名も無き花《上》
その頃、軍の情報管理局では1人の男が膨大な資料と格闘していた。
金の髪を垂らしたその男は、暫く手当たり次第に資料を捲っていたが、やがてその手を止めた。
「やはりどこにも無いか…」
あらゆるデータを探したが、彼の探しものは見つからなかった。見落とした資料はないはずだが…―
しかし、始めから見つかるわけもないのだった。ここにある全てのデータは既に彼の頭に叩き込んであったものだから、そこには彼にとって新しい情報は何一つなかった。
「あの女に関するデータが何一つ存在しねぇ」
再び、溜め息混じりの独り言が漏れる。既に頭は次の思案を巡らしていた。
『あの女』とは、王国正規軍第一部隊所属の、とある少女のことである。隊長を務めることになったこの男、フェイクは部下にあたるはずの彼女のその名すら知らなかった。厳密に言えば、おそらく名前は知っていると思う。先日の顔合わせの前に少女だけがある任務についており、そこで名前を名乗ったと噂になっていた。
その上で敢えて問うてみたが、どうにも名乗らない。結局自分で調べればこの有り様だ。
フェイクは、入隊から今の隊に移るまでの間、あらゆる方面への情報収集に努めた。今では軍関係者のデータは、部隊を問わずほぼ把握していると言っていい。誰よりも情報を持っていると彼自身が自負する程だ。
軍の資料から得たものは勿論、自らの足で直接集めたものもある。それらは全て己の頭の中に叩き込んであった。
しかし、それでもあの少女に関する事柄だけは、まるで誰かが意図的に消し取ったかのように全く記録にないのだった。
「あれだけの力があるんだ、何かしらの記録があってもおかしくないんだけどな…。悪目立ちがすぎる。それか入隊とともに第一部隊に抜擢……?いや、それにしたって抜擢されるだけの働きが記録にないのはおかしい。不自然だな」
先日の第一部隊の顔合わせの日にレスターが指摘していた「隻眼の魔女」はおそらくあの少女で間違いないだろう。フェイクも「隻眼の魔女」の噂くらいは聞いたことがある。だが、実際に見たことは一度もない。隻眼の魔女に遭遇したものは生きて帰れないと言われているのだが、それならば一体誰が隻眼の魔女の噂を広めたというのだろうか。使う武器も槍であるとか銃であるとか、刀であるとも言われているし、髪の長い女だとか、男のような体格の女だとかどれもこれもが噂の域を出ない類の話ばかりでフェイクはあまり気にかけてはいなかった。まさか実在した上にこんな少女だとは思わなかったが。せいぜい年は16,7くらいだろう。小柄で、とても腕力があるようには見えないが、片側しか伺い見ることのできない眼光のその鋭さはただの少女のそれではなかった。
ブツブツとああでもない、こうでもないと1人で呟く。これといった名答も浮かばずに、苛立ちが募っていく。どうする…、と次の思案を巡らそうとしていたその時、近づいてくる足音を耳にした。
(お、珍しいな。誰だ)
許可された特定の人物を除いては、この場所への立ち入りが制限されている。かなりの権限を与えられている第一部隊を除けば、情報を専門に扱う部署に携わる者か、高官がそれに該当する。
一時思考を止め、横目で密かに入り口を見守れば、全く予想だにしなかった人物が視界に映ってきた。
「アシュリー、いるか?」
「げ、ユリウス王子!?」
恐らく、資料目的ではないのだろうが、それでもやはり予想外の人物の登場に、フェイクは一瞬面食らった。
思わず漏らしたその声で、先客の存在に気付いたユリウスが、その視界に男の姿を捉える。プラチナブロンドの緩いウェーブの髪から覗くのは上品な淡い青色の瞳。しかしそこに映した姿を頭で理解すると、その目をギリギリまで吊り上げ、整った美しい顔を歪めた。
「貴様は……!!フェイク・パーカー!!」
探し人をしていたはずであろうユリウスだったが、今や己の目的さえも忘れ抜刀せんばかりの気迫でフェイクを睨みつける。何故かこれまでに何かと目をつけられており、殊に第一部隊への抜擢が決まってからは当たりが三倍増しなった。どうせお墨付きの出自でないことが災いしている。だがそれが何だと言うのか。結局最後は力あるものしか生きられないはずだ。譲り受けた地位がないなら実力で築くしかない、自分達のような人間は。だが、話してわかりあえるとも思えない。面倒で、実利なく、そうそれは時間の無駄でしかない。
「フェイク、貴様はわが国に忠誠を誓う軍人であるはずなのに、なんだその態度は」
「あー…一応そのつもりですけど?しかし、それにしても、王子様がまた何故このような処へ御一人で?」
「それは貴様には関係のないことだ!そもそも私は貴様のような輩が第一部隊に属している事それ事態が疑問でならない」
「左様ですか。しかしこれは実力に基づいて女王陛下が決められたことですからねぇ」
この最高統率者である女王はユリウスの実母である。自ら鎧を纏い、時に戦場にも立つ。この国で女王の命令は、遵守すべき至上の言葉。誰も逆らうことはできない。それは彼女の息子ですら覆し得ない。
「くっ…。…大体アシュリーだって第一部隊に入れるべきではなかったのに、母上は一体何を考えているやら…………。
ふん、そうしていられるのも今のうちだけだ。貴様のような奴は、何かしでかしたらすぐに叩き出してやるからな!」
悔しそうな顔を見せてから、覚悟しておけ、と最後に吐き捨てるように言い、ユリウスはその場を去った。その背に、フェイクは密かに笑みを零す。
思わぬ口から情報を引き出せたものだと思った。
「アシュリーねぇ…」
『仲間』に名前さえも名乗らない女のことだ、易々と情報を与えてはくれないだろう。それどころか、『仲間』とさえも思っていないのかもしれない。
「面白ェじゃねぇか。その挑戦、乗ってやるぜ」
この謎多き女は、敵よりも手強い相手になりそうに思えた。それでもフェイクは笑った。
「あーあー、しっかしだりぃな。こんなん第一部隊の俺がやることじゃねーし。何か派手な任務こねぇかなー」
デスクワークに飽いたフェイクは、欠伸をする。軽く背伸びをすると、パキパキと骨が鳴った。
第一部隊は、危険度が高く遂行が非常に困難な任務を扱う精鋭部隊だ。しかし、そういった任務が日常的にあるかと言えば、そういうわけでもない。むしろ、これらのフェイクの望むような任務は彼が望む程に多くはない。こうして机に向かいながら行う日々の地味な作業も意外と多いのである。
だがやはり、こればかりではさすがに体がなまる。その飛び抜けた戦闘能力を買われて抜擢されたというのに、これが錆び付いたのではまるで話にならない。
フェイクは資料を元の場所に戻すと、立ち上がってもう一度背を伸ばした。
情報管理局を後にすると、自然と早足になった。此処は、王宮に程近い所にあり、身分の高い者が周辺に出入りする。先程のユリウスのように、だ。
フェイクが一度通りを歩けば、忽ち空気は一変し、否が応でもその身に視線を集めた。そのどれもこれもにはあからさまに嫌悪感や侮蔑が込められている。
誉れ高き第一部隊とは言うものの、新生部隊は能力の高さによって抜擢されている為に相対的に出自は低くなっている。そんな彼らを上流階級出の者は見下し、蔑んでいた。加えて、女王から寵愛を受けている彼らをを疎ましく思う者はやはり多かった。
フェイクは心の中で舌打ちをしながら、一層足を速める。途中からはほとんど走り出していた。
―…ちっ、胸くそ悪い。なんでこんな奴らから俺が逃げなきゃならねぇんだ。
だが、弱い連中を相手にしたところで溜飲は下がらない。ならば、尚更こんな息の詰まる場所は用が済み次第おさらばだ。
そんな下らないことを気にかけるよりも、次なる任務に集中するべきである。とりわけ、不快な思いをした後の任務はフェイクにとって最高の褒美となる。それを期待して今は「我慢」するのみだ。
そう考えると、笑みさえこぼれた。