願わずにはいられない
──ドロシアが死んだ日に、初めて人間を殺した。
彼は確かに、そう言って。心臓が大きく波打ち、戸惑っているわたしを他所に、キースは尚も続けた。
「お前が死んでいく瞬間を、遠目から見ていた」
「……そんな、」
「川辺に着いたときにはもう、お前の身体は水の中に飲み込まれていた。いくら探しても、亡骸も見つけられなかった」
あの時、わたしは確かにキースの名を呼んだ。そのせいで耳の良い彼は探しに来てくれたのだろう。きっとあの時のわたしは、キースに会いたかった、ただそれだけだった。
あんな場面を、キースに見せるつもりではなかった。
幼かった彼は、間違いなくわたしに懐いてくれていた。そんな中でわたしが死んでいく様を目の当たりして、どれほど辛かっただろうか。胸が張り裂けそうになる。
「だから、お前を殺した奴らを殺した」
「…………っ」
「切り刻んで、潰して、散々苦しめてから息の根を止めた。それでも気は少しも晴れなくて、虚しさだけが残った」
そう言った彼は、自嘲するような笑みを口元に浮かべていたけれど、ひどく傷ついているようにも見えて。そして「あれ以来、お前以外の人間はどうでもいい」と呟いた。
「ごめん、なさい」
「何故お前が謝るんだ」
「キースに、そんな事をさせてしまって」
「お前のせいではないだろう」
再び窓の外に視線を移したキースに、わたしはかける言葉が見つからなかった。正直、そんな酷い殺し方をしたと聞いて、内心はひどく動揺していた。けれどキースのことを怖いだとか、恐ろしいとはどうしても思えなかった。
そして彼はあの日から、120年もわたしを待ってくれていたのだ。その時の長さは、わたしには想像もつかない。けれどきっと、とても長く寂しいものだったに違いない。
「……ごめんね」
「いや、謝るのは俺の方だ」
「えっ?」
何故、キースが謝る必要があるのだろうと気になったけれど、それから彼は屋敷に着くまで一言も発さなかった。
◇◇◇
「そんなもの読んで面白いのか?」
「うん、とっても」
数日後、わたしは自室でソファに腰掛け、ユシテア王国に関する本を読んでいた。そんなわたしの隣に座るキースは、つまらなさそうに大きな欠伸をしている。
あの日、屋敷に着いた途端彼はいつも通りに戻っていて。そのお陰でわたしも普通に彼に接することが出来た。
ただ一つ変わったことがあるとするのなら、あまりキースに対して怒れなくなってしまったことだった。罪悪感のようなものが抜けきらず、つい彼を甘やかしてしまうのだ。このままではまずい。
彼とは一日中一緒に過ごしているけれど、前世の記憶のせいか、それが当たり前のような感覚すらしていた。
「なあ、ステラ。つまらん」
そう言ってわたしの太腿にころりと頭を乗せ、キースはわたしを見上げた。この数日で、だいぶこの綺麗な顔にも慣れた。未だにドキッとしてしまうことも多々あるけれど。
「本当は一緒に出かけたりもしたいんだけどね」
「駄目なのか?」
「キースは目立つし、他にも色々あるの」
バーナード様の婚約者のわたしが、男性と二人で外を歩くなんてこと、出来るはずがない。
最近では、バーナード様との結婚を考えると、何故だか暗い気持ちになってしまうようになった。貴族の娘に生まれたならば政略結婚なんて当たり前のことだし、その相手があんなにも素敵な方だというのに、贅沢な悩みだとは思う。
それでも心がずしりと重たくなってしまうのはきっと、何にも縛られていなかった頃の記憶のせいかもしれない。
「なんだ、その顔は。悩み事でもあるのか」
「そんなところ」
「やはり外に出るか。誰にも見られなければ良いんだろう」
「えっ?」
そう言ってキースは立ち上がるとわたしの腕を引き、何故かバルコニーへと向かう。そして突然、三階からわたしの身体をぽいっと空中に放り投げた。
「……ひいやあああああ!?」
「煩いぞ」
けれど次の瞬間には、あっという間に竜の姿になったキースの背中の上に転がっていた。未だに心臓がばくばくと大きな音を立てている。普通に死ぬかと思った。
彼は「捕まってろよ」と言うと、ぶわっと更に上空へと飛んで行く。わたしはあまりの恐怖に再び悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと! 絶対他の方法があったでしょう!」
「面倒だった」
「人間はすぐ死ぬとか言っていたのは誰よ!」
「俺がお前を殺す訳ないだろう」
そう言って笑うと、キースはそのまま意識が飛びかけているわたしを乗せて飛び続けたのだった。
「わあ、綺麗……!」
やがて辿り着いたのは澄んだ真っ青な湖だった。その周りには一面、色とりどりの花畑が広がっている。まるでお伽話の中の世界のような景色に、感嘆の声が漏れる。こんなにも素敵な場所があったなんて知らなかった。
何故この場所を知っているのかと聞くと、飛んで来た時に見えたらしく「お前が好きそうだと思って覚えていた」なんて言われてしまった。嬉しくない訳がない。
やがてキースも人間の姿になり、湖のほとりに二人並んで座る。直接地面に座ることでドレスが汚れるだとか、そんなことはもうどうでも良かった。
美しい景色を見つめながら彼とこうして座っているだけで、心が軽くなっていくような気がした。
「折角だし水の中に入るか?」
「入りません、眺めているだけで十分です」
「昔は水をかけあって遊んだだろう」
「今と昔はちが、っぎゃあ!?」
次の瞬間、キースの腕が身体に回ったかと思うと、そのまま二人で湖の中に落ちていた。貴族の令嬢とは思えない声を上げたわたしは、慌てて立ち上がり水の中から顔を出す。
意外と水辺は浅いらしく、お腹くらいまで浸かる程度でほっとする。ぽたぽたと前髪から滴が垂れてきて、髪までびしょ濡れになっていた。
向かいにいたキースもまた全身ずぶ濡れだったけれど、そんな姿も絵になっていて少し腹立たしい。
「……っあははは! もう、冷たいじゃない!」
ずしりと重たくなったドレスを捲り上げたわたしは、何だかおかしくなってしまって。キースに思い切り手ですくった水をかけた後、お腹を抱えて笑ってしまった。
「…………」
「キース? どうかした?」
顔にまで水をかけても、彼は何も言わず動きもしない。ほんの少しだけ目を見開いて、ただこちらをじっと見ている。
心配になりどうかしたのかと尋ねれば、やがてキースは大きな両手でわたしの両頬を包み、子供のように笑った。
「やっぱり俺は、お前の笑顔が好きだ」
「……え、」
「ずっと笑顔でいて欲しい」
突然のその言葉に、どくんと心臓が跳ねる。
「俺以外の前ではもう笑うなよ」
「な、なによそれ。無理に決まってるじゃない」
そう言うと、キースはわたしの両頬を左右に引っ張った。これに関しては容赦がなく、なかなか痛いのだ。一瞬感じたときめきのようなものは、すぐに吹っ飛んでいた。
「い、いはい! いはい!」
「特にあの王子の前では絶対に笑うな」
「はひほほへ……(何よそれ)」
「うるさい、絶対だぞ」
どうしてそんなにバーナード様のことばかり敵視するのだとか、言いたいことは沢山あったけれど。目の前のキースはとても嬉しそうにしていて、もう全てがどうでも良くなってしまう。結局、わたしもつられて笑ってしまっていた。
鉛のように重たかった心が、いつの間にか軽く温かくなっていく。この時間がずっと続けばいいのにと、わたしは願わずにはいられなかった。