻尾振ってアイラに会いに来るんじゃね?」
デレクがケラケラと笑う。その姿が想像できてしまい、アイラもくすりと笑った。
入団試験の日から、まだ一年は経っていない。それでもアイラには、なんだか遠い昔のことのように思える。
「……それで、ネイトさまとサイラスさまは?処罰は保留になっていると聞いたけれど…。あ、二人とも座ってね」
アイラの言葉に、デレクとリアムは近くの椅子に腰掛けた。最初にリアムが口を開く。
「そうだよ。それぞれから聴取をしたんだけど、君の話とも照らし合わせないといけないから。だから保留になってるんだ」
「そっか…そうよね。私が一番事情を知っているのに呑気に五日も寝てたから…」
「呑気じゃないだろ!アイラは誰よりも頑張ったんだから、あとひと月くらいは休んでいいはずだ!」
デレクが自身の胸をドンと叩いてそう言い、隣に座るリアムがうるさいなと言うように片耳を塞いだ。
「ありがとう、デレク。でもひと月も休んだら体が鈍るわ」
「いや真面目か!俺なら喜んで休むけど…じゃなくて、教えてくれよアイラ。夜会の日に何があったのか」
「うん、僕も知りたい。僕たちもあの夜何があったのかも話すからさ」
アイラはベッドの上で佇まいを直し、小さく頷く。
「まずは、私から話すわ。クローネに連れられて、会場を出たあとだけれど―――…」
そこから、アイラは自分の体験を話した。デレクとリアムは黙って話を聞いてくれている。
ネイトの邸宅に馬車が着いたときの話になり、アイラはふと陽気な男性の姿を思い出す。
―――ロイさま…無事だったのかしら。エルヴィス団長の部下だと言っていたけれど、おそらく秘密裏に動く仕事よね…勝手に話したらダメかもしれないわ。
あとでエルヴィスに訊ねようと思いつつ、アイラはロイの存在を伏せて話を続けた。
ネイトの記憶やサイラスが全ての元凶であったこと、そして皆をトリシアがくれた魔術具で呼び出したところまでを話し終えると、デレクが真っ青な顔で震えていることに気付く。
「……デレク?大丈夫?」
「俺より…アイラの方が大丈夫かよ…!闇の魔術でめっちゃ攻撃されてたのに、俺たちと一緒に魔物を倒した挙げ句、サイラスって野郎と戦ったのか!?」
そう指摘され、アイラは笑って誤魔化した。
「あのときはその、皆の登場でやる気がみなぎっていたというか、何でもできる気がしたというか…」
「つまり、気分が高揚してたってことだね。だから限界超えたのに気づかなくて、最終的に全てが終わった安心感から気を失って倒れた、と」
「………えへ…」
「「笑い事じゃない」」
デレクとリアムに同時にピシャリと言い放たれ、アイラは眉を下げて二人を見た。
「心配かけて、ごめんね。もう今さらかもしれないけれど…」
「本当になぁ〜。もう心配かけないでくれよアイラ。心臓がいくつあっても足りないぞ」
「うん。約束する……守れるか自信はないけど…」
「ぼそっと付け足さないの」
三人で顔を見合わせ、ぷはっと吹き出すように笑い合う。その瞬間が、アイラにはとても心地良く嬉しかった。
「そんじゃあ、俺とリアムの話をしようぜ。……っても、俺はほとんど眠らされてたんだけどな」
悔しそうな顔で、デレクが話し始める。
邸宅の外の警備を担当していたデレクは、クライドがアイラの剣を持ってくるのを待っていた。
先輩騎士と雑談していたところで、不自然な甘い匂いに気付いたらしい。
そして注意を促そうかと思ったときには、意識が朦朧とし、気づけば意識を失っていたようだ。
「……そんで、口の中に気付け薬突っ込まれて起きた。あれは最悪だった…クライドさんとめっちゃ叫んだもんなぁ」
「えっ、お兄さまも?」
「そうそう。俺に剣を届けに来て巻き込まれちゃったみたいでさ。そのあと副団長にアイラが消えたって聞いて、急いで会場に駆けつけたら扉が閉まって開かないし、なんか咆哮は聞こえるし」
「そのとき何があったかは、僕が話すよ」
その後のリアムの話を聞いて、アイラは会場の誰もが傷つかずに済んで、本当に良かったと思った。
魔物を使ったのもきっとサイラスの指示なのだろう。会場がめちゃくちゃになったと聞いて、アイラはバージルの苦い顔を思い浮かべる。
「……バージルさまは?大丈夫かしら?」
「侯爵が貴族たちを宥める姿は見たけど、そのあとは分からないな。あれだけの事が起きたのに、外では全然騒ぎになっていないから、どう説明したのか気にはなるけど」
協力してもらった上に、迷惑を掛け、貴族たちの対応を全て任せきりにした挙句、大広間は半壊……アイラは頭を抱えたくなった。
「……私個人のお金で、とても弁償できる額じゃないわよね…どうしましょう二人とも、どこかお金を借りれる良いところを知ってる?」
「安心しろ、お前に請求なんかしない」
えっ、とアイラが声を上げると、扉からバージルが入って来た。後ろには護衛のコリーの姿もある。
「バージルさま!?どうしてここに?」
「俺だけじゃない、廊下にオドネル伯爵家の三兄弟もいるぞ」
「え?」
リアムが眉を寄せ、扉の外を覗く。本当にいたようで、訳が分からないという顔をしていた。
アイラも首を傾げていると、突然部屋の中にフィンが現れた。魔術具で転移してきたようだ。
「おっと、もう揃ってたか」
「……フィン副団長、これは一体…?」
「アイラ、目が覚めて良かった。おかえり」
フィンがアイラに向かって優しく微笑んだ。相変わらず綺麗な顔立ちをしているが、一つだけいつもと違うところに気付く。
「………髪の毛、どうしたのですか…!?」
フィンの銀髪は、いつも頭の後ろで一つに結わえられていた。しかし、それがもう無い。サッパリと切り揃えられている。
「あは、今それ聞く?周囲にはなかなか好評だけど」
「はい、とても似合っていますが…」
「ありがと。でも俺の髪の事情より、まずは君のことだよ、アイラ」
フィンは苦笑しつつ、アイラの頭を撫でた。
「―――女神として、崇められる覚悟はある?」
それは、久しぶりに見た悪魔の微笑みだった。




